<6> 「具合はどうですか?」 真っ直ぐ高耶の部屋に来た直江は、ただいまの挨拶もなく開口一番にそう聞いてきた。外はずいぶん激しく雨が降っているらしく、車で帰ってきたはずの直江の髪やスーツの肩あたりが少し濡れていた。 「まだちょっと熱があるけど、それ以外は結構元気」 「油断はいけませんよ。治りかけが肝心なんですから」 ベッドサイドに膝を付いた直江は、高耶の額に伸ばしかけた手をぎこちなく引っ込めると、代わりに体温計を差し出した。 「熱を計っててください。そろそろお腹すいてきたでしょう?何か温めて持ってきますね」 「いや、下で食べるよ。もう動けるし」 この狭い空間に直江とふたりでいるより、広いリビングに移動した方が精神衛生上よさそうだった。しかし直江は許してくれない。 「雨のせいで今夜は特に冷えてますからだめですよ」 「じゃあ布団ごと持ってく」 ピピピと電子音が響いた。高耶が体温計を取り出す。 「ああ、だいぶ下がりましたね。きっと今日一日の辛抱ですよ。もう少しですから、大人しくしてなさい」 高耶は直江を恨めしそうに見上げた。そんな拗ねた子供のような表情に直江は苦笑しながら、「もう少しですからがまんして」と言って、布団の上からポンポンとあやすように叩く。 「寝てばかりもう飽きた」 これも高耶の本音だった。 「でもまだ熱があるでしょう?」 「すげー暇。DVDが観たい」 「高耶さん、気持ちはわかりますがでも……」 「このままだとストレスで他の病気になりそう。てゆーか絶対なる。なってやる」 「高耶さん……」 押し問答の末、結局折れたのは直江だった。無理をしないならという条件で、しぶしぶ直江は了解する。 おかげで高耶は、久しぶりにリビングのテーブルで、消化にいい煮物やスープがメインの夕食をとり、直江を説き伏せてあったかいお風呂にも入り、直江の言いつけ通りソファーの上で布団に包まってお気に入りのDVDを再生させた。 「高耶さん?!」 それをキッチンのカウンターごしに見ていた直江が、突然目をむいて声を上げた。 「高耶さん!!髪が生渇きじゃないですか!!」 皿洗いを放り出した直江は、エプロン姿のままタオルとドライヤーを手に飛んでくると、有無を言わさずガシガシと高耶の髪をタオルで拭き、ドライヤー設定を最強にして湿った髪に熱風を吹きかけた。 「熱が下がりきってないっていうのに!何を考えてるんですか!」 「直江、もちょっと右に寄って。テレビが見えない」 「知りません」 「ドライヤーの音がうるさくてセリフも聞こえねぇ」 「私の説教も聞こえてないようですね」 「え?何て?アイスクリーム持ってきてあげましょうかって?」 直江ははぁーっと疲れたようなため息をつく。 「まったくあなたという人は……バニラとストロベリーどっちがいいですか?」 「ストロベリー!」 「聞こえているじゃないですか」 くすくすと高耶は笑う。髪をちゃんと乾かさなかったのは、無意識の計算かもしれない。そんな自分の狡さに目をつぶって、高耶は髪をすく直江の長い指に心を傾かせる。 直江とふたりきりの時間なんて辛いだけだと思っていた。 (だけど、やっぱり嬉しい……) 大切な人と家族でいられる。繋がっていられる。それで十分だ。そう思わなければ。 この先直江に恋人ができても、ずっと「大事な弟」でいられますようにと、高耶はそれだけを祈る。 「それにしてもよく降りますね」 大雨に暴風と雷も加わって、外はずいぶんと賑やかだった。 「今日は早く帰って正解でした。美弥さんのところは大丈夫でしょうか。向こうは大雪が降ってるかもしれませんね」 「あ、美弥から携帯にメールきてた。吹雪いて滑れないから、宿でトランプしてるってさ」 「それは可愛そうでしたね」 ドライヤーを置いて、直江は手ぐしで高耶の髪を整えてやる。高耶は気持ち良さそうに目を細めた。 「美弥さん、新しいウェアで初滑りするんだって張り切っていたのに」 「おまえに貢いでもらったな。おまえは美弥に甘すぎ……ぅわっ」 カッとカーテンに閃光が走り、その直後、ひときわ大きい雷が落ちた。その衝撃で微かに家が振動している。 「うっわー!ちょっとビビッた。今のすげー近所じゃねぇ?」 「ガスと火の元を確認してきます」 「頼む」 とその時、小走りにキッチンに向かう直江の背中が突然闇に消えた。再生中だったDVDもブツリと消え、雨の音がやけに大きく耳に届いた。 「……停電?」 家のどこにも、窓の外にも明かりひとつ見えない。 「高耶さん大丈夫ですか?そこから動かないで」 キッチンの方から直江の声が聞こえた。 高耶は声のする方へと目を凝らすが、さっきまで煌々とした明かりに慣れていた瞳には何も写らない。 「こっちは大丈夫だ。キッチンに懐中電灯なかったっけ?持ってこれるか?」 「ええと……今、探しています」 「2段目の棚のどこかにあったはずだ」 しばらくガサゴソと手探りで物に触れる音がして、「あった」という直江の小さな声が聞こえた。しかし、カチカチとスイッチを切り替える音がするものの、いつまでたっても高耶の目に明かりは見えてこなかった。 「電池が切れてるようです……」 「マジ?」 それならロウソクでもと、直江は棚や引き出しをバタバタ開けたり閉めたりしていたが、普段家事のひとつもやらない男に、どこに何があるかなど見当もつくはずがなかった。ましてや闇の中だ。 しょうがねぇなぁと、見かねた高耶がソファーから足を降ろした時、パリンッという嫌な音が耳に飛び込んできた。音はキッチンからだった。 「直江?!」 「大丈夫です。危ないからこっちにこないでください。私もそっちに行きますから……痛っ」 今度はガツンと何か固いものにぶつかった音がした。 「大丈夫か直江?!」 「ええ、足を椅子にぶつけただけです」 慎重に足を進めながら直江がリビングに戻ってくる。心配した高耶も、その微かな足音を頼りに手探りで歩き出す。 「高耶さん?どこですか」 「直江」 ふいに、空中を彷徨うふたりの手が触れ合った。どちらのものなのか、息を呑む音が闇にもれる。ふたりは、時が止まったように手を触れ合わせたままその場で立ち尽くしていた。 止まった時の代わりのように、高耶の胸はドクンドクンと鼓動を刻む。 (直江……) 高耶の顔がくしゃくしゃに崩れた。誰にも見咎められない闇の中で高耶は、愛しくて、切なくて、苦しくて、死んでしまいそうな、恋に狂った顔を曝していた。 (まだオレは、こんなにもおまえが好きだ……) 何もかもを包み隠すこの暗闇の中で、このぬくもりに触れてはならなかったのだと、そう気づいた時にはもう手遅れだった。昨夜必死に築いた堤防は一瞬にして決壊し、封じていた想いが止め処なくあふれ出た。 黙りこんだ高耶に直江も何も言わず、ただ、指先に力をこめる。 やがて、どちらからともなくゆっくりと指が絡み合う。罪を恐れるように、その指先はかすかに震えていた。 互いの指が根元まで深く交わう。掌が密に重なり、ひとつの実のように合わさった。想いがそこで結ばれるようだった。 (なおえ……) もう、下手な言い訳で取り繕える時間は過ぎていた。愛しさも切なさも諦めきれない想いも恋しいと泣き叫ぶ心の声もこんな家壊れてしまえと願う奥底の暗い本心も、この手がすべて伝えてしまっただろう。 闇の中に大きな稲光が走った。その光に互いの表情が曝される。 高耶の目の前にいたのは、慈愛に満ちた兄ではなく、恋情に狂うひとりの男だった。 次の瞬間、ふたりは強く抱き合っていた。 「あなたを愛しているっ……」 二度目の直江の告白に、高耶は涙をこぼしながらうなずく。 「オレも、おまえが好きだ……ずっと、ずっと好きだった……ずっと……」 拙い告白を繰り返す高耶の目元に、頬に、唇に、直江は唇をよせ、顔中にキスを落とす。 「あなたを愛している………狂いそうだ」 「……狂えよ」 邪魔な理性はどこにもなかった。 唇が深く重なり、そのまま高耶はソファーに押し倒される。ソファーに置かれていたクッションや布団を、直江は乱暴に投げ落とした。 「もう、「兄」には戻れません」 「戻らなくていい」 「辛い思いをさせるかもしれない」 「そんなのもう散々しただろ」 もれた笑みは、熱い口付けに溶かされる。 「あなたが欲しい……」 「オレも……おまえをくれよ……」 大きくて重い影が覆い被さってきた。 それは、微熱を持つ高耶の体よりも熱い体だった。 |
納多'sコメント
ああついにはめられていた枷が外されてしまったようです。
同性にして兄弟という2つの障害を乗り越えて、
ふたりは本当に結ばれることが叶うのでしょうか。
一時の衝動に身を任せることは簡単だけれど、
それから先、関係を維持していくには双方の努力が必要ですから。
難しい問題ですね。
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