桜花  風に舞う

























   第四話


 ―――直江………どうしておまえの側はこんなに居心地が良いんだろう……。
 おまえといると、全てに対して身構えていた強張りが解け、どこか安心できる様な心地がする。おまえの持っている暖かい気がオレの中に流れ込んできて、包み込まれるような錯覚を覚える。ここでは気を張らなくてもいい、『上杉景虎』である必要はないんだ、そんな無言の声が聞こえる気がして……。
 だからだろうか。そう簡単には人に気を許さないオレが、おまえには自分でも危険だと思うほどに心を許してしまうのは。出会ってからまだ少ししか経っていないのに。
 いや、おかしいのはそれだけじゃない。おまえといると、懐かしさが込み上げてくるんだ。
 郷愁の様な、切ない既思感。
 最初は、おまえの雰囲気が氏照兄に似ているからだと思っていた。
 でも、兄上の気とは違って、おまえの気を感じていると、何だか胸が痛い。直江の気は兄上のように優しいけれど、どこか違う。―――おまえの存在を感じていると、理由(わけ)もなく声を上げて泣きたくなるから。
 自分の中から、今まで感じたことのなかった何かが引きずり出されるみたいだ。おまえと一緒にいる時に感じる、安らげるのに、ふとした瞬間に泣きそうになるこの想いは何だろう。

 おまえのことになると、オレは自分が抑えきれなくなる。おまえもきっとオレの<力>が目当てだと感じていたのに、「上杉の力を手に入れたい、<力>が必要だ、攻めることもあるかもしれない」と、いざおまえの口から聞くと、どうしても許せなかった。怒りが溢れてきて止まらなかった。上杉を欲する奴は、別におまえに限ったことではなかったのに。おまえがそんな奴らと同じかと思うと、裏切られたような気がしたんだ。オレはおまえのこと、何も知らないのに、どうしてこんなこと思っちまうんだろう。
 
 心を許してはいけない。信じてはいけない。
 
 信用なんかしていない。気を許してなんかない。

 今ならば分かる。そうやって、胸の内で何度も何度も繰り返した理由が。
 必死で言い聞かせなければならなかったのは、本当は何よりもそうなって欲しくなかったからだ。直江がそんなことをしませんように、と願っていたからだ。
 本当はそんなことになって欲しくないけれど、それでも直江を信じきることができなくて、願いが叶わなかった時の衝撃を和らげるために必死で言い聞かせていたのだ。
 上杉を守るために、いつも最悪の場合を考えて動いてきたから、こんな風に考える癖がついたのだ、といつか千秋に指摘されたことがあったけど、その通りだ。
 でも、そうせねばならないほど、心の底では直江のことを信じたかったんだ……。


 どうしてだろう。
 おまえの人を犠牲にできない優しさがすごく嬉しいのは。自分を貶めるような言い草が悲しくてしようがないのは。おまえが里見を自分で始末すると言った時、生き残れるか分からないと言った時、オレを襲ったのは眼も眩む様な怒りだった。
 そして、それと同時に怖くてたまらなかった。あの赤い夢が繰り返されるのが。また誰かを失ってしまうのが。オレを逃がすために戦って死んだ氏照兄や氏政兄の様に、おまえまで失ってしまうのかと思うと堪らなかった。

 自分が死というものに弱いことは、オレが一番よく分かってる。氏照兄や氏政兄、そして義父上……。オレはもうこれ以上、近しい誰かの死に耐えられそうにない。千秋やねーさん、上杉の皆……大事な人を失うことを考えるだけで、目の前が真っ暗になって、不安で不安で堪らなくて、もう自分を支えていられなくなりそうなんだ。
 どうして人は、死というものに耐えていけるのだろう。どうしてこんなに辛いことと折り合いをつけて昇華できるんだ? 
 耐えられないのは、オレが弱すぎるだけなんだろうか。
 なぁ、教えてくれよ……直江――……。



             ***

 肌を刺すような凍える冷気は爽やかな春風に溶かされ、柔らかな陽気を放つ太陽は、次第に長く空に留まるようになってゆく。居心地の良い暖かい空気は、時折しとしとと雨を降らすようになっていった。
 高耶はあれからずっと零陵の直江の屋敷に滞在している。直江に協力すると言った時から、高耶は、昼は直江の政務に携わりながら慶州の現状を把握し、夜は遅くまで直江と二人で内政から軍事、外交、貿易に至るまで様々なことを語り合うようになった。

 いつもの様に―――もはや日常となりつつある―――高耶は執務室で直江と資料を覗き込んでいた。
「これ、読むだけでも大変だな」
 と高耶が呆れたようにめくっているのは、慶州の田畑の収穫状況と納める税の量を逐一記載した、とんでもなく分厚い紙の束だ。
「ええ。でも、それを調べてくる役職はもっと大変ですよ」
 慶州全域の田畑の分布を地図に記し、一箇所一箇所に州師に仕える役人を派遣し、現状を調査し、問題があるようならば調査の報告とは違う報告書を作成して直江の元へ届けてくる。言葉にすれば簡単だが、どこへ誰を送るかの采配を振るうだけでもかなりの時間を要する。
 直江の優秀な片腕である色部や八海は、出来る限り多忙な直江の手を煩わせまいと働いて動き回っている。
「なあ、税はいつ払うことになってんだ?」
「月初めに玄州に納めるようになっています。もちろん、向こうから引取りに来てくれるなんて事はありませんから、州ごとに集めて、全てこちらが運ばなければなりませんが」
「へぇ、そうなのか。大変だな。上杉は領土がそんなに広くねぇから、州ごととかって分ける必要ないからな」
 燕と泰、魯の三国の国境付近に位置する越後に住む人間は、ほとんどが<力>を有する司であり、その面積は一国の約五分の一、一州の広さにも満たない。その中で彼らは自給自足の生活を営んでいる。
「月初めっつったらあと六日か……。? ……ちょっと待てよ、今日何日だ?」
 急に焦った声を出した高耶に、直江は不思議そうに「二十四日ですよ」と答えた。
「にじゅうよっか……?……二十四日だと……ッ!マズイ、一月も過ぎてんじゃねーか。あいつに殴られるッ」
 高耶が血相を変えて立ち上がり、座っていた椅子が後ろへガタン、と倒れる。普段は実年齢よりもずっと落ち着きのある高耶の突然のうろたえように、直江は驚いてどうしたのか、と口を開きかける。と、そこへ扉の外から人の声が聞こえてきた。
「少々お待ち下さい。今取り次ぎますので。あっ、お待ち下さいっ」
「必要ねーよそんなモン。いるンだろ?」
 珍しい八海の慌てた声と乱暴な男の声。複数の足音がこちらに近づいてくる。
 バンッと大きな音を立てて二人のいる執務室の扉が開けられた。
「ゲッ、千秋……」
 高耶がマズイ、という顔をする。
 靴音も荒く入って来たのは、二十くらいの若い男だった。長めの髪を後ろで一つに束ね、派手な色彩の衣を身に纏い、眼鏡をかけている男は眼鏡越しにも端正な顔をしているのが分かる。長身のその男は、真っ直ぐに固まっている高耶の所へ大股につかつかと歩み寄り、胸倉を掴みみ上げ、
「おめーは日にちも数えられねーのかよ、このバカ虎!」
怒鳴りつけて容赦なく高耶の頭を殴った。
 高耶が「ッてー」と頭を抱える。そこへ、
「景虎ぁ、無事だったのね」
 入り口でオロオロしている八海の後ろから、ゆるく波打つ髪をたらした華やかな美人の女が部屋に飛び込んできた。裳ではなく細身の男用の衣を纏っていても見栄え良く見える彼女は、美しい装飾が施された裳を着れば並みの女では太刀打ちできないだろうと思われるほどの美女だった。先に入ってきた男とほぼ同じほどの年齢である女は、飛び込んで来た勢いのまま、高耶に抱きついた。
「ね、ねーさん、苦しい」
 力一杯抱きしめられている高耶が、美女に抱きしめられているとは思えない色気もへったくれもない声音で助けを求める。
「久しぶりねぇ、元気だった?」
 嬉しいが溢れ出るような笑顔の女は、高耶の訴えに耳を貸さずにますます腕に力を込める。突然の登場に驚いていた直江が見かねて口を挟む。
「―――私は慶州州師・直江信綱と申します。あなた方は上杉ですか?」
 外交向けの愛想の良い声で名乗った直江に、彼女は、丁寧な言葉は歯が浮きそうだから使わないで、と前置きした後、
「あたしの名前は門脇綾子。原名は柿崎晴家。上杉の風司よ」
 苦しさにもがく高耶をやはり力一杯抱きしめたまま綾子が答える。
 <力>を司る司としての名、原名。この原名は、人々の間に広く知られてしまうため、もう一つの名、普通の<力>を持たない人々の中で暮らすために使う現名が必要となってくる。そのため、上杉や北条に属する者も属さない者も、二種類の名前を持っている。
 ちなみに直江も司であるが、<龍輝刀>を持たない時は全く普通の人間と変わらないため、さして現名は必要ではないが、直江は橘家に養子入りした時につけられた「橘義明」という名があるため、便宜上それを現名としている。千秋と綾子が上杉の人間であるため、「直江」を名乗ったが、普段は「橘義明」で通している。
「それでこっちは千秋修平。原名は安田長秀。雷司なの」
 綾子がようやく高耶から離れ、眼鏡の男を指差す。
「景虎、今何日だ?」
 ようやく綾子から開放された高耶に、いっそ優しそうな笑みさえ浮かべ、千秋はワザとらしく上体を折り、自分よりもほんの少し身長低い高耶の顔を覗き込む。
「………二十四日」
「俺は一日までに戻って来いって言わなかったか?」
「………言った」
 消え入りそうな声で答える高耶に、千秋はほとほと呆れ果てたというように大きな溜息をついてみせる。
「おめーは日付も数えられないのかよ。バカだバカだとは思ってたけど、ここまでとはな……そーか、そーか。分かった。日付も数えられないバカ虎ちゃんには次からはもっと丁寧に言ってやる。あのお空にある丸く光ってるのが太陽で、あれが一回昇ったら一日で、七回昇ったら一週間。戻ってくるのは四週間以内で、分からなくなったら人に聞けよってな」
 高耶は屈辱に拳を握り締めているが、忘れていたのは事実なので言い返せない。それに言い訳を言っても、この男はそれを数倍にして返してくるのだ。
「その辺にしときなさいよ、長秀」
 果てしなく続きそうな千秋の嫌味を遮ったのは綾子だ。綾子はくるりと高耶の方を振り返り、ビシッと指を突きつけた。
「景虎、あんたもあんたよ。長秀だって心配してたのよ。各地の様子をみてくるって言って出て行ったのは良いけど、目的地は治安が良いとは言えない楚だし、連絡はないし。あんたに限ってないとは思うけど、誰かに捕まったのかしらとか心配になるじゃない。遅くなるなら遅くなるって連絡してよね」
 俺は心配なんかしてねーよ、とぼやく千秋を綾子はきれいに無視した。
「悪かった」
「おめーが素直だと気持ち悪ぃな」
 素直に謝る高耶に千秋は、ちゃちゃを入れ、綾子に「長秀!」と睨まれた。
「でもおまえらが来れるって事は、異変はないんだろ?」
 綾子と千秋は若いが、その能力の高さから高耶の補佐をしている。高耶――景虎がいない時は代わりに指示を出すことも多い。
「ぜーんぜん。平和そのものって感じだ。最近は魯の武田信玄も動きはないしな。んで、おまえはどうしたんだ?情勢を崩したくないなんて言ってる奴が、どうして州師の所にいるんだ?」
 最後のくだりで眼差しを鋭くした千秋の問いには答えず、
「……千秋、おまえ玄州を通ったか?」
 思い詰めた様な顔の高耶に千秋は問いの答えを言及することなく、真剣な顔でああ、と答えた。
「酷いモンだったな。あそこまで酷い荒廃は今までお目にかかったことがねぇ」
「オレもだ。疫病が流行ったわけでもないのにあれだけの荒廃は酷すぎる。そしてここにいる直江は、あの土地を、街をどうにかしたいと思ってる」
 高耶が直江を示し、千秋と綾子はそろってまじまじと直江を見つめた。
「オレも……それに協力したいと思ったんだ。もちろん上杉の力は貸せない。けどオレの力なら、仰木高耶としての力なら貸すことができる」
 直江から視線を外し、千秋は険しい顔で高耶を振り返った。
「仰木高耶として力を貸しても、周囲はそう取らねえかもしれないぞ。おまえは上杉景虎だ。おまえが動けば、上杉はおろか、この国にまで影響を与えるかもしれない。それでもやる気なのか、景虎?」
 目の前の人々を助けるために、未来にもっと多くの人間が争いに巻き込まれてもいいのか、と暗に問いかける千秋に高耶は迷うことなく答えた。
「ああ。オレは、愚かだと言われても、未来の不確かな命の危険より、今目の前にある死にさらされている人を助けたい」
 でも、上杉の総大将として、こんなに目先のことに捕らわれてちゃいけないんだろうな、と高耶は顔を曇らせる。
 千秋はしばしの間高耶の瞳を見つめていたが、その瞳から本気を読み取ると、はぁ、と息を吐いて側にあった長椅子にどさりと身体を投げ出した。
「分かったよ。こんな目ぇしてる時のおまえには何言ったって無駄だ。好きにしろよ」
 どうやら納得したらしい千秋の方を見つめる高耶の肩を、綾子が両手でガシっと?んで向き直らせる。
「水臭いわよ景虎。あたしたちも手伝うわよ」
 千秋は何も言っていないのに、勝手に「あたしたち」と言う綾子に高耶が苦笑する。
「嬉しいけど、ねーさん達は上杉を頼む。いつ上杉を狙う奴が現れるかも知れねーから」
「分かったわ、上杉のことはまかせといて。でも必要な時は呼んでね、いつでも来るから」
 綾子が頼もしく言い切る後ろで、長椅子に身を預けた千秋は硬い顔をしている。
 その後、直江も交えて色々話し合い、一旦上杉に戻るという二人が退室しようとした時、それまで押し黙っていた千秋が高耶の腕を引いた。
「相手が里見でも、我を忘れて突っ走るんじゃねーぞ」
 途端に高耶の表情が強張る。ひとしきり何かを堪えるように息をついた後、ようやく一言、「分かってる」と低い声で返した。
 それを見届けて千秋は部屋を出て行った。千秋が出て行った後も、高耶の顔の強張りが解けることはなく、そんな高耶に何か触れることができないものを感じ、直江は声をかけることもできず、重過ぎるほどの何かを背負っているその細い背を見つめることしかできなかった。




             ***

 吹き抜ける風が春の色を帯びてきた回廊を、男がゆっくりと歩いていた。年の頃三十代半ばだろうか。温和な顔立ちをしていて、どこか人好きのする穏やかな空気を纏っている。
橘家家臣・色部勝長である。色部は祖父の代から仕えている譜代の家臣だ。派手さはないが堅実で、同僚や直江からの信頼も厚い。今日も玄州に納める税の確認とそれらを運ぶ運脚夫の手配をしていて、下弦の月が昇り始める頃ようやく終わり、疲れた身体で自室に戻る所なのだ。
(鮎川はまじめにやっているだろうか)
 慶州でもここ零陵の次、二番目に大きい蒼梧という街の街長をしている鮎川は、直江の州師就任の宴が行われた明くる朝帰っていった。帰るは帰ったのだが、その二週間後、例の高耶が直江に切りかかった日に用事ができてこの館を訪れていた。思いの外用件を片づけるのに手間取って日が暮れてしまった鮎川は、運悪く(?)ここにいたのだ。
 その鮎川は、翌日蒼梧へ帰る直前まで直江に説教を食らわしていた。曰く、「おまえは州師としての自覚が足りなさ過ぎる」
 その時の様子を思い出し、色部の口の端に笑みが浮かぶ。
 州師になったばかりで上杉の総大将と騒動を起こした直江も直江であったが。
 あの夜、ようやく用件を片づけた鮎川と色部が軽く酒を飲みながら八海と話し込んでいた時のことだ。普段は動揺なんてかわいい真似はしない直江が、文字通り血相変えて飛び込んできた。開口一番に「高耶さんが倒れた!」と叫び、鮎川が「高耶って誰だ?」と訊いても答えやしなくて、類を見ないほど慌てている直江に三人は無理矢理客室まで引っ張っていかれた。件の人騒がせな州師は、高耶を診た八海が「意識を失っているだけです」と言うまで落ち着きを取り戻さなかった。
 高耶を寝台に寝かしてようやく人心地ついた頃、色部が落ち着いた直江を見ると、着ているのが黒の袍であったこともあって気づかなかったが、直江は肩からダラダラ血を流していて、また大騒ぎ。「おまえは何をやってたんだーッ!」と鮎川の雷が落ち、夜を明かしての説教が開始されたのだった。
 帰る時も最後まで渋っていて、色部に向かってくれぐれも直江を頼む、と端迷惑な友人を持った鮎川は強く言い含めてようやく帰っていったのだ。
(あの分では仕事も手についていないだろうな。本当に心配性な奴だ)
 苦笑していた色部は、薄暗い回廊の先に人影があるのに気がついた。この先には色部の自室しかないのだから、柱に寄りかかっているその人物は色部を待っていたのだろう。歩み寄ると色部に気づき、伏せていた顔を上げた。ほの暗い明かりの元で、人目を惹く整った顔立ちがぼんやりと照らし出されている。
 高耶だった。
「勝長殿、あなたに訊きたいことがある」
 

* **

 その夜、直江が一人で執務室で所用の書類を片付けていると、コンコン、と控えめに窓を叩く音がした。明るい室内からは窓ガラスが鏡面状になり、外が見えなかった。警戒しながら窓を開けると、そこにいたのは帰ったはずの千秋だった。
「よぉ。ちょっと気になることがあって、途中で戻ってきちまった」
「晴家は?」
「あいつは先に帰らせた」
 よっ、と窓枠に手を掛け、千秋は軽々と室内に着地した。
「景虎は……いねぇ見てーだな」
 キョロキョロと千秋は室内を見回した。
「ああ、もう部屋に帰った。彼に用なら、東館だが?」
「いんや。用があるのはおまえにだ。大将がいねぇってんならちょうどいい」
「俺に?高耶さんじゃなくてか」
「そ。おまえに」
 千秋は昼間座った長椅子に再び腰を下ろし、ちょいちょいと直江を手招きし、前に座るよう呼んだ。
「おまえ、どうしてあいつを手元に留めたんだ?」
 直江が腰を下ろすの同時に、千秋が口を開いた。
「どうして?気に入った人間を引き止めるのに理由が必要か?」
 不思議そうに軽く首を傾げる直江に、気に入った人間ね、と千秋は皮肉そうに唇を歪める。
「それは司としての「上杉景虎」のことか?それとも」
 「仰木高耶」としてか、と千秋はどんな些細なことも見逃すまい、と直江をじっと見つめる。
「司だからじゃない。上杉の総大将だからでもない。あの人だからだ」
 そう言い切る言葉は、州師としてではない、「直江信綱」としての言葉だった。
「……俺としては、上杉の総大将だからって理由なら嬉しかったんだけどな」
 そうすればおまえをぶっ飛ばして、あいつを無理にでも連れ帰ることができたのに。と千秋はぼやいてみせる。
「でもそうと分かったからには、俺も「安田長秀」としてじゃなく、「千秋修平」として話させてもらう」
 千秋は少し両足を開き、背を丸めて腿の上に肘をついて両手の手指を絡める。そうして下から射抜くように鋭く直江を見上げ、押し殺した低い声で告げる。
「あいつに―――仰木高耶に関わるな」
 直江は背もたれにもたれ、ゆっくりと腕を組む。
「どういうことだ」
 心なしか、問い返す直江の声に苛立ちが混じる。
「そのまんまの意味さ。仰木高耶に近づくな」
「―――彼を、越後に帰せ、ということか?」
 慎重に言葉を選んだ直江の問に、千秋は無言で首を左右に振った。そうじゃねぇ、と。
「あいつの心を乱すなってことだ。あいつは、外見は落ち着いて見えるけど、中身は誰よりも不安定でヤバイもん抱えてんだ。下手に刺激したら―――死ぬぞ」
 千秋は上目遣いに直江を睨みつけた。
「死ぬ?」
 脅しにしても物騒な言葉だ。関わっただけで死ぬなんて。
「そうだ。おまえも司なら、あいつが持ってる<力>がどれだけ強いか、分かるだろう?」
 ああ、と直江は頷く。<龍輝刀>を持った時に感じた高耶の<力>は、今まで見たこともないほどのものだった。平素から彼の周囲を赤い気炎が輪郭を描くように取り巻いていたが、それが殺気を込めた途端、一気に燃え上がり、呑まれるような心地がしたのだ。
「でも、あいつのホントの<力>はあんなもんじゃない。あいつが額にしてるサークレット、見たか?あれは謙信公が自身の<力>の全てを注ぎ込んで創った物だ。あいつの<力>を封じるためだけにな」
「何、だと?」
 直江は目を見開いた。上杉謙信は、強大な<力>の持ち主で、軍神とまで謳われた異能者だ。光の力を司る光司で、彼の人にできぬことはないと湛えられたほどの人だ。直江も会ったことがある。身体から溢れるような白いオーラを纏った、清浄という言葉が相応しい人だった。
 その人が、高耶の<力>を封じるために全ての<力>を注ぎ込んだ?
「けど、結果は見ての通り。謙信公でさえ、あいつの力を完全に封じることはできなかった。謙信公は、あのサークレットに<力>を注ぎ込んだ上、生命まで削っちまった。景虎は知らねぇけどな、謙信公が急死しちまったのは、それも原因の一つだったんだ」
 上杉謙信は三年前、四十九で亡くなり、その後を継いだのが景虎だ。
 あのサークレットのおかげでマシになったものの、<力>が不安定な景虎よりも、長秀を総大将につけようとする動きもあったという。長秀は断固として拒み、景虎は実力でそのような動きをねじ伏せ、今では全員が彼を総大将と認めている、と千秋は語った。
「あいつは必要とされてる。上杉にとって、もう不可欠な人間だ。けど、おまえがあいつに関わることに反対なのは、上杉の総大将だからじゃない」
 千秋は身を乗り出し、
「謙信公は自分の命を削ってまで、あいつが幸せになることを望んだんだ。あいつは、今まで懸命に辛いことや悲しいことを乗り越えてきた。見てて痛々しいくらいにな。晴家も俺もみんな、あいつに幸せになってもらいたいんだ」
 飄々としたはぐらかすような口調ではない、真摯な口調だった。
 だから、と千秋は感情的になった自分を戒めるように息を継ぎ、
「あいつを側に置いておきたいっていうおまえのエゴだけで、あいつを巻き込むのは止めてくれ」
 頼む、と千秋は頭を下げた。
 直江は目を瞠った。自尊心が高そうな千秋が、自分に頭を下げるとは思いもよらなかったのだ。
 頭を上げてくれ、と直江が千秋の肩に伸ばした腕を、千秋はがっと?み、
「あいつはこの国に関わっちゃいけないんだ。この国はあいつにとっては鬼門だ、<力>も不安定になる。越後に帰さなくてもいいから、ここには引き止めないでくれ」
 この国が、高耶にとって鬼門? どういうことだ。
 答えの分からない疑問に直江が頭を悩ませていると、その疑問に答えないまま、伝えたいことは全て伝えた、と言うように千秋は顔を上げて立ち上がり、窓枠へ足を掛けた。
「おまえが本当に景虎を欲しいなら、越後に来い、直江。おまえには資格がある」
「越後に?」
「おまえも司だ。今は少しでも強い<力>が欲しい時だからな。皆歓迎する」
 直江は、答えられなかった。
 長秀もそれは予想していたようだった。そして、答えられない理由も分かっていたようだ。
「俺がここへ来たこと、景虎には言うなよ」
 そう言い残して、千秋は去った。

 広い部屋に、静寂が満ちる。

 直江は千秋が出て行った、開け放された窓縁へ寄りかかった。

 ―――おまえが本当に景虎を欲しいなら、越後に来い、直江。

 千秋も、直江がこの国を立て直そうとしていることは知っている。それでもこう言ったのは、州師よりも彼を選ぶのなら、というのを暗に含んでいるのだろう。州師の椅子よりも、国の傾きよりも景虎を選べるか、と。それほどでなければくれてやらない、と直江を試しているのだ。
(今はまだ、選べない……でも、)
 変化の予感。
 次第に高耶に心惹かれていく自分が分かる。一緒にいればいるほど、自分の心の中で彼の占める比重が大きくなってゆく。
(いつか……俺は国よりも彼を選ぶのだろうか)
 直江は乱れかかった前髪をかき上げる。
 今はまだ、分からない……。


       ***

「茶の一つも出せんですまんな」
 高耶を自室に招き入れた色部は、そう言って椅子を勧めた。高耶は一瞬躊躇ってから腰掛けた。
「いえ……」
 いつもははっきりと淀みなく喋る高耶が、珍しく歯切れの悪い口調だ。
「それで、何を訊きたいんだね」
 高耶の正面に座った色部が、落ち着いた声で促す。その言葉に、高耶は眼に力を込めた。
「十年前のことだ。譜代の家臣だという、あなたなら知っているはずだ」
「十年前、と言うと?」
「楚王・里見義頼が北条を攻め滅ぼした時のことを」
 ふ、と色部は口を閉ざした。しばし高耶の顔を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「そのことに関しては私はほとんど知らない。そんなはずはない、と思うかもしれんが本当なのだ。あの北条攻めをしたのは、山の北の玄州と洛州だけだった。山のこちら側のここ慶州と隣の延州には、全く徴兵の触れは回らなかったんだ」
「嘘だ。北条を攻めるのにたった二州の兵で攻めるわけがないだろう」
 そうだ、北条や上杉を攻めるには一国で攻めても勝てないと言われていた。なのに里見はそれをして見せた。どれほどの兵が投入されたかははっきりとは分からないが、かなりの兵力だったことは確かだ。けれど、
(いや、待てよ)
と思い直す。あの時北条を攻めたのは、たった二州で集められるような数の兵ではなかったはずだ。とっさに否定はしたが、色部が嘘をついているようには見えない。という事はつまり、
(協力者がいたのか……)
「里見が国外の者と協力した、と言うことはないだろうか」
 高耶の言葉に、色部はうーむ、と唸る。
「考えられん。当時韓の伊達は最上が謀反を起こし、その鎮圧に手間取っていたし、斉の毛利は燕の南下に備えていてそんな余裕はなかったはずだ。それに、周囲のどこの国にもそんな動きがあったとは聞いたことがない」 
 ならばあの時の兵は全て玄・洛州の兵だったというのだろうか。義頼は気の小さい男らしいが、そんな男が果たしてこの様な真似をするだろうか。あの時<力>が封じられていなかったら、ああも易々と滅びるはずはなかった。
(<吸力結界>さえなければ……でもあんな高度な<力>を使える人間が里見にいたんだろうか?)
 考えれば考えるほど不審さが際立ってくる。
「色部さん、この国には<力>を使える人間はいるだろうか。高度な技が使えるくらいに強い<力>を持った司は」
 色部は顎に手を当てて思い出そうとしている。
「直江の他に、わずかばかりなら使える人間は知っているが、高度な技は使えんだろうな」
(直江?)
 いや、あの男は違う、と直感的に思う。無為に人の命を奪うことができる奴じゃない。それに、自分の住んでいた街を里見に滅ぼされた直江が、北条を攻める里見に力を貸すはずがない。
「北条が滅んでから後の調べでは、北条当主の館のある小田原一帯から<吸力結界>の張られた痕が発見された。<吸力結界>なんて、上杉や北条でも使える人間は皆無に等しい。存在すら知らない者も多いのに」
「<吸力結界>とは何だ?」
 聞いたこともない言葉に、色部は首を傾げた。
「特別な力を秘めた石等を使って結界を張り、内側にいる者の<力>を封じてしまうものだ。中ではどんな<力>も使えない、外からしか破れない結界のことだ」
 高耶の吐き捨てるような説明に、色部は目を見開いた。
「そんなものが……。成る程、だからあれほど容易く滅びてしまったのか」
 高耶の表情に苦さが混じる。色部はそれに気づかない様子で、
「だが、そんな<力>が使える者が楚にいるなど聞いたこともないぞ」
「ああ。だから協力者がいるんじゃないかと思ったんだ。兵の数もやたら多かったしな」
 その言葉に、色部は違和感を感じた。
「まるで実際に見てきた様な口振りだな」
 高耶の顔が強張ったのを、今度は色部も見逃さなかった。
「あの場に、いたのか?」
「…………」
 高耶は、追及する色部の視線から逃れるように立ち上がった。ギクシャクとした硬い足取りで窓辺に行く。背に感じる痛いほどの視線。
 目を閉じると、あの時の光景がまざまざと浮かんでくる。赤い炎の映像が意識を燃やし尽くしていく。それから身を守るように高耶は腕を抱いた。
「あの時の炎と、流れた血と、赤い鎧の兵は、忘れようと思っても忘れられない……」
 掠れた声で、高耶は呟いた。
 同時にした、ガタン、という音に振り返ると、色部が驚愕を顔に貼り付けて立ち上がっていた。
「赤い、鎧だと……?」
 色部は口を開きかけてやめ、しばしの逡巡の後ようやく呟いた。
「鎧の色は、国ごとでほぼ決まっていて、赤い鎧は、楚では使われていない。楚で使っているのは黒い物だ。赤い物を使っているのは……」
 色部が呆然と口にした言葉は、高耶をも驚愕させた。

――――赤い鎧を使っているのは、燕だ――……。





更新 平成拾伍年 捌月廿参日



大変お久し振りの「桜花 風に舞う」を戴きました!
続きが読めて嬉しいです〜。
それにしても、今回も再び直江の怪我のエピソードが。
いや〜、流石は直江と褒めていいのか、「おまえ馬鹿だろう」と貶して良いのか、
直江妄信ファンの納多にも正直分かりませぬ!(笑)
あんなダラダラ流しっぱで、フツーの人だったら確実に死んでるのでは……。
う〜む。司とは恐ろしい人種ですな。(←いやこの場合恐ろしいのはN )
千秋と綾子ねーさんも出てきました。
ところで眼鏡があるんですね、千秋。上杉の生み出した道具なんでしょうか?
男装のねーさんもカッコよさそう〜v
是非とも鎖分銅で風を巻き起こしながら闘ってもらいたいです(←違うだろ)。
にしても<吸力結界>だなんて恐ろしげな単語が登場致しましたね。
ということは、燕は……(うぐぐぐっ)。
後日すぐに5話アップ致しますので。少々の間お待ち下さい〜。


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