第三話
夢を見ていた。悲しい、哀しい夢。夢だとわかっているのに、受ける痛みは決して薄れはしない、赤い夢……。
燃え盛る炎。全てを包み込み、燃やし尽くす業火の炎。 「氏照兄!」 オレは叫んだ。 兄上の右腕に吸い込まれた刃。兄上の顔が歪む。 「早く、早く行けぇ―――!!」 「三郎、行け。ここはわしが食い止める」 低く囁いた氏政兄の言葉。 辺りは黒い鎧の敵兵に取り囲まれていた。氏政兄が開いてくれた血路。無駄にするわけにはいかない。 追って来る荒々しい足音を振り返らず、オレは走り出した。 「それは北条の御当主殿の腕だ。<力>を封じられてるってのに抵抗するからよ、手足切り落とされて、今ごろ滝にプカプカ浮いてるぜ。ハハハハ」 目の前に無造作に放り出された血に濡れた腕。 目の前が真っ赤に染まった。 胸の内で、何かが崩れていく……。 辺りは紅蓮の炎に包まれていた。そこら中に黒い塊が転がっている。先程まで人間と呼ばれていた物体。 地獄の様な炎の中心で、オレは泣いていた。胸が締め付けられる悲しみに、声を上げて泣きじゃくっていた。 頬を流れる涙を拭うと、両手は赤く染まった。流れているのは透明ではなく、赤い赤い血の涙。 赤い命の水が身体から流れ出ていく。流れるそれを止めようと、オレは深い傷を抑えたけれど、後から後から流れ出してきて止まらない。 「申し訳…ありません……もう、あなたの…側、に……いられない…」 男の口から血が溢れてくる。赤く濡れた震える唇で、男は懸命に言葉を紡ぐ。 「あなたを……愛、している……」 ゆっくりと男の瞳から光が消えてゆく。 オレは男の名を絶叫した。 閉じられた瞼から、一雫の涙がこぼれる。温かい指がそれを拭う感触に、ふわりと意識が浮上していく。 (誰だろう、この温かい指は………) この、側にいると安心できる穏やかな気配は。 (千秋?………なわけないか) あいつはこんな触れ方はしない。 一度なんて、なかなか起きないでぐずぐずしていた高耶から布団を引っぺがし、その上寝台から蹴落としてみせたのだ。 あいつがこんな風に起こすなんて、天地がひっくり返ったってない、と穏やかなまどろみの中で微かに微笑する。 ひどく心地がいいが、そろそろ起きなければ、ほんとに千秋に蹴り落とされる、と高耶は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。 真っ先に目に飛び込んできたのは、心配そうな男の顔。 高耶はぼんやりと、覗き込んでくる鳶色の瞳を見つめた。 (………直江?……!) そうだ、ここは越後じゃないんだった。 その答えに行き着いた途端、高耶は飛び起きた。寝台の隅に飛び逃げて直江を睨む様は、気を緩めて眠っている時に襲われた猫の様だ。 あまりの素早さに直江は目を見開いていたが、やがて声を殺して笑い出した。 「何だよ」 笑われたことに、ぼんやりしていた自分に対する恥ずかしさも相俟って、自然と無愛想な声になる。 「すみません。あまりに素早かったもので驚いてしまって」 ひとしきり笑ってからようやく笑いを収めた男に、どうして素早かったら驚くんだと思っていると、 「大丈夫ですか。眠っているときずっと魘されていましたが」 直江は心配そうにこちらを見た。 「別に、何ともない」 そう、最近見ることは少なくなっていたけれど、あの時から繰り返し見ていたのだから、胸塞がれるほど悲しいけれど耐えられる。大丈夫だ……あの赤い夢を見ても。 (……赤……何だ……昨日、何かなかったか?) 赤……鮮やかな……赤い、血……。 不意に昨夜の出来事が鮮明に脳裏に浮かんできた。 刃を染めた鮮血。生々しい肉を貫く感触。 (オレ、は……この男を…) 大きく目を見開いた高耶の顔が見る見る強張る。 「おまえ、腕……腕大丈夫なのか?」 衣の下は白い布に覆われているだろうと思われる、黒の袴褶を身に纏った直江は、高耶を安心させるように微笑んだ。 「ええ、大丈夫ですよ。しばらくは動かせませんが」 「でも、オレ思いっきり…刺して…」 「あなたのせいじゃありません。私が自分から受け止めたんですから」 「感触が……肉を刺す感触が……骨にも当たって……」 怖がるように呟いた高耶に、直江は手を伸ばした。高耶がびくりと身を強張らせる。 「すみません。あなたに傷を負わせまいと思ってしたことが、逆に追い詰めてしまった様ですね」 直江は伸ばした手で、艶やかな黒髪を優しく梳いた。高耶がぎゅっとつぶった眼を恐る恐る開くと、労わるような光を宿した鳶色の瞳が自分を見つめていた。直江の大きくて温かい指と優しい眼差しは、誰よりも自分を可愛がってくれた兄・氏照に似ていた。高耶の身体から、自然に力が抜ける。 (どうしてあんなに動揺したんだろう。今まで人を殺したことがないわけじゃないのに) そうだ、自分は上杉を守るためなら、みんなを守るためなら何だって平気だったのに。今までに何人も殺してきた。 (オレの手は血塗れだ) 後悔はしていない。あの悲しい赤い夢も、襲ってくる罪悪感も耐えてきた。 上杉の力を手に入れようとして手を出す奴はたくさんいた。何もこの男に限ったことじゃない。たとえ少ない手勢であっても、<力>を操る司さえいればその数倍の敵を相手にして互角に渡り合える。それは、権力欲を持つ奴だったら誰だって、喉から手が出るほど欲しがる力なのだ。人の上に立つこの男が欲しがったって、何もおかしくはない。 (なのに、怒りに我を忘れるなんて……) 自分でも何故かわからない。この男はそんなことはしないとでも思っていたのか。 心中で自嘲してみても、胸の内のもやは晴れない。 そんな自分自身に高耶は戸惑った。自分で自分がわからない。 困惑する高耶に気づかぬ様に、直江はしなやかな身体を柔らかく抱き、髪を梳いている。その慈愛に満ちた手指の、身体の温かさに気を許してしまいそうだ。この男は、「上杉を攻める」と確かに言った。決して気を許す訳にはいかないのに。 それでも、今この温もりを感じていたくて、高耶は身を委ねた。 心の奥底では確かに警鐘が鳴っていたのに、耳をふさいで。 (この人は、一体どれだけの理不尽と戦ってきたのだろう) さらさらと指から零れ落ちる手触りの良い髪の感触を感じながら、直江はそう思わずにはおれなかった。 まだ二十歳にもなっていないこの細い身体に、どれだけの業が負われているのだろう。 己が欲望のために、こぞって上杉を狩ろうとする人間達。 (俺もその一人か) 上杉を攻めることもあるかもしれないと言った自分に、高耶は一体どれほどの怒りを覚えたことだろう。その彼に、無神経にもあんな言葉を言ってしまうなんて。その言葉がどれほど彼の心を波立たせるかも知らないで。 俺は、自分の欲望のために司を捕らえようとする醜い人間たちとどこが違うと言うのか。 わかっていると思っていたのに、何にもわかってやしなかった。彼が上杉なら、どれほどそんな身勝手な人間達に狙われていたことか。ましてや総大将ならば言うまでもない。 三年前代替わりした上杉の総大将・景虎の名はよく耳にした。英邁な先代の総大将である上杉謙信の後を継ぎ、謙信に引けを取らないと名高い。それがこんなに若いとは思わなかったが。 景虎の名は、上杉を手に入れようと目論む者達の間で、畏怖と獲得欲を伴って語られる。まともに手を出して、今なお心臓が活動している者は一人たりとも存在しない。 上杉の本拠地である越後から最も離れている楚の国ですら、彼の名は有名だった。越後の周辺地域ではいかばかりだろうか。 不思議な心地だった。その景虎が今、この腕の中にいる。力を込めれば壊れてしまいそうな、この少年が。 直江はそっと腕の中の少年を抱きしめた。 壊さぬように、彼を脅かす全てのものから彼を守るように。 *** 「外に出かけませんか?」 遅い朝食をとった後、直江が声をかけてきた。高耶は誘いに応じ、館の外に出て馬を呼んだ。 ピイィィ――― 高い指笛の音に呼ばれ、駆けて来たのは黒い馬だ。がっしりとした体躯で、黒い鬣には艶がある。余程懐いているらしく、高耶の側によるとしきりに鼻を擦りつけている。 高耶が「小太郎」と呼ぶその馬は、訊けば街中では目立ちすぎるので、近くの森に放して来たのだと言う。 「放しておいても平気なんですか?」 「こいつが逃げるなんてありえないし、捕まえようとしても、そん所そこらの馬は追いつけねぇから大丈夫だ」 高耶は小太郎の鼻を撫でながら尋ねた。 「で、どこ行くんだ?」 「馬で少し行った所に、眺めの良い所があるんです」 直江は自身の栗毛の馬のたずなを引き寄せた。 高耶の乗馬の腕は大したものだった。直江が馬を飛ばしても、ぴたりと後をついて来る。馬も良いのだろうが、乗り手のほうもそれに見合うだけのものである。今は器用に片手でたずなを操っているとはいえ、直江が飛ばすと大抵の者はついて来れないのだが。 あっという間に、二人は零陵から北に位置する小高い丘まで辿り着いた。 そこからは周囲が一望できた。東西はどこまでも続く田園地帯が広がり、南には零陵の街の規則的に連なる家々の屋根が見下ろせ、北は広くなだらかな山々が目に飛び込んでくる。あの山の向こうには洛州があり、その北にあるのは楚の国の首都・逞がある玄州だ。その更に北には韓や魯、斉、燕の国がある。 青く澄んだ空と濁りのない純白の雲、春の新緑を纏いつつある木々の色が目に鮮やかだ。かすかに甘さを含んだ初春の風が頬を撫でていく。 「ご存知の通り、あの山の向こうは首都・逞です。山一つ越えるだけで、見るに耐えない街や村が姿を現す。私が首都へ行ったのは三年前になりますが、あの時既に、逞の周辺以外の地域は荒廃していました。今は一体どうなっているのか……あなたの方が詳しいでしょうね」 北の山々を指差し、直江は高耶の方を振り向いた。 ああ、と高耶は顔を顰めた。 「越後からここへ来るのに通ってきたけど、酷いもんだった。逞と王にくみする有力者たちが押さえている周辺の街だけはやたらと食料や物が溢れかえってたが、退廃した空気が充満してた。それでそれらの一歩街を出たら外は別世界だ。荒廃なんてかわいいもんじゃない。あれはもう人の住む場所じゃない」 人の住む場所じゃない――そう言うに足る光景だった。 かつては豊かな実りをもたらしていただろう田や畑は荒れ果て、耕した痕跡すら見つけられなかった。作物の収穫は零と言ってもいいそこは、既に人の住む街や村ではなかった。 だが、それが玄州と洛州では当たり前の姿なのだ。人々は重税に苦しみ、ある者は土地を捨てて逃亡し、ある者は逃亡者や反逆者の見せしめに殺され、残った者は飢餓と寒さに苦しみながら死んでいく。 今年は夏も気温が上がらず、酷い飢饉が起こったために、いっそう飢餓に拍車がかかっていた。もはや死人を埋葬する労力すらなく、たくさんの死体は村の隅に放置されていた。気温が低いためにさほど腐乱していないのが唯一の救いだ。 高耶が立ち寄ったその村では、わずかに残った人々が、野草や木の根を食べて命を繋いでいた。冬だから満足な植物が生えておらず、皆、腕など折れてしまいそうなほど痩せ細っていた。 これが、かつて農業で栄えた国・楚の現状だった。 高耶は、<力>を使って死者を火葬し、持っていた食料を分け与えた。彼らに対して、できることはそれだけだった。 「そう、ですか」 直江の強張った唇がようやく紡ぎ出したのは乾いた声だった。 「すみません」 そう、直江は口にした。 一体何に対してなのか。そうした村を救えない自分の無力さからか、健康に生きられる自分たちの事をさしたのか、高耶にはわからなかった。 「何がだ」 それには答えずに、 「あなたは、強い人ですね」 直江は高耶を見て目を細めた。 自分は彼らに何もしてやれなかった。いや、本当はできることがあったのかもしれない。だが、何もしてやれなかった。今この瞬間も、飢えて死んでいく人々がいるというのに、自分には何もしてやることができないのだ。もし自分が反乱など起したりしたら、養父である橘にまで害は及び、この街は滅ぼされてしまう。そのことを言い訳に、自分は何もしなかった。 そんな自分に嫌悪感が沸き起こる。 三年間北へ行けなかったのは、本当は怖かったからかもしれない。地獄の様な現状を、己の無力さを、安穏と暮らすことができる罪悪感を、見たくなかったのかもしれない。 (それに引き換え、彼は……) 直江は栗毛から下馬した。小太郎の側へ行き、高耶に手を差し出す。高耶は一瞬躊躇ったが、直江の手を取り、身軽に降り立った。 「あなたも、辛かったでしょう?」 高耶の手を引き寄せ、直江が耳元に囁きかける。 高耶は強く首を振り、 「オレは辛くなんかない。あそこに暮らしてた人達なんか、口にも出せないくらい酷い目に遭ってたのに……オレは何もできなかった」 そう、オレは辛くなんかなかった。オレはあんな目にも遭っていないし、彼らに対して何もしてやることができなかったのだから。そんなオレに辛かったなんて口にする資格はない。辛かったなんて、言ってはいけないんだ。 必死に堰き止める高耶の心の声が聴こえたように、直江は、 「何もできないからこそ、辛いのではないですか?」 (………どうしてこいつはこんな事を言うんだろう。こんな事言われたら、今まで耐えてきたものが崩れちまう。脆く崩れ去ってしまう) 俯く高耶に、直江は続ける。 「何もできない事の方が辛い場合だってある。何かできる事があれば、そのことに集中できるし、やれるだけのことはやったと自分に言い訳することもできる。―――後で己の無力さを悔やまずにいられる」 「…………」 もう限界だった。直江の労わるような低い声は、するりと胸の奥まで染み込んできて、今まで凍らせていたものを容易く溶かしてしまう。 胸が熱く震えてくる。溢れてきた熱いものが頬を伝う。 (泣くな!オレは辛くなんかない!辛くなんかない、可哀想なんかじゃない……ッ。自己憐憫なんてまっぴらだ!) 「泣かないで」 直江が、俯いた高耶の涙に濡れた頬を拭った。その仕草があまりに優しくて、その温もりに身を委ねてしまいそうだった。 「同情なんてごめんだ。おまえは上杉を攻めるんだろう」 声のない嗚咽でからからになった喉から出たのは、自分でも驚くほど冷たい声だった。だが直江はそれに怯まず、 「攻めません。―――上杉を攻めることはしません」 「ウソだ!そんなのウソに決まってる」 激昂した高耶は叫んで、直江の腕を振り払った。 「高耶さん、聞いて下さい!確かに昨夜は攻めると言いました。でもそれは、むやみに上杉の人々に危害を加えて滅ぼすという意味じゃない。協力してもらうつもりだったんです。ただ、どうしても断られた時は、多少の強引な手段は厭わぬつもりでしたが……」 「何を協力しろと?」 高耶はどんな些細な偽りをも見逃さぬように、眼差しを鋭くする。 「この国の王を排除し、国を立て直すことです」 「王を排除して、自分が王になるつもりなのか?」 嘲笑う様に高耶は言った。 「結局は自分の権力欲を満たすためなんじゃないのか」 「そう思われても、仕方ありません」 直江は一度目を伏せたが、力を込めて眼を上げた。高耶の軽蔑するような眼差しを真っ向から受け止め、 「ですが、もう上杉の力を頼ることはやめました。私は、自分の力であの王を排除してみせる」 邪心など欠片もない、澄んだ瞳だった。この男が持つ誠実さが痛いほど感じ取れる。 「…………」 それを感じ取った高耶は何も言えなかった。 不意に、高耶が直江から離れ、ゆっくりと歩き出した。切り立った崖の先端。そこから北を望むと、連なる山々と、点在する村が見て取れた。高耶は無言でそれらを眺めていたが、背後に歩み寄った直江が、背を向けたままの高耶に声をかけた。 「あの小さな町や村、家の一軒一軒には人が居て、一人一人違った生活がある。悲しいことや辛いこともあるけれど、楽しいことや嬉しいこともあり、皆懸命に生きている。何の罪もない人々……」 背を向けている高耶からは直江の表情は見えない。 「そんな彼らを、この山の北に住む飢え苦しんでいる人々のためとはいえ、一人一人の生活も事情も全て切り捨てて、戦場に駆り出していいのでしょうか。」 山の向こうを見つめていた高耶は、直江の方を振り返った。 「私が生まれ育った街は、玄州にあります。いや、あったと言う方が正確でしょう。今はもう、朽ちかけた建物の残骸が残るだけの廃墟です。父は街長をしていましたが、王に税の取立てについて抗議したために殺され、街も滅ぼされました。もう十三年も前のことです」 高耶が驚いたように目を見開いた。 「おまえ……」 「今でも鮮明にその時の様子を覚えています。もう、あんな光景は見たくない」 直江の眉間に深い皺が刻まれる。 「………ずっと考えていました。この国の民の命を奪われないようにしたい、守りたい、と。―――おこがましいと思うでしょう?自分でもそう思います。たかが一人でもがいた所で何にもならない。守りたいなんて、善人ぶりたいだけなんじゃないかってね」 自嘲する様な響き。直江の唇の端に、どこか嘲笑を含んだような笑みが刷かれる。 「守りたいという想いに嘘はありません。父の街が滅ぼされたあの日から、この国を立て直すという誓いは今も変わってはいない。けれど、反乱を起こすことは同時に多くの死を意味する。我侭だということは十分分かっているけれど、未来の安寧、そのために今を生きる人々の生命を失いたくなかった」 不確かな未来に夢を馳せて死んでゆく人々は、自己犠牲もいいところなのではないだろうか……。 「―――だから、上杉の力が欲しかった。<力>があれば、犠牲は確実に減る。己の私腹を肥やすことのみに熱心な王と重臣だけを排除することもできるかもしれない。そのためなら、どんな手段でも使おうと思っていました」 直江の声が苦しげな色を帯びる。高耶は直江から一瞬たりとも視線をそらさない。その表情は、静けさを湛えていた。 「……あなた達も同じように、確かに今を生きているのに。俺は民を救うためにあなた達の生活を犠牲にしようとしたんだ。最低な奴だ。……いくら民を救うためとはいえ、上杉を、あなた方を利用しようとするなんて……ッ」 辺りに沈黙が落ちる。二人の間を、ゆるりと風が吹き抜けていく。 (そうか……この男はずっと一人で抱えてきたのか) 心の内にわだかまっていたものが、するりと溶け出したように納得がいった。 ―――……本当は、休んでなんか入られないのに。まだまだ足りないのに。気休めにも、ならないのに。俺一人が動いたところで、どうにもならないんだろうか……。 ―――人が乗り越えられる限度はあるだろうに。 自分の街を治め、守りながら、この男はいつだって玄州や洛州の人々のことを考えていたのだ。己の無力感を嫌というほど噛み締めながら。 何故、直江は反乱を起こさないのかと思っていた。慶州を一巡りするだけで、この男の裁量は見て取れた。本気で楚王・里見義頼を排除するだけなら、やろうと思えばできただろう。それをしないのは何故か、ずっと引っかかっていた。 この男を引き止めていたのは犠牲だ。王を排除する際に避けられない、失われる多くの命だ。 改革に犠牲はつきものだ、犠牲を恐れていては何も始まらないと笑う奴もいるだろう。だが、そういう人間が屍の山を築き、自分は生き延びて安寧を築く。やがて人々が彼らを英雄と呼ぶ時、一体何を指して英雄と呼ぶのだろうか。犠牲を恐れない勇気?改革を決断したこと?悪を排除したこと? 確かに彼らの決意と、もたらす安寧は賞賛に値するだろう。だが、屍の山を築くことに関して、彼らと排除された権力者の何が違うというのだろうか。 誰が直江の考えを責められるというのだろうか。 「おかしくなんてない。誰だって傷つかずにすむ方法があるなら、利用しようと思うのは当たり前だろ」 直江が目を見張る。彼の口から、こんな言葉が発せられるとは思いもよらなかった。 「……私が行動を起こせなかったのは、それだけじゃない。保身もあったし、家を、家族を失った私を養子にして育ててくれた養父まで、巻き込んでしまうのが怖かったからです。その時点で私は既に民を見捨てている」 言い募りながら直江は思った、自分は彼に責めて欲しいのではないか、と。そうされることで楽になれるのは自分だ。罵られることで痛みを覚えても、それは罪悪感と無言の非難よりは遥かにましだ。責められることで罪悪感もいくらか和らぐだろう。だが、無意識に保身を考えてしまう自分はそんな『許し』を受ける資格などないだろうに。 「自分の大切な人を守らないで、万人の幸せなんて反吐が出る。そんなのただの偽善だ」 意外なことに、高耶の口から出た言葉は、直江の予期したものとは全く正反対のものだった。 「高耶さん……」 (オレは、大切な人達を守れなかった) もし直江が自分や身内を犠牲にすることを決断できていたら、高耶は直江を憎んだだろう、自身を憎むのと同じように。 「………直江、上杉の力を借りずに、どうやって里見を排除する気だ?」 しばらく黙した後、口を開いたのは高耶だった。 「詳細は決めていませんが、とりあえず内政を固め、南部の州師や有力者に話をつけて協力を仰ごうと思っています。財政的には、首都のある玄州から隠してきた貯蓄があるので当分は困らないでしょう」 「そうか……でも、里見は禁軍も持ってるし、まともにぶつかったら被害が大きそうだな」 己の私腹を肥やすのに夢中の里見だが、己の身を守るため、王の統制する軍である禁軍には十分な食料や武器、金を使っており、禁軍は忠誠心も厚く、戦闘能力は高い。 「ええ。しばらくの間は隠密に動くことになりますが、兵を鍛えて正面から行くとなると、負けはしないでしょうが、無傷ではすまないでしょうね」 「何か策でもあるのか?」 高耶が問うと、直江は少し困ったように笑った。 策と言うほどのことではありませんが、と前置きして話し始めた。 「私が州師として里見に謁見しに行くときに、王と宰相である正木時茂を消せば、有利になるんじゃないかと。もちろん、首都・逞の付近まで、兵を気づかれない様に進軍させておいて、です」 その策に、高耶は絶句した。 直江は懐から小刀を取り出した。柄に緑色の玉が埋め込まれた美しい小刀だ。直江は黒い鞘から抜き出して、曇り一つない銀色の刀身をじっと見つめ、 「里見は臆病な男ですから、謁見時には排刀は許されませんが、小刀位なら気づかれないでしょう」 直江が三年前に慶州・州師の後継者として謁見した時には、太刀を預けるように強要された。その様な厳重な警護の元で目にした里見義頼は、見るからに気の小さそうな覇気の乏しい男であった。 「小刀でも、あの二人の始末くらいはできると思いますよ」 「それで後のことは他の奴らに任せて死ぬつもりか?」 高耶の声が自然と険しくなる。 「死ぬつもりはないですが、厳しいでしょうね。ですが里見と正木を始末すれば、あちら側には洛州・州師の三浦義意は残っていますが、最小限の被害で済むでしょう」 自分の命について語っている割には、ずいぶん淡々とした言い様だ。声には気負いもなく、ただ事実を述べているだけだ。 「今までこれをしなかったのは、保身もあるかもしれない。民を守りたい、養父に危害が及ばないように、なんて言ってみても、結局一番に我が身が可愛かったのかもしれない。ですが、もう決めました」 肩に力を入れるでもなく、穏やかな口調だった。が、次の瞬間。 パンッと小気味良い音が響く。頬を張られた直江は頬に手をやることもできず、呆然と高耶を見つめた。 「――――ばッ……か野郎!勝手に一人で悩んで考えて、一人で決めてんじゃねーよ。言わなきゃわかんねーんだよ!おまえがそこまで思いつめてるなんて分かんなかったんだよ!自分が犠牲になるなんてそんなこと言うな!おまえの犠牲の上に成り立つ平穏なんて、絶対許さねぇ。そんなもの、オレがぶち壊してやる!」 タガが外れたように捲し立てる高耶に、ようやく我を取り戻した直江は慌てて高耶の肩を掴んだ。 「ちょ……ッ、落ち着いてください、高耶さん!」 揺すぶられて、やっと高耶は口を閉じた。 正直、ここまで高耶が動揺するとは思っていなかった直江である。なぜ高耶がこれほどまでに動じたのか分からなかった。 「落ち着きましたか?」 「ん………取り乱して悪かった」 高耶がバツが悪そうに視線をそらすと、直江はゆっくりと掴んでいた肩を放した。 「……オレ、おまえを見くびってた。おまえがこんなに思いつめてたとは思わなかった」 耳を澄まさなければ聞こえないような声で高耶は呟いた。 「おまえが望む安寧を叶えたいけど、上杉の力は貸せない。争いを望まないあいつらに、オレが強要できねーし、上杉がどこかに肩入れしたって知られたら、国同士の均衡にも関わりかねないから」 分かりきっていた答えだった。 たとえ高耶が止めても、残していく人達に迷惑をかけても、他に方法はないと直江が思ったその時、 「でもな、オレ自身のことなら話は別だ」 続けられた言葉に、直江の顔に驚愕の表情が浮かぶ。それを見つめる、ひどく静かで真摯な高耶の眼差し。 ―――直江、オレに協力させてくれないか? 二人の間を、緩やかな風が吹き抜けた。 景虎と直江。 二人が出会った瞬間から、 動きを止めていた運命の歯車は、ゆっくりと廻り始める。 カラカラと、カラカラと、 宿命(さだめ)という名の糸を紡いで――……。 更新 平成拾伍年 肆月玖日 |