桜花  風に舞う




















    序章

 世界は六つの国に分かれていた。
 軍事力に秀でた北の大国・燕。その東南に位置する港が栄えている斉。商業の盛んな中央の大国・韓。韓の北西の、大河を有する魯、鉱物資源の豊富な東国・泰、南部に位置する農業の国・楚。
 それぞれの国は四つの州から成り、州師を束ねる王が国を統べる。

 だが、それには属さぬ者達がいる。<力>を使うことのできる、<司>と呼ばれる者達。
 <力>とは、水や風、土、火、光、雷等を自由に扱うことができる普通の人間が持ち得ぬ力のことである。その力を持つ者を<司>と言い、水を操るものを水司、風を操るものを風司と呼ぶが、同じ水司や風司であっても、力の強さや種類は人によって異なる。
 司と言っても、見た目は普通の人間と変わらない。普通の人間として生きている者もたくさんいる。しかし、強い力を持った者たちは恐れられ、時の権力者達はこぞって彼らの<力>を得ようとし、生活を脅かした。そのため強い<力>を持った者達は身を寄せ合い、やがて二つの集団を作った。
 上杉と北条と言う。各地に小規模な集落があり、上杉を統べる総大将は燕と泰、魯の三国の国境付近、北条を統べる当主は楚と韓、斉の国境付近の中立地帯に本拠地を構えている。そこは不可侵の中立地帯であるとの暗黙の了解が、各国の王の間には何十年も昔から成立していた。

 それが破られたのは八年前。突然、何の前触れもなく楚王が北条を攻めたのだ。当然返り討ちに合うだろうと思われたが、人々の思惑は外れ、北条宗家は一人残らず惨殺され、滅びた。残った人々が建て直しをはかっているが、思わしくない。
 それ以来、上杉、北条に対する見方は変わり、<力>を得ようと眼の色を変えた者達が我先にと旗を揚げ始めた。それをきっかけに各国の拮抗は崩れ、そこここで戦や争いが起こるようになった。

 人々曰く、
「この世は戦乱、情けは無用。<力>持つ司を捕まえろ。力を掴んで成り上がれ」

 動乱の世の幕開けである。









      第一話 



 夜の帳が辺りを包み込んでいる。晩冬の風は、春の匂いをほのかに薫らせ、ゆるりと巡る。その凛とした冷たさを含む静かな空気とは反対に、仄かな釣り灯篭の明かりに照らし出される堂内からはにぎやかな声が響いてくる。華美ではないが、控えめな凝った装飾が施された館。声はその一室から響いているようだ。

「これで橘家は安泰。慶州も安泰だな。後はおまえが女遊びを止めて、普通の嫁さんもらって、子供作るだけだな」
 酒も入り、上機嫌の鮎川はそう言って笑った。今宵は楚国、慶州の州師の代替わりを祝う宴が開かれていた。宴の主役は、鮎川の隣に座している年の頃二十代後半と見える若い男だ。名を直江信綱と言う。
 鮎川の友人である直江は、先代の州師である橘にその能力を認められ、十年前に橘家に養子入りした。ここ二、三年は老齢な橘に代わり、実質直江が政を行っていたが、今日晴れて直江は州師を継いだのである。新たな州師を祝うため、昔からの友人である鮎川など、馬を飛ばしても一日はかかる、自身の治める南西の街・蒼梧から、慶州の中心であるここ零陵まで来た程である。
「早くしないと婚期を逃すぞ。もっともおまえなら選び放題だろうがな」
 と、鮎川の言を継いだのは、先代からの重臣である色部だ。
「言いたい放題ですね。いくら私でも選び放題なんてことはないですよ」
 苦笑を浮かべて、宴の主役は手で杯を弄んでいる。異国の血が入っているのか、色素の薄い髪の色をしている。彫りの深い、端正な顔立ち。それだけなら、一見冷たそうに見えるかもしれないが、穏やかな微笑を浮かべた鳶色の瞳が人当たりの良い柔らかな雰囲気を醸し出している。引き締まった体躯に、上品な刺繍の施された黒い袍を纏う姿は、女なら誰でも見惚れるだろう。
「はいはい。まぁ、そういうことにしといてやるよ。―――そうだ、おまえ上杉はどうするんだ?」
 ふと思い出して真顔になった鮎川が急に話題を変える。上杉、その言葉を聞いて、直江は笑みを消した。
「あまり大きな声を出すな。誰が聞いているとも限らない」
 そう諌めた後、低い声で「近いうちに」そう答えた。
 それに鮎川は小さく頷き返した。その時。
「?」
 不意に側に置いていた長刀から、リィィン、というかすかな音がした。直江が手に取ると、それは熱を持っていた。鞘の内から、じんわりとした温かさが感じられる。
「何だ?」
 その異変とほぼ同時に、室内の喧騒が一瞬静かになり、そして今度はざわめきが起こった。
「おっ。誰か来たぞ」
 鮎川の声に、直江と色部はぐるりと入り口を振り返った。

 堂の入り口に、一人の少年が佇んでいた。年の頃十七、八だろうか。しなやかな身体に美しい桜花の刺繍の施された白い袍を身に纏っている。遠目にも、整った顔立ちであることが見てとれる、黒髪の少年だ。
 誰だ、と直江が問うと、
「八海が呼んだ楽士じゃないか?俺が来たとき、八海に連れられて来てたし。それに、ほら、笛を持ってる」
 直江が鮎川の声を聞きながら少年の方を眺めていると、八海に促され、少年は室の片隅に座った。
 ひどく人目を引く少年だった。彼は別段変わったことをしているわけではないのに、少年の動作一つ一つをみなが目で追っている。本人はそれを知ってか知らずか、金糸で美しい花々が縫いとられている袋から長さ一尺余りの笛を取り出した。普段は楽に興味を示さぬ者達も、雑談を止めて見入っている。
 眼を伏目がちにし、少年は唇を湿して横笛に息を吹き込んだ。そうして笛を温め、やがてゆっくりと奏で始めた。

 始めは緩やかに。繊細な糸を紡ぐように、なめらかに。次第にその旋律は繊細な絹を織り成すように流れを生み出してゆく。
 未だ凍える息吹を纏う凛とした風と絡み合う澄んだ音。邪魔にならないほどの控えめな音なのに、自然に耳に入いり込でくる。
 瞳を閉じた直江の脳裏に、桜の幻影が浮かんだ。彼の身に纏った袍の刺繍と同じ、見る者全てを惹きつけずにはおれない、妖しく美しい桜。夜闇に包まれ、清浄な青白い月光の降り注ぐ中、肌が粟立つ程妖艶かつ清廉な紅い桜が風に舞っている。その光景が、まるで目の前にあるかのように、思い描くことができる。直江は瞼の裏に浮かんでくるその桜に見惚れた。
 しかし次の瞬間、その映像は掻き消え、同時に音も消えた。曲が終わったのだろう。直江が目を開くと、水を打ったような静けさが漂う中、少年が唇から笛を放すところだった。
「……これは……驚いたな…」
 ちらりと横に目をやると、あの口うるさい鮎川でさえ、感嘆のあまり言葉もないようだった。室内の多くの者が、まるで夢から覚めたような顔つきである。
 そんな中、黒髪の少年は違う曲を奏で始めた。先程のしっとりとした曲とは変わり、軽やかで心地の良い曲だ。先程は聞き惚れていた者達も、その旋律に促されるように談笑を始めた。色部と鮎川も然り。直江はその二人の話に相槌を打ちながらも、絶えず笛の音に耳を傾けていた。

 一刻程経っただろうか。少年が唇から笛を離し、ゆっくりと下ろした。それを目の端に見とめた直江は色部と鮎川との雑談を切り上げて立ち上がり、堂の片隅に座している少年の側へ歩み寄った。。
「名は、何と言うのですか」
 少年の傍らに膝をつき、声をかける。その声に、俯いていた少年は顔を上げた。その拍子に、長めの前髪の間から銀のサークレットが姿を現す。何か精緻な文様の彫りこまれた、細工細やかな美しい装飾品だ。伏せられていた瞳が直江の姿を映し出す。不思議に深い漆黒の眼差しが、鳶色のそれと静かに絡み合う。
 辺りの音は一切耳に入らなかった。周囲にいるはずの人間も、全て消えて、この世に二人だけが存在しているかのようだ。
 ただ引き寄せられるように見つめあった視線だけが、その瞬間全てを支配していた。
 まるで溶け合うような、不思議な感覚。
 透明な水に一滴落とした鮮やかな色の液が、渦を巻きながら広がっていくように。

 どれくらい視線を交わしていたのだろうか、長いようで短い、時間の流れさえも上手く感じ取れなかった。先に目を反らしたのは少年の方だった。目を伏せ、ゆっくりと口を開いた。
「……仰木、高耶」
「高耶さん、良い名前ですね。私は慶州州師、直江信綱と申します」
 そう言って、直江は人当たりの良い柔らかな笑みを浮かべる。
「演奏、素晴らしかったですよ。特に一曲目など、肌が粟立つほどでした。―――その長刀は?」
 不意に高耶の横に、置かれた長刀に目を留めた直江が問うた。黒い鞘の長刀は、深紅の佩玉を帯びた、どちらかと言えば質素な細身のものだ。
「これは剣舞に用いるものです」
 幾分硬い声音で丁寧に答え、高耶は目を伏せたまま、傍らの長刀を手にした。
「剣舞ができるのですか。良ければ、舞って頂けませんか?」
 僅かな逡巡の後、高耶がこくりと頷く。直江は控えていた八海に、橘家お抱えの楽士を呼ぶよう命じた。
 待つことしばし。呼ばれた楽士がやって来たのを見るや、高耶はスッ、と立ち上がった。長刀を手に、室の隅から少し前へ歩み出し、鞘を抜き払い、スラリとした白刃を右手に構えた。
 今日は出番はないものと安心していた楽士たちが、オタオタと調音などの準備している間、高耶は片膝をついて瞑目していた。
 やがて静かに細く繊細な楽の音が流れ始めた。高耶は目を開き、音の流れを体内に浸透させていく。
 緩やかに右手の長刀を掲げていき、音色に合わせて立ち上がる。
 生命の芽生えを祈る「息吹」という歌曲だった。土の中から芽吹く、新たな生命の誕生を表現するようにゆったりと流れる笛の音に合わせ、歌人が朗々と歌い始める。

 生きとし生けるもの はぐくむ光に包まれしものよ
 恩寵豊かな大地に 深く根ざし 眠りたるものよ
 優しく 清らかなる水に 慈しまれしものよ
 穏やかな 長き眠りから覚め
 汝らが秘めたる 生命の輝きを この世界に放ちたまえ

 高耶は緩く目を閉じ、豊かに響く言の葉に身を任せる。
 剣をまるで身体の一部のように優雅に扱う、そのしなやかな動きは、猫科の動物を思わせた。弧を描くように白銀の刃が空を舞い、室を照らす明かりを反射して輝く。
 いつの間にか、その場にいた全員の目が彼に釘付けになっている。深紅の玉、銀のサークレット、桜の縫い取りのある袍、鋭い刃が、まだ成長途中である若木のようにしなやかな彼に、仄かな色香を添え、いっそ凄絶なほどの艶やかさだ。顔の向きによって生じる陰影すらも、彼の美しさを引き立ててやまない。そう、彼の性別さえも忘れさせる艶やかさは、美しいと表するに相応しいものだ。
 声一つない室内に、楽の音と衣擦れの音だけが響き渡る。
 曲が変った。それに合わせて彼の舞いも一変する。流れるような舞から、凛と冴えた動きへと。切り伏せるように鋭く刃を振るったかと思えば、時折楽の音に合わせ、ぴたりと動きが止まる。静と動。彼の纏う白い袍と黒髪と同じ対極にあるもの。それらが一層人を惹きつける。
 ある時は雷のように鋭く、ある時は風のように捉え所がなく、ある時は露に濡れる花のようにたおやかに。高耶は様々に表現してみせる。
 それに魅せられた観衆は、時の流れも忘れてまるで夢幻のような舞に目を奪われていた。

 やがて小さくなっていく楽の音に合わせてゆっくりと動きが穏やかになり、静かに曲は終わった。
 舞い終えた高耶は一礼し、長刀を納めると滑る様に扉を抜けて出て行った。直江は呆然とその姿を見つめていた。声を発することもできず、閉ざされた扉を見つめることしかできなかった。



               ***

 空には白い満月が輝き、冴え冴えとした青い光で辺りを包み込んでいる。月光が唯一の光源だったが、その澄んだ光は明るかった。
 高耶は舞を終えた後、橘の館の一室に通された。ここに泊まっていけという事だった。宴の開かれている堂から長い回廊を進んだ突き当りの一室であり、喧騒もここまでは届いてこない。部屋に通された高耶は濃紺の袴褶に着替えて寝台に座っていたが、窓から差し込む月明かりに誘われて外に出た。
 回廊から階を下り、程よく整備された庭へと降り立った。手入れの行き届いた植え込みが、淡い光に黒く浮かび上がっている。それを見るとはなしに見ながら、思考を巡らしていた。
 高耶が今日宴に呼ばれたのは、橘家の家人である八海に声をかけられたからだった。昨日、高耶はここ零陵の通りで笛を吹いていた。別に金を稼ぐためではなく、情報を収集するため。笛の音に誘われて足を止めた商人たちが、曲の合間に世間話をしていくからだ。そこで八海に声をかけられたのも、全くの偶然だった。橘家で宴があるから、楽士として先程のように笛を奏でてくれないか、と頼まれたのだった。橘家が州師の家柄だということは知っていたから、何か情報が得られるかもしれない、そう思った。だが、
(上杉を攻めるつもりなのか……)
 高耶が中に入った時、距離はあったが、確かにそう聞こえた。直江の隣に座っていた男が問いかけ、直江が答えていた。何と答えたかは聞こえなかったけれど。
(もし攻めるつもりなら……見過ごしてはおけない)
 そうなる前に、あの男を。あの男を―――
(―――始末、できるのか……)
 高耶は、この楚の国の様々な地域を見てきた。あの思い出すだけでも吐き気がする、残虐非道な王の治めるこの国を。荒れ果て、人のいなくなってしまった村々を。反逆したとして滅ぼされた町を。
 ここ慶州はそのどこよりも善政が敷かれていた。潤っているというわけではない。いや、ここよりも富んだ街は他にもあった。違うのは民の活気だ。
 それは、ここ慶州が首都から離れた南部に位置するためだけではない。山々を隔てた南部で富み栄えている街でも、腐乱した果実のように人々の活気が感じられない街はいくつもある。この街は、そのどこよりも民の活気に満ちていた。それから言えば、ここはもっと富んでいてもいい筈だ。それなのに一見貧しいようにも見えるのは、州師がそうなるようにしている、それしか考えられない。
 理由はおそらく、下手に栄えさせ、あの王に税と称して貪り尽くさせない為だ。高耶が今までに行った楚の栄えている首都に近い北部の街で、次に行ったときには、重税でもはや街と呼べない程貧困に陥っていた街は幾つもあった。そういう意味では、この慶州の州師は善政を敷いている。それが、ここ三年州師に代わって政を行ってきた直江の手腕だろうこともわかっていた。
(それがわかっていて、慶州からあの男を奪うのか。上杉を守るために)
 これほどの活気に溢れ、それでいながら目をつけられない程度に質素さを保つなんて芸当をしてのける治世者なんて、そうそうお目にかかれるものではないと分かっていながら排除しようとする自分のあまりの身勝手さに、嘲いがこみ上げてくる。
 でも、とも思う。あの男は楚の人間だ。北条を滅ぼしたあの王の臣下なのだ。十年前の惨劇に、直江も加わっていたかもしれない、そう思うと理性では制御しきれない理不尽な怒りが込み上げてくる。加わっていたかどうかも分からないのに。
 高耶は、はぁ、と息を吐いた。春が近いとはいえ、さほど厚い生地ではないこの袴褶では夜は少々寒い。それでも、もう少しだけ頭を冷やしてくれる夜風にあたっていたかった。 
美しい月光に彩られた夜空を見上げた、その時。
「!」
 不意に人の気配がして、高耶は身構えた。足音もさせずに近づいた男は、高耶に微笑みかけた。
「いい月夜ですね、高耶さん」
 そこには、先程と同じ服装のままの直江が佇んでいた。ゆっくりとこちらに歩み寄り、警戒を解いた高耶の前で足を止めた。高耶よりもだいぶ背の高い長身の男は、真っ直ぐに漆黒の瞳を見つめた。直江の右手が、高耶の前髪をかき上げると、さらりと指の間を髪が滑り落ちる。その感触にわずかに目を細めながら、直江は口を開いた。
「先程は、美しい舞をありがとうございました。楽も素晴らしかったけれど、舞はこの世のものとは思えないほど見事でした。普段は楽など嗜まない者たちでさえ、あなたの笛に聞き惚れ、舞に目を奪われていた。楽士たちも、あなたの舞に目を奪われて演奏の手が止まりそうだと言っていましたよ。………毎日あの笛を聴け、舞を見られるなら素晴らしいでしょうね」
 淀みなく感想を述べた直江に対し、高耶は後ろに退き、
「それは光栄だ。そんなに気に入ってくれたんなら、もう一度やってやるよ」
 不敵な笑みを浮かべ、シャ、と刀を鞘から抜いた。
 先程とは違って、高耶の言葉遣いも態度もかなり崩れていたが、直江は不思議なことに全く不快感を感じなかった。むしろ、こちらの粗雑な口調の方が彼らしくて自然だと思ったほどだ。今日会ったばかりだというのに、「彼らしい」などと思った自分自身に、直江は内心困惑していた。
 そんな直江の心情など露知らず、月明かりの照らし出す幻想的な空気の中、再び高耶は舞い始めた。
 楽の音もない舞は、刃が旋回するヒュッという音と衣擦れの音だけが響く。
「直江、おまえは毎日でも舞を見ていたいと言ったな」
 流れる動きを止めずに、高耶が口を開く。
「ええ」
「でも、踊り手がいつも躍ってるだけと思ったら大間違いだぜ」
 言うやいなや、高耶は直江に向かって刀を左から右へと振るった。その場に佇んだまま瞬き一つしない直江の頬を、チリ、と白銀の刃が掠めていった。
 微かな痛みと共に、じわりと赤い血が滲んだ頬を押さえることもせず、直江は高耶を見つめ続けるだけだ。
「瞬きくらいしろよ」
 つまらなさげな高耶に、直江はかすかに笑った。
「殺気がありませんでしたから」
 むっとした高耶が、途端に獲物を狙う猛獣のように眼差しを鋭くした。
 高耶は、これならどうだ、とばかりに力を込めて振りかぶった。先程の戯れとは全く違う一撃。普通の者なら思わず怯んでしまうほどの鋭い殺気にも、直江は一歩も動かなかった。
 鋭い刃が直江の首筋を切り裂く、その瞬間。
 ピタリ、と直江の首の一寸手前で、刃は止まった。
 高耶はキツイ眼で直江を睨みつけた。
「どうして避けなかった?」
「さあ、どうしてでしょうね」
 はぐらかすような直江に、高耶は尚も詰め寄る。
「殺気は十分込めたのに」
 男は微苦笑を浮かべて見せるだけだ。
「なぜだ」
「あなたは、そう簡単に人を殺せる人じゃない、そう思ったからでしょうか」
「へぇ、ずいぶん信用してくれてるんだな。今日会ったばっかりだってのに。もしオレが暗殺屋だったりしたらどうする気だったんだ」
 高耶は皮肉そうに唇を歪め、刀を引いて鮮やかに鞘に収めた。
「その時はその時ですね。もっとも、気づいた時には心臓が止まっているかもしれませんが」
 高耶は呑気な直江の言葉に呆れたように、そうだなと相槌を打った。
「そういや、おまえ宴はどうしたんだよ」
「酒も十分入って無礼講になってきたので、抜け出してきました」
 そう言う直江に酔った感じは全く見受けられない。かすかに酒気が漂うくらいだ。
「宴の主役が抜け出していいのかよ」
「ああいう賑やかな騒ぎは苦手なんですよ。それに、あなたと二人きりで話してみたかったんです」
「オレと?」
 高耶は不思議そうに首を傾げる。
「そう、あなたと。―――高耶さん、もしよろしければ、これからしばらくの間ここに滞在しませんか?」
「え?」
 唐突な直江の言葉に、高耶は目を見開いた。
「ここに滞在して、毎日じゃなくて良い。あなたの舞や楽を見せてもらえませんか。もちろん、無理にとは言いませんが」
 思いもよらない申し出だった。もしや自分が司であることがばれたのかと思い、直江の顔をまじまじと見つめるが、直江はただ真っ直ぐに眼差しを向けてくるだけだ。裏があるようには見えない。
 困惑した高耶は瞳を揺らしてしばらく考え込んでいたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「―――いいぜ。おまえの提案に乗ってやるよ」





更新 平成拾伍年 参月拾肆日



さやかさんから戴いた長編小説、「桜花 風に舞う」です。
壮大なテーマのお話で、納多氏ドキドキです。
それにしてもさやかさんの書かれる高耶さんと直江の描写は、
優美で高貴なカンジがして良いですね。(私のはそうでもない気がする…(笑))
これからどんな物語が展開されていくのか、とても楽しみです。
ついでに言って今回も何だか微妙な装丁になってしまいましたが、
どうぞ気にしないでください!(←元美術部のコメント)



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