雨がそぼ降る日だった。 庭に咲く金木犀の花を、冷たい雨が濡らして、小さな花たちは重さに耐え切れずに、地面に落ちた花弁が、まるで黄色の絨毯のようだった。 サアサアと、静かな雨音だけが部屋の中に響いていた。 畳の匂いのする部屋。障子越しに、午後のなよやかな光が漏れて、灯りの消えた部屋を薄く浮かび上がらせる。 雨音を遠くに聞きながら、目を覚ました時、かたわらに男が一人座っていた。 ゆるゆると瞼を開けて、焦点を結ぶと、男はすぐに気づいて、声をかけた。 「お加減、いかがですか」 深みのある、静かな声だった。 障子を背に正座する男の顔は、光源を背にしているせいで、影になっていてよく見えない。 ひとつ、ふたつと瞬きをすると、布団に横たわったまま、かすれた声で呟いた。 「直江、か……」 こくりと、男が小さく頷く。 景虎はそんな男の顔をじっと見上げながら、不思議そうにたずねかけた。 「どうして、おまえがここに?」 次第に目が暗さに慣れてきて、男の顔が鮮明な輪郭を結ぶ。 直江はフッと微笑みながら、ゆっくりと応えを返した。 「あなたが病気だと聞いて、駆けつけてきました」 穏やかな微笑を浮かべて、直江は床に伏したままの景虎へと手を伸ばす。 何をするのかと、黙ったまま見ていると、手は枕に埋もれる景虎の頭へと伸びて、額に乗せられていた白い布巾を持ち上げた。 そのまま布巾を、傍らにあった桶の中に入れて、中に張られた水で濯ぎ出す。 「そんなこと……家の者にやらせればいい……」 驚いて、景虎はそう告げたが、直江は気にせず布巾を絞り、再び手ずから彼の額へと乗せた。 ひんやりとした感触が気持ちいい。景虎は知らず、瞳を細めて息を吐いた。 「だいぶ、熱もさがってきたようですね」 先程よりも、随分顔色が良いと。安心したように直江が言う。 あくまで穏やかな空気を身に纏った、そんな男を見上げて、景虎はもう一度問いをかけた。 「いつから……そこにいたんだ……?」 起きるまで、男の気配に気づかなかった。 景虎は寝ている時も、人がそばにいればなんとなくその気配に気づくのに。 熱があったとは言え、直江がいつこの部屋に入ったのか、まったく感じ取ることができなかった。 直江は手ぬぐいで濡れた手を拭きながら、 「……あなたが眠りについてから、ずっとこうしていました」 そう、静かな調子で告げた。 雨足が少し増したのか、障子の向こうから漏れる雨音が、心なしか強くなったような気がした。 「そんな……大した病気じゃない。看病なんて、する必要は無いのに……」 枕に頭を埋めながら、ひとり言のように呟く。 男はそんな景虎を見つめながら、なんということはないように、低い声音で答えた。 「それでも……あなたが床に臥せっていると聞いて、じっとしていられなかったものですから」 景虎が目を瞠った。 上等の白い綿のシャツに身を包んだ直江は、居住まい正しく座布団に正座し、主君の傍らに座す者に相応しく、控えめな空気を纏っている。 武士という職が絶えて久しいこの世にも、長く染み付いた習性が抜けないのだろう。 景虎はそのまま無言で傍らの男を見上げていた。そんな彼の様子に目を細めながら、今度は直江が問いかける。 「起きたのなら、何か少しでも口にされますか」 景虎は一瞬考えて、力なくゆるゆると小さく首を横に振った。 「……いや、いい。もう少しの間、このまま寝ている……」 そうですか……と、直江が呟き、そのままふたりは言葉も発せず、沈黙の中、秋の冷気が部屋の中を、冴えた空気で染め上げていた。 無言の空気が、この男とだと全然重さを感じないのが、景虎には不思議だった。 いまも外では雨が天から降り注ぎ、水滴が水溜りに跳ねる音が、暗い部屋に静かに響き渡る。 景虎は目を瞑ることもせず、視線はそのまま天井を向いていた。 灯の消えたランプが、揺れもせずにぶらさがっている。天板の黒ずんだ古い木目が、日本家屋の温かなぬくもりを感じさせた。 ふいに、直江が再び手を伸ばした。 布巾を変えるのかと思ったが、そうではなく、直江はそろそろと、枕に流れる景虎の黒髪に、そっと手を差し入れ、軽く一梳きした。 はっと驚いたが、そのぬくもりが、思いのほか心地よくて、続けてくれないかと景虎は思ったが、直江は遠慮したのか、迷うように宙を浮いていた手を膝に戻して、それきり腕が動くことは無かった。 景虎が視線を動かし、男の方を見つめると、直江は静かな瞳で、景虎を見つめ返している。 ふいに景虎は、なぜだか無性に泣きたい気分になった。 意に反して、眦に涙が溢れてくる。 見られるまいと、寝返りを打って、男から顔を背けた。 けれどそうして眼を背けながらも、男の視線がまだ自らのせなに注がれていることを、無意識のうちに感じ取っていた。 (なんで、こんなに好きなんだろう……) 心のうちで呟く。 おまえのことが、こんなにも好きなのだと、時折無性に叫びたくなる時がある。 月光のように清かな、その視線が注がれるたびに。 ふとした瞬間、そのぬくもりを感じるたびに。 病気の時、身体の具合が悪い時、一番そばにいてほしいと思う人が、その人がもっとも愛する人なのだと、何かで聞いたことがあるけれど。 眠りにつく間際、おまえのことを考えて。そうして次に目が覚めたら、本当におまえがそこにいた。 そんな時、自分は涙が出るほどこの男のことが好きなのだと、改めて思い知るのだ。 いつからこんなに、おまえを必要としてしまったんだろう。 おまえと共に生きて、もう、何百年の年月が過ぎたのか……。数えるのも億劫になってしまうほど、長い時間をすごしてきたけれど。 いつの間にか、自分の傍らにはおまえがそうしていることが、オレの中で当たり前となってしまっていた。 もう、ずっと前だった。 自分という人間が、直江というただ一人の男に対し、異常なほど強い思慕を注いでいることに……気がついたのは。 それが、醜い独占欲なのだと。認めるまでに暫くかかった。 認めてからは、おまえの存在を失うことが、恐ろしくて、怖くてたまらなくなって。 いつもいつも考えるようになった。おまえを失わずに済むには、どうすればいいか。永遠に縛り付けるには、どうすればいいか。 その時誓ったのだ。 おまえの想いを、受け入れることは……おそらく永遠にない。 もしも受け入れる時が来たならば。 その時こそ。 (オレと、おまえの最期だと……) こんなずるい自分を、おまえは許さないでいい。 すべては、オレのどうしようもない弱さだから。おまえに依存することでしか生きるすべを持たない、オレの脆弱な心が招いたことなのだから。 おまえを圧し潰し続けることしかできないオレを、許してほしいだなんて言わない。 おまえはオレを憎んでいい。 憎んで憎んで、最期まで憎しみ抜いて。 それを哀しいとは思うけれど……。 想いを通わせ、失うよりは。 たとえ憎まれてでも……、おまえを失わずにすむほうが、その方がずっといい。 無くしてしまったら、生きていくことなんてできないのだから。 (なんで……こんなに、好きになってしまったんだろう……) こんなにつらい思いをするならば、いっそ出逢わずにいれば良かった。 おまえと出逢わなければ、こんなに弱い自分に気づくこともなかったのに。 こんなに誰かを必要とすることもなかったのに。 それでも、いつか、来るのだろうか。 おまえと出逢ったことを、……幸福なことだったと。心の底から言えるようになる日が。 その時、おまえはオレのそばにいるか? オレのそばで、微笑んでくれているか? (いつか、二人で笑いあえるような日が……) 来てほしいだなんて、言う資格すらない……。 景虎の眦から、涙が一筋、零れ落ちた。 直江はそれに気づいただろうが、気づかぬふりをして、何も言わず、無言のまま景虎の背中を見つめていた。 景虎は、それを淋しいと思ったが、みずから直江の優しさを求めることだけは、してはならないことだったから。 そのまま瞳をとじて、直江の気配を感じながら、眠りの淵についていく。 秋の長雨が、サアサアと音を立てながら、静かに部屋を包んでいた。 嘘だと思ってもいい……。 伝えることは、一生無いだろうけれど。 それでもオレは、おまえを愛している。 |