<4> 「じゃあ帰るわ。なぐさめて欲しくなったらいつでも電話しろよ」 「誰がするか」 軽口を叩きながら、高耶は玄関で千秋を見送った。 千秋の背中が角に消えると、入れ替わるようにダークグリーンの車がガレージに滑り込む。直江の車だった。 高耶は反射的に自室に逃げかけた足を踏み止まらせ、少し迷ったあと、直江を出迎えることにした。今日はなんとなくそうしたい気分だった。 「おかえり」 玄関先で待ち受けていた高耶に直江は少し驚いた顔をして、そしてふわりと顔をほころばせた。 「ただいま高耶さん」 「おつかれ。今日は早かったな」 「休日出勤で残業はしたくないですよ」 「あはは。みんな今日は帰り遅くなるってさ。腹減ってる?メシは用意してあるけど、親父らが帰るまで待てるか?」 千秋とめいいっぱい笑って肩の力が抜けたせいか、いつもより自然に話せた。高耶は心の中でおせっかいな友人らに感謝する。 「機嫌がいいですね。今日何かいいことありましたか?」 「んー、ダチが遊びにきてただけ」 「……さっき千秋とすれ違ったんですが」 ぎくりと高耶は肩を揺らした。 「えっと、うん。そう。千秋だけじゃなくて譲も来てたんだけど」 高耶が気まずそうに答えると、直江の目に冷ややかな影が射した。そして、彼のまとう空気が不穏なものになってゆくのを感じた高耶は、まずったなぁと口元に手を当て、視線を落とす。 以前、高耶に酒を飲ませたあげく無断外泊させたことのある千秋は、直江の中ではブラックリストのトップに上げられているらしく、彼が高耶に近付くのを快く思ってはいなかった。千秋が遊びに来た日は、こうやって直江の機嫌が急降下するのが常だった。 「あ、あのさ、あいつ直江が思ってるほど悪いやつじゃねぇから。ふざけたとこはあるけど、根は意外に誠実だし……だからそんな顔すんなよ」 千秋に半ば強引に酒を飲まされたのは事実だが、それは直江とのことに落ち込んでた自分を励まそうとしてのことだった。そのせいで千秋が悪く思われては申し訳ない。今日こそは誤解を解いてやらなければと、高耶は必死にフォローする。 「あいつ素直じゃねぇだけで結構やさしいし、信用できるやつだし、いざって時には頼りになるし……」 しかし、言葉を重ねれば重ねるほど、直江の機嫌は悪化してゆくばかりだった。イライラした手つきで靴を脱ぐ直江の様子に、高耶は困惑する。 「ほんとに千秋はいいやつなんだ……」 「やけに肩を持つんですね」 高耶はぎくりと立ちすくむ。 冷ややかな一対の目が高耶を射すくめていた。こんなにも怖い顔をした直江を、高耶は今まで見たことがなかった。 「だって……一応ダチだし」 動揺する高耶に直江は一歩詰め寄った。怯えるように高耶が後ずさると、すぐに背中が壁にぶつかる。更に間合いを詰めてくる直江の胸を、高耶は反射的に手で押し返した。 「ど、どけよっ」 しかしその手はあっけなく掴みあげられる。 と、その時、直江が息を呑んだ。 「……何ですかこれは?」 「え?」 直江ははっとしたように、高耶のもう片方の手も乱暴に掴み上げる。 「何すんだよ!」 「この痣はなんですか?!」 掲げられた高耶の両手首に、指の跡がくっきりと赤く残っていた。 「あ……それは、さっき千秋に掴まれて……痛っ」 痣の上に直江の指がくいこむ。 「なっ……離せって!」 得体の知れない恐怖に駆られた高耶は、直江の手を振りほどこうとがむしゃらに暴れた。ドンとぶつかった下駄箱の上から、義母が作った松本てまりが転がり落ちて、視界の片隅でテンテンと跳ねる。 「はなせよっ!」 直江は無言のまま、暴れる高耶の両腕を彼の頭の上でひとつにまとめ上げ、自分の体を押し付けるようにして彼の動きを封じた。 「許さないっ……」 大きな手が高耶の顎を掴み乱暴に仰向かせる。次の瞬間、高耶の唇に熱いものが押し付けられていた。 「……っ!!」 睫が触れそうな距離に、苦しげに細められた鳶色の瞳があった。驚きに見開いていた高耶の目が涙ににじむ。 (直江……) 高耶は直江に口づけられていた。そう認識した時、高耶は気が狂うかと思った。 直江は、激情を口移しするかのように熱く強く、執拗に高耶に口づける。一呼吸も逃さないというような直江のキスに、高耶は思考すら吸い取られる。 仰のいた首筋を直江の手になでられ、高耶は体を震わせた。 (なおえ……なおえ……) 何度も何度も角度を変えて貪られる。荒々しかった直江の手は、やがて高耶の背をやさしく抱き寄せ、震える背中をいたわるようになでた。高耶はたまらず、開放された手を直江の首に巻きつけた。 「なおえ……っ」 激情をぶつけてくる直江に、つたない仕草で応えると、それを上回る熱さで返された。 高耶の口内に熱く濡れたものが押し入り、舌を絡め取られる。熱い息と、濡れた音が玄関にこぼれた。 ひとつに溶け合おうとするかのように、ふたりは唇を重ね合った。 彼らを正気に戻したのは、電話のベルだった。 「事故で渋滞?……ああ、こっちは大丈夫」 受話器を握る直江を、高耶はぼんやりと眺めていた。力の入らない足を床に投げ出し、直江の冷静な電話応対をよそ事のように聞いていた。 「……ああ、わかってる。じゃあ気をつけて」 カチャリと受話器が置かれた。そのままの姿勢で直江は動かない。 青ざめた直江の横顔に、ぽつりと高耶が言った。 「……電話、何て?」 「母さんと義父さんからでした。渋滞に巻き込まれて帰るのが遅くなるんだそうです」 「そう……」 それだけ言って高耶は、まだ熱を孕んだままの唇を閉ざした。 (体が……熱い……) 触れられた唇が、頬が、首筋が、背中が、熱に浮かされている。 めまいのするような喜びと、それと同じだけの罪悪感…… 高耶は膝を抱えてうずくまる。 「……すみませんでした」 長い長い沈黙を破ったのは、直江だった。高耶がゆるりと顔を上げる。 「すみません……私は……ひどいことをした」 直江は手で顔を覆っていた。掻きむしるように肌に爪を立てる。 「直江……」 「忘れてください」 高耶は目を見開く。 「忘れてください……」 脱いだばかりの靴をはき、直江は出て行った。玄関の扉がパタンと音を立てて閉じるのを、高耶はただ茫然と見つめることしかできなかった。 車のエンジン音が遠のき、その残響すら消え去るころ、高耶の口から嗚咽がこぼれた。 その晩直江は帰ってこなかった。 夜遅くに父親と共に帰宅した義母が、駅前で直江がきれいな女性と腕を組んで歩いていたと、嬉しそうに報告してくれた。 (そういうことかよ……) 直江は一歩踏み出した。 高耶に背を向けて。 ――忘れてください。 どうやって忘れろというのか。 ――忘れてください。 直江の悲痛な声が、いつまでも頭にこだましていた。 翌朝、高耶が居間へ下りると、リビングに直江の姿があった。 いつものように「おはようございます」とあいさつをされ、「はよ」と高耶もいつも通りの返事を返す。 「おはよう高耶くん。すぐ朝ごはんにしますよ。美弥ちゃんテーブル拭いてくれる?」 「はーい」 家族で朝食をとり、気味悪がる美弥の前で高耶はタカナシの牛乳をパックごと一気飲みして、日課の腹筋と腕立てふせをする。それはありふれた日曜日の朝だった。 昨日の出来事は気配すら残ってはいなかった。まるで存在しなかったかのように。 いつもの風景から、自分の心だけがどこかに消えてしまったような気がした。 その日、直江と高耶は義母から買い物を頼まれ隣町の大型電気店まで車で出かけた。なんでも開店セール中に買い物をすれば、ひとり一つずつトートバッグやランチボックスなどの粗品がもらえるらしい。 人ごみを掻き分けながらFAX用インクや掃除機用の紙パック、電球などの消耗品を買い物カゴに入れ、レジ前にできた長蛇の列に加わってようやく清算を終えた時には、直江も高耶もいささかぐったりとしていた。 店の出口で粗品を受け取り、義母からの指令を無事に果たしたふたりは、その帰り道に美味いと評判のそば屋に立ち寄ることにした。 昼をだいぶ過ぎた時間だったのが幸いして店内の客はまばらだった。休憩も兼ねてじっくり新そばに舌鼓を打ったあと、「美弥には内緒にしとこうな」と口裏を合わせて笑い合った。 車が家に着いた時、高耶は助手席で眠っていた。 ガレージに車が入りエンジンが停止しても高耶は目を開けず、少し倒した背もたれに全身をあずけ、規則正しい呼吸を懸命に繰り返していた。 直江の視線を感じる。直江の押し殺した息遣いが聞こえる。高耶は全身を神経にして直江の気配を感じながら、細い呼吸を繰り返す。 その長い静寂が意味を持ち始めた時、カチャリという金属音が小さく鳴った。直江がシートベルトを外した音だった。高耶は、膝に置いた手を知らず強く握り締める。 スーっという微かな音を立ててベルトが巻き戻り、運転席の座席が微かに軋んだ。 「……着きましたよ高耶さん。起きてください」 高耶は息を止めた。 「早く家に入りましょう」 それは穏やかでやさしく、だけど迷いのない声だった。 ―――早く家族になりましょう。 そう言われたような気がした。 夕食のあと、高耶は千秋のアパートへ転がり込んだ。 千秋の顔を見た瞬間、水風船が割れるように泣き叫んでいた。 「直江……直江直江っ!」 近所迷惑も考えず、声を出して泣いた。 弟として接する直江。兄として慕う自分。望んでいた現実が、こんなに苦しいものだとは知らなかった。 「なにが『幸せな家』だ。ぶっこわしちまえよ」 毒づく千秋に、高耶は泣きながら必死に首を振る。 「邪魔な理性だな」と、千秋が吐き捨てたセリフを最後に、高耶の意識は途切れた。 |
納多'sコメント
直江、大人気ない……。
いや大人気のある直江なんて直江じゃないとは思いますが。
私は余裕の無い直江が好きですもの。
直江はことあるごとに自分を「大人」だと言っていますが、
精神年齢的にはある意味「子供」だということに、
最近になって気がつきました。
400歳を越えても、なお(笑)。
大人になるっていうことは、あきらめることを覚えることなのかもしれません。
でも直江は、絶対妥協などしない人だから。
大人ぶった顔して「仕方が無い」なんて言わない人だから。
だから直江は、一億歳になっても子供のままでいいのだと思います。
子供みたいでみっともなくても、ほしいものを「ほしい」のだと、
言い続けてほしいのです。
だから高耶さんのこともあきらめずにがんばってね。
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