第一話


 仕事の帰りに毎夜通る、暗い闇の帳に包まれた細い道。
 舗装された道路に、両際にひしめく家の軒並み。
 月の綺麗なその日、風めぐる初夏、どこかの家の庭から早咲きの梔子の香りが漂っていた。
 今夜もひとり、夜気に包まれながら家路を急ぎ、小路を歩む。
 歩くことは苦ではない。乗り合いバスから降りて家に向かう間、こうして外気に触れつつ、歩きながら季節の移ろいを感じるこの時間が好きだった。

 そんな通い慣れた路の、家並みの中の一軒。山茶花さざんかの垣に囲まれた、閑静な佇まいの平屋がある。
 整然と揃えられた黒い瓦屋根の下からは、山茶花の垣を通し、美しい笛の音が、夜のしじまにかすかに漏れ聴こえていた。
 直江はいつも、その笛の音の漏れ出ずる山茶花の木の前で、そっと歩む足を止めるのだ。
 細い細い、かすかな音色。本当に気をつけて耳を澄ましていなければ聴き逃してしまうような。
 薄い光の外灯に照らされた小道に、ささやかに響き渡る調べ。
 横笛の類だろう。邦楽に明るいわけではなかったが、神社で催される神楽舞の、あの懐かしい音色に、この笛の音は似ている気がした。
 立ち止まって、耳を傾けると、美しい旋律が体中に流れる。
 そうすると、どうしてか彼には、この笛の音の奏で主の心の流れを、するりと感じることができるのだ。
 ああ、今日はとても良いことがあったのだな、とか。
 ああ、今日は叱られることでもあったのだろうか。落ち込んでいるような音がする、とか。
 奏者の姿を見たことは、まだ一度もない。
 けれど、これはなんとなくだが、この笛の主はきっと若くて、未成熟で、そしてどこか淋しい気持ちを抱いた、優しい心の持ち主に違いないと、直江は思っていた。
 聞いた話では、この屋敷は代々横笛を教える家柄、北条流¥@家の家で、昼の間は教えを受ける弟子たちの笛の音であふれ、とても賑やかなのだそうだ。
 もっとも、直江がこの道を通るのは大概、早朝か夜遅くだったので、その様子を実際に耳にすることは無かったのだが。
 笛の奏で主も、この家の弟子のうちの誰かで、時分から考えても、家に住み込む内弟子か何かなのだろう。
 初めてこの笛の音を聞いたのはもう何年も前になるが、あの頃はまだまだ腕が未熟で、つっかえつっかえ練習する様は、微笑ましくあったものだ。
 最近は随分と上達したようで、時折ハッとするほど美しい音を出すようになった。
 それに今までは、音の色合いがどこかしら淋しげであったのに、上達したのが嬉しいのだろう。楽しげに奏でられる音を聴くと、仕事を終えたばかりの疲れた身体が、どこか軽くなるような気がした。
 この笛の主に、会ってみたいと思ったが、会わない方がいいのではないかとも思う。
 ここ数年で、自らの心の中に思い描いていた横笛の君≠ノ実際に会ってしまったら、夢が壊されてしまうかもしれない。
 そう思うと少し怖くて、いい加減少女趣味だとは自分でも思うが、物語の光る君のように、垣の隙間から彼の人の姿を垣間見ようとする気にはなれなかった。
 そんなことに思いを馳せながら、今日も山茶花の前に立ち止まって笛の調べに耳を澄ますと。

 ……何かが違うと、直江はその時思った。

 このところ、軽やかに響いていた笛の音が、耐えようもない悲しみに彩られているように思えた。
 なんだろう、これは。まるで大事な人を失った嘆きを、そのまま笛に乗せて吐露するかのように。
 悲嘆の旋律が、心の中に切々と響き渡る。その触れれば壊れそうな儚さに、今までに無い美しさを感じ取り、直江はしばしの間茫然と立ち尽くした。
 そろそろと、音を立てぬように歩みを進める。無意識だった。それぐらいにこの音色に魅せられていた。
 音がどんどん近づいてくる。すぐに四辻に出た。いつもならば、まっすぐ進まねばならないその道を、彼は今日初めて右折し、山茶花の垣根を辿り、裏口へと辿り着いた。
 そっと、竹で設えられた門に近づき、柵の上から中を垣間見る。

 そこには、月光のもと少年がひとり、佇んでいた。

 離れの軒下に佇んで、笛を構え、目を固く閉じながら、小さな音で、旋律を紡ぎあげている。
 夜空のように暗い黒髪に、真っ白い着物に身を包み。そして瞳を閉ざした横顔は、ちょっと驚くほどに整っていて、神さびた笛の音の流れる中、闇に映えるようなその少年の佇まいは、美しくも神々しくさえ見えた。
 心惹かれるままに、直江は思わず身を乗り出す。魅入られていた。無意識の世界で、彼に一歩一歩近づいていく。
 その拍子に、裏門の柵がギシリとなった。無粋な音が響き、途端に笛の音がやむ。
 少年が、驚いてこちらを振り向いた。暗褐色のまっすぐな瞳。目線が合って、直江は思わず身じろぐ。
 しばらく両者、見つめあったままそうしていたが、立ち去る気配を見せない男に、少年は小さな声でこう尋ねた。

「何か」

 ぶっきらぼうな口調。直江は内心激しく動揺しながら、彼の問いに答える。

「いま……そこを歩いていたら、笛の音が聴こえて……」

 思わず足を止めてしまったのだと、身振りをまじえながら説明した直江の言葉に、少年は、

「ふーん……」

 そう、何の感慨もなく呟いた。
 不思議にその様子からは、先ほどこの少年から感じた神々しさはどこにも見当たらない。
 直江に興味を無くした彼は、踵を返し、その場を立ち去ろうとする。その後ろ姿を見て、何を思ったのか直江は、知らず知らずのうちにこう問いかけていた。

「誰か、大事な方が亡くなったんですか?」

 ぴたりと、立ち去りかけていた彼が、その歩みをとめた。
 驚いたように、目を見開き、あの印象的な瞳で直江の顔を不思議そうに見つめ返す。

「どうして……そう思う?」

 家の明かりに照らされた、白い着物の少年を凝視しながら、直江は静かな気持ちで、問いの答えを述べた。

「あなたの、笛の音が……そう言っているように聞こえたんです」

 直江の言葉に、彼が再び目を瞠る。
 何か言おうとして、唇をかすかに開いたが、すぐに相手を小馬鹿にしたように口元をゆがめ、「鐘子期でもあるまいし……」と呟くと、

「家の者か、誰かが漏らしたんだろう。別に隠すことでもないが、もう、そんなに広まっているなんてな……」

 淡々と、一人納得して頷く。
 そうは言っても、直江は誰かに訃報を伝え聞いたわけではない。本当にただ彼の調べを聴いただけで、彼の思いを察したのだが。
 しかしどうやら「誰かが亡くなった」という読み自体は、的中しているらしい。

「ひょっとして、氏照兄のお知り合いか何か?」

 気づいたように、彼が尋ねる。察するにその氏照兄≠ニいう人物が亡くなったという相手なのだろうか。

「いいえ違います、私はただの通りすがりで。そこの大通りの向こうに住んでいる者なのですが……あ、良かったらこれをどうぞ」

 胸ポケットから、名刺入れを取り出し、その内の一枚を彼に差し出す。彼はとまどうようにしばしその紙片を眺めたが、そろそろと歩み寄ると、門越しに名刺を受け取った。

「直江信綱と言います。お見知りおきください」

 直江……?と、驚いたように聞き返すと、彼は「しまった」という風に口元を手で押さえ、顔色を変えた。

「直江家の方でしたか。これは大変な失礼をいたしました」

 慌てて頭を下げる少年に、「いいんですよ」と直江が首を振る。

「こんな暗いところに立ち呆けていた私が悪いんですし、あなたが怪しむのも無理はありません」

 気にしなくていいと、少年の頭を上げさせる。
 直江の家は地元ではよく知られた名家で、古くは戦国大名に家老として仕えていたという由緒ある家柄であった。
 家の事情には詳しくない直江であるが、慌ててかしこまる彼の態度から察するに、この少年の住む家とも、ある程度親交があるのかもしれない。

「お兄さんが、亡くなられたんですか……?」

 不躾な質問だったかもしれないが、直江の家の人間と知って、無下にはできないと思ったのか、彼は丁寧に答えてくれた。

「ええ。今日の午後の稽古中に、急に発作が起きて……病院に運ばれたんですが、先程電話があって、……亡くなったと」

 眉を寄せながら、だんだんと尻つぼみに語るさまは、なんとも言えぬ哀惜に彩られていた。

「……病院には、行かれなかったんですか」

 首をゆるゆると振る彼に、「どうして?」と聞く。
 こんなに悲しそうなのに。兄のことを、とても大事に思っていただろうに、なぜ兄の死に目を見に行ってはやらなかったのだろう。
 瞳を揺らして、彼はきつく眉根を寄せた。

「そりゃ、行きたかったさ……でも奥様が……っ」

 感極まったのか、口調を荒げてそう言ったが、すぐにハッと気がついて、気まずそうに口を噤む。
 ……どうやら、初対面の人間が迂闊には聞けないような、込み入った事情があるらしい。

「すみません……不躾なことを聞いてしまいましたね」
「いえ……」

 そのまま、彼は黙り込んでしまう。直江は気まずい空気をどうにか払拭しようと、何気ない口調で、別の話題に移した。

「私は……仕事の帰り道にここを通るんですが、いつもこの時間に笛を吹いているのは、あなたですよね?」

 彼が顔を上げた。困ったように、眉を下げている。

「聴こえてたんですか?」
「ええ、たまにですが」
「参ったな……いつも音が漏れないようにしていたつもりなのに」
「いえ、たぶん心配せずとも大丈夫ですよ。私は先天的に、人より耳が良いんです」

 本当にかすかな、少年の笛の調べをこうして聴き取れていたのは、おそらく直江だけだろう。

「人より耳が良いなんて……変わってるな。不便でしょう?」

 普通より多くの音を拾える耳では、寝る時うるさくて眠れなさそうだと、同情するように呟く彼に、直江は苦笑し、

「確かに、不便も多いですが、こうしてあなたの笛の音を聴くことができたんですから、人より耳が良くてよかったですよ」

 そう、やわらかな口調で告げたのだが、少年は訝しそうに首を傾げた。

「オレの笛なんて……聴いても仕方ないだろうに」
「そうですか? とても綺麗な音だと思いますよ」
「そんなこと……。オレなんかより、氏照兄の方がずっと綺麗なんだ。技術的にも優れてるけど、なにより音がびっくりするほど澄んでて、オレも、いつかあんなふうに吹けるようになりたいって、ずっと……思ってたのに……」

 語るうちに、兄のことを思い出したのだろう。
 淋しげに俯いて、キュッと拳を握って、彼はポツリと呟いた。

「もう……兄さんの笛、二度と聴けないんだな……」

 直江は、笛をその手に持ち闇夜の中立ち尽くす少年を、声もなく見つめた。
 月の明かりで、彼の横顔が青白く光る。
 閑静な住宅街に人通りは無く、直江の耳に届くのは、ただ己と少年の息遣いだけだった。
 しばらくそうして、二人無言のまま佇んでいたが。

「……すみません。オレ、さっきから失礼なことばかり言って……」

 くだけてきてしまった言葉遣いを、こちらに侘びる彼に、直江はやさしく首を振る。

「いいんですよ。その方が話しやすいでしょう? ……お兄さんを亡くされたばかりで、おつらいでしょうが、元気を出して」

 初対面の相手が、こんなことを言うのはずいぶん無責任だったかもしれないが、彼は直江の瞳を見つめ返すと、コクリとゆっくり頷いた。
 鈴虫の鳴き声が、ちりちりとこぼれていた。
 遠くで、どこかの飼い犬の遠吠えが、初夏の夜に淋しく響いていた。



「また……あなたの笛を、聴きに来ても良いでしょうか」

 去り際、門の柵をつかんでそう尋ねた直江に、彼は驚いたように目を見開く。

「しばらくは……兄さんの喪に服さなきゃいけないから、楽曲の類は……」
「それなら、忌明けの後に。また聴きにきても良いですよね?」

 渋る彼に、なおも言い募る直江に根負けしたのだろう。少年は苦笑しながら、たしかに一つ頷いた。
 直江は嬉しそうに微笑んで、「それでは、また」と、踵を返して立ち去りかけたが、

「そういえば、まだお名前を聞いてなかった。伺ってもよろしいですか?」
「あぁ……すみません気づかないで。仰木高耶です」
「仰木……高耶さん。北条≠ナはないんですね?」

 なにげなく聞いた直江の言葉だったが、彼は少し暗い瞳になると、

「ええ。まあ……まだ修行中の身で……」

 そう言って、言いづらそうに語尾を濁した。

「そうですか……けど、仰木高耶さん。響きが綺麗で、まるであなたの笛の音のような、そんなお名前ですね」

 サラリとそんなことを言う。
 突然の褒め言葉に、彼……高耶は少々面食らったように目を瞬かせた。
 その様子を、あたたかい微笑とともに眺めた直江は、やがてようやく踵を返し、

「それでは、また、あなたの笛を聴きに来ます」

 そういい残して、外灯に照らされた細い家路を、振り返りはせず、一人歩いて行った。
 その様子を、高耶と名乗った少年は何か不思議なものでも見るかのように、道の遠くにその影が見えなくなるまで、通りすがりの男の後ろ姿を眺め続けていたのだった……。



 これが、直江が十年近くの間、その胸のうちに思い描き続けていた横笛の君≠ニの、初めての逢瀬であった。
高山流水
篠笛悲恋物語
2005*5*29
web拍手
.....Home......Next.....
To Be Continued......
 さて、始まりました。もの凄く久しぶりの新連載、「高き山と流れる水、そして君思う調べ」です。
 なんだかやたらと長い題名ですが、どうしてこんな名なのか、わかる人にはバレバレですが、わからない人はわからないままの方が、ストーリーの佳境になって「ああ、なるほどね」と納得できて、感慨が増すのかもしれません。
 ところで本日は私の誕生日なんです。祝・二十歳なのです。ああさらば十代。こんにちは二十代。できることなら永遠の十代でいたかった……。
 にしてもこれで二十一巻の高耶さんと同い年なんですよね。登場人物紹介に初めて「仰木高耶、二十歳」と書かれたときは読者の間でかなり波紋があったそうですが、いまならその気持ちわかります。嫌なわけじゃないのだけど……何か物淋しい。
 ああでも、思い返してみれば十九歳の五月と言えば、高耶さんにとってはちょうど「十字架を抱いて眠れ」の中の時期なんですよね。そう思うと、いまの時を愛しく感じます。
 たぶん二十二歳の十月頃も、私は最終巻のことを思い、涙しているのでしょう。
 ……さて、しんみりしてしまいましたが、今回の連載はけっこう長期となりそうです。途中で力尽きないように頑張りたいものです。
 内容につきましては、また二話のあとがきにて。