第五話

「高耶さん、高耶さん。起きてください」

 ジャスト正午、楢崎は直江の優しい呼びかけで眼を覚ました。
 眠気に耐えつつうっすらと瞼を開けると、いきなり直江の顔がドアップに映る。

「……っ!」

 楢崎は瞬間バッチリ目を覚ました。驚きのあまり思わず椅子から落ちそうになったが、なんとかテーブルを掴んで踏みとどまり、引きつった顔で直江を見上げた。

「お、おはよう……」
「おはようございます、よく眠っていましたね」

 ニッコリと微笑んだ。楢崎もつられて微笑む。
 どうでも良いが心臓に悪い起こし方だ。大体、直江の囁き声は既にそれ自体で精神衛生的に良くないという事実を、楢崎は今日初めて知った。特に耳元でやられるとたまったもんじゃない。

(そういう攻撃は隊長にだけにしてくれよぉ……)

 もっとも、今直江は自分のことを仰木高耶本人だと勘違いしているのだから、直江のことを責めることなどできないのだが。

(それにしても、恋人同士ならオレが偽者だって気付いても良さそうなもんだけどなぁ)

 それだけ神狐の暗示能力が優れているということだろうか。だとしたら凄い。あの橘義明を他のことならばいざ知らず、よりにもよって仰木高耶に関することに暗示をかけて騙くらかすだなんて、驚愕ものだ。
 あの神狐、自分でエリートだと自慢するだけのことはあるのかもしれない。
 何にせよ、気付かないならそのまま最後まで気付いてくれないほうが良い。本当のことが直江に露見したら、何をされるか分かったもんじゃない。(二度死ぬのはまっぴらだ……)

「さて、お昼になりましたし食堂に行きましょうか」

 直江が資料を整理して、おもむろに立ち上がると、楢崎に椅子から立つよう促した。

「久し振りですね、あなたと食事をご一緒するのは」

 嬉しそうに言うのだから、楢崎のほうも自然と表情が和む。
 それに何しろ、こちとら朝食抜きでハラペコなのである。食べ盛りの身体に空腹ほど辛いものはない。
 このまま直江と共に食堂に行けば、また何かイロイロと面倒なことに巻き込まれそうな気配がするが、どうしても空腹の前に食事の誘いは抗いがたい。

(うまく断る理由も見つからねーし、……いいよな。別に)

 そう己の心を納得させて、楢崎は椅子から立ち上がり、

「ああ、じゃあ行こうか」

と言ったのだが、直江は楢崎のことを、少し驚いたような顔で見つめていた。
 その様子を疑問に思って、問いかける。

「……何?」
「……いえ、珍しい格好をしているなと思いまして」
「あぁ、これのこと」

 楢崎は身につけているオレンジ色のシャツを見下ろした。

「そういう服も、似合いますね」
「あ、ありがと……」

 素直なお褒めの言葉に、楢崎は気恥ずかしくなった。
 もちろん、自分のことを褒められているのではない。直江は高耶のことを褒めているのだ。楢崎もそれはよく分かっている。けれどそれだけに留まらず、楢崎の中の「高耶的部分」が反応して、直江に褒められたことを嬉しく思っているのだから、自分のことでもないのに嬉しがっている自分を、気恥ずかしく感じているのだ。
 なんだか二人の間にほんわかした空気が流れている。
 そういえば、よく考えずともここは密室ではないか。密室の中で恋人同士が二人きりで肩寄せ合っているいまの状況は、今更かもしれないが、ひょっとしなくともいろいろとマズイのではなかろうか。

(オレ、寝てる間になんかされてねぇよなっ……)

 考えるだにちょっと恐ろしかったので、深く考えないことにした。
 世の中知らずにいた方が幸せという時もあるのである。
 知らぬが仏というやつだ。

 楢崎がサッサとここから出ようとドアの方へ踵を返すと、直江が「そうだ、高耶さん」ともうひとたび呼び止めてきたので、肩越しに振り返った。

「何だよ、今度は」
「今日は何の日だか、分かってますよね」

 唐突な言葉に、楢崎は目を丸くした。

「何の日って……」
「やっぱり忘れてたんですか。今日は7月23日でしょう?」

 7月23日……そう言われても、彼にはよく分からなかった。
 眉を寄せて考えてみたが、やはり分からない。
 なんだろう、今日が重要な作戦の決行日であったはずはないし、会議が入っていた覚えもない。だとすると、高耶本人に成すべき仕事が入っていたのか、それとも高耶が直江と以前に何か、約束を交わしていたのか。

「……高耶さん?」
「え、いや。そうだな、今日は7月23日だったな」

 結局よく分からないのだが、楢崎は思わず勢いで頷いてしまった。

「ええ。ですから、今夜少し時間を空けておいてくださいね。できれば11時ぐらいに私の部屋に来ていただきたいんですが、どうですか?」

 直江の言葉に、楢崎は固まった。

(ひょっとしてこれって、お誘い≠フ言葉……なのかっ!?)

 ひょっとしなくても、そうだろう。夜の11時、恋人を自分の部屋に招いてすることと言ったら、どう考えても一つしか思い浮かばない。
 思わず、先日目にしたあの、忘れようにも忘れ得ぬ忌まわしの情景が、脳裏に唐突に浮かび上がった。
 スポポッと頬に赤が散った。

(オ、オオオォォレにはできねーっ、あんなことはっ!)
「だ、っだだダメだ!今日は用事があって、多分行くのは無理だと思うっ!」

 楢崎は全憑依霊人生における最大の危機を脱するために、ブンブンと過剰なまでに首を横に力いっぱい振って見せた。

「そうですか……残念ですね」

 直江はしょんぼりと肩を下げた。
 その様子を見て、「なんか、こいつ……犬みてぇ」と思ってしまったのは、やはり楢崎の中の高耶的部分の影響が大きいだろう。

「でも、せめて5分ぐらいならどうにかなりませんか。渡したい物があるんです。この日のうちに」

とあんまり真剣な目で言うので、楢崎はなんだか動物愛護精神に火がついてしまい、思わず「5分ぐらいなら……なんとか……」と、頷いてしまった。
 まぁ、5分程度ならば、何かされる心配はないだろう。アレをするにはあまりにも時間が短すぎる。
 そう脳内で計算してから、楢崎はハタと気付いた。

(アレする時間は無くったって、5分もあればベロチューの一つや二つは軽くできんじゃねーかっ!)

 想像して頭が真っ白になったが、直江はそんな相手の様子に気付きもせず、「良かった……」とホッとしたように息を吐くと、

「それじゃあ今夜11時、部屋で待ってますからね」

 そう告げて、右手を上に持ち上げた。
 何をするのかと見ていると、直江の右手は楢崎へと差し伸ばされて、左頬にゆっくりとそえられた。
 そうして顔の輪郭をなぞるように指がすべると、右手はそのまま顎へとおちて、クイッと、楢崎の顎を持ち上げて、
 直江の顔が近づいてくる。
 楢崎は目を瞠った。

(これって……キ、ス……)

 まわらない頭がそう現状を認識して、脳が全身に神経を通して逃走指令を伝達しようとしたが、それより早く直江の唇が楢崎のそれに……、

 ガチャガチャガチャッ。

 ……触れるギリギリ手前に、妨害音の邪魔が入った。
 ピタリと動きを止めた直江は、不機嫌そうに眉を寄せて、小さく舌打ちすると楢崎から顔を離した。
 楢崎はその途端、ヘナヘナと後ろの壁に寄りかかってしまう。

(あ、あ、あ、あっああ危なかったあああぁぁぁ〜っ)

 ぜぇ、はぁ、と呼吸が極端に乱れる。はちきれんばかりに両眼を見開いていた。
 本当に危なかった。あと一瞬でも遅れていたらもう、自分は直江とキスしてしまっていただろう。

(いくら何でもっ、そんなことしちまった日にゃあ仰木隊長に顔向けできねぇっ!)

 というよりバレたら間違いなく殺される。しかも楽には逝けない。ひどく苦しく残酷で拷問に近い方法で無残に葬られて、海の藻屑となり海鳥の餌と化すのは間違いない。
 いや、むしろ抵抗する隙も無いほどに瞬殺されるか……。

 ガチャガチャッ。

 再び金属音が鳴り響く。楢崎を窮地から救った女神に等しきその騒音は、資料室のドアノブをガチャガチャとまわす音だった。

「あれ、おかしいな。どうして鍵がかかっとるんだろう?」

 室外から声が聞こえた。他の隊士が来たらしい。
 ドアの方を睨みつけていた直江は、楢崎の方を振り向いて苦く笑うと、

「食事に、行きましょうか」

 そう言って、楢崎の背中に手を添えた。

「え、……あ、あぁ……」

 ぎこちなくそう返して、今度こそ二人は資料室のドアへと歩を進めていった。

 ドアの鍵を開けると、外側の方から扉が開く。

「ああ、やはりここにいましたか。橘さん」

 ドアの向こうから現れた人物を見て、楢崎は驚いた。室外にいた隊士と思われた人物は、赤鯨衆心霊医師・中川掃部だったのだ。

「おや、仰木さんもいたんですか。いつ頃浦戸に?」

 中川がこちらに話を振ってきたので、楢崎は焦ってこめかみを掻いた。

「いや、今朝方あたりに、な……」

 しどろもどろな口調に少し首を傾げたようだったが、中川は「そうですか」と頷くいた。そして直江のほうを向いて、小脇に抱えていたファイルを広げると、何やら直江に報告のようなものを始めてしまう。
 蚊帳の外気味な楢崎は、傍らで二人の会話を聞いていたのだが、どうやら話の流れから、直江は今から緊急の用で、中村の砦に向わねばならなくなったこと。すぐさま向う必要があることが察せられた。
 直江は中川の報告を聞き終えて「分かった、今からすぐ向かう」と明確な口調で頷くと、楢崎のほうを振り向いて、

「すみません、仰木隊長。どうやらゆっくり食事をしている時間は無いようです」

 そう申し訳なさそうな、そして残念そうな口調で告げた。楢崎は首をふる。

「いやいいよ。また今度にしよう。それより早く向かったほうがいい」
「そうですね。……それでは今夜11時に。忘れないで」
「え……あ、うん。分かってる」

 そう頷いたのを確かめると、直江は「それでは」と、中川と共に廊下を渡って行ってしまった。
 取り残された楢崎は、直江の後ろ姿を見つめながら、所在無げに廊下の真ん中に立っていた。

(どうしよ……昼飯……)

 直江が行ってしまっては、己が止むを得ず食堂に向かう必要が無くなってしまう。
 しかし昼飯は食べたい。凄まじく食べたい。このまま食べなきゃ飢え死にするんじゃないかってぐらい楢崎のお腹はすききっていた。
 けれど、食堂に向かうのはどう考えても危険だ。直江という防波堤がなくなった以上、他の隊士達の来襲を避けることも出来なければ、今朝がたの潮と兵頭の争いに再び巻き込まれないとも限らない。

(でも……でも……っ)

 楢崎は苦悩と葛藤を抱えながら、窓際へと歩み寄った。
 外は依然として曇天で、夏だというのに日の光が弱々しく、夏の風物詩の蝉の鳴声さえも聞こえてこない。
 楢崎は溜息をついて窓の下を見る。
 その途端、彼の両眼が最大限にまで見開かれた。空腹が、一瞬にして見事に吹っ飛んだ。
 窓の下に、信じられないモノを発見してしまったのだ。
 駐車場の方面から颯爽と玄関への道のりを歩いてきた人物。黒のタートルネックのシャツに、同色のパンツ。その上に真っ白いロングコートを翻して歩むその人の横顔は、遠目から見ても整っていて、全身にどこかしら見るものを惹き付ける見えない光を纏っている。
 楢崎は窓の桟に乗り出して、食い入るように凝視した。間違いない、見間違いなどではない。あれは、あの人物は……。

(ついに来ちまったかっ!仰木隊長ッ!)

 真打ち登場、絶体絶命の危機っ。
 高耶が玄関へと姿を消したのを見届けて、楢崎は窓に寄りかかりながらパニック状態に陥った。
 ついに来てしまった。本物オリジナル仰木高耶が!現在不本意にも偽者仰木高耶になってしまった楢崎が、もっとも一番死んでも会ってはならない人物だ。
 こうしちゃいられない、早く、早くすぐにでもここを離れなくては。間違っても鉢合わせなどはしてはならない。資料室はもう使えない、早く、そうだ、自室へ戻らなくては!あそこなら絶対に誰も来ない。隊長と鉢合わせすることも無い。もっとも安全だ。早く行かなくては、仰木隊長がこちらへ向かってくる前に……!

 楢崎は駆け出した。一心不乱に駆け出した。あまりの速度に道行く隊士達が振り返っていったが、構いはしない。たとえこの直後に本物の仰木高耶に出会ったとしても、きっと自分の方を分身だと思ってくれることだろう。いまはただ、そんな心配よりもただ自室へと辿り着くことだけを考えろ!それが今の俺の成せる最大最重要任務だ!

 階段を駆け上がり、駆け走り、隊士たちと正面衝突しそうになりながらも止まりはせず、楢崎は全速力で館内を走った。高耶の身体の運動神経の良さを、楢崎は泣くほど感謝しながら四肢を思いっきり動かした。
 途中角を曲がった所で、誰かと肩がバンッとぶつかったので、

「ドコに目ん玉つけてやがる気ぃつけやがれっ!」

と何故か早口のべらんめぇ口調で捲くし立てると、相手の顔も確認せずに楢崎は再び駆け出した。
 怒鳴りつけられた人物は、廊下の向こうに遠ざかっていくその後ろ姿を茫然と見つめながら、訝しげに眉を寄せてその場に突っ立っている。

「いまの奴……いったい……」

 そう呟いてニ三度瞬かせた瞳は、西に落ちる夕日よりも赤い色をしていた。


 三階に辿り着いた楢崎は、とうとう自室へと到着した。
 これほど我が家を恋焦がれたことは嘗て一度としてない。自室のドアを開けて中に転がり込んだ時、楢崎はもう、嬉しさのあまり踊りだしそうだった。踊りだしそうだったが、何しろ全力疾走の後だったので、息が切れてそれは叶わなかった。
 キチンとドアに鍵をかけて、ヨロヨロとした足取りでベッドに近寄り、ドサッとマットに倒れこんだ時、楢崎はぜぇぜぇはぁはぁ言いながら、

「つ、つつ……着いたああぁぁーッ!」

 と喜びのおたけびを上げたのであった。






to be continued.....
2003/7/27



危ない危ない。
危うく楢崎の無垢な唇が奪われちまうとこでした(笑)。
ところで私は「ベロチュー」って言葉があんまり好きじゃないです。
だって、ムードに欠けると思いませんか?
確かに率直で意味はすごく分かりやすいですけど。
もっと文学的に、こう、「歯列をねぶり息をつく間もないほどの激しく熱い接吻」
みたいな……(笑)。
夢見すぎ?乙女すぎ?
高耶さんとオソロイだからそれもまた良し。

それにしても、今回ようやく7/23の本題が出ましたね。
しかもようやくバースデーの主役も登場。

残すところ後2話、果たして夜11時、
楢崎の貞操は守られるのだろうか……?(←おいおい)
空白の5分間……。(by35巻天主の間)

にしても不甲斐ない奴だ、直江。
あんなキツネ畜生ごときの暗示で、
高耶さんが分からなくなるなんて!
そんなんじゃぁ尾張の誰かさんを汚染しきることなんてできないぞ!
もっと高耶さんへの愛を燃やせ!焦がれろ!燃え尽きろ!!