1.

 霧と暗雲と死者が立ちこめる裏四国。
 秋も既に深く、例年であれば赤く色づいた木々の葉に覆われるはずの剣山も、呪法の作用による異常気象のせいで、今年は観光客を賑わすような美しい紅葉を望めそうに無い。

 それはともかくとして、ここは例によって例の如く、赤鯨衆総本部・浦戸アジト。

 「黒き神官」「隊内一冷徹な男」との異名を持つ、諜報班監視奉行橘義明は、今日も日常通り午前六時に起床および身支度を済ませて、これまた日常通り朝食を摂るべくアジトの食堂へ続く廊下を歩いていた。
 日が昇って間もない窓の外の風景は薄暗く、厚い雲に遮られて直射日光の射さないこの地は、10月の気候にしてはまるで真冬でも来たかと思うほどにうそ寒い。
廊下ですれ違う隊士たちは、暖房設備の整わない館内で皆一様に背をちぢ込ませながら歩いていたが、この男・直江は、四百年前の出自が日本一の降雪地帯であることが関係するのかしないのか、この程度の寒さは問題にもならないとでも言うかのように涼しげな顔(?)で閑散とした廊下を歩み進んでいる。
 ちょうど横を通り抜けた二人の隊士が、「今日は冷えるな」と声を掛け合いながら必死に手の平を擦り合わせていた。

(だらしのない奴らだな)

 直江は思う。ここ四国の連中はあまり寒さ慣れしていないのだろうか。ちょっと寒波が来た程度でこう「寒い寒い」と竦んでいては、この先が思いやられるではないか。
 いつもはあれだけ暑苦しい熱気を振りまいているのだから、その調子で真冬の雪も溶かしてみたらどうだ。
 そんな風に心内で痛烈な皮肉を吐く。普段氷のように端整で無表情な横顔は、今日に限って不快気な色がありありと刻まれていた。
 この所高耶に(個人的に)会えずにいた直江は、ひどく不機嫌なのである。
 ここ数日のこと立て込んだ調査に追われて、多少本末転倒だとは思いながらも、高耶とは離れ離れの生活を送っていたのだ。しかし昨日になってやっと調査の目処が立ち、いい加減我慢の限界が来ていた彼は一も二も無く高耶が詰めるここ浦戸に駆けつけてきたのだったが、昨晩は何やかやと各人の妨害を受けて、とうとう高耶と逢うこと叶わなかったのである。
 会議で顔を合わせたことは合わせたが、高耶も久しぶりに見る自分の顔を見上げて、少し寂しそうに苦笑していた。

 まあ、そんな深遠な理由もあって、直江はまるで八つ当たりでもするかのように、あくまで外には出さずに心中で周囲に悪態をつきまくっていた。

 と、その時だ。

 ドンッと己の身体に何かがぶつかって、直江は思わずよろめいた。廊下の角を曲がった瞬間に、前方の人物と鉢合わせてしまったのだ。
 その人物は小走りに駈けて来た反動で後ろに吹っ飛ばされて、「うわっ」という声と共に軽く尻餅をついてしまう。
 それもそのはず、ぶつかった人物は細身の女性だった。女っ気の無い赤鯨衆にしては珍しいことだ。白鮫の一員だろうか。
 生来のフェミニストであるだけでなく、こちらも前方不注意の落ち度があったので、直江は慌ててその女性に手を差し伸べた。

「大丈夫か?」

 直江の声に答えるように顔を仰のかせて、肩の線を越えた長い黒髪の向こうから、女性の顔が明らかになった。

 直江は一瞬、ドキリとした。
 その女性が、そう、一言で言えばとても美人だったからだ。
 キリリとした眉に、少しつり気味の切れ長の目。人形のようなと言うよりはややアクの強い顔立ちで、ほどよく白い肌と癖の無い漆黒の長髪とのコントラストが美しい。
 そして何より、一瞬交錯した女性の黒い瞳が、キラリと輝く吸い込まれるような光を宿していた。

 直江は声も無く見蕩れていた。胸の鼓動が通常より格段に早い。まるで初恋に胸を高鳴らせる少年のような心地で、思わず目の前の女性をまじまじと凝視していた。
 なんて美しい女性だろうかと、惚れ惚れと心臓の疼きを噛みしている直江であったが、一方のその女性は一瞬後、直江の顔を見るなり驚いたように目を瞠った。

「げ……っ」

 そう短い声を上げて嫌そうに眉を歪めると、女性はフイッとあからさまに顔を横に逸らした。その様子を見てショックを受けたのは直江である。
 自慢じゃないが自分は、少なくとも初対面の、しかも女性に顔を見られるなり眉を顰められるような顔立ちはしていないはずだ。むしろ大概はその正反対で、ウットリとした熱い目線で見蕩れられるのがほとんどなのである。……あたかも今の自分のように。

「どうかしましたか」

 直江は屈み込んで、女性の顔を覗き込むようにして言った。
 このままでは自分の男としての矜持に傷が付く。……いや、そんなことよりも、こんなに魅力的な女性に自分が嫌われてしまっているのかと思うと、堪らない気持ちになって、直江は名誉挽回とばかりに自分の中の一番イイ声でその女性に優しく話しかけた。

「どこか具合でも悪いんですか?」

 しかしそんな直江の苦労も虚しく、女性は依然としてつれない態度で顔を逸らしたまま、決して直江と視線を合わせようとはしない。

「いや何でもない。気にしないでくれ。すまなかったな」

 女性は俯いたままそう早口に捲くし立てると、これ以上自分などとは話もしていたくないと言わんばかりに勢いよく立ち上がった。視線は最後まで逸らし続けたまま。
 そして女性が会釈をして自分の横を通り抜けようとした時、

「待ってください!」

 思わず叫んで女性の腕を掴んでしまった。女性はギョッとして、今度こそ直江の顔を振り返り見る。

「な、何す……」

 慌てて直江の手を振り解こうとしたが、直江は放すものかと女性の腕を握りしめた。
 もはやこの時、直江は自分が何をしているのか正直よく解っていなかった。つまるところ思考も何もかも脱ぎ捨てて、本能のままに動いていたのである。
 したがって次に出てきた言葉も、正気のこの男であったら考えられないような代物だった。

「名前を教えていただけませんか」

 一瞬、両者の間に静寂が訪れる。

「……はぁ?」

 女性がよく通るアルトの声を微妙に歪ませた。何を言われているのかよく把握できなかったらしい。

「ですから、あなたのお名前を教えていただきたいんです」

 直江が真剣な声音で言い募る。
 直江の瞳を見つめながら女性は、言われた言葉を唇で反芻し、よく咀嚼して、数秒後にやっと意味を掴んだらしい。
 そうしてみるみるうちに女性が顔を赤らめていく。
 直江は一瞬、可愛らしい人だなと微笑ましい気持ちで女性を見下ろしたが、すぐにそれは誤りであることを察した。それは決して、直江の台詞に対する羞恥とか恥じらいとかそういった種類のものではなく、明らかに憤怒≠表す表情だったのだ。
 女性は眦をギリッと吊り上げると、苛烈な瞳で直江を真っ直ぐに射抜く。
 その激しい閃光に驚いた直江の胸倉を、いきなり女性が掴みあげ、驚く間もなく一瞬後、バシーンッという小気味良い音を立てて直江の頬に張り手が食らわされていた。

「え……っ」

 ジンジンと痛む頬を押さえることもせず、声も無く呆然としている直江の胸を女性がもう一度掴んだ。前後に強く揺すりながら、怒髪天をつくかのごとき激昂のオーラを撒き散らして、憎々しげに直江を睨みつけながら激しく怒鳴りつける。

「てめぇ、オレという者がありながら女ナンパするとはどういう了見だあぁぁ──ッ!」

 叫ばれた言葉を、直江は理解するのに数秒を要した。
 そして理解した途端、直江の鳶色の瞳がはちきれんばかりに大きく見開かれる。
 乾いて、掠れた声で呟いた。

「たか、や……さん?」

 その名が発された瞬間、女性は激昂を納めて、しまったぁとばかりに口元をバッと抑えて顔を青くした。

「高耶さん……っ、本当に高耶さんなんですかっ!?」

 直江が女性の両肩を掴む。驚愕のあまり気が動転している。

「ち、ちがう……っ」
「いや間違いない。あなたは高耶さんだ!……どうして、どうしてそんな、女の子なんかになっているんですかッ!?」

 今度は直江が女性の肩を揺らして叫んだ。
 何と言うことだろう。何故今まで気づかずにいたのか、この女性は明らかに高耶ではないか。霊査してみればすぐ分かる。いや、霊査なんかしなくてもどう見たって彼ではないか!

「高耶さん!」

 直江の叫びにビクリと身体を揺らして、女性は黒目がちの瞳をニ、三回瞬かせると、一度大きな溜息をついて、そうして諦めたように直江の両眼を上目遣いに見つめた。
 ひたと向けられる二つのきらめく宝玉。

「直、江……」

 もはや否定しても無駄だと察したのか、女性……高耶は力なく、キーの高い女らしい声で直江の名を呟いた。
 直江は思わず両手に力を込めた。掴む両の肩が、ひどく細くて折れてしまいそうだった。

「高耶さん……」

 見下ろす高耶の頭の位置が、どう考えたっていつもより低い。そしてやわらかな肌と、丸みのある体のライン。
 しかしこの造作は間違いなく高耶のものだった。奥二重瞼の切れ長の瞳も、スッと通った鼻梁も、少し肉厚めの唇も、昨日までの高耶の特徴そのままに女性の顔を形作っていた。まるで双子の妹か何かのようだ。
 しかしこの瞳の輝きは、間違いなく景虎のものだ。勢いのある話し方も、声の出し方も。何もかもそのままだ……性別が異なるということだけで。
 直江は思わず天を仰ぎ、信じられないとばかりに首を振った。

 昨日まで成人男子だったはずの仰木高耶は、一夜のうちに、うら若く美しい女性に変身してしまっていたのだ……。



                   ***



 時は一時間ほど遡る。
 仰木高耶はその日、いつもより早い時刻に目を覚ました。
 時計を見れば、未だ朝の5時にも満たない。カーテン越しの窓の外はまだ薄暗く、いつもはガヤガヤと五月蝿いここ浦戸アジトも、室外からは何の物音もせずに、不気味なぐらいシンと静まり返っていた。

 まだ起きるには早い時間だったが、何となくシャワーを浴びたいような心地に襲われて、高耶はベッドから足を下ろすとフラフラとした足取りで隣室へと向かう。
 別段寝不足ということでもないのだが、なぜだか身体が思うように動かない。足元がグラグラする。おまけに身体のそこここがだるい。そのせいか頭も何かスッキリとしない。
 高耶はあまり自覚していなかったが、実は相当に寝ぼけていた。それこそ己の身体構造の激変に、すぐに気付くことができなかったほどに……。
 シャワールームのドアの前に立つと、ボタンを外すために身につけていたシャツに指をかける。上から一つ、一つとプラスチックのボタンを穴から外していって、そうして3つ目に手を掛けた時のことだ。
 高耶はそのとき初めて、己の身体のとある違和感に気がついた。
 ちょうど指を掛けている場所、つまり胸の部分が、何故だか普段よりも少し盛り上がっているのだ。何か入っているのかと思って服の中に差し入れた手に当たったものは、己の肌だった。

「?」

 何だか、指に当たる胸の肉がやたらと柔らかい。オレ、最近太ったんだろうか……などと思いながら顔を俯かせて胸を覗き込む、と……。

「……???」

 疲れてるんだろうか……。今度はそう思って高耶は目を擦った。
 だって、今覗き込んだ視界に、明らかに女のモノと分かる膨らんだ乳房が映されていたのだ。
 男の自分の体に、そんなものが付いてるわけが無いではないか。高校の頃なんかは悪友たちとエロ本を回し読みしたりして、わりと目に慣れていたシロモノだったが、ここ最近ついぞお目にかかったことがない。
 女の胸の幻影見るなんて、まだまだオレも健全な青少年ってことか……などとある意味終わってる感慨を抱きながら、高耶はもう一度己の胸部に目を落とした。

 ……まだ映ってる。

 いよいよ高耶も、この目の前に立ち起こっている異常事態を理解する程度の思考力が戻ってきた。
 何なのだろう。この物体は。……いや、何なのかは分かっている。けれどこれは自分の体にあるべきものではないはずなのだ。というよりあるわけもないのだ。
 高耶は不信感を顔に刻々と貼り付けて、眉間に皺を刻みながらもう一度シャツに両手を掛けた。そのまま左右に引っ張って一気にボタンを飛ばすと、己の素肌の上半身が露に現れる。
 右手を持ち上げて、その胸部にへばり付いている山型の肉塊を包み込んでみた。ゆるゆると、その温かい乳房を揉んでみる。

「…………」

 高耶は無言のまま押し黙っていた。
 人間とは、あまりにも想像を絶する驚愕の事態に直面すると、何も言葉が発せられなくなってしまうらしい。
 茫然とした思考でゆっくりと手を外しながらその一対の双丘を凝視していると、その時ハサリと頬に落ちてくるものがあった。
 何だ?と指で頬を押さえると、今度こそ高耶はギョギョッと両眼を見開いた。

「なっ……なッ」

 それは一房の黒い髪の毛だった。慌ててビンと引っ張ってみたが、頭皮に痛みを感じて、それが間違いなく自分の髪であることが知れる。
 別に、頬に髪の毛がかかるという事象自体は何も驚くようなことではないが、高耶の場合は違う。
 自分の髪が頬に落ちてくるわけが無いではないか。なにしろ短髪なのだ。なのに何故今指にかかっている髪の毛は、肩の線を越えるほどに長い……!
 高耶は混乱した思考で洗面台に駆け寄ると、壁に張り付いた長方形の鏡を覗き込む。
そうして彼は信じられないような心地で、そこに映った人物をはちきれんばかりに見開いた目でマジマジと凝視したのであった。

 そこには、一人の髪の長い女が映っていた。
 だらしなく開かれたシャツの間からは、女性特有の白い一対の乳房が控えめに顔を覗かせている。肩幅もいつもよりずっと狭いし、首回りもずっと細い。
 自分は換生し直してしまったんだろうか。仰木高耶の肉体は死んでしまったんだろうかと、混乱を極めた脳内で思案に暮れてみたが、すぐにその考えは打ち消された。
 なぜなら、鏡に映る自分の顔は、昨日までの自分そのものだったからだ。いや、そのものというのは語弊がある。自分の造作一つ一つはそのままに、絶妙な加減を以って見事に女性の顔立ちに生まれ変わっていた。
 高耶は熱心に自分の顔を眺める性分ではなかったが、この22年間付き合ってきた身体だ。いかな女性めいた顔かたちと成り果てていても、この造作が自分のものであることぐらい一目で判断できる。(しかも赤眼はそのままなのだ)
 そう、女となっていても……。

(女に……)

 高耶は口の端をヒクリと動かして、ズルズルと視線を下に落とした。
 両手をコットンパンツのふちにかけて、一つ唾を飲み込む。そうして次の瞬間、高耶は思い切ってパンツをズイッと下着ごと引き下げた。

 ……………………。

「ああ……やっぱり……」

 高耶は視界に映った光景を認めて、悲愴感も露に呟いた。
 そりゃあ、あったらあったで困るのだが、やはり本来あるべきものがいきなり今日になってなくなっているというのは、男としてもの凄い屈辱であり、もう、なんとコメントして良いのか分からぬほどの虚脱感に襲われてしまったのである……。

「なんでこんなことに……」

 愕然とした思いで呟いた瞬間であった。
 高耶の脳裏に、ある生物の姿が唐突に映し出された。
 以前にも、これと同じような事件がが起こらなかったか?
 あれはもう半年以上も前のことだ。あの時は自分の身にではなく、己の右腕である直江信綱の身体に異変が立ち起こったのであった。
 今でも克明に記憶される、『橘義明若返り事件』。あの事件とあまりにも類似した手口の、今回の性転換。
 かつて自分の夢の中に突如として出現した、黄金色の毛並みの生物。
 そう、こんなわけの分からない、ふざけた術がかけられる存在は、この地球上でアイツ以外には考えられないではないか……!

 高耶は真紅の双眼に怒りを込めて苛烈にギラつかせながら、パンツを勢い良く引き上げて、脱衣室から抜け出て部屋のベッドに身体を乗り上げると、結跏趺坐を組んで瞼を下ろし、剣山の山林の奥へと思念を飛翔させたのであった。







はい、ついに出ました。
ご好評をいただきました「青春の色はキツネ色」の
続編第二段、
「キツネ心と秋の空」です〜♪
ちなみにタイトルに特に意味はありません。(死)

今回は高耶さんに異変編です。
やはり若返りの次はコレでしょってことで、
高耶さん女性化です!キュピーン

とことん王道を突き進む私。
若返りにタイムスリップに性転換ときたら、
もう今度は記憶喪失しかないな。(笑)

……にしても私、
Yシャツ着たら胸の凹凸なんて見えないし…(泣)。

2002/11/16