雪の別れ。











 +第二節+



 夜明けの鳥が鳴いている。
 薄く透き通るような朝の光がカーテンから漏れ出ずる部屋の窓辺で、男はゆっくりと目を覚ました。
 ぼやける視界に映るのは、白い天井。
 ストーブに温められた空気が、全身をゆったりと包んで心地よい。
 白いシーツに横たわる身体を、やや起こして辺りを見回す。
 するとすぐに傍らに人の気配があることに気がついた。

 黒髪の、整った顔をした青年がこちらをじっと窺っている。
 その思いつめるように細められた瞳は、血のような赤色をしていた。
 男は驚いて、思わず眼を見開いた。

「起きたのか」

 静かな口調で青年は呟いた。
 意識していなければ聞き逃してしまいそうな、かすれた小さな声だった。
 彼は小首を傾げるようにして、こちらを覗きこんでくる。
 
「だいぶ、寝てたみたいだな。おまえも少し、疲れているのかもしれないな……」

 労わるようにそう言ったが、彼の方こそ、肉体的にも精神的にも疲労しているように見える。
 そっと左手を持ち上げ、こちらにかざしたかと思うと、やわらかな手つきで男の前髪を梳いた。
 その自然なしぐさに、男は張り詰めていた警戒心を取り除き、ゆっくりと身体の力を解いて頭を枕に沈めた。

「何もないようで、良かった」

 彼はとても優しい口調でそう言って、瞳をすっと細めていた。
 男はそこでようやく、右手がシーツの下で、彼の指に握り締められていることに気づいた。
 透明で落ち着いた表情と対比するように、想いを孕んで強く握り締められた手。
 自分のもとに男を繋ぎとめようとするように。その存在を確かめようとするように。
 繋がれた手から、熱い想いが流れ込んでくるようだった。

「何もなくて……良かった……」

 壊れ物を扱うような手つきで、指をからめながら、繰り返すように小さく呟く。
 赤い瞳が少し揺れて、じわりと涙が滲んでいた。
 静かに祈るように俯いた彼の背中で、風に吹かれたカーテンが踊っている。
 男はその静謐の空間を、噛み締めるようにして一つ瞬いた後、目の前に座る青年に、躊躇いの残るかすれた声でこう尋ねたのだった。

「ここは、どこですか……」
「浦戸アジトの、医務室だ。夕べおまえが倒れた後、ここに運ばれた」
「浦戸……アジト……?」

 やけに訝しげにそう呟いたので、青年は補足するように説明した。

「近くの砦では医療機具が整わないから、こちらの方に運ばせたんだ。頭を打っているから、念のため一度精密検査を受けた方がいい」

 頭は怖いからな、と、髪に触れていた指を離して青年は語る。
 前髪の下には、白い包帯が痛々しい姿で何重にも巻かれていた。

「きちんと受けろよ。おまえ、昔から医者嫌いの気があるからな。オレにはしつこく病院行けって言うくせに」

 少し苦笑いをしながらそう呟いたが、男はまだ訝しそうに瞳を瞬いている。そのどこか呆けた様子に、違和感を覚えて首を傾げた。

「どうした?」
「いえ……」

 男はおもむろに上体を起こそうとして、頭を揺り動かした途端、突如起こった苦痛に眉を顰めてこめかみのあたりを押さえた。

「つぅ……ッ!」
「馬鹿、あんまり急に頭動かすな」

 頭打ったって言っただろうと、再び寝かせようとする青年の手を制して、男は包帯の巻かれた頭から手を離した。

「いえ……大丈夫です、大丈夫。……それより、どうも先ほどから意識が混然としていて、あまりはっきりとしないのですが……」

 躊躇うようにそう言って、男は青年の真紅の両眼を真っ直ぐに見返した。
 血の赤さの双眸は、ひどく心配げな色を湛えて、こちらを見据えながら続きの言葉を待っている。

「とりあえず、お尋ねしたいのですが……あなたはいったい……」

 誰ですか?=c…と口にしようとして、あまりに青年が険しく表情を変えたので、男の言葉は尻窄みになり、中途半端に終わった。
 それでも相手には、きちんとこちらが聞かんとした意が伝わったのだろう。
 見る見るうちに顔色が変わっていく青年の姿に、男は戸惑いの表情を浮かべた。

「いま……なんて言った?」

 かすれて、乾いた声音が耳に届く。

「いま、なんて言ったんだおまえ……」
「いえ、ですから……。あなたは、誰なのですか……と」

 相手の様子に違和感を覚えつつ、先ほどの問いを再び返したが、青年の方は男の質問に一向に答えようとはしなかった。

「オレが……誰かだって?」

 乾いた声で呟きながら、青年の唇がぶるぶると震えている。
 顔色はもはや蒼白で、まるで悪い冗談だとでも言うように、青年はもう一度男に向かって問い返した。

「ええ。私には、あなたが誰だかわかりません」

 青年に両肩をガシリと掴まれ詰め寄られたのは、そう答えた途端だった。

「嘘だ……冗談だよな。おい……オレのこと、忘れちまったのか……」

 信じられないものにでも遭遇したように、目を見開いてこちらを凝視する彼の問いに、男は何とも答えようがなく、困り果てたように無言を保つ。
 その態度に青年はいっそう焦燥を露にした。半ば錯乱したように声を荒げて、男の肩を揺らす。

「嘘だ! 嘘だろ! オレのこと、おまえが忘れるなんて、そんなことあるはずない……っ!」

 悲痛な声を上げる青年の鬼気迫る態度に、男は戸惑いながらもどこか冷めた視線を投げかけた。

「忘れたも何も……私は、もとからあなたのことは……。誰か人違いなのでは」

 最後まで言い終わる前に、青年に胸倉をもの凄い勢いで掴みかかられていた。

「ふざけるなよっ! そんなこと……オレのこと忘れるなんて! そんなことあってたまるものか!」

 怒りに震える瞳が、真っ赤に燃え滾ってこちらを射抜く。わななく全身で激怒を迸らせながら青年は絶叫した。

「おまえがオレを忘れるなんて、許さない! 絶対に許さないッ!」

 あまりの剣幕に男は恐怖した。目の前の青年が見せているものは、常軌を逸した狂気以外の何物でもない。

(なんだこの青年……!)

 戦慄する男の背後で、バタンッと勢い良く扉が開く音がした。

「仰木さん! 何しちゅうがか、おんしっ!」

 途端に白衣に身を包んだ男が部屋の中に駆け入り、胸倉に掴みかかる青年を後ろから引き剥がした。

「離せ中川っ! こいつッ、ふざけたこと言いやがって……! オレのこと忘れただと!?」

 なおも激昂する青年に、中川と呼ばれた男は懸命にその動きを封じながら、

「いいから少し落ち着いて! 怪我人にあんた何しちょるんですか!」

 そう諭した瞬間に、青年の動きが止まった。「怪我人」という言葉で、さすがに我に返ったのだろう。
 ようやく大人しくなった青年から手を離しながら、中川は男の方に向き直る。

「……とにかく、どうしたんですか橘さん。いったい何があってこんな事態に?」

 男の方も、われに返ったように「あ、あぁ……」と呟きながら、掴まれていた胸倉を少し整えると、歯切れ悪い口調で訥々と語りだした。

「よく……わからない。どうも意識が混濁していて……なにがどうなっているのか……それに……」

 そこで一つ切って、中川の顔を見上げた。

「いま、俺のことを橘と呼んだか?」
「ええ、そう呼びましたよ」

 それがどうかしたんですか? と問い返す中川に、男は困惑した表情を浮かべた。

「それが……俺の、名前か?」
「……橘さん?」

 いよいよ中川も、男の様子が普段と異なることに気づいたのだろう。怪訝げな問いかけに重ねるように、男は首を左右に振る。

「おかしい……自分の名前が、思い出せない……いったいどうなってるんだ……」
「落ち着いて、橘さん。つまりあなたは、記憶喪失に陥っているということですか?」
「そう……なのかもしれない」

 力ない口調で肯定する男に、一瞬だけ声を詰まらせたが、中川はすぐに冷静さを取り戻して、

「……そうですか。だいたい事情はわかりました。どうして先ほどのような状況になっていたのかも」

 そう言って背後に佇んでいた青年……高耶の方を振り返る。

「仰木さん。あなたも少し落ち着きましたか?」

 高耶は数秒何か考え込むように目を眇めて、男の方をひたむきに見つめていたが、視線を少しずらすと、無言でゆっくりと頷いた。

「そうですか、まずは冷静に考えるのが大事ですよ。……それにしても、これからどうしましょうかね」

 記憶喪失に陥ったとなると、まずはここに置かれたこの男の状況を一から説明しなければならない。
 この男の記憶の喪失レベルがどれだけのものなのかはまだよく分からないが、それは随分と困難な作業のように思えた。赤鯨衆結成当時から組織に身を置く中川でさえ、何の予備知識も無い相手に、現在の《裏四国》とその成立に深く関与する赤鯨衆という組織体制の複雑を極める状況を、詳らかに系統立てて説明しきれる自信は無い。
 それだけではない。この橘義明という男は、直江信綱という名で冥界上杉軍に身を置き、四百年に渡って怨霊調伏の使命を果たしてきた、膨大な人生の記憶を持ち合わせていたのだ。
 こちらの記憶に関しては、同じく直江と共に四百年を生き抜いてきた目の前の人間に説明を委ねるより他すべはないが、赤鯨衆や《裏四国》のことを理解させるよりも、そちらの作業の方がよほど困難なことのように中川には思えた。

(ことがことだけに、私だけでは判断がつきかねるな)

 こうして考えていても埒が明かない。中川は嘆息して、努めて平静な声で次のように告げた。

「……とりあえず、嘉田さんを呼んで意見を聞きましょうか。橘さんを浦戸に運んだのは正解だったかもしれませんね」

 しばし考慮して出した結論に、高耶はこくりと頷きながら、「そうしてくれ」と低い声で呟いた。
 ベッドに横たわる男は、ひどく不安そうな面持ちで、中川と高耶とを交互に見比べていた。











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