Butterfly of Dream 










己の大切な人たちと共に夜を過ごす、年に一度の聖なる日、クリスマス。
恋人たちが肩を寄り添わせながら歩く街並みは、色とりどりのイルミネーションに彩られて、夜の街は眩しいほどの暖かい光に包まれていた。
窓越しに見える雑踏。赤や緑、金色のライトに照らされた顔は皆一様に喜色に満ちていて、ふと目の前を通り過ぎた男女の、本当に幸福そうな表情が、妙に高耶の心に影を落とさせた。

「なにやってるんだろう、オレ……」

知らず言葉が口をついて出て、高耶は床にモップをかけるのを止めて、一つ溜息を吐いた。
12月24日のクリスマスイブ。そんな日の夜に、高耶はわびしくコンビニのアルバイトに精を出していた。
モップの柄に身体を寄りかからせて、ピカピカに磨かれた床に視線を落とす。
店内にかかる定番クリスマスソングのBGMが鼓膜を打って、その明るいフレーズとは裏腹に、高耶の心の中でわびしさは募っていくばかりであった。

本当に、何をやっているのだろうか。本当なら今日は、直江と二人であらかじめ予約を取ってあったフレンチのコース料理を食べて、その後は月並みかもしれないがホテルのラウンジ、そしてスウィート……と、3ヶ月も前からこの日の予定は決定されていたのだ。
高耶は別に、そんな、いかにもなクリスマスイブデートコースを踏まなくても、家で二人で料理を作ってささやかにお祝いするだけで十分だと思っていたのだが、直江と二人で出かけることが嬉しくないわけもなく、「イブに男二人でそんな所行くのかよ……」と悪態をつきながらも、心の中ではそれ相応に楽しみにしていたのである。
それが何故、そのイブ当日にこんな、見るからに味気ない状態に陥っているのか。
すべての原因は今日の昼にマンションに掛かってきた、一本の電話にあった。
所謂、キャンセルのお電話である。
今日の予定としては、直江は朝いつもどおりに会社に出勤し、夕方に駅で高耶と待ち合わせてそのままレストランに行く手はずであったのだが。
受話器越しの直江の話では、どうやら会社の部下が仕事で重大なポカをやらかしたらしく、その収拾のために今日一日は会社に缶詰にならざるをえない状況になってしまったらしい。
直江はかなり抵抗したようだが、そうも言ってられない程度には差し迫った状況らしい。部外者である高耶には深い事情は分からないが、とにかく今夜の予定が全てパァになったことだけは明確に理解できた。
まさかこの状況で「仕事と私と、どっちが大事なの!?」などという究極の名台詞を持ち出すわけにもいかず、申し訳ありませんと謝り続ける直江に、「気にするなよ」となるべく動揺を滲ませぬような声音で告げて、高耶は受話器を置いたのである。
直江との予定が潰れてしまったのなら、高耶の今日一日は完全なるフリーであった。
はっきり言って何もやることがなかった。前々から友人に誘われていた合コンパーティーのことが脳裏をよぎったが、なんとなく行く気にもなれなくて、そのまま一時間ほど判然と時を過ごした後、バイト先のコンビニへと電話をかけたのである。


店内に流れるBGMが次の曲に切り替わった頃に、背中の方から高耶の名を呼ぶ声が上がった。
ハッとして振り返ると、背後にバイト仲間の七橋が突っ立っている。

「何ボーッとしてんだよ仰木、終わったならレジ回れって」

呆れたような口調で言うと、高耶の眺めていた方に視線を移して、先ほどの高耶と同じように溜息をついた。

「ま、おまえの気持ちも分からないでもないけどな……」

スタスタと連れ立ってレジに向かいながら、七橋が呟く。先ほど客が続けざまに店を出て、店内には今のところ七橋と高耶以外の姿は無い。

「まぁーったく。俺たち独りモンにとっちゃあクリスマスイブなんざクソくらえだよなー」

嫌そうに「あーあ」と腕を組む七橋を横目に見ながら、高耶は低い声で言い返す。

「……別に、オレは独り者なんかじゃねぇよ」
「え、そうなの?なんだ、俺はてっきり彼女にでもフラれた傷心の仰木クンなのかと思ってたのに。ってことはドタキャンでもされたのか?」
「……そうだ」
「ふーん。んじゃまだ縁が切れたわけじゃないってか。……しかしイブ当日にドタキャンするなんて、なかなかいい根性だよな。ひょっとして二股かけられてんだったりして」

七橋のちゃらかしに、高耶が横目でギロッと睨んだ。その眼光の鋭さに七橋はビビリ、慌ててフォローを入れる。

「じょ、冗談だよ。仰木みたいな奴相手に二股なんざかけるわけねーじゃん。例え万が一にもかけたとしたって、絶対仰木が本命の方だって。間違いねぇ」

七橋の慌てた声を聞くと、高耶は興味が失せたようにフイッと正面に視線を戻した。
別に気にしているわけではない。直江がキャンセルした理由は、間違いなく会社の都合でだろう。高耶はその部分を、微塵たりとも疑ってなどいなかった。
ただ、高耶は虚しいだけなのだ。ここにこうして立っていること自体が。夢でも見ているような心地なのだ。
一体何のためにここにいるのか。何が悲しくてこんな場所で、雑踏の中を歩く恋人たちを眺めていなければならないのか。

本当なら自分だって、あの男と一緒にあの恋人達と同じように、肩を並べてイルミネーションの煌めく街の中を歩いていたはずなのだ。
それなのに、高耶の隣りにはあの男の姿は影も形も無い。
そのことがいっそ不思議に思えて、夢の中にいるようで……。

そんな風に想いを馳せている時。
コンビニのドアがギギッと音を立てて開いた。それと同時に一人の客が店内に入ってくる。

「いらっしゃいま……」

高耶はその客に挨拶をかけようとして、その姿を視界に捉えた瞬間息を飲んだ。
客はスタスタと店内を歩き、五歩ほどでレジ台越しの高耶の真正面について、茫然と佇んでいる高耶の顔を見つめると、ニコリとその顔を微笑ませた。

「高耶さん」
「な、おえ……?」

信じられないような思いで呟いた。全く予想だにしていなかった展開だ。驚きのあまり上手く思考が働かず、高耶はゆっくりとその男の名を呼んだ。

「どうして……。おまえ、会社はどうしたんだよ……」
「大丈夫です、何とか片付けてきましたよ」

直江が優しく微笑む。
だって、あれだけ「今日中には絶対に戻れそうもないのだ」と、受話器越しに謝っていたと言うのに。
だから、高耶とて少しの希望も持たずに、こうして一人で時間を潰していたのだというのに。
それなのに直江はちゃんと、今日と言う聖なる日のうちに、自分のもとへ訪ねてきてくれたのだ。
本当に、信じられないほどに嬉しかった。

「そっか……、良かったな」

よほど無理して来たのではないかと少し心配になったが、直江が大丈夫だと言ったのだから、本当に大丈夫なのだろう。
高耶は嬉しそうに笑って、直江の端整な顔を仰ぎ見た。

「それじゃあ、もうおまえは帰るだけなんだな」
「ええ。あなたの方はどうですか?」

高耶はコンビニの壁に掛かった時計に目線を走らせた。いつの間に時が過ぎたのだろう。時計の針は勤務終了時間の5分前を指している。

「もう少しで終わるから、待っててくれよ」

直江は頷くと、コンビニを出て駐車場のウィンダムへと乗り込んでいった。
高耶は機敏に残りの仕事を片付けて、着替えを済ませると、七橋と店長と次のシフトのアルバイトに挨拶をして、店を出ると駐車されたダークグリーンの車体に駆け寄り、助手席のドアを開けた。

「お待たせ」

微笑みながら言うと、直江も「お疲れ様です」と優しく笑って言った。
シートに身体を乗り込ませて、ベルトを付けながら直江の顔を見て高耶は尋ねる。

「これからどこに行くんだ?」
「ホテルもキャンセルしてしまいましたからね。家に帰りましょうか」
「おまえの家に?」

おまえの家?……そう反復して、直江が不思議そうに顔を傾げさせた。

「その言い方だと、まるで別々に暮らしてるみたいじゃないですか。私達の家≠ナしょう?」
「え、……ああ、そうだよな……」

そう、自分と直江はいま、マンションの一室で一緒に暮らしているのである。もう随分と前から二人で暮らしているのに、どうしてそんな言い回しをしてしまったのか、自分でも不思議だった。

「でも、家帰っても何にも無いぞ?買い物もしてないし。……オレはもう夕飯済ませたけど」
「私も残念ながら済ませてしまいました。ですからデザートにと思って、先ほどワインとクリスマスケーキを買っておきましたから」

そう言って視線を後ろの席へとやった直江に伴って、高耶も視線をやると、シートには包装紙に包まれた、大きさの異なる直方体の箱が二つ、チョコンと置かれていた。

「帰ったら、二人で乾杯しましょうね」

直江の、暖かい微笑み。
高耶は胸をドキドキと高鳴らせた。
直江とは決して短い年月の仲では無いのに、直江といると、いつだって初々しいような感情が胸に沸き起こってくる。
その度にこそばゆいような感覚に襲われるのだが、そんな自分が、高耶は決して嫌いじゃなかった。
何度も見慣れたはずの表情も、それは決して色あせることなく、いつだって新鮮な感情を伴って高耶の胸に飛び込んでくる。
不思議で不思議でたまらないのに、どんなに考えてもその理由は解明されることはない。
直江の存在は、まるで魔法のようだった。
直江といると、自分には不可能なことなんて何一つ無いんじゃないかって、そんな気にさせられる。
このぬくもりを求めるためなら、どんなことでもやってしまうのだろう。どんなものだって差し出してしまうのだろう。
そんな自分が怖くもあったが、生まれ出ずるこの感情を抑えるすべを、高耶はどうしても知ることができなかった。


車がマンションの駐車場へと滑り込んで、定位置に止まらせてエンジンを切ると、二人はケーキとワインの箱を持って部屋へと並んで向かった。
ドアを開けて、部屋の明かりをつける。淡い光を浴びてインテリアが映し出された。
二人で選んだベージュのソファ。フローリングに敷かれた青い絨毯。同系色のカーテン。
壁には綾子が引っ越し祝いにくれた絵が。千秋からもらった小さなサボテンも、出窓の観葉植物と共に飾られている。
広々としたシステムキッチン。昼間精を出して掃除したから、ステンレスの調理台もピカピカで塵一つない。
統一された暖かい空間に、高耶は眼を細める。

ここがオレたちの家……。

当たり前のことなのに、あらためて思うとなんだか、ひどくこそばゆい……。
ふと、横にあったCDラックに視線を移すと、その上にシンプルなフレームの写真立てが一つ置かれていた。
手にとって眺めてみると、そこには楽しそうに笑う五人の姿が映し出されている。

確か、今年の春にお花見に行ったときのヤツだったかな……。

綾子と自分でお弁当を作っていって、五人そろって無礼講のドンチャン騒ぎ。
つまらないような話で盛り上がって、酒が入って歌いだした綾子の歌が調子はずれで可笑しくて、馬鹿みたいに笑い合って。
ふと、視線を感じて振り返ると、そこには薄紅の桜を背負って、こちらを見つめる直江がいた。
鳶色の二つの瞳が自分を暖かく見つめていて、高耶と視線が合うと、ふんわりと、目を細めて優しげに微笑んで見せた。
なに……と、尋ねようと口を開きかけた途端、隣りに座っていた千秋が突然背後から羽交い絞めにしてきて、「なに見つめ合っちゃってんだよおまえら」と、明らかに冷やかしを含んだ声を上げて、その隣りでは綾子が、「相変わらずお熱いわね」と千秋に乗じてちゃちゃを入れて。
なっ、と顔を真っ赤にして睨みつけたが、こういう状況の二人のコンビに高耶が勝てるはずもなく、おまえも何か言ってくれと顔を上げて訴えたが、直江は色部とただクスクスと笑っているだけで。
その時の直江の瞳がやけに綺麗で。
降り注ぐ桜の花びらに溶け込んでいるようで。
高耶はいまも、ふと、何かあると唐突に、あの直江の優しい光をたたえた微笑が脳裏に浮かび上がって、懐かしく思い出すことが何度かあった。


「……高耶さん?」

驚いて背後を振り返ると、怪訝な顔をして自分を覗き込む直江がいた。
どうやら暫くの間ボーッとしていたらしい。直江は既に、スーツを脱いで部屋着に着替えていた。

「どうかしたんですか?」

心配そうに尋ねてきたが、別にこれと言って何があったわけでもない。「何でもない」、と顔を横に振って、高耶は少しだけ微笑んで見せた。

買ってきたケーキとワインの箱をテーブルの上に乗せて、二人はそれぞれ包装紙を剥がし、中身を取り出す。
ワインは、その筋に詳しくない高耶でも知っている有名なメーカーの物で、その年代からして、一目でとても庶民には手の出せない高級な代物であることが知れた。
「今日は特別な日ですからね」と、直江は何でもないことのように微笑んで見せたが、高耶は少しだけ不機嫌気に眉を顰めた。

「別に、そんな高価な物なんていらないのに……」

ポツンと、小さな声で呟いた。
直江は何かしらお祝い事があるたび、自分に、決して安くはない贈り物をしてくれる。
けして、それが嫌なわけではない。高耶だって、直江が自分で働いて稼いだお金で、高耶の為に何かを買って贈ってくれるのは、本当に嬉しい。
けれど、それが毎回毎回続くものだから、まるで自分が直江に貢がせているような気になってしまうのだ。
たとえ何一つ贈り物なんてなくても、自分は直江さえ傍にいてくれればそれでいいのに。
そこらのOLなんかとは違う。贈り物なんてしてくれなくていい。たとえ直江が、万が一身体が不自由になって、仕事に就けず生活費を稼ぐことが出来なくなったとしても、自分が何とかして、二人で暮らしていけるように頑張るから。
いまのような贅沢な生活はできないかもしれないけど、自分はそれでもいいから。
こんなキレイな家に住めなくてもいいから。こんな広くなくて、ちょっと狭いぐらいの方が、ちょうどいい。
できればマンションじゃなくて、一軒家がいい。都会に建てるのは高いから、もっと閑静な、田舎の方で。

いや。違うんだ……。本当言うとそんなことどうだっていいから、おまえさえ傍にいてくれれば、本当はそれだけでいいんだ。
お金なんてなくたっていい。おまえがいてくれればいい。それだけでもう、オレにとっては最高の贈り物だから。
それ以上を望むのは、あんまり贅沢だ。

ワインクーラーに赤ワインを差し込んで、今度はケーキの箱に手を掛けた。
箱を開けると、ダークブラウンの少し変わった格好のチョコレートケーキが中から顔を覗かせる。
暫く眺めて見て、それが先日テレビ番組のクリスマスケーキ特集を見ていたとき、自分が「これ美味そうだな」と、呟いていたケーキそのものであることに気がついた。
確か、東京の高級ホテルのメインロビィ階にある、有名なケーキショップの新作クリスマスケーキで、記憶では限定300個販売の商品であったと思ったが。
わざわざ予約してくれていたのだろうか?自分が食べたそうにしていたのを覚えていて。
この男が時おり見せる、こういった、自分に対するとても細やかな気づかいが、高耶にはとても嬉しかった。

「気に入っていただけましたか?」

驚いた顔でケーキを覗き込んでいる高耶を見守りながら、直江が尋ねる。
高耶は顔を上げて、直江の微笑む顔を見つめると、小さく、「ありがとう……」と、少し照れを滲ませながら彼に向けて微笑み返した。

切り分けるのが勿体無いほど綺麗なデコレーションにケーキナイフを入れて、直江の分と、自分の分とで小皿にケーキを乗せた。
ちょうど冷えたワインをグラスに注いで、赤い液体に高耶の姿が映し出される。
二人でグラスを持ち上げて、カツンと、涼しげな音を立てながら二つのグラスを合わせた。

「乾杯……」

本当は直江と乾杯をするのは苦手だ。どうしても、いつかの記憶を思い出してしまうから……。
こうやっていると、まるで、今という時間は幻なのではないかと、そんな不安に襲われる。
何度もこの男を幻に見たように、今目の前にいるこの男も、自分の作り出した都合のいい幻想なのではないのかと……。

飲み込んだ液体は舌に苦く。喉の奥で、甘い痺れと共に熱い香りが広がっていった。
ツンと、鼻の奥に熱いものが込み上がってきた。眼の端の辺りに熱が宿って、高耶は瞳を眇めて、無言で俯きテーブルを見つめた。

「高耶さん……?」

直江の声にも、無言で首を横に振る。
切ない想いが胸を支配して、声を出せばそれと共に、眼のふちから涙が零れ出てしまいそうだった。
何も言わずにフォークを手に取って、小皿に取られたチョコレートケーキをすくい、唇に運ぶ。
ビターチョコレートのムースとチョコレートガナッシュの甘い香りが口いっぱいに広がり、塩味が利いたカリカリのカラメルが、アクセントとなって舌に心地よかった。

「おいし……」

思わず唇から言葉が零れて、高耶は俯いていた顔を上げた。
直江と眼が合うと、ニッコリと、嬉しそうに彼は高耶に微笑んで見せた。

「それは良かった」

高耶もつられて微笑み返す。二人の間に、暖かい空気が流れた。
こんな、何でもないような二人の会話が、ひどく大切なもののように思える。
このまま時が止まればいい。
何もかも止まってしまえばいい。
明日には消えてしまうのかもしれない不確かな幸福なら、掬い上げた指の隙間から逃げ出してしまわぬように、このまま世界を余すところなく氷付けにしてしまいたかった。

そう思って、高耶はふと、唐突に不思議な疑念が胸に沸き起こってきた。

どうしてこんな風に思うのだろう?
明日には消えてしまうだなんて、そんな風に思う理由なんて何もないのに。
直江が、自分への想いをなくしてしまう日だなんて、訪れるわけがないし、自分の気持ちが他へ向かうようになる日が来ることも、それ以上に想像できなかった。
だとしたら、何が自分をこんなにも不安にさせるのだろう。
何も恐れることなどないのに。この幸福を邪魔するものなど、一体どこに存在するというのだろう。

「高耶さん、こんな所で寝たら風邪を引きますよ」

直江が椅子から立ち上がって、テーブルを回り込み高耶の肩を叩いた。
いつの間にか酔いがまわっていたのだろうか。思考がひどく緩慢として、高耶は子供のような表情で直江を仰ぎ見た。

「直江……」
「もう、ベッドに行きましょう」

コクリと頷いて、椅子から立ち上がると、直江が右肩を支えてくれて、その広い胸に寄りかかりながら少し危ない足取りで寝室へと向かっていった。
寝室に入ると、けつまずくようにして高耶はベッドの上に横になった。スルスルと毛布の下に潜り込むと、シーツの冷たさが肌を打って、縮こまるようにして肩を竦めさせた。
酔いは体中に回っていたが、頭の芯の方は妙に冴えていて、先ほどまでの眠気も不思議とどこかへ消えてしまっていた。
視線を上げると、上着を脱いだ直江がベッドサイドのスタンドに明かりを灯して、スッと音を立てて高耶の隣に滑り込んでくる。
ぬくもりを求めるようにして、直江の胸元に額を擦り寄せた。直江は左腕を上げて、高耶を上から包み込んでくれる。
トクトクと、秒を刻む心臓。
この音が、この男の命を形作っているのかと思うと、果てしないほどの愛しさが胸の中で漣を打った。

「直江」

男の名を呼ぶ。確かめるように。傍らにいる存在を繋ぎとめようとするかのように。

「直江」

もう一度呼んだ。今度は、全身に渦巻く彼への想いのすべてを伝えようとするかのように。
己の身体を包み込む腕に、少しだけ力がこもった。
胸を詰まらせるほどの幸福な瞬間に、高耶はしがみつくようにして、直江の服の裾をギュッと握りしめた。

「……よく、幸せすぎて怖い≠チていう言葉があるけれど……」

いまなら解るような気がする……。そう、高耶はポツリと、小さな声で呟いた。
直江が俯く高耶の顔を覗き込む。

「怖い、ですか……?」
「ああ、怖いよ。凄く怖い……」

直江の胸に額を押し付けながら、切々と語る。
いまという瞬間が掛け替えのないほどに幸福すぎるから、この幸せをいつか失う日が訪れるのではないかと、幸福を感じた次の瞬間には、言葉では表せないほどの激しい恐怖に襲われる。
失うことなんてとてもじゃないけど考えられないから。いつか消える日が来るのではないかと、毎日怯えながら時を過ごしている。
しまいにはいまの幸福さえもが信じられなくなって、すべてが夢の中のできごとなのではないかと、何もかもを否定したくなってしまうのだ。
この目の前にいる存在も、みな、すべてが自分の幻想なのではないかと……。

「……夢に、胡蝶と為る」

唐突に呟いた言葉に、直江が不思議そうに返した。

「荘子、ですか」
「ああ……。いつだったか、確か高校の古典の授業で習ったんだ。……あの時、結局荘子の思想っていうのは、孔子や孟子と違ってどうも肌に合わなくて、どうしても理解できなかったんだけど……。その中で、この一文だけがやけに印象的で、ずっと、記憶の片隅に残ってた……」

ポツリ、ポツリと、言葉を区切りながら独り言を言うように呟いていく。

「知らず、周の夢に胡蝶と為るか。胡蝶の夢に周と為るか=c…」

直江は無言のまま、そんな高耶を見守り続けた。鳶色の瞳には、真摯な光が宿されている。


< 荘周は、夢の中で一匹の胡蝶となった。
心ゆくばかりに空に舞い遊んで、自分が荘周であることも、既に忘れ果てていた。
ところが、ふと目覚めてみれば、まぎれもない自分自身で、荘周以外の何者でもなかった。
いったい、荘周が夢の中で胡蝶となったのだろうか。それとも、胡蝶が夢の中で荘周となったのだろうか…… >


「時おり思うんだ。いまここにいる自分は、現実に生きている自分なのか。それとも、現実の自分が作り出した、夢の中の自分なのか」

そう呟いてから、高耶は前触れも無く、一条の光が闇夜を照らし出したかのように、唐突に確信した。

ああ……ここは、夢なんだ……。

今の自分は、現実のオレが作り出した、幻想の中の自分。
現実に絶望した自分が、悲しみから逃れて作り出したまぼろし。
二人で暮らす部屋も、会話も、記憶さえも。「こうであったらいい」と、自分の都合良く作り出されたマガイモノ。
何もかも明確な線を成さない、ひどく曖昧な世界。
ただ一つ、この男のぬくもりだけがまるで本物のように確かなもので……。

たぶんそれは、現実の世界の自分が、夢の中に一番強い想いで求めている存在が、この男自身だから……。

「夢なんかじゃない……」

直江が、高耶に言い聞かすように、優しく答えた。

「あなたは、夢なんかじゃない。ここは、幻の世界なんかじゃない」

高耶の細い身体を抱きしめる。熱を伝えるように、肌と肌をピタリと合わせて。
直江の瞳を見つめながら、高耶は瞼を細めて、何かを探り出そうとするかのように右手をかざす。

「眠るのが怖い……。現実に戻って、いまの幸福な自分が、消えてしまうから……」

このまま何もかも忘れて、幸福のただなかに埋もれてしまいたい。
現実のことなんて放り出して、この男と共に一つに溶けてしまいたい。そう願わずにはいられない……。

「消えたりなんかしない。あなたはずっとここにいるから。俺が、どこにもいかないようにずっと包み込んでいてあげるから」

右手をやんわりと包み込まれて、強く強く、かいなに抱かれた。
高耶は息を詰めるようにして、直江の指を握りしめる。

「ずっとそばにいるから。どこにも行かないから……」

だからあなたは、何も恐れないでただ、俺に背中を預けていて……。
そう、やさしく高耶に語りかける。
この幸福を疑う必要なんて、どこにもないのだと。


ありがとう……、やさしい直江。
おまえはいつだってこうして、逃げ出そうとするオレの心を繋ぎとめ続けていてくれた。
けれどオレは知っているんだ。
ここにいるおまえは、すべて、オレの願望が生み出した偽りのおまえだということを。
オレは、早く目覚めなくてはならない。
本当のおまえを、この手で取り戻さなければならない。
夢に逃げることは簡単だ。けれど、勇気を出して現実を凝視しなくてはならない。
それが何にかえても失えないと心に決めた唯一の存在なら、ひたむきに前を見つめて、後悔することなどは許さず、ひたすらに求め続けなくてはならない。

失ってなるものか……。

直江は高耶の身体を覆いかぶさるようにして抱きしめ、唇に一つ、触れるだけのやわらかな口づけを落とした。
高耶は瞳を閉じて、ただ静かに直江の唇を受け入れる。
眦に一筋、透明な水滴が零れ落ちて、頬をつたってシーツに小さな染みを作った。


(まだ、目覚めたくない……)


目が覚めれば、おまえはオレの傍にはいないから。
オレだけを見つめていなければならないはずのおまえは、もう、どこにもいないのだから。
その瞳は、もうオレだけを映してはくれないのだから……。

眼を覚まさなければならないのに、いつまでも、このまま終わらないでほしいと願う自分がいる。
いまはもう少し、この、優しく暖かな夢に包まれた、おまえの胸で眠らせてほしい……。





昔者 荘周夢に胡蝶と為る 栩々然として胡蝶なり 
自ら喩しみて志に適うか 周なること知らざるなり
俄然として覚むれば 則ちきょきょ然として周なり 
知らず 
周の夢に胡蝶と為るか 胡蝶の夢に周と為るか 
周と胡蝶とは 則ち必ず分あらん 
此をこれ物化と謂う







さよなら直江。
いつか、オレがおまえをこの手に取り戻したとき。
そのときにまた。
現実の世界で、再びめぐり逢おう……。




                                              







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