<2> 「つかれた……」 夕食の後からずっと鬱々と塞ぎこんでいた高耶は、洗面台に手を付いて、ふーーっと長い息を吐いた。 鏡の中には、疲労をにじませた暗い表情の男がいる。これが恋やつれというものだろうかと高耶はしみじみと眺めてみる。色っぽくなったり艶っぽくなったりするという話を聞いたが、単にやつれて陰気になったようにしか見えなかった。 「おつかれ様です」 暗い廊下から響いた声に高耶はビクリと肩を揺らして振り返った。 「驚かせましたか?」と、少し笑いながら洗面所に入ってきたのは、もう寝ているとばかり思っていた直江だった。 「ま、まだ起きてたのか?」 時計の針は午前2時を回っていた。 「ええ、月曜の朝に必要な書類を準備していたら思いのほか手間取ってしまって」 今までパソコンと向かい合っていたらしい直江はそう言って、辛そうに目頭を指で押さえる。その姿にもつい見とれてしまいそうになった高耶は慌てて目をそらし、さっき置いたばかりの歯ブラシを再び口につっこんだ。すると、肩にばさりと温かいものがかけられた。鏡を見ると、直江のブラウンのカーディガンを肩にかけた自分が映っている。 「それを着てください。まったくあなたは薄着ばかりして……ああ!裸足じゃないですか!」 直江はスリッパを脱ぐと、それも高耶に履かせ、長すぎるカーディガンの袖口をいじっていた高耶の手をとって、丁寧に2つ折りにしてくれた。 「さんきゅ」 直江の体温を残したそれらに包まれて、はじめて体が冷え切っていたことに気付く。彼の体温に体も心も溶けてゆくようだった。 高耶はゆるみそうになる顔を引き締め、歯を磨くふりをして鏡ごしに直江の様子を盗み見た。直江はオフホワイトの地にグリーンのストライプのパジャマを着ていた。高耶の着ているのは同じくオフホワイト地にブルーのストライプ。義母が買ってきた色違いのパジャマだ。直江が口に含んだ歯ブラシも高耶と色違いである。四角い鏡に映るこのしあわせな風景だけを、切り取れたらいいのにと高耶は思う。 ふたりは無言で歯を磨く。広くはない洗面所では、歯ブラシを動かすたび、ふたりの体がかすかに触れ合う。そのたび高耶の胸はせつなさに軋んだ。 「高耶さんは、こんなに遅くまで勉強ですか?」 交替で口をすすぎ、タオルで水を拭っている高耶に直江が聞いてきた。 「いや、その、途中でうたた寝しちまって、今起きたとこ」 「……あなたはどこででもすぐ寝てしまいますよね」 一呼吸置いてから、直江が言った。その瞬間、高耶の心臓がドクンと跳ね上がる。 「リビングのソファーとか?」 するりとそんな言葉が口をついて出ていた。 顔を強張らせた直江と鏡ごしに目が合う。 はっと我に返った高耶が早口で「あのソファー居心地いいんだよ」と言い添えると、「確かにそうですね」と、直江も何事もなかったように返し、ひととき凍りついた時間がまた穏やかに流れ出した。高耶は安堵と同時に、落胆している自分の本心を知る。 「変なところで寝て、冷えて風邪をひかないようにしてくださいね」 直江は、俯いてしまった高耶の髪を優しくくしゃりとなでた。その手が、なぐさめているようにも詫びているようにも思えた。 (オレの本当の気持ちを、直江は知っているのかもしれない) 前から思っていた仮説が高耶の頭をよぎる。 (いや……きっとばれてる) 無意識に熱く見つめてしまう視線に、勘のいい直江が気付かない訳がない…… こうやって直江に触れられるだけで赤く染まってしまうこの頬や耳に、気付かれてない訳がない…… (だけど……) 直江は何も言わない。それは、あのソファーでの告白に対して沈黙を続ける高耶の態度が、答えなんだとわかっているからなのだろう。 直江はあの告白の後も、それまでと変わらずいい兄でいてくれている。それが高耶の望みだから、と。 高耶が選んだ答えは、この幸せな家を守ること。家族の笑顔を守ること…… 誰も見ていない洗面所で、兄弟ゴッコを演じているのが滑稽すぎて泣きそうになった。 (「すきだ」と、そのたった3文字を口に出せば、この大きな胸に飛び込めるのに……) 高耶は唇を噛み締める。――この口がほんとうのことを吐き出さないように。 ぎゅっと拳を握り締める。――この手が彼を求めないように。 高耶はタオルを洗濯カゴに放り込むと、逃げるように洗面所を出る。 「じゃ、おやすみ」 「……高耶さん!」 その背中に切羽詰った声が投げかけられた。 高耶は、びくりと体を揺らして立ち止まる。 カーディガンの裾をぎゅっと握りしめ、固唾を呑んで次の言葉を待つ。 「……おやすみなさい」 廊下に、おだやかな義兄の声が響いた。 (意気地なし……!) 直江も自分も。 理不尽な怒りを抱えたまま、高耶は振り向きもせず部屋へと戻っていった。 |
納多'sコメント
「意気地なし……!」
高耶さんにそんなことを言われて罵られてみたい。
そんなことをふと考えてしまう今日この頃です。
でも実際こういった状況に直面して、
それでもなお自分の思いを貫き通すのは
相当な覚悟と勇気のいることだと思います。
本来なら年長者が諌めねばならない立場なのに、
直江ときたらこのとおり……(笑)。
まぁそれでこそ、直江信綱が直江信綱たる所以ですよね。
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