2. 高耶の意識は剣山中腹の樹海へと移行した。 もちろん本体はアジトに置いたまま、四国結界中を彷徨う分身の一つに精神の比重を移したのである。 高耶はいったん山林をぐるりと見回す。 何しろまだ午前5時だ。日はまだ出ていないし、本当の山林の中なので外灯も無く、ろくろく視界が利かない。 一陣の風が吹いて、地面に敷き詰められた枯葉がカサカサと音を立てた。精神体の高耶は何も感じないが、生身の人間ならさぞかし骨身にしみるような寒さだろう。 高耶は精神集中の為に、その赤茶色の両目をいったん閉ざして、求める相手の気配を追った。 (……あっちだ) 掴んだ途端、樹海の深くを駈けて行く。暗闇に閉ざされた林の中は視界が全く利かないので、走りながら左手を胸前に持ち上げて、まるでガスコンロをつけるかのように炎を手の平に生み出した。 その赤い炎で前方を照らしながら樹海を疾走していくと、突如として林の木列が途切れて、視界が開けた場所に飛び出た。 その中心に、一つの物陰が見えた。物陰と言うよりは、その物体は自ら金色に発光していて、暗闇の中で唯一つ闇に浮かび上がるようにして佇んでいる。そうしてその物体が高耶の方を振り返って、光る尾を雲に向かって突き立てて見せた。 《おお、良く来たな、仰木》 高耶はその様子を視覚に捉えるなり、腹の底から絶叫した。 《おいっ!ボケギツネェェ──ッ!》 叫びながら全力疾走で駆け寄っていくと、その物体──神狐の前に到着するなり、ギョギョッと戦く相手に構わず物凄い勢いで胸倉を掴み上げたのだ! 《てめぇっ、一体これはどういうつもりだ!この土佐弁ギツネェッ!》 《うわわっ、待て待てっ、ちょっと待つんじゃ仰木高耶っ》 息も荒く怒鳴りつけつける高耶に、神狐が慌てた声を上げる。……が、その程度で高耶神経の高ぶりが落ち着くはずも無く、問答用無用とばかりに掴んだ胸を……というか肉を、激しく前後に揺さぶって尚のこと怒鳴りつけた。 《てめぇ、命が欲しいんだったら今すぐ元に戻しやがれっ!早く戻せ!すぐさま戻せ!》 《アガガッ、ちょ、ちょいと待たんかいっ。どうしてそんなことわしがやったとハナから決め付けとるんじゃ、おんし!あてっ》 舌を咬みながら言ったその神狐の言葉を、高耶は鼻で笑った。睨みつける目がギラギラと光る。こういう瞳の時の彼は、激昂モード10段階にしてレベル6ぐらいなのである。 ちなみに第一話で直江に張り手を食らわせていた時の彼は、怒りレベル7といった感じだった。(直江に関する事柄は絶対的に高レベル) 《今更すっとぼけんじゃねーよ。ネタは上がってんだ!こんなふざけた術使う野郎なんざ、世界中探したってあんた以外にいるわけがないッ!》 今にも殴りかかりそうな高耶の剣幕に神狐は一瞬怯みかけたが、すぐに気を持ち直してふてぶてしい視線を向けた。 《なんじゃその理屈は。大体どんな証拠があるってゆーんじゃい》 しかしどんなに豪胆な口調でも、高耶に胸を掴まれて宙吊りにされた状態では全くさまにならない。 《証拠だと?》 不遜な笑みを浮かべて、高耶は一気に捲くし立てた。 《今さっきの台詞だ!あんたはオレの身に何の異変≠ェ起こってるかををあらかじめ知っているような口ぶりだった!つまりそれは、あんたがこの件の首謀者だということに他ならないッ!》 《え?……あぁっ……》 さすがの神狐も、この言葉には反論ができなかった。 そう、今現在目の前にいる精神体今空海は、元のままの成人男子の姿なのだ。いくら本体が女体化してしまったって、精神体までそれに影響されることはない。精神体は高耶のイメージから生み出されて具現化されたものだ。高耶がいくら素っ裸でいようが、分身まで素っ裸にはならないことと同じ理屈である。 神狐に掴みかかった時、高耶は「戻せ」とは言ったが何≠ェどうなった≠フをどう戻す≠フかとは、一言も発してないのである。 従って、この精神体の高耶を見た途端に、彼が女体化したことをあたかも知っているような反応を返した神狐は、無関係者ということはありえないのである。 あれだけ凄まじい剣幕で激憤を迸らせながら、相手の言動をそこまで明確に分析する余裕を持つとは……仰木隊長、恐るべしである。 《墓穴を掘ったな、ボケギツネ》 勝ち誇ったようにして言った。このオレに勝負を持ち掛けようなどとは、四百億年早いとでも言わんばかりに。その冷酷な口調は第一部の女王様モード再びである。 《さあ、早く元に戻してもらおうか》 神狐は黙り込む。あの程度の証拠なら、上手く言い逃れることも出来なくは無いのだが、むきになって否定するのもどうかと思うし、何より今高耶に一の反論を言っても、千は言い返されるであろうことが目に見えている。 《……やれやれ、やはりおんしには敵わんの》 神狐が、半ば呆れたように呟いたその時であった。 《まあそこらへんにしてやれって。今空海サン》 突如、高耶の背後から第三者の声が響いた。 驚いて振り返ると、そこには一体の霊体の男が佇んでいた。しかも知りすぎるほどによく知った男。 高耶はその霊体を視覚に捉えるなり、アッと眼を瞠る。 《千秋っ!》 《よっ、景虎。随分お早い登場じゃねーか》 そう、そこに現れた男は千秋修平の霊体であった。 まさにうんざりするほど見慣れた顔だ。……と言うより千秋の顔自体に見慣れているわけではなく、まあ……説明しなくてもわかるだろ?その霊魂自体が400年もの腐れ縁なのだ。 高耶は驚きに目を見開きながら、掴み上げていた神狐の胸を離すと、地べたにベシャリと落ちて《ぐひゃっ》と声を上げたのにも頓着せずに千秋の方へと向き直った。 《どういうことだ千秋。何故おまえがここに》 《どーしたもこーしたも、ご覧の通りよ》 千秋が欧米人のように肩をヒョイッと竦ませる。その様子に高耶は眉を顰めて、 《まさか、おまえがこのキツネにいらん願い事でもしたってゆーんじゃねぇだろうな》 とギラリと睨みつけながら剣呑な口調で問いをかけた。 ところがその程度の睨みで、伊達に長く付き合ってきた千秋が怯むわけも無く、高耶をニヤニヤした目つきで見つめながら、 《ご明察〜っ》 とパチパチ手を叩いて楽しそうに笑って見せた。 つまり千秋も、なんらかの行動によってか神狐を助ける機会があって、その礼にと前回よろしく願い事を叶えてもらったのだ。 無論、その人をおちょくった態度に、高耶がブチギレたのは言うまでも無い。 《ご明察じゃねえ!一体どうしておまえの願いごとがよりによって「オレの性転換」なんだッ!》 《えぇ〜だってぇ〜?別に今んトコ俺、強いて叶えてほしい願いなんてないしぃ〜?》 千秋はそこで一旦言葉を区切り、途端に意地の悪そうな笑みを唇に上らせると、《それでな……》と呟いた。 《いい願いが浮かばねーからこの神狐さんに、前のヤツはどんなこと願い事したんだ?≠チて聞いたらよぉ。ななーんと、ついこの間に願いを叶えてやったヤツってーのが、我らが四国の今空海サマだってゆーから驚きじゃねえか》 千秋がそう言った途端、今まで激昂に頬を赤らめていた高耶が、突如としてサァーッと顔色を変えた。 その分かりやすい反応を面白そうに横目で眺めながら、千秋はなおも言葉を止めない。 《ち、ちあ……》 《しかもその願いってゆうのがー?なんと、愛しい愛しい我が下僕の高校時代が見てみたい♥≠チてので、直江のヤツを本当に17歳のうら若き青少年に若返らせちまったんだってぇー?》 《いや、んなこと言って……》 《だから俺も大将に習ってさ、今度は景虎の身体に変な術掛けてやったら、さぁぞや楽しいだろうなーと思ってねぇ》 千秋はクックックとさも楽しげに笑っている。その様子に拳をブルブル震わせながら、高耶は恨みがましげに千秋を睨み上げた。 《一体何が目的だ……》 《別に〜?単なる嫌がらせって奴よ》 《おまえオレに恨みでもあるのかっ》 《んなもんねーけどよぉ。そんな楽しいことやってたのに俺のこと呼んでくれないなんて、随分薄情な奴だなぁと思っただけー》 《呼ぶか!あの時おまえは織田方だっただろうがッ!》 眦をこれ以上ないほど吊り上げて怒鳴る。いい加減高耶はキレていた。 何しろよりによって千秋に、自分の弱点を掴まれてしまったのだ。 半年前の直江の若返り事件の首謀者が他ならぬ自分であることを、赤鯨衆の面々はおろか直江自身さえ知らないのである。当然あの怪事件は赤鯨衆の中ではもはや伝説であり、赤鯨衆隊内七不思議の1つに数えられているぐらいなのだ。 高耶としては、あの事件は自分と神狐がその真相を知るのみのまま、永久に闇の中に葬り去ってしまいたいのである。……とは言ってももちろん、高耶自身のあの楽しき思い出の1ページ自体を捨てたいのではなく、「自分がキツネに頼んで直江を若返らせた」という事実を誰にも知られることの無いように、人々の記憶の中からあの事件を忘れ去らせてしまいたいのだ。 しかし人の噂も七十五日というが、事件発生後のしばらくの間は、隊士達の会話からその話題が上らない事は無いという状態が続いたものの、一ヶ月、二ヶ月と経つうちに次第に話題にも上らなくなり、人々の記憶から薄れつつあったのだ。 ……それなのに、半年経った今になってこの千秋に真相を知られてしまったのである。 千秋のことだ。面白がって赤鯨衆隊士たちに吹聴しまくるに違いない。間違いない。この男だったら絶対にする。 そんなこと許せるはずが無い。あの泣く子も惚れる今空海・仰木高耶が、直江の高校生時代見たさに怪しげなキツネに術をかけてもらって若返らせたなどと……。あれだけ隊内を騒がせた事件の真相が、そんなアホな理由だったなどと、知られて良いはずがないのだ……ッ! 《千秋、戻せ》 高耶は据わった眼で千秋を睨みつけた。発された声は、地獄の死神もかくやというほどに低い。 並みの人間なら一発で竦みあがっていただろうその視線も千秋には無効のようで、余裕の顔でチッチッチと人差し指を左右に揺らして見せた。 《景虎ぁ、それが人に物を頼む態度か〜?》 《ふざけるな!いいからさっさとこのイカレタ身体を戻しやがれッ!》 《嫌だね。だって俺様、おまえの女姿まだ見てねーんだもん》 先程も述べたように、今目の前にいる高耶は普段どおりの姿だ。女の高耶の姿を見た者は、現時点でまだ高耶自身しかいないのである。 千秋のその言葉に、高耶はガバッとその胸倉に掴みかかった 《なら、オレの女姿見たら満足だな?見たらすぐ元に戻すんだなっ!?》 《ええー?それはどうだかなー》 《ほざくなッ》 そう叫ぶと、千秋の胸倉を突き飛ばして、人差し指をその名の通りビシッと突きつけた。 《おまえの望みはよーく分かった。今からこっちに本体向かわせるから、見たら絶対に戻せっ。いいな!》 続いて思い出したかのように背後を振り返って、もう一匹の首謀者である神狐を冷たく見下ろした。 《よくも千秋にバラしてくれたな……》 見下されるその赤茶の瞳は、身も凍るような極寒の光を宿していた。 《後で覚えておけよ……》 神狐は完全に蛇に睨まれた蛙状態であった。仮にも神に脅しを掛けるとは、さすがは仰木高耶、神をも恐れぬ行為である。 高耶は身体をもう一度千秋の方へ向きなおすと、念を押すかのように言った。 《ここから離れるんじゃねーぞ、千秋!》 《別に俺はまだ元に戻すとは言ってねえぞ?》 《五月蝿い!もし戻さなかったら、この四国から永久追放してやるからな!》 そう叫ぶと、高耶は再び精神比重を浦戸アジトの本体へと戻した。 しかし精神体自体はこの場に置かれたままである。精神体高耶は、苛立ちも露に眉間に皺を寄せて、近くに転がる岩の上にドスンッと腰を下ろした。 その横顔を見つめながら、神狐は小さく呟く。 《まっこと、とんでも無い男じゃのぉ……》 《何か言ったか》 《いーや、なんでも無いわい》 精神体高耶の声に投げやりに返事をすると、疲れたように大きな溜息を一つついた。 |