仙田郷を騒がせた、花嫁御にとり憑くおなごの霊を調伏してから、一夜が過ぎた。 事件の事後処理を終えた直江たちは、日が中天に差し掛かる頃、田上の家の者らに見送られて中仙田村を旅立った。 文太郎や初らには、「せめてもう一日でも」と別れを惜しむように引き止められたが、これ以上長居をして使命遂行に差し障りをきたすわけにもいかず、申し出を丁重に断り、彼らは村を去っていった。 十日町に向かう道中、直江は始終寡黙であった。 あのような痛ましい、己の過去に纏わる事件の後だ。普段感情の機微に乏しいかに見えるこの男にも、流石に思うところがあるのだろう。 もともと饒舌な性質ではなかったが、普段に増して口数少ない男に景虎達は掛ける言葉も見つからず、春めいた日差しに照らされた街道を、特に交わす会話も無く、一行は黙々と歩み続けた。 村を去り際、背後に広がる和やかな郷の情景を、どこか名残惜しげな様子で肩越しに振り返った直江。 その時彼が見せた、息苦しげでありながらひどく冷静な横顔から……景虎は一瞬、なぜだか目を離すことができなかった。 夕暮れをいくらか過ぎた時分、十日町の中心部に居を構える小さな旅籠で、直江達は色部勝長とようやくの再会を果たしたのであった。 「……そのような事件があったのか」 囲炉裏を囲んで、苦難の旅を互いに労わり合うように杯を交わしながら、仙田郷で起きた一件の顛末を語り聞かせられた勝長は、驚きを隠せぬ声音で呟いた。 勝長の視線の先に座る直江は、手に持つ杯に注がれた酒をじっと眺めながら、既に憂いを断ち切ったかのごとき淡々とした口調で語る。 「あの戦のおりに討たれた我が同胞は、武田の手によって上野国総社の寺院で、懇ろに供養されたと聞きます。久木めも共に葬られたのでしょう。いつか上州に赴く機会があれば、立ち寄りたいと考えています」 いつになるかは存ぜませぬが……と、語る直江の話しぶりや表情からは、感情の色を窺えない。勝長は何かもの言いたげな表情でそんな男をしばし注視していたが、 「……そうだな、それが良かろう」 やがて瞼を伏せて、腕を組みながらそう頷いた。 直江は続く勝長らの会話に耳を傾けながら、手に掴む杯に口をつけるのでも無く、物思いに沈むように波打つ酒に視線を落としている。 (我が同胞……か) 胸の内で、先ほどの己の言葉を反芻する。 故郷の地で絶えた、いくつもの兵の命。彼らもまた、越後に跋扈する死霊らと何ら変わることなく、断ち切れぬ未練と怨念に燻り、あるいは猛り狂いながら、御仏の救いの手を探し求めるかのように現世を彷徨い続けているのであろう。 彼らのような存在を生み出したのは、人知の及ばぬ歴史のうねりか。それとも……。 直江は空いた拳を膝の上で握り締めた。 顔をつと上げて、向かいの席に座す景虎を無意識に見遣る。 勝長や晴家と、和やかな様子で談笑する景虎。 直江の表情に暗い影が落ちた。 (結局、俺もこの者と何ら変わるところはないのか……) 勝者のみが、時代の主導権を握り、歴史を形作るこの世の理の中で。 結局は、己も力無き敗者であったというのに。 それを認めるだけの器や度量も無く、都合の悪い過去から目を背け続け、あたかも己が唯一の正道であるかのごとく無邪気に信じて疑うことがなかった。 自らを省みることもせず、「あれは仕方なきことだった。己に非のあることではない。まことの己の実力は、こんなものではないのだ」と。いまの自分にある価値以上のものを、自らの中に見出だそうとして必死に足掻くように、薄っぺらな虚勢を張り続けてきた結果が……これか。 いくら闇雲に目を逸らしても、消したい過去を帳消しにできるわけが無いことなど、幼子でも分かる簡明な道理だというのに。 消せたわけではないのだ。 己の無力に打ちのめされ、屈辱に潰された、あの遠い日を。 赤い炎の渦に呑み込まれていった、数々の命のともし火を……。 直江は杯の酒を一呑みにして、共に耐え難いものを呑み込むように、苦しげに両眼を瞑る。 (ならば、俺が鎮めねばならぬのは、越後の霊だけではないのだな……) ここ越後の霊を鎮めた後は。 謙信から受けた、使命を果たした後は。 いったい己は……何のために。 何を、この手で後の世に遺すのでもなく。 何の甲斐も無く。 何のために……ここに留まり続けていこうというのか。 不意に、いつか郷津の浜辺で朝焼けを見つめる景虎が、一人ごちるように語った言葉が耳に甦った。 ──どれほどかかるだろうなぁ。越後中の霊を成仏させるまで。一年、いや二年……。 ──三年、四年。もしかしたら、それ以上やもしれぬ。 (あと、……何年。こうして) あなたの傍で……。 囲炉裏を挟んで、真正面に座る男を直江は見つめる。 こちらには見向きすることすらせぬ。直江が景虎に対してそうであるようには、直江の存在に何ら魂を揺さぶり動かされることの無い。 この、恒星のごとき輝きの魂を持つ、おのが主君を。 (景虎様……) 黙り込む直江をよそに、酒の肴を食みながら、景虎達は先ほどまでとは打って変わった和やかな会話に興じていた。室内に笑い声がこだまする。晴家がいつもの調子で景虎や勝長にしきりに酒を勧めている。 晴家に酌を受けていた勝長は、そこでふと思い出したかのように、「にしても……」としみじみとした声で呟いた。 「景虎殿の女装が再び見られたとは、少し惜しいことをしたな」 途端、景虎が口にしていた酒を盛大にむせる。 「景虎ぎみ!」と慌てて背をさすろうとする晴家の手を制して、咳をしながら顔を真っ赤にした景虎は、取り乱したように声を荒げた。 「やめてくれ……ッ、今度こそ誓って二度とやるものか、あのようなこと」 思い出すだに恥ずかしいといった様子で顔をしかめる景虎に対し、「はて、前にもそのような言葉を聞いた気が……」ととぼけた口調で勝長は笑う。 仏頂面をして睨む景虎の隣で、楽しそうに微笑んでいるのは晴家だ。 「ですが景虎ぎみの嫁御姿、まことに美しかったのですぞ。勝長殿」 天人もかくやとばかりのお姿でした。と、昨日の祝言の様子を脳裏に思い浮かべつつ、まるで我が事のように自慢げに語った。 呆れたような顔をする景虎を尻目に勝長は、 「うぅむ。このようなことなら、十日町に留まらず私も長秀について行けば良かったか」 顎鬚を撫でつつ、半ば本気で残念そうに呟く。「のう、治部少輔」と話を長秀に振ると、向かいの席で烏賊を噛みながら酒を喰らっていた茶色い髪の男は、フッとおかしげな様子で口端を上げた。 「全く。おぬしが来ておれば、俺も男同士の祝言の仲人役なんぞにさせられずに済んだろうに」 皮肉も露に呟かれた言葉に、景虎は「もうその話はよしてくれ……」とばかりに額に手を当て、力無く首を振った。 日の落ちた部屋には、勝長達の愉快げな笑い声が響き渡っていた。 * 日は昇って翌日、旅籠で安息の一夜を過ごした一行は、早朝の時刻から出立の支度を始める。 直江達が仙田郷の事件に介入していた間、勝長も暇を持て余していたわけではない。彼の調査によれば、ここ十日町にほど近い集落で先日、生き人を巻き込んでの新たな怨霊騒動が勃発したとのことらしい。 宿を出た面々は、朝霞に包まれた十日町の往来を進んで、次なる怨霊出現地へと向かう。 ヒヨドリの鳴く信濃川沿いの径。景虎は朝の匂いに満ちた空気を吸い込むように大きく伸びをして、背に負う薬箱の肩紐を直していると、その時隣に立っていた晴家が一昨日の件を不意に思い出したように、声を落としてひそひそと話した。 「にしてもこう申してはなんですが……直江に似ていたという祐衛門なる者、いったいどのような男であったのでしょうな」 糸が最後に直江に語った言葉が、景虎の脳裏にも甦る。愛しい男とよく似ていると言って、嬉しげに微笑んでいた。 晴家は、あの言葉にあれからずっと引っかかりを覚えていたらしい。どうも納得がいかないといった顔で、しきりに眉に皺を寄せて考え込んでいる。 「確かに……な」 景虎も小さく頷いて同意した。直江の近習であり、直江によく似ているという男、久木祐衛門。その言葉を思い返すほどに、かの者の人となりというものが、景虎達にはどうしたことか上手く想像ができない。 糸があれほど深く愛した男だ。そうおかしな人間ではなかったとは思うのだが……。 「誰からも好かれる男でした」 不意に背後から聞こえた声に、景虎と晴家が驚いて振り返る。 宿の女将と勘定を済ませていた直江が、いつの間にやら彼らに追いついていたのだ。 「誰からも好かれる?」と、明らかに胡乱げな景虎の視線とぶつかって、直江はむっとしたように神経質に眉を顰めて言った。 「嘘ではありません。知に優れる切れ者でしたが、己は常に引いて主人を立てる術を心得た、家臣の鑑のごとき男でした。気配りのできる優しい人柄で、そばにいると穏やかな心地になれると、皆に好かれておりました」 珍しくむきになったように語る彼に、晴家が不信感をありありと浮かべた顔で聞く。 「……それのどこがそなたに似ているというのだ?」 途端直江は少し詰まった。流石にこの男にも、語った内容が己の性質とあまりにもかけ離れているという自覚があるのだろう。彼は景虎達からフイと顔を逸らして、答えた。 「……さあ。生まれの地が同じということで、喋り方に通じるものがあったというだけかも知れんな」 直江の答えに、「さもありなん」と顔を頷かせて納得する晴家をよそに、景虎は何か思うところでもあるように、直江の様子をあの鋭い目線で、じっと窺っている。 (そばにいるだけで、穏やかな心地になれる……か) だが、すぐに「まさかな……」と己の中で一人ごちて、景虎は途端興味を失くしたように、目の前の男から視線を逸らした。 しばらく川沿いの途を歩いていた一行だったが、さほど急を要する旅でもあるまいと、疲れた足を休ませるために暫時休憩を取ることになった。 「小腹が空いて参りましたな。景虎ぎみ、あちらの店で団子を買うて参りましょう」 「ああ、頼む」 そう言って、弾む足取りでそそくさと食糧調達に行った晴家の背中を見送ると、景虎は薬箱を足元に置いて柳の木陰に腰を下ろした。 頬杖をつきながら視線を転じれば、抜けるような青空高くに昇った日の光が川の水面に反射して、その眩しさにわずかに眼を細める。 その時、まるで彼の近くに誰もいなくなったのを見計らうように、背後から近寄ってきた人影がある。 振り返らずとも景虎には分かる。何用だ? とそのままの姿勢で問うと、直江はどこか言いにくそうに言葉を濁しながら、景虎にこう尋ねた。 「……時に景虎様。お糸に、体を乗っ取られたときのこと、覚えておられますか」 唐突な問いかけに、景虎は瞬きしながら背後の男に視線を遣った。 糸に躰を乗っ取られた時というと、一昨日の祝言の夜、寝所での出来事のことである。 「いや、意識を失っていたからな。ほとんど覚えてはおらん。……それがなにか?」 怪訝な顔で直江を見上げる景虎。直江はいかにも安堵した様子で一つ息を吐くと、 「……いえ。突然こちらに敵意を向けてきたので、驚いたというだけです」 そう手短かに答えて、景虎の言及を退けるようにすぐさま身を翻し、彼の傍を離れた。 背には景虎の不審げな眼差しの気配を、痛いほどに感じていたが……。 (黙っておいた方が良いな) 覚えていないのなら好都合。藪を突付いて蛇を出すように、下手に事を明らかにしてこれ以上いざこざを起こす必要もあるまい。 ……いや、おのが尊厳にかけて、あのような事実、絶対に知られるわけにはいかないのだ。 景虎の体を、抱きかけたなど……。 あの夜、景虎の身に加えた正気とは思えぬ数々の愚行を、直江は思い起こす。 無我夢中にかいなの内に抱きしめ、あの者の唇を吸った。すいつくようになめらかな肌を、節くれた指と広い手の腹を使って淫猥に撫で回した。 何度となく夢の中で繰り返した、幾度も脳内でなぞったその行為を、実践でもするかのように現実にこの手で景虎の体に成してみて、直江は初めて。 ……己は既に、言い逃れの利かぬくところまで来てしまったのではないかと自覚した。 (どうかしている……) 知らず、唇を噛み締めた。 あの感触が、忘れらない。 漏れる吐息に覆いかぶせるように、唇を重ねた感触。絡めた舌のやわらかさ。あの時彼は彼ではなかったが、その体は確かに、己が毎夜のごとく夢に見続けその腕に抱いた、上杉景虎のものに違いなかったのだ。 気の迷いだ。何かの間違いだとおのが胸中に言い聞かせ続けても、彼に紛れもない欲情を示し、女を抱くようにしてその肌に愛撫を加えたこの手が、その淫靡なる衝動が、もはや動かしがたい証拠となって直江の思考の逃げ道を塞ぐ。 (違う……) 消せども消せども、己の脳膜を占領する一つの面影。 彼の放つ言葉が。時おり見せる笑顔が、寂寞を纏う横顔が、頬を濡らす涙が。峻厳なその眼差しが。 己の思考を狂おしいほどに縛り付ける。 違う、違うと首を振る。逃れようと、離れようともがき続ける。 直江はたまらず、歩む足を止めてその場に茫然と立ち尽くした。 (俺は……どうかしているのだ……) 認められるわけが、ないではないか。 あなたに、どうしようもなく惹かれているなどと……。 呑み込みがたい思いを、振り切るように。 直江は堅く瞳を閉じて、思考の漣を無理矢理に鎮めた。 春の香気漂う越後路を、笠でその表情を隠すように俯きながら、 男はただ何も感じず、何も見えぬふりをするかのように、感情のすべてを押し殺して、ひたすら無心にその長い道のりを、 未だ光明すら見えぬ孤独の中で、歩き続けていた。 |
平成二十年七月二十三日 祐衛門は、第一部初期の橘義明をイメージした人物なのです。 邂逅編の直江からは想像もつかないけれど、あの静かで優しい姿こそが、彼の魂が本来持っているはずの性質なのですよね。 高耶さんも直江のことを「誰からも欲しがられる人間」と語ってましたし。 「そんな男が、自分一人しか見ていないということが、どれだけ誇らしかったか」って。 彼は、いつから直江のことを、そんな風に思い始めるんだろう。 それにしても……あそこまでのことしておいて絶対に己の思いを認めようとしない直江。現実逃避すぎる(笑)。でも、そんな風に自分と正面から向き合えない弱いところが、邂逅編の直江の特徴なのだと思う。 あと最後に夜叉衆五人が揃ったシーンを書けて、 私は満足です(T-T) まだもう一話あるけどね……。 →十五話 →小説 |