2003*8*20
the end...



 里に夜の帳が舞い降りる。暮れごろには風もなりやんで、辺りには鳥の鳴声さえなく、ただ炭火がぱちぱちと跳ねる音のみが、小さな部屋に響いていた。
 高耶は無言のまま火箸で炭をつついていた。
 今夜、自分は直江の妻ではなくなる。
 そして新に、匡範の妻となるのだ。
 髪を濯ぎ、湯を絞った布で身体を清めた。去年匡範に贈られたきり一度も袖を通していない、真新しくも美しい絹に身を包んで居住まいを正し、数少ない直江の持ち物は、すべて葛篭の中に整理した。
 あとは匡範の訪れを待つだけだ。それでこの三年間のすべてに終止符が打たれる。すべてに……。

 この三年は、気が狂うほどに長く、あっけないほどに、ひどく短かい年月だった。
 直江の帰りを苦しみもがきながら待ち続けた日々が、いまでは幻のようにさえ感じる。
 高耶は火箸を鉢のへりに置いて、両手で口元を覆った。ごほごほと咳をする。このところ体調が芳しくない。時おりひどい咳が出る。寒さにやられて、風邪でもひいたのだろうか。
 そんなことをつらつらと思い浮かべていると、そうして、ふと思い出したように、着物の袷に手を差し入れる。
 そこから抜き出したのは、一枚の御料紙だった。直江からの、あの後朝の文だ。
 この文も葛篭の中に入れようとしたのだが、どうしてもできなかった。これを捨ててしまえば、もう二度とあの頃に帰れなくなるような気がして、その決心がどうしてもつかなくて、後でいいだろうと、お茶を濁すように懐に差し入れておいたのだった。
 高耶は御料紙を両手に持ち、折れた紙を広げようと端を掴んだ時、

 コンコン。

 戸を叩く音がした。
 びくりっ、と背を戦慄かせた。ついに来てしまった。匡範が、ついに、約束を果たすためにやって来たのだ。
 茫然の体で戸を凝視していると、戸外の人物は再びコンコンッと傷んだ木の戸を打ち鳴らす。
 高耶は急いで文を懐に戻した。そうして立ち上がると、ことさらゆっくりと、門戸に向けて足を進めた。
 しかしどんなにゆっくり歩いても、戸口へはすぐに辿り着いてしまった。高耶はゆるゆると手を取っ手に掛けると、一つ息を飲んで、目を瞑り、指先に全神経を注いで戸を押し開けた。
 そこには予想通り、匡範が立っていた。今日ほど心弾む日はないとばかりに、満面の明るい笑顔で高耶を見下ろした。

「今晩は、お待たせしました」
「……ようこそお越しくださいました」

 匡範に対し、高耶の顔は緊張のあまり強張りきっていた。やつれた頬はさらに青褪め、唇が乾いてしきりに舌で舐めた。
 ぎくしゃくとした動きで匡範を中に通すと、酒でも振る舞おうと奥の部屋に向かいかけたその時、高耶は、身動きがとれなくなった。
 後ろから、匡範に抱きすくめられたのだ。
 息が止まるほど驚いて、首を後ろに巡らすと、匡範の顔があった。

「どんなにこの日を夢見たことか……」

 高耶の黒髪に頬を摺り寄せながら、感慨深げに匡範が告げる。

「匡範、様……」
「ああ、顔をよく見せてくれ」

 そう言うと、高耶の身体をこちらに返して、その青白いかんばせを覗き込んだ。

「そなたほど美しい人は他にいない。京でも数々の美女を見てきたが、それはただの作り物めいた美しさで、そなたほどに純粋な輝きを持つ者は誰一人いなかった……」
「…………」

 腰へと回された右手を持ち上げて、無言でいる高耶の頬に添えられた。そしてゆっくりと撫でさする。

「高耶。今宵より、そなたは私のものだ……」

 頬をすべり降りた指が頤に添えられて、高耶は顎を持ち上げられた。
 徐々に顔を近寄せる匡範に、高耶は成すすべも無く、拳を握り締めてゆっくりと、瞼を閉じた。

 ─直、江……。

「愛している……」

 耳元に吐息が触れ、唇が、そっと、重なり合う…………その間際だった。


 ガンガンッ。


 そう、戸口を激しく叩く音が、室内に鳴り響いた。
 ビクリッと身体を揺らした両者は、目を見開き、途端に我に返った高耶は匡範の体を勢いよく両手で押し返すと、

「見て参ります」

 早口に言って、身を翻した。
 逃げるように退室して、戸口へと向かう間、高耶の心臓は悪い病気のように打ち鳴り続けていた。
 冷や汗が、どっと湧き出ていた。握りしめた拳の平が、じっとりと濡れている。

(どうして……どうして……っ)

 混乱する思考。頭の中はぐちゃぐちゃだ。匡範の唇が重なろうとした時、脳裏に浮かんだのは紛れも無いあの男の面影だった。
 この数日間、思い出そうとしても、どうしても思い出せなかった、あの男の笑顔だった。

(どうして……こんな時に限って……どうしてっ)

 心の中で叫ぶ。いや、今は考えても仕方あるまい。ただ、いまは家の戸を叩く来訪者のみに、全神経を集中させようと、心に決めて戸口へと降り立った。

「はい、どちらさまでしょう」

 こんな夜更けにいったい誰だろうかと、怪訝に思いながら言葉を掛ける。
 そして、誰何に対し返された声音に次の瞬間、高耶は愕然とすることになる。

「私です」

 戸外から響いた声に、高耶は瞬間息を止めた。
 肩がぶるぶると震え始めた。取っ手を持つ両手に揺らされて、木戸がカタカタと音を打ち鳴らす。
 心臓が壊れたように鼓動を刻む。息も忘れるほどに戸の木目を凝視しきっていた彼は、両目をこれ以上ないぐらいに見開きながら、高耶は乾ききった唇を開いて、ふるえる声でゆっくりと、もう一度、誰何の問いを投げかけた。

「だれ……」
「高耶さん、私です。直江です」

 戸外の男はそう言うと、微笑んでいるのかゆっくりと息を吐いて、優しい声音でこう告げたのだ。

「京より、ただいま戻りました。高耶さん……」

 ああ……と、高耶は小さく呻いた。
 間違いない、直江だ。直江だ。忘れもしない、あの男の声音だ。
 この世でこの男にしか持ち得ない、ただ唯一の、直江の声だ。
 愛しさが、胸の中を鬩ぎ溢れた。三年の間、来る日も来る日も飽くことなく待ちわびた、あれほどに欲し続けた男が、いま、木板を隔てて一枚の場所に立っている。
 高耶は全身全霊の愛しさを込めて、その名を呼んだ。

「直、江……」

 木板に、崩れ落ちるようにして縋りついた。戸外の直江は、高耶の声を聞いて、いっそう微笑みを深くしたようだった。
 声音に、嬉しさと、せつなさが宿る……。

「ああ……高耶さん。早く、ここを開けてください。あなたの顔が見たい……」

 直江の言葉に、涙が溢れた。そうだ、オレもどんなにおまえに逢いたかったか。どんなにおまえを夢見ていたか。どんなにおまえの顔を目に焼き付けたかったことか……。
 想いが溢れてとまらなくなった。いますぐ、この板戸を開け放って、おまえの愛しい顔を見て、そうしてその腕の中に飛び込もうと、すぐさま閂に手を掛けた時、

「高耶?」

 後方から呼ぶ声に、高耶の動きは止まった。麻痺したように、その場からピクリとも動かなくなる。

「誰か、来たのか?」

 匡範が部屋から出て、様子を見に来たのだった。
 現実が、轟々と高耶の目の前を打ち崩していく。
 そうだ。そうだった……。
 自分は、今からこの人の妻となる身だった。
 もはや、自分のこの身の節々までも、すべて、直江のものではなくなってしまったのだ……。
 閂を握る手に、ぎりぎりと、力を込めた。

(どうして……どうしてあと、一日早く戻って来なかった……)

(どうして……)

 絶望に、目の前が暗闇に閉ざされた。
 薄い板戸一枚のみであったはずの二人の隔たりが、一瞬後に、まるでとてつもなく強固でとてつもなく重層な、絶壁の岩戸に変わってしまったような心地がした。
 いま、この一枚を開ければ待ち焦がれた人がそこにいるのに。
 ただ腕に力を込めるだけで、それでやすやすと望みは果たされるのに。
 それでも……。

「駄目だ……直江……」

 ゆっくりと、茫然と呟いた。

「え……?」
「駄目なんだ……」

 虚をつかれたように声をあげた直江に、高耶は俯きながら、悲愴な面持ちで顔を横に振った。

「どういう……意味、ですか」

 戸外から、直江の怪訝げな声音が漏れ聞こえる。
 高耶は瞳に力を込めて、カラカラの喉の奥から力を振り絞り、ふるえる声で……こう告げた。


「あらたまの……年の三年を待ちわびて……ただ今宵こそ、新枕すれ……」


 一瞬の、静寂。
 直江は、息を呑んだようだった。
 そのまま、茫然と立ち尽くしている様子が、気配で伝わってくる。

「そう、……ですか……」

 そう、ですか……と、繰り返し繰り返し、動揺も露にして、直江は呟き続けている。
 歌意は、こうだ。

<三年もの長い年月、あなたを待ちわびて待ちあぐみ続けて、そして今夜ようやく、私はあなたではない他の人と枕を添い遂げるのです……>

 その歌を、舌の上で咀嚼し咀嚼し、そうしてようやく呑み込んだのか、それでも直江は、高耶の嘆きをよそに落ち着いた声音で、木戸越しに高耶にこう告げて寄越したのだった。

「おめでとう……ございます……」
「…………」

 気配で、微笑んでいるようだった。
 どうしてそこで微笑んでいられるのかと、高耶は愕然と目を見開く。
 そうして、直江は高耶に、三年振りの歌を詠み贈った。
 どれほど恋焦がれたかわからない、直江の歌。
 けれど高耶を常に幸福にし続けてきたその歌こそが、今度こそ高耶を絶望の底に突き落とす、とどめの一押しになってしまったのだ……。


「梓弓、真弓槻弓、年を経て……我がせしがごと、麗しみせよ……」


<幾多の年月、私があなたのことを愛したように、今度の相手とも幸福に、仲睦まじく暮らしてください……>

「…………」

 高耶には、歌の意味が取りきれなかった。……いや、取りきれないのではない。「取りきりたくない」のだ。

(嘘だ……)

 心で、茫然と呟く。

(嘘、だ……)

 再びの、静寂。
 その重苦しい沈黙を先に破ったのは、直江の、別れの言葉だった。

「……どうぞ、お元気で……」
「……っ」

 直江が、踵を返していく。
 足音が、木越しに漏れ聞こえてくる。

(待っ……て……)

 薄い木戸に、高耶は縋りついた。
 足音が、どんどん遠ざかっていく……。

(待って、く……れ……)

 言葉が、声にならない。止めなければならないのに、身体が、思うとおりに動かない。

「……待っ……」

 ようやく出た声は、蚊の鳴くような、声とも言えぬ呻きだった。

「待て……」

 高耶は、立つことも出来ず、その場に崩れ落ちた。
 目頭から涙が溢れ、頬を、一筋滴が伝い落ちた。

「違うんだ……なお、え……」

 首を、子供のように横に振り続けた。
 自分は、きっと……直江に止めて欲しかったのだ。
 直江に、叱ってほしかった。怒り狂ってほしかった。
 そんなこと、許さないと。あなたは俺だけのものなのだと。他の男になんか渡さない、誰にもあなたを触れさせはしない。いつだって、あなたに触れていいのは俺だけだ。俺だけのものだ。あなたが嫌がろうが、逃げようが抵抗しようが、誰にだって渡してなどなるものかと……!
 独占欲を剥き出しにしてほしかった。オレがおまえを求めるように、おまえにもオレを死ぬほど求めてほしかった。
 オレがおまえを誰かに奪われたなら、屈辱のあまり憤死してしまうぐらいに。誰かに渡すぐらいなら、おまえを殺してしまうぐらいに、オレを飽くまで求めてほしかった!独占してほしかった!殺されたって構わなかった……ッ!
 それなのに……。

(どうしておまえは、オレを止めようとしないんだ……ッ!)

 着物の裾を、ギリギリと握りしめる……。
 悲しみと怒りと絶望とを込めて、床に拳を打ち据えた。

「どうし、て……」

 そう呟いた、その時。

「あの男……だったのか……高耶」

 背後から、声をかける男がいた。
 匡範だった。
 後方で、二人のやりとりを聞いていたのだろう。匡範は高耶の背後にまですっと歩み寄って、言葉を発した。

「まさか何も問い詰めることなく立ち去っていくとは……、所詮あの男にとって、国に残して置いてきた妻など、その程度の存在だったのだろうな……」

 大方京で新しい女でもできたのだろうと、抑揚の乏しい声で告げる。

「これで、そなたが気に病む必要は何も無くなった。あの男を、もう待ち続けることは無いのだ……」

 そう言って高耶の肩を引き寄せようとした。
 だがその動きを遮るように、高耶がゆるゆると、首を左右に振り出した。

「ちがうんだ……」

 高耶は首を振りながら、目を見開いて、茫然としたような口調で呟いた。

「直江がオレを想っているか、そうでないかなんて……初めから、関係なんてなかったんだ……」

 高耶は両手を持ち上げ、自らの懐をぎゅっと抱きしめた。そこには、直江から贈られたあの後朝の文が入れられている。

 そうだ。すべて自分だった。すべては自分の想いだけだった。
 今、ようやく分かった。見失いかけていたことのすべてが。
 直江が自分を想うから、自分は直江を待つのではない。
 己自身が直江を心の底から思い続けているからこそ、高耶はずっと、あの男のことを飽くことなく待ち続けてきたのだ……。

 潤んだ瞳を上げて、万感の想いを込めて、高耶はここにはいないその人に向けて、歌を詠んだ。

「梓弓……引けど引かねど、昔より……こころは君に、よりにしものを……」

<あなたが私を愛してくれようと、くれまいと構わない。私はただ一途に、今日も昔もあなただけに心を寄せてきたのだから……>

 高耶の頬を、透明な涙が幾筋も幾筋も、ただ音もなく零れ落ちていく。

「たとえ、あの男の心が離れていようとも、オレの心は昔から変わらず、直江だけに向かっている……」

 流れ続ける涙を拭おうとはせず、高耶は切なげに瞳を細めながら、囁くように呟いた。

「たとえ三年の月日が流れて、二人が他人になったとしても、オレが直江を想い続ける限り、オレはいつまでも直江のものだ……」

 この思慕が尽き果てるまで、尽期の先まで変わらない。
 膝を立てて、ゆっくりと立ち上がった。

「追わないと……」

 よろける足を踏みしめる。

「追って、取り戻さないと……」

 驚駭として目を見開いていた匡範は、瞬間我に返って高耶を後ろから抱きしめた。

「駄目だ!」
「……。離して、くれ……」
「駄目だ、行かせないっ。そなたは私のモノだ。私のモノになるのだ!あの男などに渡してなるものかっ!」
「離せ……」

 高耶が抗う。匡範の手を退けようとするが、匡範は離さない。

「誰が行かせるかっ。あの男はそなたのことなどとうの昔に忘れている!文も寄越さなかった男だ。そうでなければどうしてあれほどあっさり引き下がった。追っても無駄だ!あんな男は忘れてそなたは私の妻になるのだっ!」

 高耶の両眼に赤い閃光が宿った。

「黙れぇぇーーッ!」

 渾身の力で匡範の腕を振り解いた。反動で匡範が後方によろめく。高耶は零れる涙に濡れた眼で匡範を睨み上げた。

「オレは……あなたの妻にはなれない!オレの生涯の伴侶はあの男、ただ一人だけだ……!」
「……だがっ、もはや三年は過ぎている」
「いいや……まだ、今日は終わっていない……」

 東の空に太陽は見えない。天はまだ闇の帳を上げてはいない。
 高耶は流れ続ける涙を振り乱しながら、匡範に向けて叫んだ。

「夜が明けるまで……いや、明けたとしても、オレのすべては永遠に直江だけのものだッ!」

 なおも縋る匡範の手を打ち払い、高耶は今度こそ板の戸を軽々と開け放ち、何ものも考えず西の方へと飛び出した。
 後方で匡範が何か叫んでいるようだったが、高耶の声にはもはや届いていなかった。

 闇の中、ただ一人の男の姿を探しながら、無我夢中で駈けた。身を切るような冷たい風が高耶を嬲っていく。だがそんなことは気にも止めず、走って走って、全速力で走りつくした。振り返ることはせず、躓きそうになっても、立ち止まることもなく、必死に、必死に。
 まだ、そう遠くには行っていないはずだ。京へと引き返したのなら、この西へと続く道の延長線上に、必ず直江はいるはず。ひょっとしたら自分が追ってくるのを待っているかも知れない。だとしたら急がなくては。早く、手遅れにならないうちに、早く……早く……っ!

(直江……直江っ)

 次第に息が上がってきた。ぜぇぜぇと呼吸が乱れ始めて、胸の辺りが破裂するように苦しい。全身が重い。着物の裾が足にからみつく。
 だが歩みを止めはしなかった。どんなに苦しくても立ち止まることは許さず、ただただ無心に一歩でも前へ、前へと、ふらふらになりながらも懸命に歩き続けた。
 寒さで、両手足の感覚がもはや無くなっていた。白い息が引っ切り無しに漏れ出ずる。草鞋の紐がほどけて、右足が脱げてしまったが、高耶は気づくことも無く、そのまま裸足でよろりよろりと歩き続けた。

「はぁ……あぁ……はぁ……、うぁッ」

 それから一体どれぐらい歩いたのだろう。やがて石にでも蹴躓いたのか、高耶はその場にドッと転び倒れた。茨が剥き出しの肌を引き裂いて、血が流れる。
 目を上げると、そこは闇夜に浮かぶ、美しい泉のほとりだった。水面に跳ねる湧き水が、きらきらと白い光を放っている。
 傍らの岩に、縋りついて立とうとしたが、胸の苦しさのあまり適わず、その場にまた崩れ落ちてしまう。
 ぜぇぜぇと、激しく肩を揺らしながら、高耶は仰向けに転がり天を見た。
 空から、ぽつりぽつりと小さなものが舞い落ちてきた。
 雪だ。白い雪が、静寂の中高耶の全身に静かに降り積もる。
 乱れる白い息の下、高耶は雪をその身に受けながら、ゆっくりと唇を動かした。

「なお……え……」

 掠れ声が、虚空に響いた。

「なぜだ……なおえ……」

 弱々しく、男の名を呼ぶ。

「どう、して……」

 氷のような両手を、ゆるゆると上げて顔を覆った。
 目尻から、涙が一滴零れ落ちる。

「ほんとに……そう、なのか……」

 本当にそうなのか。
 おまえはもう、オレのことなど忘れてしまったのか。
 おまえが、もしまだオレのことを想っていてくれたのなら、きっとおまえは、オレが思いなおして追いかけてくるのを待っていたはず。
 きっと、さっきのは拗ねていただけなんだと。三年も便りをよこさないで、こんなにたくさん心配かけて、待っても待っても帰ってこないから、すっかり怒ってへそを曲げてしまっただけなんだと。本当はあんな歌は嘘で、ちょっと困らせてみたかっただけなんだと。けど真に受けてあんな別れの返歌なんか詠んできたから、きっと焦ってすぐさま追いかけてくるはずだと。
 そして顔を合わせたらもう涙が止まらなくなって、ごめん、さっきのは嘘だから。ほんとはずっと待ってたんだ、ずっとおまえがいつ帰ってくるんだろうって、来る日も来る日も思ってた。おまえが帰ってきて、あんまり嬉しかったから、それがなんだか恥ずかしくて、ちょっと意地悪してみただけなんだって……泣きながら、おかえり、よく無事で帰ってきてくれた……本当に嬉しいよって……。
 そうやって、自分が追ってくることを、待っていたはずなんだ。待っていなければならなかったんだ。
 本当に……オレのことを今でも想ってくれているのなら。
 けれど、どうしておまえはどこにもいない?
 どうして、オレのことを待ち受けて、その優しい笑顔で微笑んで、「ただいま」って……。
 どうして……。

「う……あぁ……」

 動悸が、止まらなくなった。切なる哀しみが胸の底から満ち溢れて、たまらず両手で顔を抱えた。

「うああ……ああぁぁぁ………なお……なお……え……」

 涙が再び眦から泉のように湧き出でた。
 こらえきれず寝返り、うつ伏せに顔を地面にこすり付ける。

「直江……なおえ……なおえ…………なおえええぇぇぇぇーーーーッッッ!」

 わけもなく男の名を泣き叫びながら、涙に濡れる顔を、ぐちゃぐちゃに手でかきむしる。

「どうして……どうしてだっ。教えてっく、れ、何がいった、い……いけなかったんだ……!」

 涙でしゃくりあげながら、高耶はこの場所にいない人へと切に訴えた。

「オレは、おまえをこんなに待ってるのに……いつまでも待っていたのに……どうして、こんなことに……っ」

 どうしてだ。
 なにがいけなかったんだ。
 なにが運命を狂わせた。直江が京に向かった時点で、既に過ちは始まっていたのか。
 自分は、別にあのままの貧しい暮らしでも構わなかったのだ。ただ、おまえさえ一緒にいてくれれば。
 移り行く季節の美しい情景を、ただ二人で眺められれば、それだけで十分だったのだ。
 けれど、おまえは行ってしまった。必ず帰ってくると約して。その約束を、いままで三年の間ずっと待っていた。待ち続けていた。そうして、三年目のその夜に……。

 そう。

(オレは、おまえを裏切ったんだ……)

 答えは、それ一つだった。
 いつまでも待ち続けていると約して、それでも、最後の最後に自分は、直江のことを裏切ったのだ。
 直江の誓いを、信じ続けることができなかったのだ。
 本当に彼のことを想っているのなら、最後まで、信じるべきだった。疑うべきなどではなかった。少しでも、心が揺れることなどあってはならなかったのだ……!

「それなのに……オレは……オレは……ッ」

 うらぎった。
 彼の心を信じずに。
 かつて彼が自分に向けてくれた、彼の想いを、自分は最悪の方法で裏切ったのだ。
 
(捨てられて……当然じゃないか……)

 この身に、彼を責める資格など無い。
 彼の心を……自分が、踏みにじった。

「うっ……あ……ああああああああぁぁぁーーーーーーッッ!」

 絶叫し、高耶は傍らの岩に縋りついて、己の右手を岩肌に殴りつけた。
 
「うあああっ……おぇ……なおえ……なおええええぇぇぇーーッ!」

 悲痛な叫びが空を切り裂く。訳も分からず喚き散らしながら、何度も何度も殴りつける。血が噴き出し、拳から赤黒い血が飛び散る。撃ちつけるたびに赤が闇を舞い、岩肌に地に頬に服にへと降りかかった。

 いまさら、戻ってきてほしいだなんて、あまりにもおこがましかったのだ。
 彼を信じなかったくせに。
 心を疑ったくせに。

(帰ってきてほしいだなんて……ッ!)

 拳を叩きつけて、零れ落ちる涙を振り乱し、悲しみを堪えるように、中和するように、蹲って傷口を岩肌にこすりつけた。
 だが、この程度で痛みなど、感じるわけが無い。苦しみがやわらぐわけもない。
 あの男を失った苦しみで痛覚が麻痺して、もはや何も考えられない。

「……おえ……なおえ……なおえ……なおえ……」

 嗚咽と共に、乱れる息の下、壊れたようにその名を呼び続け、喘ぐたびに白い息が空に散っていき、その時、突然高耶が口元を片手で覆った。
 ごほっ、ごほっと、奇妙な咳が唇から漏れた。しばらく続けて、ぜぇぜぇと荒く肩を揺らした時、高耶の唇の端から赤い血が伝った。
 手の平からも零れて血が腕を伝う。痛めつけた拳から落ちた血とは違う、別の血だった。

 そのまま動けず、荒く息をつきながら、高耶は胸を襲い狂う激痛に耐えた。
 雪がひらひらと舞い落ちて、とけた水が赤き雫を洗い流していく。
 
 やがて、ゆるゆると右手が持ち上がった。岩肌へと血まみれの人差し指を差し出し、伝い落ちる血で、ゆっくりと文字を書き付ける。


「あい……思はでぇ……」


 岩肌に頬を擦りつけながら、喘ぐ息の合間、小さく声を発した。

「離れぬる……ひと、を……とどめかねぇ……」

 血文字が、黒い岩肌に記されていく。想いの全てを書き付けるかのように、小さな声で、その歌を紡ぎながら。

「わが身はぁ……今ぞ……、消え……果てぬめる……」

 最後の文字が岩に描かれた。高耶の身体はそれで力尽きたかのように、微動だにもせず、岩に凭れかかっている。
 高耶は目線を落とし、岩肌に描かれた歌を、ゆっくりと詠みあげた。


─相思はで 離れぬる人を留めかね 我身は今ぞ消え果てぬめる


<どんなにあなたを想おうとも、離れ去っていくあなたを引き止めることもできず、あなたを失った悲しみのあまり、私の身は今にも消え果ててしまうだろう……>


 高耶はゆっくりと、首を動かし、天上を振り仰いだ。
 悲しみを埋めるように、白く無垢の雪が高耶の身体に降り積もっていく。
 静かに落ちゆく六花が、身体の熱を徐々に奪い尽くしていく。

(直江……)

 残されたわずかな力を振り絞って、懐に収められた文をとりだした。

(なおえ……)

 両手の平でにぎりしめ、胸のうちに抱きしめる。とっくに涸れたかに思われた涙が、白い頬を音も無く伝い落ちた。

(戻って、来い……)

 雲に隠された月明かりを振り見ながら、言葉無く、訴える。

(戻って来い……オレのそばに……)

 その人に、訴えかけた。
 それが、己のうちに最後に残された、真実の言葉だった。
 ほんとうの望みは、最初から、ただそれ一つだったのだ……。

 愛してなんて、くれなくてもいいから。
 他にはなにも、望まないから。

 おまえがいてくれるだけで、ほんとうはそれだけで、十分、オレは幸福だから。

 ……だから、おねがいだ。


「オレを……ひとりにするな……」







 雪が、はらはらと舞い落ちる。
 やわらかな白の衣に覆われて、高耶の身体が闇の中に密やかにうずもれていく。
 終わりの時が近づいてくる。
 瞬きもせず、空を見つめる両眼は次第にかすれて、瞳の奥に、淡い幻の影が映しだされた。
 戸板を、急いで引き開けた自分を、やさしい笑顔で迎える直江……。

(あぁ……)

 腕のなかに飛び込んだ高耶を、きつく抱きしめる。
 もう、二度と離すことはないとばかりに、強く、強く……。

 ─高耶さん。

 呼びかける声に、血塗られた手を差し伸ばし、そっと、空を握りしめた。

(なおえ……)

 あの戸板を開けてさえいれば……。あの時、ただその指にほんの少しの力さえこめていれば……。

 幻想が、儚くも音も無く闇の中に消えていく。
 去り行く面影は……あまりにも遠い。
 かすかに、唇を開き、かすれた声で呟く。


「最後に……おまえの顔が……見たかった……」


 それが、終わりの言葉だった。
 高耶はゆっくりと瞼を閉じて、静かな眠りについた。


 冷たい身体は白の世界に溶け込み、ただ傍らに残された血文字だけが、赤々と、悠久の想いが焼きついたかのように、消えることなくいつまでも残り続けていた……。







                        
                         終



〜恋塚〜
恋
 むかし、男、片田舎に住みけり。
 男、宮仕えしにとて、別れ惜しみて行きけるままに、三年来ざりければ、待ちわびたりけるに、いとねむごろに言ひける人に、「今宵あはむ」とちぎりたりけるに、この男来たりけり。
「この戸あけたまへ」と叩きけれど、あけで、歌をなむ詠みて出だしたりける。
 
 あらたまの年の三年を待ちわびて ただ今宵こそ新枕すれ

と言ひいだしたりければ、

 あづさ弓ま弓槻弓 年を経て 我がせしがごとうるはしみせよ

と言ひて、去なむとしければ、女、

 あづさ弓 引けど引かねど昔より 心は君によりにしものを

と言ひけれど、男帰りにけり。
 女、いと悲しくて、後に立ちて追ひ行けど、え追いつかで、しみづのある所に伏しにけり。
 そこなりける岩に、およびの血して書きつけける。

 あひ思はで 離れぬる人をとどめかね わが身は今ぞ消えはてぬめる

と書きて、そこにいたづらになりにけり。


 
             〜伊勢物語 第二十四段 「梓弓」〜
恋塚 …… 恋死にした人を葬った墓。
あとがき
みとせ