----Happy Home----

by イッカク様

















<1>

 人を好きになるということは、幸せなことだと思っていた。
 家族が幸せに暮らせることが、なによりも大事なことだと思っていた。
 今だって思っている。
 頭の片隅で。
 偽善者の独り言のように。


 この気持ちはいつ生まれたのだろう。
 問題児だったオレに「あなたは素晴らしい人ですよ」と真剣な顔で言ってくれた時だったのかもしれない。
 空元気で笑っていたオレに「あなたはもっと甘えていいんですよ」と言って、抱きしめてくれた時だったかもしれない。
 いやきっと、初めての顔合わせであの笑顔を見せられたとき、もうすでに手遅れだったんだと思う。


 「こんな気持ち、今すぐ消えてなくなればいい」
 見え透いた嘘を今日も呪文のように唱える。
 消えてほしくなんてない。
 忘れるなんて冗談じゃない。
 何を捨てても壊してもいい。
 彼を手に入れられるなら。
 「こんな気持ち、今すぐ消えてなくなればいい」
 何度も何度も戒めるように繰り返す。


 「こんな想い、カケラも残さず消してください」
 今日も誰かに祈っている。
 オレの理性が残っている間に
 この幸せな家を壊してしまう前に
 どうか情け容赦なく消し去ってほしいと
 泣きながら誰かに祈っている。




 階段をバタバタと駆け上がってくる音がする。
 もうすぐ来るぞと思った瞬間、背後のドアが勢いよく開いた。
「お兄ちゃーん!明日の日曜日映画観に行こうよぉ」
 そう言って登場したのは、かわいくてちょっとわがままな、高耶の最愛にして最強の妹だ。
「これ、すっっごい面白いんだって!ねーいっしょに行こうよぉおにいちゃーん!」
 背中にドシンと圧し掛かられ、ノートを滑らせていたシャーペンが心電図の針のように跳ねた。
「美弥ぁ、勉強中に邪魔すんなって言ってるだろ。そんでドアも閉めろ」
 11月の中旬にもなると、松本はもう冬の気配に包まれている。暖房であたたまった室内は、廊下からの冷気で急冷却されてしまっていた。
「ちょうどいいじゃない。空気の入れ替えできて」
「おーそりゃさんきゅ。出てく時は閉めていけよ」
 そう言ってまた机に向かう高耶の冷たい対応に美弥はぷーっと頬をふくらまし、兄の肩越しに見えるノートを恨めしげに睨みつけた。そこには、中学生の美弥には見たこともないような意味不明の記号や方程式が並んでいた。それを母国語のようにすらすらと空で書いてゆく兄は、数ヶ月前とはまるで別人だ。
「最近のお兄ちゃんて、お兄ちゃんじゃないみたい」
 気味悪そうに美弥が言った。
「勉強勉強ってどうしちゃったの?変なものでも食べた?宇宙人にチップでも埋め込まれた?それとも天災事変の前触れ?明日槍でも降ってきたらどうしよう」
「期末試験が迫ってんだよ」
「それが?」
 脈絡のない話でもされたかのように、美弥はきょとんと首をかしげた。
 その反応に高耶は思わずがくりと肩を落とす。日ごろの行いが行いだとはいえ、あんまりだ。
「だって、いつも一夜漬けのお兄ちゃんが、試験の2週間も前から机に向かうなんてありえないじゃない」
 そんなの絶対変だよ!と、美弥は拳を握り締めて力説した。そんな素直すぎる妹の暴言が高耶の胸に容赦なくグサグサと突き刺さる。
「あのなぁ、オレだって勉強するときゃするんだよ。試験の結果出てから三者面談があるし……義母さんにこれ以上恥じかかせたくないからさ」
「そっか。でも今更だと思うけどなぁ」
 ノートを滑らせていたシャーペンの芯がポキンと折れた。
「……おまえな」
「たまには映画観て息抜きしようよ。かわいいよ〜ほらほら」
 あきらめてしぶしぶノートから顔を上げると、目の前に「全米ナンバーワンヒット」というお決まりのコピーが入ったアニメ映画のチラシがぶら下がっていた。人間に囚われた息子を探して旅をする、熱帯魚の親子愛を描いた作品らしい。
 高耶の顔がひきつった。
(深志の仰木と呼ばれたオレがこんなの観にいけっかよ!)
「ねーいこーよぉー」
「行かねー。友達と行って来いって」
 首にかじりついてねだる美弥に、高耶はピシャリと言い切った。しかしこの程度で引き下がる妹ではない。
「美弥は『お兄ちゃん』と行きたいの!!」
 耳元で叫ばれ、高耶はうっとうめく。
「わかった。わかったって!あーじゃあ、やさしくて金持ちの兄ちゃんに行ってもらえ。帰りにケーキだってご馳走してくれるぞ」
「先週と同じ手には乗りませ〜ん」
 美弥は、むにっと兄の両頬をつねりながら勝ち誇ったようにふふんと笑って言った。
「ざーんねーんでーしたぁー」
「みひゃ……」
 今日は一筋縄ではいきそうもない。
 どうしたものか頭を抱えた高耶の耳に、コンコンと控えめなノックの音が響いてきた。
「高耶さん」
 その声に、高耶の胸がトクンと鳴った。
「ちょっといいですか」
 開け放たれたままのドアに律儀にノックをして、長身を屈めながら部屋に入ってきたのは、2年前に義兄になった男だった。高耶より11も年上で年は28、仰木の血には無い色素の淡い髪と瞳、そして日本人離れした彫りの深さを持った文句なしの美男子だった。
「あ、直江さん!聞いてよーお兄ちゃんてば美弥に冷たいの!」
 名前は直江信綱という。彼の母親が高耶の父と再婚し、仰木の籍に入っても、彼だけは今も「直江」の姓でいる。仕事の便宜上というのが主な理由だが、30近い歳で名字を変えると結婚して婿養子に入ったのかと誤解されるからというのがもうひとつの理由らしい。呼びやすいという理由で名前ではなく名字の方で高耶と美弥は「直江」「直江さん」と呼ばせてもらっていた。
「何の用?」
 顔だけで振り返り、できるだけそっけなく高耶は尋ねた。
「これ、私が昔使っていた参考書なんです。とてもわかりやすいものだったので、高耶さんもよかったら使ってください」
「ん。サンキュ」
 首に美弥の腕を巻きつけたまま、高耶はイスをクルリと回転させるとそれを受け取った。直江の勤勉さを証明するように、使い込まれてかなり痛んでいる。中を開けば赤いボーダーラインがいくつも引いてあった。それを目でなぞりながら、この男にも高校生時代があったのかと、そんなあたりまえのことを考え、ついでに、さぞかしもててたんだろうなと、よけいなことまで考えてしまう。それを振り切るように高耶は解説に目を走らせる。
「また勉強ぉ?映画行こうよ映画!」
 早速ページをめくりだした高耶に、美弥が恨めしげな声を上げた。
「もー。直江さんもひとこと言ってやってよ。勉強ばっかりしてないでたまには妹と遊んであげ……いたっ」
 美弥の額に、ペシッと映画のチラシがつき返される。
「だから、そこの大きな兄ちゃんを誘えって」
「い・や!お兄ちゃんと行く!」
 美弥は負けじと高耶の顔面にチラシをバシッと叩きつけると、手から参考書を奪い取った。
「美弥!」
 それを奪い返そうと椅子から立ち上がった高耶と「返せ」「返さない」のもみ合いになる。
「こら美弥!」
「約束するまで返さない!」
「わがまま言うんじゃねぇ!」
「じゃあ3人で行きましょうか」
 永遠に続きそうなふたりの言い争いに、第三の声が割り言った。
「はぁ?」
 意表をつかれた高耶は、奪い返した参考書を思わずボトリと床に落とす。
「3人で観に行きませんか?」
 声の主は落ちた参考書を拾い、高耶の手にもう一度握らせながら言った。
「息抜きも大事ですよ。たまには一緒に出かけましょう?」
 やや腰を落とした直江に、真正面から顔を覗き込まれる。高耶のすぐ目の前に、直江の柔らかな笑みがあった。出合った時から大好きだった彼の笑顔が……
 気が付けば首を縦に振っていた。
「やったー!!じゃあ明日10時に出発ね!直江さんありがとう!」
「みんなーご飯よー降りてらっしゃーい」
 階下からタイミング良く義母の声が聞こえてきた。
 「はぁい」と元気に返事をして兄弟仲良く降りて行くと、風呂から上がったばかりの父親がすでにビールとつまみで一杯やっていた。
「お先に頂いてるよ。ほら早く座りなさい。今日のご飯は豪華だぞ」
「うわぁ!カニだ!」
 食卓の真ん中でグツグツ煮えていた鍋を見て、高耶と美弥は同時に叫んだ。
「これは豪勢ですね」
 喜ぶ子供達に、父親は嬉しそうに目を細める。
「今日、得意先の人から貰ってきたんだよ。なんでも知り合いの漁師から毎年食べきれないほど贈られるとかでな」
 すごいすごいと満面の笑顔ではしゃぐ高耶と美弥は、義母に言われて競うように手を洗うと、大急ぎで席につき手を合わせた。
「いただきまーす!」
 元気のいい声を上げて、家族全員そろっての楽しい夕食がはじまった。
「いっぱいあるから、どんどん食べてね」
「すっげー美味い!」
「お兄ちゃーん、身が上手く取れなーい」
「ほら、貸してみろ」
「信綱君もビールどうかね?」
「あ、いただきます」
 湯気の中に、幸せな家族の顔が浮かんでいた。数年前の仰木家では、夢にさえ見ることもできなかった風景だった。
 その眩しい景色から目を逸らすように、高耶は、そっと目を伏せた。


 母が亡くなったのは高耶が小学4年の時だった。その母の死を皮切りに、仰木家は呪いをかけられたように数々の不幸にみまわれ奈落の底へと突き落とされていった。
 父親の勤め先が倒産したのは、まだ母の喪も明けぬ頃だった。退職金ももらえず、再就職先もなかなか決まらず、不安の日々が長く続いた。
 なんとか新しい就職先が決まったものの、働き出して一年ほどたったある日、父は倒れた。連日の深夜残業による過労が原因だった。2日で退院したが、高耶らの猛反対で結局会社は辞めることになった。
 次の職がなかなか決まらず、過労で倒れるほどがんばって貯めた貯金はどんどん減っていった。
 あんなに汗水たらして働いたのに……
 贅沢ひとつせず、真面目に一生懸命に生きているのに……
 父の報われない思いは、日に日に恨みや自暴自棄へと変わってゆき、つなぎの仕事も手につかなくなり、貯金が底を尽きる頃には酒に溺れるようになっていた。
 酒を飲んでは暴れ、高耶らにたびたび暴力を振るう日々が続いた。怒号、悲鳴、物が壊れる音、殴られる音、そんなもので満ちた家は家庭ではなく牢獄だった。
 その頃のことを今も父は詫びてくる。そしてそのあと必ず「立ち上がれたのはお前たちのおかげだ」と、「絶対に幸せにしてやるからな」と、そう言うのだった。
 その約束を父は今、立派に果たしている。


「―――でね、明日みんなで映画観に行くことになったの!ね、お兄ちゃん?……お兄ちゃん?聞いてる?」
「ん?……あ、ああ、聞いてる聞いてる」
 思い出の中の泣いてばかりいた妹は、今は満面の笑みを浮かべていた。その笑みにつられるように高耶も顔をほころばす。
「かっこいいお兄ちゃん2人を独り占めできて美弥しあわせ!」
「こら美弥、信綱君には先週も遊んでもらったんだろ?少しは遠慮しなさい。これじゃあ、信綱君はデートのひとつもできないじゃないか」
 うかれて舞い上がっている娘に父が釘を刺すと、直江があわてて口を開いた。
「いえ、そういう相手はいないので……」
 だが時すでに遅し。義母が唐突な仕草で皿と箸をタンッとテーブルに置いた。
「信綱、今おつきあいしている方いないの?いい人がいるならちゃんと紹介してちょうだい。あなたもそろそろ結婚してもいい歳なんだし。あなたが選んだ人ならどんな女性でも母さんは認めるつもりだけど、でも、あなたは金銭面が特にルーズだから、堅実なしっかりした奥さんがいいと思うのよねぇ。あなたを尻に引けるくらいの強い女性じゃないと。それでいてあなたの我侭や甘えたな部分も許容してくれる心の広い人で、更に料理上手なら理想ね。あなたの会社は女性社員多いでしょう?探してみたらひとりくらいいないかしらそういう女性。ねぇ聞いてる信綱?」
「……聞いてますよ」
 こうなったら、誰も彼女を止められない。普段は春のような空気をまとった穏やかで優しい義母だったが、この話題になると人が変わるのが常だった。話をふってしまった父が、申し訳ないと、直江に目配せをする。
「でね、隣の奥さんは私と同い年なのに、もう孫が2人もいるんですって。うちの息子は彼女すらいないって言ったら、今度いい人を紹介してあげるって言われてね――」
 義母の話は、前置きや例文が変わるだけでいつも行き着くところは同じだった。
『素敵な女性と結婚した息子が実家のそばに家を建てて住み、ときおり孫を抱いて遊びに来る』というのが私の夢なのだと、直江の愛想笑いが引きつるまで延々と語って聞かせるのだった。
 高耶は味気なくなったカニ身を素早く口にかきこむ。
「――2、3年前までは、休みの日といえばデートに出かけていってたのに、今では仕事仕事で女性の影もないんだから困ったものだわ」
「ごちそうさま」
 義母の息継ぎに合わせて、高耶はパンッと手を合わせた。
「あら?高耶君、もういいの?」
「うん、もうお腹いっぱい」
 満足そうな笑みを浮かべながら自分の皿を流しに入れ、階段を上がる。その背中に直江の視線を感じた。それは自意識過剰の勘違いか、未練が見せる幻なのか……


 部屋に入って静かに鍵を閉めると、高耶の口から暗い息が吐き出された。ベッドに腰かけ、クッションを腕に抱きしめる。この一連の動作はもう癖になってしまっている。
「直江……」
 いつか彼に触れられた唇に指を当てる。
 あれは今年の春――あたたかな小春日和の出来事だった。
 リビングのソファーで眠っていた高耶にそっと口づけ、悲痛な声で「愛している」と言ってくれた直江。
 あの時、高耶は眠ってなどいなかった。そしてきっと……直江もそれを知っている。
「直江……」
 高耶はクッションをぎゅっと抱きしめる。
(直江……好きだ)
 彼に言えたらどんなにいいだろう。誰もいない鍵のかかった部屋の中でさえ、それを口にするのをためらう。階下から響く笑い声が高耶を責める。
「なおえ……」
 行き場の無い思いは、涙となってこぼれ落ちた。













納多'sコメント

Not Found』の管理人様、イッカク様から頂いたリクエスト小説を
ようやくupさせていただきました。遅れて本当に申し訳ないですι
 お題は「兄弟モノ」。禁断の兄弟愛ですよ、皆さん!
というか美弥ちゃんが羨ましいってレベルじゃない。
世の中にこんな不公平なことがあって良いのだろうかってぐらい。
あぁウチにもこんなお兄ちゃんがいたらなぁ……。



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