Mirage's ten episodes.
Part8.=wind=

































 珍しいことに、直江が寝込んだ。

 あの日から他人に決して隙を見せることはなくなってしまったヤツが、体調をくずして寝込んでしまったのだ。
 いままでのことを考えれば無理もないだろう。
 ヤツの精神面での打撃を考えれば、少なくとも数年の間魂の休養期間が必要なことは確かなのに。
 むしろいままでの間、よく持ったもんだと俺は思う。
 医師の診断では大したことはないそうだが、やはり気にかかるのはしょうがない。
 看病なんてガラではないが、しばらくの間は俺も近くにとどまり様子を見ようと思う。
 もっとも、直江のヤツは俺の心配など「必要ない」とつっぱねるだろうが。

 具合の悪い時は気持ちも不安定になりやすい。
 まだあの日からそう年月は経ていない。
 傷を癒しきるには、とてもじゃないが短すぎる……。





 病室には、窓から午後の穏やかな日差しが差し込んでいた。
 風でカーテンがたなびいている。
 白いベッドの上で、安らかに、直江は眠りの淵についていた。
 起こさないように、音をなるべく立てずにサイドチェアーに腰掛けた。
 なにをするでもなく、俺は直江の寝顔を横目に見つめた。

 やつれているようだった。
 病気なのだから、あたりまえなのだが。
 ただ、起きているときの彼の表情には精気があふれていて、普段その振る舞いに疲労や弱さを感じることがないのだが。
 こうしていると、ずいぶんとやつれて、疲れ果てていたのだと、初めて気づいた。

「死んじまったみたいに眠ってんな……」

 ボソリと、薄暗い部屋でひとり呟く。
 しんと静まり返って、個室に声が響く。

「このまま死んじまえば、楽になれんだろうに……」

 呟いて、違うか、と。もう一度言葉を重ねた。

「死んだって、俺たちにゃ次があるから、関係なんてねーよな」

 直江は返事をかえすわけもなく、昏々と眠り続けている。
 俺はつめていた息を吐いて、視線を窓の外へと移した。



 そうしてしばらくの間、なにをするでもなく外の景色を眺めていたが、ふと、何か気配を感じて視線を戻したとたん、思わず目を見開いた。
 ベッドに横たわる直江の頬に、一筋。
 光る水滴が伝い落ちていた。

 息を飲んで、言葉なくその様を眺めていると、また一筋、目じりから涙がこぼれ落ちた。
 そうしている間にも、また一筋。また一筋。

 直江は静かに、眠りにつきながら泣いていた。

「直江……?」

 起きている様子は無い。
 彼は完全なる眠りの中で、無意識のうちに涙を流し続けている。
 その横顔をしばらく見て、胸の底でやりきれないものを感じながら、俺は唇をかんだ。
 すると、いままで硬く閉ざされていた彼の唇がたわんで、直江は何か小さく呟いたようだった。

「……?」

 気になって、耳をすませてもう一度聞いた。

「……か、ないで……」

 今度は先ほどよりはいくらか鮮明な声で、直江は言葉を漏らした。
 いままで穏やかだった表情が、ゆがんで、眉をよせながら、苦しげな声音で呟く。

「行か……い、で……」

 もう一度、目じりから涙がこぼれた。

「……どこにも……かなぃで……」

 言葉を、把握すると、俺は眉間にしわをよせて、苛立つ気持ちを抑えるために煙草のケースに無意識に手を伸ばしたが、ここが病室であることをすぐに思い出した。
 所在無く宙にとまっていた手を、再び膝の上に戻すと、両手の指をくんだりといたりして、大きくため息をつく。

「やりきれねぇぜ、……景虎」

 俺としたことが、ずいぶん動揺してしまったもんだ。
 普段直江は、人前でこんな情けない醜態をさらすことは無い。
 小憎らしいほどきびきびしていて、傷を引きずるような様子は微塵も見せない。
 どころか、こいつはいつも笑っている。
 哀しいことなど何も無いとでも言うかのように、いつも穏やかで、落ち着いていて、そしてとても幸福そうだ。
 四百年付き合ってるが、こいつのこんなに幸せそうな様子は初めてで。
 俺は、その直江の笑顔に、安心しきっていたのかもしれない。

(ないわけ、ねぇんだよな……)

 哀しくないわけないのだ。
 つらくないわけないのだ。

 あたりまえだ。こいつが、あの景虎を……仰木高耶を亡くしといて、心の底から、一点の曇りも無く幸福になれるなんて……そんなわけありえないのに。
 もう二度とは会えないという事実が、淋しくないわけがない。
 たとえ魂は共にあっても、触れ合うことはないのだ。
 それを、「しかたがない」とまでに割り切れるようになるには、まだ景虎との記憶が鮮明すぎる。
 もちろん直江は納得している。その事実さえも受け入れて、納得したうえで、確かに幸福を感じているのも真実だ。

 ……けれど。

 直江はいま、苦しい夢を見ている。
 哀しい夢を見ている。
 きっと、意識下の奥深くに沈んだ負の感情が、無意識のうちに夢の中に浮上してきてしまったのだろう。
 脂汗をうかべながら、苦悶する直江の頬には、乾くまもなく次から次から涙が流れ続けている。
「助けてくれ……」と、かすれた声で呻く声が耳に届いて、これ以上耐え切れずに俺は目を瞑った。

「いんだろ、そこに。……景虎」

 直江の心臓あたりに向けて、吐き出すように呟く。

「聞こえんだったら、耳かっぽじってよく聞けよ」

 目を開いて、瞳に力をこめながら、睨み付けるようにしてやりきれない思いをぶつけるかのごとく、告げる。

「夢の中ぐらい……おまえがこいつを守ってやれ」

 俺が支えてやれるのは、せいぜいこいつが起きている時だけだから。
 悪夢から守ってやることなんて、到底俺にはできるわけもないから。


「こいつのことが大事なんだろ?だったら、……夢の中でも、直江を幸福にしてやれ」

 搾り出すような声で言った。
 直江が笑っていられるのは、こいつの中にいまも在る、景虎の魂のおかげなのだと。俺は知っている。
 いつもあるその笑顔の影には景虎の光がある。
 昏く陰った心を、ヤツの光が照らして、そうして初めて直江は微笑むことができる。
 俺にはその横顔を黙って見ていることしかできやしない。
 そんなに哀しいなら、やめちまえばいいだろうと、何度も言いそうになるのに。

(叶えてやんなくちゃなんねぇだろ……)

 義務感とか。そういうのとは違う。

(歯ぁ食いしばってでも、こいつには願い叶えさせなきゃなんねぇんだよ)

 足を組みなおして、直江にもう一度向き直る。
 そのための障害があるなら、俺がおまえの後ろに立って、背後の敵全部蹴散らしてやるから。
 おまえは思うように進めばいい。
 俺が「ひとりでもやってける」と思えるようになるまでは、とりあえず俺もここにとどまって、おまえの手伝いをしてやるから。
 だから。


「てめぇに少しでも感謝の気持ちがあんなら、そっちもせいぜい協力しろよ。バカ虎」


 その言葉にヤツが答えたのかどうかは知らないが、それまで苦悶にゆがんでいた直江の表情が、みるみるほどけて、穏やかになっていく。
 落ちる涙は次第にとまり、息をはいて、しばらくその様子を見守っていると、直江のまぶたがかすかに震え始めて、やがてゆっくりと目を開いた。


「な……がひで……?」


 かすれきった声で、直江が小さく呟いた。
 俺は表情をゆるめて、いつものように軽い調子でニヤリと笑うと、

「よう直江。来てやったぜ」

 そう、なんのことはないように、声をかけた。
 直江は数瞬ぼんやりしたように俺の顔を見つめると、ふいにはっと気づいたように、頬へと指を伸ばす。
 涙の痕を辿る指に、俺は気づかないふりをした。視線をずらして、会話を続ける。

「思ってたより、元気そうじゃねーか」

 直江はバツが悪そうな顔をして、表情を曇らせると、俯きながら呟く。

「長秀……」

 疲れた色をした目が、涙の名残で、心持ちうるんでいた。
 淡々とした声が個室に響く。

「こんなこと……しなくていいんだぞ……」

 低い声でそう告げた。
 何も感じていないようでいて、どこかつらそうな声音だった。

「無理して……俺に付き合わなくてもいいだぞ……」


 もう、逝ってもいいんだぞ……。


 そのまま、ヤツは黙り込んだ。
 無表情に固まった横顔からは、もう感情を読み取れない。
 静寂の中、直江は俺の返事を待っていた。

「ばーか」

 両腕を絡ませて、俺は伸びをしながらなんということはないように言った。

「別にてめぇのためなんかじゃねーよ」

 直江が顔をあげた。
 ヤツのその顔を横目に見ながら、俺はフッと笑うと、


「俺は俺の好きなように生きる。ただそれだけさ」


 驚いたように、目を瞠って、直江が俺を見つめている。
 風が吹き込んで、白いカーテンがはためいていた。涼しい空気が二人の頬を撫でた。

「そうか……」

 しばらくして、直江が苦笑しながら、小さく呟いた。
 先ほどまでとは違う。穏やかな声音だった。

「おまえは、それでいいと思う……」

 目を細めて、俺を見つめた後、瞳をとじて言葉を続ける。

「何者にも縛られず、風のように生きるおまえが……。本当は少し、羨ましかった……」

 俺は目を見開いた。
 いままで、付き合ってきて……初めて聞いた直江の言葉だった。
 茫然と、直江の閉ざされた瞼を見つめながら、ひとつ息を吐いて、

「そうか……」

 そう、低い声で相槌をうつと、俺は唇をつりあげて微笑み、

「けどそんなの、全然おまえらしくねぇよ」

 本心からそう告げると、瞼を開いて、直江は今日初めて、あの幸福そうな微笑を口元に湛えて、

「……ああ。そう、だな……」

 と、穏やかに頷いた。


「俺は俺らしく……おまえは、おまえらしく……それで、きっといいんだな」


 直江の言葉に、俺は黙って頷く。
 それからは言葉を交わすこともなく、直江は再び目を閉じた。
 規則正しい寝息が聞こえるまで、そう時間はかからなかった。




 チェアから腰をあげて、病室を後にした。
 部屋を出る瞬間、俺は後ろを振り返り、直江の姿を目に映した。
 悪夢はもう見ていないのだろう。穏やかな寝顔にどこかホッとしながら、ヤツに静かに背を向ける。

「……生きろよ」

 小さく、ひとり呟いて、病室から退室した。




 白い病棟を後ろ目に、太陽の下。一人帰路に着きながら、いまも病室で穏やかな眠りの中にあるだろうあの男を思い、俺は心で呟く。

 ……俺も、「悪くない人生だった」と、安心して眠りに着けるような日が、いずれは訪れるのだろうか?

 景虎がそうだったように。
 色部がそうだったように。
 そして晴家が、これからそうなるように。

 この永き生に終わりを告げて、安らかな闇に包まれ、そうして満足して眠りの海に着けるような日が。

 おまえもそうなれるだろうか、直江。
 誰よりも苦しみ続けながら生きてきたおまえが、これから広がる途方も無い道のりの果てに、その無限の苦しみの果てに、たった一人残されたとき。おまえはようやくその昏い瞳を輝かせて、心の底から「満足した」と、渾身の笑顔を浮かべながら、息絶えることができるのだろうか。

 そんな、馬鹿げたこと……。
 本気でやろうと思ってるんだから、こっちも呆れ返っちまう。

 それでもそんな、奇跡みたいな話、おまえなら出来ちまうんじゃないかって思わせる、おまえの存在ってのは、いったい何なんだろうな……。



 病院の門をくぐり抜けて、俺はシガレットケースを取り出した。ライターで火を灯して、細い紫煙をくゆらせる。
 大きく一つ息を吐いたその時、一陣の風が駆け抜けた。
 煙草から上がる白の筋が、風に乗って、天へとはかなく舞い散っていく。
 俺は眼を細めながらその様を見つめる。何か尊いものでも見るかのように。
 やがて静かに風は凪ぎ、何事も無かったかのように、煙草は再び細い紫煙を上げ始めた。
 視線をはずして天を仰げば、どこまでも青の空が広がっていた。


「……生きろよ」


 誰に聞かせるのでもなく、その青き空を見上げながら、ただ一言呟いた。

 ……生き続けろよ、直江。
 最後の瞬間まで生きて。
 生きて生きて、生き抜いて。
 そうして、おまえの宿願を叶えるんだ。

 その時俺は、そばにいてやることはできないだろうけれど。

 文明も何もかも絶えたその地上で、たったひとり大地に立ち。
 最高に満足した、心の底からの笑顔で、死ぬことができたなら。

 そうすれば、その時こそ。


「……おまえはきっと、世界一の幸せってヤツを、手に入れられるんだろうよ」


 それがどんなモンなのか、俺には想像もつかないけど。
 おまえがそれを望むって言うなら、俺ももう少しの間付き合ってやろう。



 ……俺はきっと、もう十分満足してんだよ。
 ずっと心のどっかで引っかかり続けてた、おまえたちの答えが見届けられただけで、俺の心残りは終わっちまったんだよ。

 でもまだ行けねぇ。おまえがそんな顔しているうちは。
 おまえがそんな情けない顔してるから、まだ安心して眠れやしねぇ。
 泣きそうな笑顔見せてんなよ。
 もっと心の底から笑えよ。
 景虎がいなくなっちまったらおまえどうすんだよ。
 もっと強くなれよ。
 忘れろって言ってんじゃねぇ。
 たまには気も抜けよ。
 俺に世話かけさせんなよ。
 幸せになれよ。
 約束、守ってやれよ……。

 俺ら、みんな、おまえのこと信じてんだからな。


 ……言いたか、ねぇけどよ。


 俺たち、三人。おまえら主従に振り回され続けながらさ。


 それでも……。



 何だかんだ言って、……楽しかった。



 だから……しょうがねぇ。




 俺が代表して、おまえら主従の最後の手伝い、してやるよ……。




 だからおまえは、何にも気にせず。今までどおり。











 おまえらしく生きればいい……。











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