Mirage's ten episodes.
Part4.=sin=
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 ……神様、罪を犯し人を傷つけ続ける私を、どうか許してください……。













 ホテルの部屋のドアを開ければ、彼がベッドに横になっていた。
 静かに歩み寄ると、気配に気づいたのか、彼はゆっくりと瞼を開き、二、三の瞬きの後、印象的な暗褐色の瞳でこちらを見上げてきた。
 緩慢な動作で身を起こし、黒髪をかきあげる。

「なおえ……か」
「申し訳ありません、起こしてしまいましたか」

 寝起きでかすれた声で名を呼ぶ彼に、丁寧な動作で頭を下げる。

「いや、……いい。呼んだのはオレだ。少しうたた寝をしていただけだから」

 彼はまだ眠気で朦朧とした様子でそう呟いて、目頭を指で軽く押さえると、シーツからすべり出て姿勢を正した。そうして次に顔を上げた時には既に普段通りの冷静な表情に戻って、私の次の言葉を目で促した。

「……それでは本日の調査の結果をご報告します」

 失礼します、とベッドサイドの椅子を引き寄せて腰掛ける。
 掛け布団の上に腰掛けた彼と目線の高さが同じになると、私は手にしていた資料をテーブルに広げて、そこに記された詳細なデータを主君に報告し始めた。

「……微弱ではありますが、この市街周辺に結界が張られていることは間違いないようです。晴家の霊査の結果では、結界点は現在分かるところではこの中央公園と、シティプラザビル、そして藤東高校。……いずれも現地に赴き調査しましたが、人為的に何らかの修法が執り行われた痕が見受けられました。壇を設ける際の依代に使われたと思われる独鈷杵も、地中から検出済みです」

 広げられた市街地図の、マジックで記しづけられた地点を指さしながら、事務的に説明を続ける。

「その修法の種類は」
「判明はまだです。この土地に元々根付いている特殊な《地気》の作用もあって、晴家の能力でも正確に突き止めるのには時間を要するようです。ただ系列はどうやら金剛夜叉と軍荼利明王との併法、いずれも五大明王を本尊とする修法ですが、見たところ欠陥も多く、規模は思ったよりも大きいものではありません。……残りの結界点については、今まで判明した三点の位置から線を引くと、ちょうどこの広野大池の中心部分で交わることになります。よって対角線上に位置する吉田商店街周辺、三沢町住宅街、そしてこの芦高山の中腹辺りの線が濃いかと。既に判明した三点の結界点を含め、今説明しました予想地点にも軒猿を動員して監視させています。明日晴家を伴って本格的な調査を始める予定ですが、ただ少し気になるのはここです」

 長い指で地図の平面をポンポンッと突いた。覗き込んだ先の記号を見て、彼が眉をひそめる。

「青明寺。寺院か……」
「宗派は浄土真宗、本願寺派です。規模は中ぐらいですがこの周辺一の古刹で、境内の霊値もかなり高い。結界を張る上で位置的にもこの寺院の存在は無視できないでしょう」
「地域から考えて、一向宗関与の可能性があるな……」
「ええ。首謀犯とまでは行かないかもしれませんが、敵方の怨将との間に盟約が結ばれ、今回の件に一向宗が一枚噛んでいるという線も考えられます。今後彼らの動向に注意を払いつつ調査していく必要があるでしょう。……今日の時点でご報告できる内容はこれぐらいかと」
「分かった。……明日からはオレも調査に加わろう。具体的な指示は晴家が合流してからにする。報告ご苦労だった」

 彼は簡潔にそう告げると、張り詰めていた空気を追い出すように大きく息を吐いて、そのまま何かを考え込むように、何をするでもなく宙を見つめた。
 表情は硬く、声をかけるのを躊躇わせるような空気を身に纏っている。細められた瞳には、どこかしら暗い影が見えた。
 しばらくそうして彼の様子を見つめていたが、いつまで経ってもそのままなので、何かあったかと思い、私は思い切って彼に再度言葉を掛けた。

「景虎様」

 彼が鈍く顔を上げる。やはり瞳の色は暗いままだ。

「……なんだ?」
「お疲れなのではありませんか。顔色が優れないようです。もう少し横になられていた方がよろしいのでは」

 彼は少し眉を寄せると、そんなことないと首を横に振った。

「疲れてなんかいない。思いすごしだ」
「いえ、やはり顔色が良くない。体の不調は思考能力を低下させ、判断力を鈍らせます。今の所差し迫った状況ではありませんし、非常時のためにも無理せず休養された方が良いでしょう」
「…………」

 淡々と告げた言葉に、彼はなぜだか眉をしかめると、無言でうつむき、またもやそのまま何をするでもなく黙り込んでしまった。
 彼の態度は明らかに不審だった。
 なんとなく、自分が彼に言葉をかけるたびに、どんどん彼の瞳の色が暗くなっていく気がする。
 やはりこのままには出来ず、続いてかける言葉を捜したが、思うような台詞が出てこない。
 仕方なく、自分が思う疑問を率直に口にした。

「景虎様、どうかなさったのですか」
「……どうかって?」
「先程から様子がおかしい。何か気にかかることでもあるのでは……」
「……別に、そんなこと……」

 そう呟く彼の声は、明らかに歯切れ悪く。
 彼はそのまま再び無言でいたが、意を決したように顔を上げて、私の顔を正面から、その暗い瞳で見つめてきた。

「なあ、直江……」

 躊躇うように、言葉を続ける。

「おまえ……風邪でもひいたのか?」

 は……?と、私は思わず目を見開いた。
 あまりの脈略のない言葉に、咄嗟に言葉が出ず、返事を返せるようになったのは数秒後だった。

「ひいていませんが……」
「そう、か……?声が少しおかしかったから、風邪かと思ったけど……気のせいかな」

(声……?)

 彼の言葉に再度目を見開いた。
 聞き捨てならない言葉を聞いたと思った。
 「声がおかしい」と、彼は感じたという。私は表情を硬くして、彼に聞き募った。

「どう、おかしいのですか」
「いや……どこがおかしいのか、自分でもよく分からないんだけど……」

 考え込むように、彼は顎を手で押さえた。
 そうして暫く黙ったあとに、ポツリと、躊躇うように小さな声で呟いた。

「夢に……おまえが出てきたんだ」
「夢?」

 聞き返すと、彼はなぜか少しだけ微笑んで、穏やかな表情で言葉を続けた。

「夢の中で、おまえはオレの名を呼んでいた。何度も、何度も」

 無言でいる私には構うことなく、そのまま彼は語りだす。

「それでオレが、おまえの名を呼び返そうとしたら、そこで急に眼が覚めて。……そしたらおまえが目の前にいた」

 彼がスッと顔を上げて、私を見つめた。途端になぜか、彼は哀しげに眉をよせた。

「その後おまえが、オレに話しかけた時、……一瞬だけど、頭のどこかで『違う』って思ったんだ……」
「……違う?何が違うと?」
「さあ……どうしてそんな風に思ったのか、よく分からないんだけど……」

 歯切れ悪くそう呟くと、そのまま口をつぐんで、再び黙りこんでしまう。
 彼の言葉は私の心を大いに動揺させた。
 いったい、何が「違う」というのだろう。何がおかしいというのだろう。
 表情を硬く強張らせて、なおも問い詰めようと口を開くと、声を発する前に、遮るように彼が左右に首を振り出す。

「……いや、やっぱり気のせいだな。どこも、おかしくなんかないよな」
「……、景虎様」
「ほら、やっぱりおかしくなんかない。普段どおり、おまえの声だ。おまえは、こういう声なんだ」

 繰り返しそう呟く言葉が、私には彼が、自分に無理に言い聞かせているような、そんな心地がしてならなかった。
 けれど彼はもう、それでこの件については完結してしまったらしく、そのまま俯いて、すべてを拒絶するように、自分の殻の中に閉じこもってしまう。
 こうなってはそれ以上追求することもできず、私は開いていた口をつぐんで、彼の横顔を見つめていた。
 すると彼が、すっと音を立てて、腰をかけていたベッドに背中から倒れた。
 スプリングの軋みが収まるのを待って、彼は天井を見つめると、やがて唐突に、思いついたようにこう呟いた。

「……おまえの声、好きだな」

 またもや、彼の予測不可能な言葉に、私は呆けたように目を見開いた。
 彼は目をゆっくりと閉ざし、穏やかな口調で、言葉を紡ぐ。

「おまえの声、聞いてると、なんだか安心する。……もう、ずっとまえからそうだった」

 彼はそう言うと、開いた目を懐かしむように細める。

「最初は宿体の声がいいせいだと思ってたけど、きっと違う。あれは、おまえの話し方や、まとう空気や、魂にしみついた匂いが織り交ざって、初めて“おまえの声”となれるんだよな……」

 だから、たとえ換生して宿体が換わったとしても、変わらずおまえの声が好きなのだと。

 告げられた言葉に、なんと返して良いのかも分からず、ただただ押し黙って彼の様子を眺めていた。
 彼は、私が何か言い返すのを期待していたのか、しばらくそのままの状態で待っていたが、やがて諦めたように、息を吐いた。

「……すまない、変なこと言った」

 暗い面持ちで、低くそう呟く。
 そのまま腕を持ち上げて、目元を覆って表情を隠してしまう。
 私はその時、わけの分からぬ衝動に駆られて、無意識のうちに思わず椅子から立ち上がると、彼に何かを訴えかけるかのように問いかけた。

「どうして、謝るんですか」
「……え?」
「どうして、謝る必要があるんです。何か、謝らねばならない理由があったんですか」

 鬼気迫る面持ちで迫る私に、彼はシーツから半身を起こし、不思議そうな眼でこちらを見上げていた。

「直、江?」
「何があなたをそうさせるんです。どこまでがあなたの真実なのか。いったい、あなたは誰に対して……」

 我に返ったのはその時だった。喉元まで出掛かっていた言葉を、すんでの所で飲み込む。
 ……私は何を言おうとしているのだろう。それは今の彼に聞かせるべきことではないのに。
 自分の行動が理解できなかった。らしくもなかった。私としたことが己が主君を前にして、意味もなく取り乱すなど。
 言おうとした言葉を引っ込めて、唇を噛む私を見上げながら、彼は小さく、呟いた。

「そう、だよな……。別に謝る必要なんて、無いんだよな……」

 私の言葉をどのように取ったのか。
 少し俯いて、苦笑いを浮かべる。

「素直になろうって、伝えようって……あの時決めたんだから」

 (え……?)

 囁くように言われた言葉は、小さすぎてこちらの耳には届かなかった。
 彼はもう一度顔を上げて、私をまっすぐに仰ぎ見る。
 逸らすことなく注がれる眼差しと、視線が交錯する。

「直江……」

 名を呼ぶ声が、かすかに掠れていた。
 こちらを見つめる瞳は、熱病に侵されたように心持ち潤み、ただひたむきに視線を注ぎ続けている。
 上気した頬。少しだけ開かれた唇。
 何かを求めるかのように、私が次に何か行動を起こすことを待ち侘びているかのように、彼は私を見つめ続ける。
 私はただその視線を受け止めるのみで、何を為すでもなくその場に立ち尽くしていた。
 彼が私に何を期待しているのか、私には分からなかった。何を求められているのか、答えが見つからなかった。

 彼は切なげに眉を寄せて、私からゆっくりと眼を逸らした。
 そうして無言のまま俯く。瞳の色は元のように暗度が増して、横顔は傷ついたような影を帯びていた。

「……もういい」

 失望の声も露に、彼が私に告げた。

「……、景虎様」
「もういい、下がれっ。……ひとりにしてくれ」

 顔を背けて、彼がわめく。
 拒絶の言葉だった。
 それきり彼は押し黙り、こちらを決して見ようとはせず、背中を向けて私の行動を待った。
 私にも、いま彼に何か言葉をかけるべきだということが分かったが、それではいったい何と言うのが“正しい”のかが分からない。
 結局何も言えず、私は彼の淋しげな背中に向けて、

「それでは、失礼します」

 と告げると、そのまま踵を返し、静かにドアノブを引いて、無言のまま退室した。
 ドアを閉める間際もう一度彼を見たが、彼はぴくりとも動かず、頑なに背中を向けたまま、やがて閉ざされるドアの向こうに消えていった。




 ロビーに降りると、ちょうどエントランスから門脇綾子と、彼女につき従う軒猿頭の八神が現れた。
 彼女はこちらに気づくと、途端に顔を強張らせて、あからさまな敵意を向けてくる。
 意に介さず私は二人に近づき、事務的な口調で声をかけた。

「随分と遅かったな晴家。景虎様が部屋でお待ちだ」

 彼女は立ち止まり、眉を寄せて私を睨み付けた。そして不愉快そうにこう告げる。

「……その呼び方やめなさいよ。あんたなんかにそんな風に呼ばれたくない」
「……しかし景虎様は私が“こう”振舞うことをお望みなのだ。分からないか」

 そう返した途端、彼女の顔色が変わった。
 青ざめた顔を物凄い形相に歪め、こちらをギッと睨みつけると、

「だから……景虎の前以外で直江ぶるのはやめろって言ってるのよ!あんたの仲間づらなんて虫唾が走る!」

 怒りのあまりわなわなと肩を震わせながら、彼女は周囲の目も気にせず怒鳴りつけた。
 対してこちらの反応はわずかに眉をひそめただけで、得意の無表情で淡々と言葉を返す。

「やめないか公衆の面前で。見苦しい」

 目をやれば、ロビーに集う人々が何事かとこちらに視線を向けていた。
 だが彼女もそんなことは意にも介さない。瞳の中に燃え立つ炎を宿しながら、吐き捨てるように私に宣告した。

「今度景虎の前以外で『晴家』なんて呼んでみなさい。……その時は警告無く、私はあんたを攻撃する」

 凄みのある声で言い放つと、彼女は顔も見たくないとばかりに顔を背け、足音も荒くロビーを抜けてエレベーターへと歩いていった。
 その後を八神も、避難がましい目でこちらを一瞥しながら彼女に付き従っていく。
 軒猿達も無論、こちらのことを自らの上司だとは、微塵も認めてはいない。

「……あんな奴に代わりができてたまるもんですか。よりにもよって、人の心も分からない機械人間なんかに、あの直江の代わりが……」

 エレベーターに乗り込む際、彼女の忌々しげな呟きが耳に届いた。
 彼女はよほど、自分のことを好かないのか。それとも主君が己の片腕を身代わりで埋めていることが気に入らないのか。他に理由でもあるのか。

(分からぬ奴らだ……、柿崎といい、三郎殿といい、……そして“直江信綱”といい)

 階上へと上がっていくエレベーターの表示を見上げながら、私は心のうちで呟いた。

 分からねばならないのだろうか。完璧な模倣を完成させるためにも。
 あの男が主君に対し抱き続けていた歪んだ感情を理解して、そうして自らのものにすれば、あの方が私に求める“何か”を、私にも理解することができるようになるのだろうか。

 そうすれば……。


 
──もう、あの方の失望に歪んだ顔を、二度と見ずに済むのだろうか……。







 窓の外は、夜闇の中の星屑のように、街のネオンが煌いている。
 仰向けにシーツの上に横たわりながら、彼は腕を持ち上げ、目の上で両手を交差した。

 瞳を閉じれば、夢のなかで聞いたあの声が、こんなにも鮮明に聞こえる。


 ──高耶さん。


(直江……)


 ──愛していますよ。高耶さん。


(直江、もっと呼んでくれ……)


 夢の声に向かって、心の中で懇願する。


(オレの名を、もっと)


 おまえの声で、優しく。オレの名をもっと。


 シーツの上にうずくまりながら、哀しく彼は呟き続ける。
 両腕に隠された瞳の縁から、涙が一筋すべり落ちた。



 ──高耶さん。



(直江……)


 幻の彼に、手を伸ばして。
 涙を流しながら、呟いた。


「どうして……おまえはここにいない……」


「どうして……オレの名を、呼んではくれない……」


 いったい、どうして……。


 こんなに、……こんなに求めているのに。


 ちゃんと、素直に、言ったのに……。










 ああ、神様……。
 許されるならば彼の心を、もう一度私に返してください。
 叶うのなら、罪を犯しても構わないから。
 今度こそ素直になるから、だから。










 彼をこの手に……、返してください。