第七話 (は〜ら〜へっっったあぁぁ〜〜ッ) 深い眠りの淵に落ちたかに思われた楢崎は、情けないことに、空腹の苦しみのあまり目が覚めてしまった。 ゆっくりとベッドから上体を起こす。指一本動かすのさえ、すきっ腹の体にはツライものがあった。 携帯電話のディスプレイに視線をやると、なんと図ったかのように、ジャスト午後の11時である。 (仰木隊長、ちゃんと橘の部屋に行ったかな……) 卯太郎はちゃんと伝えてくれただろうか。気にはなったが、確かめるわけにもいかない。 (いまごろはきっと……) と思わず想像しかけて、慌てて楢崎は首を横にブンブン振った。 「ってだからナニ考えてんだっての、俺は!」 そう叫んだ瞬間、楢崎はへたりこんだ。……もう腹が減って腹が減って、にっちもさっちもいかないのだ。 (もうダメ……俺、これ以上何も食べなかったら確実に死ぬ……) 赤鯨衆隊士の中には、生前貧しさのあまり何も食べるものが無くて、とうとう餓死してしまい今に至る……などという者がボチボチいたりするのだが、楢崎は生憎飽食の時代に生まれた人間であるので、一日の飢えを我慢するほどの気概は無かったのである。 こんな状況、卯太郎あたりに見られたら、「一日飯抜いたぐらいで、根性が無いのぉ楢崎は」と呆れられることは間違いない。が、そんな体面などよりも、とにかく今は何かを食べることさえできればどうでも良いという心境だった。 楢崎はベッドから立ち上がって、自室のドアの鍵を開けた。 寄りかかるようにしてドアを開くと、フラフラした足取りで外に出る。 夜遅いこともあって、廊下を歩く隊士の数は昼間よりもグッと少ない。 力の入らない体に鞭打って、小走りに廊下を駆けていった。時折擦れ違った隊士に「こんばんは、仰木隊長」と声を掛けられるぐらいで、なんとかすんなり食堂につくことができた。 当然ながら、夕食の時間はとっくに過ぎている。楢崎は電気の消えた部屋の明かりを一区画だけ灯して、無人の厨房の中へと入っていった。 多分夕食の残りか何かがあるだろうと思って冷蔵庫を空けたら、予想通り残り物がラップにかけていくつか入っていたので、この上なくホッとする。 自慢じゃないが料理は全く出来ない。材料だけしか入ってなかった場合は、きゅうりでもトマトでもそのまま丸かじりする覚悟でいたのである。 隣りにあった電子レンジで温めて、楢崎はこの日初めての食事を摂った。お冷や御飯がこんなにもおいしく感じられたのは今まで生きてきて初めてだった。(いやもう死んでるけど……) 食べ盛りだけはあって、ガツガツかき込みペロリと完食する。仕上げにデザートを食べて、楢崎は満足げに息をつく。 「あー……生き返ったぁ〜」 お腹をさすりながら伸びをする。 ……どうでもいいが、オウギタカヤの見た目でそういう行動は如何なものか……。 一心地ついて皿を流しへ運ぶと、彼は食堂を後にした。やっとお腹が満足したせいで、緊張が解けてしまったのだろう、無防備にテクテクと進んでいた彼は、階段手前の談話スペースでピタリと立ち止まった。 自動販売機の手前のソファに、赤鯨衆首領・嘉田嶺次郎が座っているのだ。 (やべっ……) 楢崎はすぐさま後ずさった。嶺次郎に見つかるのはマズイ。呼び止められでもして仕事の話など持ち出されたら大変だ。 この階段を上がれば確実に見つかる。だがこの階段を上がらないとすると、反対側の棟の階段を上がらなければならなくなる。 あちら側はかなりの遠回りだ。しかも直江の部屋とも近いので、鉢合わせする可能性が大いにあり得る。 楢崎は立ち止まって逡巡した。一体どうすべきか……。 (そうだ、外に出て非常階段から上にのぼろう) そう思うが早いか、周囲に誰もいないことを確かめて、すぐ側の窓から外へと降り立った。(ちなみにここは一階だ) ガサゴソと茂みの中を進んで、アジトの中庭に出る。 見上げても分厚い雲に覆われた空は、星どころか月明かりさえ無い。ただ外灯の明かりのみに照らされた中庭には、楢崎以外人っ子一人いなかった。 静寂が駆け抜ける。 (サッサと戻らないと) テクテクと庭の中心を横切る。明かりが少なくて足元が危ういが、どうにか進んで視界に非常階段が映ったとき……。 「仰木隊長」 後ろから、呼び止める声があって楢崎はギクリと立ち止まった。 恐る恐る振り返ると、外灯の明かりの下、逆光になって顔の見えない男のシルエットが映し出された。 しかし楢崎には分かった。顔が見えなくても、さきほどの声とその男の背格好で、そこに立つ人物が一体誰であるのかを……。 驚愕に眼を見開きながら、名を呼んだ。 「橘……」 男がスッと前に歩み出て、やっと素顔が明らかになる。明かりの元に出た男の顔は、なぜだか少し怒っているようだった。 「高耶さん、どうしてこんな所にいるんですか」 楢崎の目の前で止まった直江は、責めるような口調で尋ねてくる。 けれどそれはこっちの台詞である。 「おまえこそ……」 今頃直江は本物の高耶と自室で逢っているはずではないのか。それがどうしてこんな所に?それとももう逢い終わった後なのか? 「あなたが11時を回っていつまで経っても来ないから、どうしたのかと思って、あなたの部屋に向かおうとした途中で、外にいるのを見つけて追いかけてきたんですよ」 楢崎は眼を瞠った。どういうことだ。高耶は直江の部屋に行かなかったのか?言伝てが届かなかったのか。卯太郎はちゃんと高耶に手紙の内容を伝えてくれなかったのか。 困惑する楢崎に、直江が眉を寄せて尋ねた。 「……忘れていたんですか?」 忘れていない。少なくとも楢崎は忘れてなんかいなかった。 だが……。 「……ごめん」 申し訳無さそうに、頭をさげた。多分高耶が行かなかったのは、上手く言伝てが伝わらなかったからだ。自分がきちんと高耶に伝えることが出来なかったから、こんな事態に至ってしまった。九割方は自分の責任だ。楢崎は心底直江に申し訳ないと思った。 直江は素直に頭を下げる楢崎を見て、顰めていた顔を苦笑に変えた。 「いいですよ、どうにか今日中に間に合いましたし」 「……怒ってないのか」 「ええ、怒ってません」 直江が微笑んだので、楢崎はホッとした。これが原因で二人が仲たがいを起こしてしまったら、楢崎は高耶になんとお詫びしてよいか分からない。 「そうか……」と胸を撫で下ろしていると、直江は腕時計に目線を落として、 「あと30分残ってますね」 とこちらに時計盤を見せてきたので、楢崎は首を傾げた。 「何が?」 「23日ですよ」 そう言って、直江は上着のポケットの中に手を差し入れて、中から何やら四角い物体を取り出した。 「高耶さん、手を出して」 訳が分からず言われるままに両手をおずおずと差し出すと、直江が掴んで何かを乗せる。 そのままゆっくりと手を放すと、楢崎の手の上にリボンの掛かった細長い箱が乗っている。 驚いて、直江を見上げた。 直江の優しい微笑にぶつかる。 「お誕生日、おめでとうございます。高耶さん」 「え……」 楢崎が驚愕に眼を瞠る。 「良かった。今日中に渡せて……」 「今日中って……」 茫然と呟いて、視線を箱に再び落とす。 そうか。 直江の言っていた意味が、ようやく解った。 7月23日。この日は、仰木高耶の誕生日だったのだ……! (そうか。そういうことだったのか……) ようやく納得した。どうして直江が、しつこいほどこの日にこだわっていたのか。 どうして今日中に逢うことに、あれほどこだわっていたのか。 楢崎は手の上の箱をじっと見つめた。……とするとこれは。 「これって……プレゼント?」 「ええ、開けてみてください」 直江に優しく促されて、楢崎は躊躇しながらも、おそるおそるとした手つきでリボンに手を掛ける。 本当はこんなことしてはいけない。けれど彼の気持ちを考えると断ることはできなくて、一抹の罪悪感に駆られながらもスルスルとリボンを解いた。 直江がじっと見つめている。丁寧に包装紙を外していって、中の白い箱の蓋をそっと外す。 中から現れたのは……細長い筒状の望遠鏡のようなものだった。 楢崎は箱から出して手に持ってみた。 ニ三度瞬きする。 なんだろうこれは。不思議な色合いをしている。金属の表面に、エナメル加工が施されて、青や蒼や碧やピンク、オレンジと、様々な色がマーブルのように混ざりあった模様が、あたかも南国のエメラルドグリーンの海を彷彿とさせて美しい。 「なに?これ。望遠鏡?」 「いいえ、カレイドスコープですよ」 「カレイドスコープって……万華鏡っ?これがっ?」 「ええ、ほら。ここから覗いてみてください」 促されて、楢崎は筒の先端の方を覗き込んだ。 そうして次の瞬間。 (うわっ……) あまりの美しさに、言葉を失った。 ゆっくりと移り行く花の様な模様。碧や白のかけらが、大輪の華のように、ステンドグラスのように、雪の結晶のように、そして海の中の珊瑚礁のようにさまざまな模様をつぎつぎと形作っていく。 ぐるぐると筒を回転させるごとにまったく違うパターンの花が咲き乱れ、楢崎は息をするのも忘れて一つの世界に陶然とした心地で見入っていた。 とてつもなく美しい光景だった。ダイヤモンドの輝きなんて足元にも及ばないぐらいに。 「どうですか?」 「死ぬほどキレイ……こんな綺麗な万華鏡、初めて見た……。オレ、ビーズの入った赤い千代紙のしか見たことなかったから……」 「これはカレイドスコープの中でもオイルチェンバースコープという種類のもので、先端のチェンバーという部分にオイルを入れることによって、オブジェクト……つまり鏡に映る物体をなめらかな動きの流れに任せて見られるのだそうですよ」 「ああ、だからこんなにゆっくり動くんだ……」 楢崎は横で直江の話を聞きながら、視線はそのまま万華鏡の展開に没入している。 「タイトルを『ラージ・ビーチ』と言って、海をイメージしているんだそうです。オブジェクトの中にも貝殻を入れて、まるで珊瑚礁の中を泳いでいるような気分になるのだとか」 確かに、視界に映る円形の模様は南国の白い砂浜や海の珊瑚礁のようだ。そうしている間にも、一瞬一瞬があまりにも美しい芸術を織り成していく。 「本当は他にもドライフラワーの入ったものとか、可愛らしいものもたくさんあったのですが、あなたはそれよりこちらの方が好きだろうと思って」 そう言って、直江はやさしく微笑んだ。 楢崎には分からなかったが、高耶の心の世界には、いつでも静かな海の漣が鳴り響いていることを、直江は知っていた。 時に小田原の穏やかな海を。時に越後の波濤の海を。時に足摺の雄大な海を。そして忘れ得ぬあの瀬戸内の静かな波の音を……。 直江は万華鏡を覗く楢崎の横顔を見つめながら、静かに、独り言を呟くように言葉を紡ぎ始めた。 「カレイドスコープは、同じ模様が再び映し出される確率が、二億分の一と言われています。その瞬間瞬間がひどく儚く、形に残らないものだからこそ、万華鏡の織り成す世界はとても美しい。永遠に続くのではなく、全ての一瞬を大切にして、光り輝かせて生きたいと……。あなたと生きる全ての瞬間が、万華鏡のようになればいいと、そう思ってあなたに贈ったんです」 楢崎は万華鏡から眼を離して、こちらを見つめる直江を見返した。 そうして、その瞳に宿るあまりにも優しい光の波に、言葉も忘れて陶然とした。 (なんていう眼だろう……) こんなにも愛に溢れた瞳を、楢崎は生まれて初めて見た。 こんなにも愛に溢れた瞳を、いままで生きてきた中で、一度でも人に向けられたことがあっただろうか。 人が人を想うことは、これほどまでに美しい感情であったのか。さきほど目にした万華鏡の美しさも、今目の前に対峙する直江のそれの前にはかすんで消えてしまうほどに……。 楢崎は、本当の意味で人を愛したことは無かった。 もちろん、女の子と付き合ったことはある。モテない方では無かったし、告白だってしたこともある。 キスもした。セックスもした。 けれど……いま考えればそんなものは、単なる恋愛ごっこ≠フおままごとでしかなかったと、今になってはっきりそう思うのだ。 付き合い始めたのも「独り者はカッコ悪いから」だとか、「ダチに彼女ができたから自分も」だとか本当にくだらない動機ばかりで、本気の想いで恋を始めた記憶が、何一つ無い。 最初は可愛いなとは思っていても、だんだん側にいるのが鬱陶しくなってきて、互いに関心も何もなくなって、気付いた時には自然消滅。飽きたらそれまでハイサヨナラ。 こんなものは恋じゃない、愛なんかじゃない。愛はもっと深くて重くて、そして醜く暗く、儚く繊細で、だからこそ美しい、この世でたったひとつの神聖な領域だ。 楢崎は、仰木高耶と橘義明という二人の人間に出逢って初めて、人が人を想うという行為の本当の価値を、知ることができたような気がする。 「たちば……いや。直、江……」 楢崎が、初めて直江の名を口にした。 直江の鳶色の瞳はどこまでも透明に、こちらをゆるぎなく見据えている。 いま、直江に惜しみないほどの愛のこもった眼差しを注がれて、この上ないほどの幸福を感じていた。 ドクドクと、心臓が再び鐘を打ち鳴らし始める。 外灯のかすかな光が直江の横顔を照らす。楢崎は胸の高まりの切なさに恍惚とした。 (なんていう、幸福……) 泣きたくなるほどの幸せ。言葉には表しきれないほどの幸せ。胸のどこかで感じていた目の前の男に向ける愛しい≠ニいう感情に、楢崎は抗いがたいほどの激しい衝動を以って、全身が支配されていくのを刻々と感じていた。 ─直江…… ─直江……オレの、「命の名」…… ─愛してる…… 直江。直江。直江……。 なおえ…………。 記憶の中の言葉が、溢れてとまらない。怒濤のような激しさをもって押し寄せてくる。 この男をひたすらに想う感情の、あまりの強さに、押し潰されようとしている。 その終わりを知らぬ底なしの止めどない感情に、流されるまま身をゆだねようと、意識を離しかけた。 そのときだ……。 (ちょっと待て) 唐突に、そして急速に思考が冷えた。瞬きをして、ぼやけていた視界がクリアになる。 温度が徐々に下がっていく。我に返って、瞳に力を込めた。 ちょっと待ってくれ……。 (橘を好きなのは、俺≠カゃないだろう?) 目が覚めた脳内でゆっくりと呟いて、手に持つ細長い万華鏡を茫然と見つめた。 直江がくれたカレイドスコープ。直江が高耶の誕生日のために選んだ贈り物。 高耶が持つべきそれが、いま、何故だか楢崎の手の中にある。 筒を持つ手が小刻みに震えた。乾いてカサカサの唇を舐めて、楢崎は瞳に力を込める。 (違う) (俺じゃないじゃないか……) この幸せは、本来高耶が経験するはずのものだったのではないのか……。 これは楢崎の受け取ってはならないものだった。手にしてはならない時間だった。感じてはならない幸福だった。 そう。楢崎がいま感じた幸福の時間のすべては、直江が、高耶のために、高耶に向けて捧げたものであった。 それを受け取るべき対象──高耶を差し置いて、自分がその全てを横取りしてしまったのだ。 楢崎は愕然とした。取り返しのつかないことをしてしまった。いまさら気付いてももう遅い。どうしようもない後悔に襲われて、顔中が真っ青になった。 (これを返せば済むっていう問題じゃない……) たとえ万華鏡は返しても、楢崎が受け取った時間までは返すことができない。 一年にたった一度しか巡ってこない誕生日。その記念すべき日を愛しい人と共に過ごすその時間こそが、何よりも大切な思い出となるはずなのに。 数年のちに高耶が懐かしく思い出すべき22歳の誕生日を、自分がそのすべてを、台無しにしてしまった。 (最低だよ……俺) 直江を想う高耶の心が、あんまり気持ちよくて、いつしか自分が直江に「仰木高耶」として接せられているというその奇怪さに、全く疑問を感じなくなってしまっていた。 自分が仰木高耶として振る舞うことによって、高耶本人が後にどれだけ傷つくことになるのかを、全く考えていなかったのだ……! (この幸せを貰うべきだったのは俺じゃない。俺にその資格はない。その資格があるのは……仰木隊長ただ一人だ) 楢崎は顔を上げた。固く唇を噛みしめている楢崎を見て、直江が困惑したように眉を顰めた。 視線が──交錯する。 「ダメだ……橘……」 え?と、直江が目を瞠る。 「俺、受け取れない!」 叫んで、楢崎は手に持った万華鏡を直江の手に押し返した。 危うく受け取った直江は、突然逃げるように駆け出した楢崎に驚いて、反射的に名を叫ぶ。 「高耶さんッ!」 楢崎は振り返りもせずに走った。闇夜の中を無我夢中で駆け抜けていく。暗くて何度も転びそうになったが、構わず懸命に中庭をひた走り、玄関へ向かって行った。 (まだ間に合う) 必死に足を動かしながら、腕時計を見た。──11時44分。まだ10分以上残っている。 今ならまだ間に合う。まだ23日は終わっていない。高耶を探さなくては。彼をあそこに連れて行かなくては。 (仰木隊長に、誕生日を……橘と一緒に過ごさせてあげるんだっ!) それが楢崎に残された唯一の償いだ。過ぎた時間は取り戻せはしない。だが、終わってしまったわけじゃない。 全てが終わる前に、取り返しがつかなくなってしまう前に、早く。早く──。たとえ間に合わなくたって。 (いいや、間に合わせるんだ!) 心で叫んで、楢崎は建物の壁に沿って角を曲がった。そうして視界が変わった瞬間、前方に佇むものの影に気付いて、咄嗟に走る足を止めた。 館内の窓から漏れる明かりと、外灯の光を浴びて夜闇に照らし出された人物。 楢崎は目を見開いた。驚愕で、思うように声が出ない。 それでも楢崎は、呪縛を断ち切り、数歩進んで目の前に立つその人の名を、叫んだ。 「仰木隊長!」 そこにいた者こそ、楢崎が探し求めていた人、仰木高耶その人だったのである。 「隊長っ……仰木隊長っ」 名を連呼しながら、高耶の腕にすがりついた。 「隊長、すみません!俺、本当にとんでもないことを……!」 取り乱して叫ぶ楢崎の腕を、高耶が無言で握った。目を上げると高耶の、真紅の優しい瞳にぶつかる。 「楢崎」 名を呼ばれた。ギクリとした楢崎を見つめながら高耶はゆっくりと頷いて、 「分かってる」 と少し唇の端を持ち上げて微笑んで見せた。 楢崎は茫然と、目線の高さのまったく同じ高耶の顔を凝視する。 「どうして……俺が楢崎って……」 いまの自分は、高耶とまったく同じ風貌をしているのだ。ドッペルゲンガーのような存在を前にして、高耶はいささかも動じずに、楢崎の正体を暴いて見せた。 「こいつから、話は全部聞いたから」 問いに答えるように、高耶は後ろをクイクイと右手で指し示した。促されて高耶の背後に視線を移し、そこにある物体をみた。 「……!神狐っ?」 今朝方自室の中で見た、剣山の神狐だった。金色の毛並みの神狐が、くてっと地面に這いつくばっている。 随分と疲弊しているようで、纏うオーラが弱々しい。そのうえ何故だか、神狐のものらしき毟り取られたような同色の毛玉が、周りに散乱していた。 「かなわんのぉ〜。みんなバレてしもうたわい」 そのまま力尽きたかのようにぐったりと地面に突っ伏した。 いったい二人の間に何があったのだろう。神狐の無残な状態から察するに、高耶からの凄惨にして猛烈且つ壮絶な責め苦を受けたことは間違い無さそうだが……。 視線を戻して恐る恐る高耶を見た。だが予想に反して高耶は、先ほどと同じく穏やかに微笑んだままだったのである。 落着いた仕草で、ゆっくりと唇を開く。 「今回のことはこのキツネの責任だから、おまえのことは怒ってない。一連のことは不問に伏す」 「……っでも!」 「おまえは不可抗力だったんだから、楢崎。敢えて言うなら直江の責任もあるけどな」 そう言って苦く笑った高耶を見て、楢崎は「違うっ」と首を横に振る。 「橘は悪くない!橘は暗示にかかってたから……!あの人はただ、隊長のことを祝ってあげたかっただけなんだっ!」 叫んでから、ハッとした。 こんなことをしている暇は無い。早く高耶を直江のもとに行かせなくては! 「隊長っ。行ってください、橘が待ってる。早くしないと今日が終わっちまう!」 時計に目を落とした。あと11分しかない。本当に間に合わなくなる。 「分かってる、すぐ行く」 高耶は楢崎の肩をポンと叩いて、楢崎が来た道を進んでいった。 「大丈夫だ。10分もあれば、充分伝わるから」 背中越しに高耶の声を聞いて、楢崎は振り向き様、高耶の後ろ姿に叫びかけた。 「仰木隊長!」 高耶が肩越しに少し振り向く。歩む足は止まらぬまま。 楢崎は息を思い切り吸った。そして心の底から、高耶に向けて叫ぶ。 「ハッピーバースデー、良い誕生日を!」 楢崎のメッセージを受けて、高耶はチラと微笑むと、左手を突き出してグイと親指を立てた。 そのままスッと建物の角を曲がって、それから楢崎の耳に、小走りに駆けていく足音が遠くから届き、やがては夜のしじまに消えていった。 楢崎は天を仰ぎ、昏い雲に閉ざされた夜空を見つめ、じっと静かに佇みながら両目を閉じる。 (カレイドスコープ、仰木隊長……気に入ってくれるといいな……) まぁ、あの人は橘からの贈りモンならなんだって嬉しいんだろうけど、と頭を掻いて、数分後に訪れるだろう、高耶の顔が幸せそうに綻ぶさまを脳裏に想像し、楢崎は嬉しげに微笑んだのであった……。 |