第三話 卯太郎がそこでいなくなってくれれば、楢崎はすぐさま自室に戻っただろうに、そうは問屋が卸さなかったらしく、彼は頼みもしないのに食堂への道のりをしつこく途中までくっついてきてくれた。 親友との友情に、ひびが入りかけた瞬間である。(笑) 《仰木さん、顔色悪いですよ。具合が悪いんじゃありませんか?》 「いや、そんなことないさ……」 顔色が悪いのは、ビクビク怯えながら廊下を歩いているせいだ。 先ほどから隊士と擦れ違うたびに、「仰木隊長、おはようございます」「仰木さん」「隊長」「軍団長」と次々に頭をさげられて、楢崎は気分がいいどころか、もはや生きた心地がしていなかった。 廊下で出会う隊士達がいっせいに自分を注目していた。人ゴミに行き当たれば、映画で見たモーゼの十戒のようにザワザワと道が開けていく。 向けられる視線も様々だ。憧れの視線、好奇心の視線、畏怖の視線、険呑な視線、妖しげな視線……(っておい)。 図らずも楢崎は神狐の言ったとおり、「一日仰木高耶体験」を存分に体感していたのである。 (女王様にでもなったような気分だなぁ〜……ははは……) ヤケ気味の楢崎は、いっそニッコリ笑ってヒラヒラ手でも振ってやろうかと思ったが、逆に隊士達が振り返してきたら怖いのでやめておいた。 それにしても、居心地悪いことこの上ない。普段の高耶は毎日これほどの注目を浴びながら生活しているのか。それでも高耶は萎縮もせずに、いつも涼しい顔で館内を練り歩いている。 やはり人間のデキが違う。楢崎は改めて仰木高耶への尊敬の念を深めてしまったのだった。 渡り廊下に差し掛かろうとしたところで、卯太郎が楢崎に、 《わしはちょっと用事がありますので》 とようやく言ってきたので、楢崎は「やっと行ってくれるか!」と喜んで、 「ああ、分かった。また今度な」 と爽やかに微笑んで、角を曲がって行く卯太郎を見送った。その爽やか笑顔に周りの隊士たちが悩殺されていたことにも気付かず、楢崎は「うっし」と拳を握りしめた。 さて、これでようやく自由になれた。ここまで来たのだから食堂に行って食事をとるべきかどうか迷ったが、食堂は今の時間帯が一番混んでいる。ゆえにマズイ人物と鉢合わせる可能性も、より一層高まるということだ。 そんな危険を冒すわけにはいかない。今すぐダッシュで部屋に戻るのが賢明だ。 そう思って彼が、くるりっと踵をかえした瞬間、 「仰木ぃ!」 「うわあぁっ!」 いきなり現れたドアップの顔に、思わず尻餅を着きそうになった。 「む、武藤さん!」 「いよっす仰木!……ってなんだよ、そのさん≠チて」 「いや、む、武藤、背後につっ立ってんなよっ!」 「いやー悪い悪い、ちょっとびっくりさせようと思ってさぁー」 そう言ってニンマリ笑ったのは、武藤潮である。 楢崎は汗がダラダラ流れ出る思いだった。この潮こそ、高耶の良き理解者であり、赤鯨衆でもっとも近しい友人の一人だ。下手な演技で仰木高耶の偽者であることがバレやしないかと、それはもう気が気ではない。 もっとも、神狐の催眠暗示能力の高さは前回の高耶や前々回の直江の時に実証されたように、ある意味驚異的なほどにハイレベルであったので、その点についての心配はまったくの杞憂にすぎなかったのだが。 (とんでもねー人に出くわしちまったぁ〜!) 「こっち来てたんなら早く言ってくれれば良かったのによー。結構久し振りだよな、おまえと会うのも」 「あ、そうだな……」 「にしてもおまえ、今日は変わった服着てんじゃん。イメチェンか?」 潮は楢崎の俺ンジ色の長袖シャツを見ながら言った。夏真っ只中にも関わらず、呪法制御下に置かれた四国は気候が不順のため、7月であろうと長袖を着ていなければかなり寒い。 流石はカメラ小僧なだけあって、潮は早くも楢崎の(高耶の)服装の異変をチェックして見せた。 「ふーん、結構そういうカッコも似合うなぁ」 「ありがと……」 「でもそのシャツ、なんか楢崎が同じの着てたような気がするんだけど」 うえっ!?と思わず呻きそうになった。 まさかそんなところで不意打ちを喰らうとは思わなかった楢崎である。 確かにこのシャツを着た所を潮に見られたことはあるかもしれないが、それをまさか記憶していたとは……。 「さ、さぁ……俺は知らないけど」 「うーん、やっぱ同じだよ。これで楢崎とペアルック着てるところ橘に見られでもしたら、災難だよな〜」 「うっ、……た、確かに……」 楢崎は思わずコクコクと大きく頷いてしまった。 果たしてその場合、高耶が災難を被るのか、それとも楢崎が災難を被るのか……推して知るべしといった感じか……。(怯) それにしても今の発言から察するに、潮もあの二人が特別な感情で結ばれた関係であることを知っているらしい。 楢崎は何だか、同志を見つけた気がして、潮への親愛の情を募らせてしまった。 (しかし、あんなシーン見ちまったのは俺ぐらいのモンなんだろうなぁ〜……) げっそりと息を吐いた。しかし隊内のうちで誰も見たことが無いものを、自分だけが目にしている。そう考えるとちょっとだけ優越感が芽生えたが、それでも定期的に夢の中に出てきてうなされるハメになるのは勘弁してほしい。 ……などという埒も無いことを考えながら、楢崎がちょっぴりセンチな気分に浸っていた、その時だ。 「仰木隊長」 背後から、冷たい声音が楢崎を呼んだ。 この声音は聞き覚えがあった。実にあった。そうして目の前の潮の表情が、みるみる渋面に変わっていくのを見て、楢崎は背後で自分を誰何する者が誰であるかを確信したのである。 首をめぐらし、背後の人物を振り返った。 (兵頭隼人……ッ) 苦手な相手だった。特に楢崎は潮贔屓な所があったので、進んで話したことはないし、この無表情さが掴み所がなくて、どうも彼は兵頭のことが苦手だったのである。 もちろん兵頭の実力は認めている。ライフル片手に飛び込んでいく彼の戦場での猛烈な戦いぶりは、素直にカッコイイと思うし、室戸の連中が惚れこんでいるのも分からなくはない。 それに無表情な点でいったら、直江だって同じようなものだ。伊達に「赤鯨衆一冷徹な男」と呼ばれているわけではない。しかし直江は別に苦手ではなかった。そこら辺の境界線はけっこう微妙なものがあるのだが、まぁ、その話はまた後で語ることにする。 楢崎は兵頭の一重の双眸を上目づかいに見上げた。こちらに向けられる視線のあまりの鋭さに、思わずそのまま回れ右しそうになる。 しかし今、自分は仰木高耶なのだ。兵頭は彼の遊撃隊隊長時代からの部下である。あまり変な対応は見せられない。 「兵頭……」 「浦戸に来ちょったんですか、仰木隊長。ちょうどいい、少し報告したいことがあるので時間を……」 「ちょーっと待った」 兵頭の声を遮ったのは、潮の不機嫌丸出しの声である。 「仰木はいま俺と話してんだ。おまえの用事は後にしろよ」 と剣呑な調子で告げた。対する兵頭もムッと眉を寄せる。 「どうせ話と言ってもくだらんことじゃろう」 「……なんだと」 ビリビリッ、と両者交わされる視線に火花が散った。真ん中にいた楢崎は、恐怖のあまり泣き出しそうになった。 (お願いだからこんなところで乱闘だけはやめてくれええぇぇーッ!) なおも武藤と兵頭はにらみ合いを続けている。バックに雷でも落ちてきそうだ。底冷えするような冷気の中、楢崎は「もう耐えられないっ」とばかりに首を振って、二人に向って声を張り上げる。 「俺、急ぐ用事があるからっ、報告はまたにしてくれ兵頭っ。武藤っ、またな!」 そう早口に捲くし立てると、踵を返して廊下を駆け出した。 後方で「仰木!」「隊長!」と二人が呼ぶ声が聞こえたが、もはや逃げるが勝ちとばかりに、楢崎は振り返らず全速力で突っ走っていった。 角を曲がった所で、楢崎は視界に飛び込んできた部屋のドアを開けると、中に勢い良く飛び込んだ。 ドアを閉めると、ガチャッとしっかりと施錠をして、息荒く備え付けのパイプ椅子へと腰を下ろす。 「まぁったく……はぁ、はぁ、とんでもねぇ……ふぅ、はぁ……」 極度の緊張状態からやっと解放された。 潮と兵頭の仲が悪いことは前々から知っていたが、よりにもよって、人のことを取り合って騒動を起こすことはないだろうに。巻き込まれる方はたまったもんじゃない。 ところでここは、資料室と呼ばれる一階の小部屋だ。四国の地形やら歴史やら、赤鯨衆の公開情報その他もろもろの資料が保管されていて、隊士達の使用頻度は比較的少ない部屋である。 反対方向をつっきってしまったせいで、楢崎の自室からはより遠ざかってしまった。もはや危険を冒して戻るよりは、ここで人気が少なくなるまで篭城してしまった方が良策かもしれない。 幸いここは滅多に人の来ない穴場スポットだ。窓をl締め切ってカーテンを掛けてしまえば、どうにか今日一日をやり過ごせるだろう。 「にしても……腹減ったなぁ……」 下手に運動しただけに、腹の虫がキュルキュル言い出してしまった。 食べ盛りの身体に、丸一日飯抜きはあまりにもキツイ。 かと言って外に出てまた先ほどのような恐怖に苛まれることになるぐらいなら、飢えを噛み締めながら籠城している方が遥かに気が楽だった。 「うう……我慢、我慢……」 テーブルに顔を突っ伏して、楢崎は呟いた。何もすることがないし、ここは飢えを忘れるためにも寝てしまうに限る。 (あーあ……俺、なんでこんなツライめに合ってんだろ……) 自分は本来良いことをして、そのご褒美に願い事を叶えてもらった筈なのに……。 恩を徒で返すとは、まったくもってこのことである。 そうして高耶の姿をした楢崎は、先ほどからの極度の緊張の疲れもあってか、テーブルに伏してしばらくもせぬうちに、吸い込まれるように眠りについてしまったのである……。 |