Mirage's ten episodes.
Part6.=heart=
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《ねぇ……景虎》


 高耶の中に宿る綾子が、ふいに話しかけた。

「なんだ?」
《景虎って、ほんとうに直江のこと、好きなのね》

 唐突に言われた言葉に、高耶は思わず苦笑した。

「なんだよ、いきなり」
《ううん……ただ、あんたのなかに始めて入ってみて、改めてそう思ったのよ……》

 直江のいる、おはらい町の町屋を後にして、石畳を歩む高耶の中で、綾子はそう呟いた。


《あんたってさ、特にあたしにたいしては、ことさらに弱い部分見せまいとして。あたしのまえでは直江に寄りかかるようなそぶり、全然見せようとしなかったじゃない?》
「……そうだったかな」
《そうよ。あんたって、あたしの前じゃ弱音なんて絶対吐かなかったし。本当言うと、それがずっと、悔しかったのよ……》

 淋しそうに言う綾子に、高耶は困ったように眉を寄せる。

「晴家……」
《ううん……わかってるの。別に景虎は、あたしのことが信用できないからそうしていたわけじゃないのよね……。あたしにはあたしの役割があって、景虎は、あたしの前で強がってみせることで、自分に対して「まだやれる」って、励ましていたんだってこと……ちゃんと知ってる》

 高耶は無言で綾子の言葉を聞いていた。
 足早に進むおはらい町の家並み。内宮と五十鈴公園との間を通るその道を、赤鯨衆隊士たちが息つく間も無く行き交っている。

《ねぇ……景虎。あんたのなかに入って、あんたの気持ちをこんなにも感じる。いままで気づかずにいた部分も、いろんなあんたがあたしの中に入ってきてる……》

 四百年一緒にいても、自分が景虎に対し決して見せることはなかった感情があるように。
 景虎もまた、仲間には隠し続けていた想いが、本当は数え切れないほど存在した。

《本当はあたし、あんたのこと分かってるふりして、全然理解なんてしてなかったのかもね……》

 誰よりも近くにあるように思っていたのに。
 本当は、これぽっちも理解してはいなかったのかもしれない。
 自分には、あの男のようには、景虎の近くにあることはできなかったのだから。

 心持ち、低い声で呟いた綾子だが、すぐに明るい調子に戻り、彼女は少しからかうように、笑って言った。

《ねぇ、直江と一緒じゃなくて、淋しいの?景虎》

 突然振られた言葉に、高耶は驚いて目を見開き、一瞬後低い声で答えた。

「……淋しくなんかねぇよ」
《嘘よ。あんたって、四百年も嘘つき続けてきたから、嘘つくのが上手いってずっと思ってたけど。本当はこんなに下手くそだったのね》

 高耶の中に入って、綾子が初めて知ったことだった。
 ふふっ、と笑った綾子を感じながら、高耶は決まりが悪そうに眉を寄せたが。


「……直江にも、よく言われた」


 しばらくして、ふいに高耶が口元を綻ばせて、思い出したように呟いた。
 懐かしそうに目を細めながら、言葉を続ける。

「“あなたは嘘をつくのが下手だ”って。他人には見破れなくても、自分には一発で分かるんだって、昔からよく言ってたな……」

 実際、その言葉は決してはったりでは無かったのだろう。
 何百年もの間、必死で塗り固め続けていた嘘も、あの男にはきっと、本当は一から十まで分かっていたのかもしれないと、今ならばそう思うことができる。


《……そう》

 高耶の語った言葉に、綾子は静かな声音で相槌を打った。

《それじゃあ、直江は景虎の中に入らなくても、もうずっと昔から、あんたと心のどこかでつながりあっていたのね……》

 自分が、気づけなかった時も。
 きっと、はるか昔からずっと。


 道行く家並みの黒い瓦屋根が、日に照り返されて鈍く光っていた。
 綾子は何かを考え込むように沈黙すると、次の瞬間、真率な声音で、こう告げたのだった。


《……景虎、あたしね。本当は直江のことが、嫌いだった》


 綾子の呟きに、高耶は驚いて、一瞬歩みを止めかけた。

「晴家……?」
《生前のことは関係ないの。むしろ、一緒に生きていくようになって、直江の人となりを知るようになってから、あたしはあいつをもっと嫌うようになった……》

 淡々とした調子で綾子は告げた。
 普段あれほど直江になついていた綾子の口から、こんな言葉を聞くことになるとは思いもよらなくて、高耶は暫しの間瞠目した。

《最初は、自分こそが景虎の第一の家臣だと自負していたのに、あっさりその場所を奪われたことが、悔しかった……》

 敵方の将であるはずの直江が。
 生前から第一の家臣として景虎に仕えていた自分よりも、そば近くにあることが、悔しくてたまらなかった。

《でもね、しばらくして気づいたわ。この二人は、違うんだって。……あたしと景虎とでは結ぶべくもなかった絆を、互いに結んでるんだって。家臣としてだけではなくて……もっと強い絆で。それなのに対抗するのはおかしいんだってこと、気づいたから……》

 それで、直江とのわだかまりは解けたはずだった。
 そうして一時は、何のためらいもなく、直江と仲間として友好的な関係を築けたのも、確かだった。

 けれど……。

《あたしはね、……慎太郎さんと出逢ってから、直江を憎むようになった》

 二百年前、運命の恋人と定めた人に、出逢った後から。

《あたしは……そう、直江に憧れてたの。あんなにも長い時間、たった一人の人を想い続けていられる、あいつの強さに……。報われることも無いのに、それでも愛し続けることのできる、その強さに。……それに比べてあたしは……》

 もしも綾子にいま肉体があったなら、哀しそうに眉をひそめたのだろう。高耶は足を動かしながらも、続きを促すように、無言で綾子の言葉を聞いていた。

《年月を経て、慎太郎さんとの記憶が遠くなるたびに、あたしはそんな自分が不甲斐なくて、情けなくて……》

 そうして直江を憎むようになった。
 自分にはできないことを、当たり前のように成してしまっているあの男が、ひどく妬ましかった。
 景虎への想いに苦悩する直江の姿を、本当は羨望の眼差しで見つめていた。
 直江に対する劣等感を、どうしても拭うことができなかった。
 直江が景虎の輝きに恋焦がれ、嫉妬し続けたように。自分は直江のその強さに、ずっと憧憬し続けていた。

《こんなこと、誰にも言えやしなかった……》

 ずっと自分の心の奥底に、隠し続けていた感情。
 直江は夢にも思わなかっただろう。自分からこんな思いを、向けられ続けていたなんて。

 “あんたが憎い……”と。

 告げたのは、決して嘘なんかじゃなかった。
 大斎原の大霊に憑依されて、その口から初めて紡がれた言葉。
 あれは操られて言わされた言葉なんかじゃない。確かに自分の感情だった。自分の奥深くに潜む、封じられた最も醜い感情が解放されたものだった。
 そしてそれから叫んだ言葉も、すべてがいままで心の底でずっと思っていたものだった。
 自分は直江の真の意味での理解者なんかじゃなかった。本当はあんたが憎かったのだと。あんたを見てると自分が惨めで、あんたが憎くてたまらないのだと……!




(でも……)

 それでも。それ以上に思うのだ。



《あたしはね、……あんたたち二人のことが、やっぱり大好きなのよ……》



 高耶が顔を上げた。右手のひらを、胸のあたりに添える。
 どんなに暗い感情が胸の内にせめぎ溢れても、いつもそれ以上に強い思いが、綾子の中にはあった。
 最後の最後に残ったのは、やっぱりその気持ちだった。
 あたりまえだ……そうでなければ、いまこうして自分がここにいるはずもない。


《あんたたちに、幸福になってほしいって、誰より思ってるのよ……》


 願いを託して、遂げられなかった布都御魂の望み。
 最後の希望だったのに……。
 あのときの高耶の絶望を、誰よりも強く共有したのは、他でもない、彼のなかにいた綾子だった。


(あんたの望みが、いまはこんなにも分かる)


 高耶が直江に望むことが。
 布都御魂の可能性を失ったいま、彼が直江に求める答えが。
 最後のときに出す答えが……。


《景虎……》


 綾子が、真摯な声で、名を呼んだ。
 高耶も応えるように、目を軽く瞑った。

《あたしはいまから、あんたたちの幸福のために……あたしの持てるすべての力をあんたに預けるから》

 最後の戦いに向けて。
 自らの持てるすべての力を。
 景虎と直江のためにすべてを投げ出すから。

 だから。

《だから……後悔だけは、絶対しないで》

 後悔するような結末にすることだけは、絶対にしないと。

《約束して》

 綾子の真摯な言葉が、高耶の胸の中に響いた。
 高耶は前を向き、後方に聳える内宮を挑むように見つめ、力強く頷いた。


「ああ、約束する」


 綾子にだけでなく、ここにはいない直江にもこの声が届くように。
 高耶は右手で左手首を握り締め、すべてを注ぎ込むように宣言する。


「これからオレは、一瞬たりとも後悔だけはしない」


 たとえこの先、どんな運命が待ち受けていたのだとしても。
 おまえが決死の思いでその手にした、あの布都御魂にかけて。


(最後の瞬間まで駈け続ける……!)


 高耶の確かな決意を受けて、綾子も固く頷いた。

《いまの言葉、きっと直江にも届いたわね……》

 どんなに離れていても、ふたりがどこかで繋がり合っていることを、綾子自身も感じることができたから。

 高耶も、町屋の二階で今も信長への逆探知を図る直江を思い、目を細めた。
 そんな高耶に、綾子がもう一度話しかける。


《ごめんね景虎、こんな時に。……でも、これだけはどうしても言っておきたかったの》

 織田との最終決戦を控えた今だからこそ、どうしても伝えねばと思った。

《最後に、あたしの気持ちのすべてを打ち明けておきたかった》

 これからすべてを捨てて、戦いに臨むために。
 思い残すことが、無いように。
 再び、こうして二人で語り合うことは、もう無いかもしれないから……。

 高耶は綾子の決意を無言で受け止め、右手で強く胸元を抑えた。
 進む先に、五十鈴公園が見える。これから最後の戦いが始まる。引き返すことは、もはや許されない……。

「晴家」

 高耶が名を呼んだ。
 綾子は《なに?》と、応えを返す。


「いまでも……直江を、憎んでいるか?」


 静かな声音で、高耶が尋ねた。
 綾子は暫しの間沈黙し、そうして首を振った気配と共に、《いいえ》とはっきりした声で否定する。


《あたしはもう、あたしの答えを見つけたから》


 景虎とも、直江とも違う、あたしだけの答えを。


(あたしだけの道を……)


 綾子は、そうして鮮やかに微笑むと、行きましょうと、高耶を内側から促した。

 高耶も一つ頷くと、戦場に向けて、確かな一歩を歩みだした。









 直江……。

 私は信じている。

 あんたが、必ず、景虎の願いを叶えてくれることを……。

 あたしはずっとあんたに憧れてた。

 「永遠」を為せるあんたに、憧れてた……。

 それはあたしには出来なかったこと。

 ……そのことを、哀しいとは思うけれど。

 四百年間、あんたを見てきたあたしだからこそ、言える。


 人の想いは、神の手なんかに委ねられない。


 誰の手にも操れはしない。


 そのことを……どうか証明してほしい。

 それは、この地上であんたにしかできないこと。

 運命も宿命も打ち壊して、すべてを破り捨てて、永遠の愛を成就させてほしい。


 あたしは、あんたのその奇跡に、人の運命の望みを託したい……。


 人の想いは、何にも勝る奇跡をこの世に……確かに生み出すのだと。


 あんたに証明してほしい。


 そのためなら、この命、投げ出しても惜しくはないから……。


 だから……。












 さあ、行きましょう。景虎、直江。
 ……そして長秀、色部さん。


 あたし達の、四百年に渡る“生”の答えを、今こそ出しに。



 そしてあたし達、それぞれが目指す。












 最上の場所を掴み取りに……!