第四話 カリカリカリ……。遠くのほうでかすかな音が聞こえる。 楢崎はとってもいい気持ちだった。今朝のような妙な夢を見ることも無く、誰の邪魔も無く、ぐっすりと深い眠りを貪っていた。 なんだかあったかいな。なんつーか、空気があったかい。包み込まれるような感じ。 心底ホッとするような、涙が出るほど嬉しいような。 なんか、幸せな気分……。 楢崎は、閉ざされていた双眼をゆっくりと開いた。風に揺れるカーテンがまず飛び込んできた。 そうして次に、となりから発されるカリカリというかすかな音が鼓膜を打った。夢の中で聞こえていた音だ。この音は、いったい何の音だったんだろう? 気になった楢崎が瞬きをして、突っ伏していた机から顔を上げて視線を巡らせると……。 (あ、れ……) 楢崎の座る椅子の隣に、一人の男が座っていた。 姿勢のいい男性だ。黒の上下に身を包んだ身体は、ピンと背筋が伸びていて、見ていてとても感じが良い。 風に揺れる茶色の髪。その下のスッと通った、羨ましいほど高い鼻梁。横顔がシャープで、冷たいぐらい端整な造作をしていた。 楢崎は呟いた。 「たち、ばな……?」 途端に男はこちらに視線を移す。何かメモを取っていたらしく、いままで忙しなく動いていた右手のペンを置くと、こちらを向いてニコリと優しく微笑んだ。 「起こしてしまいましたか、高耶さん」 楢崎はニ三度瞳を瞬かせた。 「タカヤ……サン?」 「寝ぼけてるんですか?」 直江が楢崎の顔を覗きこんで、右手で楢崎の前髪を掻き上げた。 そのまま優しい手つきで梳いていく。 しばらく気持ち良さそうに直江の手の動きに眼を細めていた楢崎は、数瞬後、ハタッと目を見開き、己が置かれている状況をじょじょにそして明確に認識した途端、思わず喚き声を上げた。 「うわあぁっ、たっ橘ぁ〜っ!」 真っ赤な顔で直江の手を払いのけた。 直江は楢崎の反応に眼を丸くした。 「どうしたんですか高耶さん。何か気に触ることでも?」 なおも右手を伸ばして頬に触れてきたので、楢崎はユデダコのように真っ赤になって、口を金魚のようにパクパクさせた。 「そ、そんなっ、たち…ば……っ」 至近距離ドアップで心配げに覗き込んでくる直江の顔に、楢崎は錯乱しまくった。 (うわああっ、なんでっ、なんでなんで橘が俺にぃいいーッ!) そう胸中で叫んで、 楢崎はやっと、やっと思い出した。 (そうだっ!俺、いま隊長の身体だったんだ!) 寝起きの頭が急速に動き出す。 そうだ、自分の身体は、本日の朝をもって仰木高耶となってしまったのだ。ゆえに直江は、こちらのことを高耶本人だと思いこんでいるのである。 直江は普段高耶のことを「仰木隊長」と呼んでいるから、「高耶さん」という呼びかけが聞きなれなくて大分戸惑ってしまったが、これは二人きりでいるときだけの、直江から高耶への特別な呼称なのだろう。 (落ち着けよ毅。そうだよ、隊長と橘は、その……俺が察するにいわゆる、恋人同士っつー間柄なんだ!だから今現在の状況は、ようするに恋人同士の営み≠チてやつなんだな!) 彼は自分でそう納得したところで、次の瞬間、再び頭から火が噴いた。 (いくら俺が隊長の身体だからって、俺≠ェ橘と営ん≠ナどうすんだよおおおーッ!) 楢崎は直江の手を逃れて、ズザザッと後方へずり下がった。直江の右手が、所在無げに宙に留まる。 「い、やぁ、その……なんでおまえが、ここにいるんだ?」 ヒクヒクしながら、隣の席に座る直江に問いかけた。 「資料を集めにきたんですよ。そしたらあなたが気持ち良さそうに眠っているから、起こさないように隣で静かに作業していたんです」 そう言って、テーブルの上に置かれた資料ファイルの数々を指差す。 「……鍵は?」 「そんなもの、《力》で普通に開けました」 《力》で開けるのは普通じゃないぞとツッコミみたかったが、楢崎は黙っていた。 とりあえず、直江がここにいる理由はわかった。 しかし他にも座る椅子はたくさんあるのに、どうしてわざわざ人の隣りで作業する必要があったのだろうか……? (あっ、そっか。寝顔見ながらやってたんだな、きっと……) そう思い至って、よせばいいのに直江が自分の(高耶の)寝顔を眺めている様子を想像したら、またまた顔中がカカァーッと熱くなってしまう。 そんな楢崎を見て、直江は、 「熱でもあるんですか、顔が赤い」 そう言って、楢崎の額に自分の額をくっつけてきた。 「☆×■+◎※▼*◇?♪★○#△〜ッッッ!!!!」 声にならぬ叫びを上げた楢崎は、もはや昏倒寸前だった。 直江の顔がこれ以上無いほど目の前にある。息がかかるほどに近い。このまま少し動けばキスができてしまう。 (か、勘弁してくれえええぇぇ〜っ!) 再び金魚と化した楢崎を、直江はやっと解放した。 カチンコチンに固まった彼を、本当に気遣わしげに見つめている。 「少し熱いですよ、具合が悪いんじゃないですか」 「い、いいぃぃやっ。別にっ、全然、んなことないからっ。き、気にしないで、くれっ……」 「……本当に?」 本当本当っ、とコクコク首を頷かせた。 直江は納得いかなげに眉を寄せていたが、それでもそれ以上追求することはよして、今度は違う質問を投げかけてきた。 「ところで、あなたはどうしてここに?」 「それは……そう、橘と一緒で、ちょっと調べ物があって来たんだけど、調べ終わったらいつの間にか眠っちまってな……」 苦しい言い訳を頭からひねり出す。そんな楢崎の努力を聞いているのかいないのか、直江は相槌も打たずに、少し不思議そうな顔をしてこちらを見つめている。 「高耶さん、他に誰もいませんよ?」 「え?」 楢崎には、直江の言葉の意味が分からない。 しかし次に告げられた台詞で納得した。 「どうして、いつものように直江≠チて呼ばないんですか?」 「え……ああ……」 つまりは自分が直江のことを、「橘」と呼んでいることに対して彼は疑問を呈しているのだ。 高耶は直江のことを普段は「橘」と呼んでいるが、二人でいるときだけは「直江」と、彼のことを呼びかけているのだろう。 高耶が橘を「直江」と呼ぶ理由を、楢崎は知っている。 仰木高耶の正体が元冥界上杉軍総大将・上杉景虎であることは、古参隊士の中で知らぬ者は一人としていないほどの周知の事実であるが、橘義明の正体を知る者は依然としてごくわずかで、古参の中でも上層幹部連中が知るのみである。 けれど、楢崎は知っていた。橘が仰木高耶と同じく、元上杉夜叉衆の一人・直江信綱であることを。 目の前の男が、自分たちのことを己の意志一つで一瞬にして調伏してしまえる人間であることを。そしてこの男の瞳が、常にして仰木高耶の姿だけを映し続けていることを、楢崎は知っていたのだ。 そのことを知って以来、楢崎はこの男の行動の一つ一つが、気になってしょうがなくなっていた。 「元上杉」という肩書きを恐れているとか、そういうわけではない。ただ、直江が時折見せるあの灼熱の瞳が、何を映し、何を思ってあれほどまでに苛烈な輝きを見せるのか、その理由を知りたくなってしまったのだ。 楢崎は直江の鳶色の瞳を見つめ返した。 「どうして、直江≠チて呼ばなきゃダメなんだ?」 高耶≠ゥら告げられた突然の質問に、直江は眼を見開いたようだ。 「そうですね……別にいけないということはありませんが、敢えて言えば、あなたに橘≠ニ呼ばれるより直江≠ニ呼ばれることの方が慣れているからですかね。何しろ四百年ですし……」 それに、と直江は言葉を切って、 「あなたの声が直江≠ニ、私の名を紡ぐ音が、好きなんです」 そう言って、とても優しく微笑んだ。 (うわっ……) あんまり綺麗に笑うので、楢崎の胸が途端にドキドキと鼓動を打ち出し始める。 普段は冷徹な橘義明が、高耶の前ではこんなに暖かい表情を見せるのか。こんなに優しげな笑顔を……。 そう頭で考える間にも、バクバクと心拍数が上昇していく。 おかしいっ、と楢崎は焦った。いつもならば、こんな台詞言われても「メチャクチャくっさ〜」と鳥肌立たせるだけなのに、今の自分の心臓は一体どうしたというのか、カンカンカンカンとまるで踏み切り状態だ。 (どうしちまったんだ、俺の心臓っ) 「高耶さん?」 「ええぇっ!……あ、何?」 不意打ちのような直江の呼びかけに、楢崎は思わず飛び跳ねるようにして答えた。 「やはり様子がおかしいですよ。もう少し休んでいたほうがいい」 直江はそう言うと左腕の時計に目をおとした。 その伏し目の横顔のアングルがあんまりにも格好良かったものだから、楢崎はドッキーンときて、思わず「うわぁっ」と両目を手で覆ってしまった。 「あと三十分ほどで昼食の時間です。私もそれぐらいには調べ終わりますから、それまであなたは眠っていてください」 「えっ、そっそんな、いいよっ、別に」 「よくありませんよ。人間休める時に休んでおかないと、後でその分ツケを払わされることになりますよ。ほら」 言い聞かせるようにそう告げると、直江は楢崎の腕を引っ張って、自分のほうへと引き寄せた。 彼は勢いで倒れこんでしまい、直江の肩に、ファサッと寄りかかる。 「肩を貸しますから、しばらくそこで眠っていてくださいね」 そういうと、直江は肩に楢崎を寄りかからせたまま、自分の作業に入ってしまった。 楢崎は動くに動けず、半ば茫然の体で石のように硬直してしまっている。 (ど、どどどどぉうしよう……っ) この態勢で眠れ、と言われても、眠れるわけがないではないか。 よりによってあの橘に、自分の半身を寄りかからせて眠るなどと。 楢崎は恐る恐る、直江の横顔を見上げた。 端整な額。形良い鼻梁。真剣な瞳。 ふいにその瞳がこちらに向けられたので、楢崎は慌てて眼を閉じた。 彼はしばらく楢崎の顔を見つめているようだったが、スイッと再び資料に視線を戻したらしい。 眼を瞑っていると、己の心臓の鼓動が、より一層ダイレクトに感じられた。 バクバクドキドキと、一向に治まりを見せようとしない。どうしたことだろう。本当にどうしてしまったんだろう。 寄りかからせた左半身から、直江の熱が伝わってくる。あたたかい、包み込まれるような熱。 その熱を感じ出すと、楢崎はじょじょに穏やかな気持ちになっていった。ホッとするような。安心するような。 楢崎は、この感覚に覚えがあった。ついさきほどまで感じていたものだ。数分前、机に伏して眠りについていた時、夢の中で感じていた熱。とても気持ちの良い、大切な大切なぬくもり……。 左から伝わってくるそのあたたかさを、心の中で、愛しいとまでに感じるようになって、 楢崎はやっと、この不可解な感情の正体を知った。 (わかった、これって、隊長の気持ちなんだ……) 楢崎の身体はいま、仰木高耶の身体に変身している。 神狐は「見た目だけだ」と言ったが、たとえ本質的には楢崎のままであるにせよ、神狐は確かにオリジナルの「仰木高耶」をコピーして楢崎の肉体としたのだ。高耶の感情の一部分までもが身体ごと楢崎へと移行していたとしても、なんら不思議はないのだ。 トクンッ、トクンッと心臓の鼓動が鳴り響き続けている。 胸の辺りがほわほわとして、とてもいい気持ちだ。 (そっか、橘と一緒にいる時の隊長って、きっといつもこんな感じなんだな……) さっきから引っ切り無しに鐘打っていた胸のドキドキの理由を知ったら、楢崎はホッとして落ち着いた気持ちになれた。 こうやって、直江が自分の隣にいるというだけで、ひどく幸せな気分だ。 そう大して密着したことなど無いはずの直江の身体のあたたかい熱が、何よりも慣れ親しんだものに感じられるのだから、楢崎には不思議だった。 そしてこの熱を、どこにも逃がしたくない、離したくない。いつまでも触れていたいとまで思ってしまう……。 (隊長って……本当に、橘のこと好きなんだなぁ……) うつらうつらと、意識の狭間で揺れながら、楢崎は思った。 やがて耐え難い眠気が押し寄せてくる。 楢崎は無意識に左手を伸ばして直江の上着の袖をギュッと握り、そうして満足したように微笑むと、ゆっくりと、再び眠りの中に落ちていった。 |