前編 《おんしの願いを叶えてやろう》 「はぁっ?」 目の前に突如として現れたのは、黄金の毛並みに、神々しいオーラを纏った狐であった。 別に高耶は、狐が人語を喋ったことに驚いてるわけではない。 知り合いにカラスを召使いにしている奴もいれば、黒豹ライフを満喫している某・忍びもいる。 いまさら動物が喋りだそうが、回りだそうが、飼い主の手を噛んで押し倒してまたがろうが、高耶にとって別段驚くべき事柄ではないのだ。 そうではなく、どうしてこんな面識のない初対面の狐に、自分の願いを叶えて貰わねばならないのか。 「オレはあんたに、そんなことしてもらう理由はねーよ」 《そんなことはない。おんしには先日危ないところを助けてもらった礼をせねばならん》 「礼?……あっ。ひょっとしてあんた、この前オレが罠から助けてやった狐か?」 そういえば先日、高耶は剣山の山中で、罠に掛かって動けずにいた狐を開放してやったのだ。 傷を負った足の手当てもしてやり、おまけに食べ物まで与えてやったのであった。 《そうじゃ。あのときは世話になった。─それでじゃ、実はわしはただの狐ではない。千年前から剣山に住む<神狐>なんじゃ》 「神狐?」 高耶は再び驚いた。 神狐という存在にではない。大体何故あんなところに罠が仕掛けられているのか疑問だったのだが、そんなことよりも、神狐のくせに人間の作ったちゃっちい罠にはまったという、その間抜けさに心底驚いたのだ。 「その神狐が一体なんの用だよ」 《だからさっきから言っちょるじゃろう。先日の礼におんしの願いを一つ叶えちゃるとゆうんじゃ》 高耶は眉根を寄せた。 あんな罠にはまる土佐弁ボケ神狐に、一体どんな願いが叶えられるというのか。 「その気持ちだけで十分だ。隊士たちにきつねうどんにされないうちに、あんたは早く住処へ帰れ」 《遠慮するな。それともわしの力を疑っちょるのか?》 「ああ、思いっきし疑ってる」 《わしは千年生きちょるのじゃぞ。いいから願いだけでも言ってみろ》 高耶は大きくため息を吐いた。 こっちがいいって言ってるのだから大人しく帰ればいいものを…。 高耶は仕方なく願いを口にした。 「それじゃあ…、オレの魂核異常を治してくれ」 《それは、無理じゃ》 いやにドキッパリと否定してくれるものだ。 高耶はまだ寛容だから良いが、これが直江だったら相手が神狐だろうがなんだろうが、躊躇うことなく瞬殺していたことだろう。 「やっぱり駄目じゃねえか。千年も生きてたって」 《その願いを叶えちゃるには、あと二千年は生きる必要があるな》 「そんなに待てるかよ。だからいいって言っただろう」 そう言って、高耶はわずかにうつむいた。 別にハナから期待などしていなかったからどうと言う事はないのだが、それでもやはり、即答で「無理だ」などと言われては、ショックを受けずにはいられなかった。 「それじゃあオレはこれで失礼する」 無表情にそう言うと、高耶は踵を返して歩き出した。 神狐もあせって高耶の後を着いてくる。 《まあ、待て。それは無理でも他にも願いがあるじゃろう?もう少し簡単な願いが》 「別に、これ以外に叶えて欲しい願いなんてない」 《そんなことはないじゃろう。おんし本人が気づいてないだけで、何か絶対あるはずじゃ》 高耶は舌打ちした。 なんというしつこい狐だ。いっそ「あんたが帰ってくれるがオレの願いだ」とでも言ってやろうかと思った。 大体、高耶が真に願うことは、いずれも自分で切り開いて掴み取るべきものだ。 他人にお手軽に叶えてもらうものではない。 「オレは忙しいんだ。あんたに構ってる暇はない」 キツイ口調でそう言い放ったが、とうの神狐はまったく引こうとはしない。 《そういうわけにはいかん。なにがなんでもおんしの願い、叶えちゃるまでは帰らんきに》 高耶はギョッとした。冗談ではない。こんな狐につきまとわれてはたまったもんじゃない。かと言って丁度いい願いなんて思いつかない。 「いい加減に……ッ」 と言いかけて、高耶はハッと固まった。 高耶の脳内に、その瞬間、求めていた丁度いい『ねがいごと』が思い浮かんだのだ。 それは、今まではっきりとは願わなかったこと。けれどずっと前から心の奥で密かに願っていたこと。 しかも、どんなに足掻いても自分の力では叶えられようもない『ねがいごと』。 「……思い浮かんだぜ。願い事」 高耶は静かな声で呟いた。 喜びに黄金の尾を立たせる神狐に、その願いを告げる。 神狐はその時だけ、千年もの年月を生きたという<神狐>らしく神々しい笑みを浮かべながら、 《分かった。おんしのその願い、叶えてやろう》 そう言って、淡い光の粒子に包み込まれながら高耶の前から消え去った。 その日、赤鯨衆で「隊内一冷徹な男」と名高い宿毛砦長・橘義明が眠りから覚醒したのは、爽やかな朝の光もまばゆい午前六時のことであった。 シーツから身を起こした直江は、ベッドから降り立った瞬間、突然にグラッと身体の平衡感覚を失って、思わず床に片膝をついた。 (なんだ……?) 立ちくらみだろうか?だがこれといって眩暈を感じるわけではない。 ベッドの柵に片手をつきながら再び立ち上がるが、やはり何故か体がグラグラする。 それになんだか、視界に違和感を感じるのだ。 (疲れているのか……) 確かに、ここ数日はわき目も振らず激務をこなし続け、十分な休息をとっていたとは言えない直江である。 酷使し続けた身体が、積み重なる疲労に耐えられず悲鳴を上げたのだとしても、なんら不思議は無い。 しかし、だからと言って今日を休養日にするわけにもいかない。 やらなければいけない仕事は、まだまだ山積みにあるのだ。 直江はふらつく身体をどうにか御しながら、シャワールームへと足を運ぶ。 そう、すべては彼の傍らへと上り詰めるためだ。自分は彼の傍にいなくてはならない。彼を守らなくてはならない。 片時も傍をはなれてはならない。 この程度で弱音を吐くようでは、とても彼を守りきることなど出来はしないのだ。 そう思えば、こんな疲労など何ほどのものでもない。 シャワーを浴びているうちに、どうやら身体の平衡感覚はある程度回復したようだった。 濡れた髪をタオルで拭いていると、ふと、机の上に置かれた一揃えの衣服が目に止まった。 傍に近寄って広げてみると、それは見覚えの無い衣服であった。真新しい黒い半袖のTシャツと、同じく黒のパンツである。 (いつの間にこんなものが?) 確か昨夜寝る前には無かったはずなのだが……。 少し疑問には思ったものの、直江は深く追及せずに袖を通した。 宿毛砦の廊下は、清々しい朝の陽気に包まれていた。 ここのところ雨が多かったせいで、隊士たちも気が滅入りがちだったようだが、久しぶりの快晴に、心なしか皆の表情も普段より明るく感じられた。 直江は、今日の午前十時からの会議の打ち合わせのために、砦長補佐を勤める米谷(よねたに)を探していた。 自室に米谷がいないことを確かめてから、直江は部屋の前を通りかかった隊士達を呼び止めた。 「米谷を見かけなかったか」 「米谷って……、砦長補佐の米谷さんのことがか?」 一人の隊士がジロジロとこちらを眺めながら聞き返してくる。 「ああ、そうだ」 砦長自らが尋ねているのだから、当たり前ではないか。 「わしゃぁ知らんけど、おまん知っちょるか?」 「いんや、知らん」 他の隊士達も次々と首を振る。 「そう、か。すまなかったな」 直江は踵を返した。一応隊士に尋ねてはみたものも、もとより居場所の見当はついている。 その場に隊士達を置いて、直江は廊下の角を曲がっていった。 一人の隊士がその姿を目で追いながら、呟いた。 「…今のヤツ、誰じゃ?」 「さあ。見かけん顔じゃき、新入隊士じゃないがか」 「そのわりには、米谷さんのこと呼び捨てにしちょったぞ」 「新しく配属された上官かもしれんな」 「あんなのがか?」 「美形は昇進が早いのかもしれんぞ。あの仰木高耶といい、ここの砦長といい、急昇進するのは美形ばっかじゃ」 「それならおまんも、憑坐換えて急昇進してみぃ」 隊士らは廊下を歩きながら、たわいも無い話に笑いあう。 ひとしきり笑って、一人の隊士が思いついたように言った。 「そういやぁ砦長と言えば、さっきのヤツ、ちくっと似ちょらんかったか?橘砦長に」 「黒き神官に?ああ、…そういえば、似てたような気もするのう……」 「黒い服着た美形は、みんな同じに見えるんじゃないがか」 「んなこと言ったら、室戸の兵頭隼人はどうする。おまんの目には黒き神官と同じに見えるんじゃな?」 そんなわけあるか、とのん気に爆笑しあいながら、隊士達は宿毛砦の廊下の角に消えた。 直江の予想どおり、米谷の姿は砦内の食堂にあった。朝食をとっている最中のようである。 実のところ直江は今朝、食事をしていない。食欲がないから抜くつもりだったのだが、ここまで来たのだからついでに直江も食べていくことにした。 カウンターで定食を受け取ってから、米谷の座る席へと歩を進めると、席の近くまで来て、米谷の近くに見覚えのある男が食事をしていることに気がついた。 兵頭隼人である。そういえば昨日からこの砦に来ていると聞いた。別に会いたくもない男との、久しぶりの再会である。 「米谷」 兵頭のことは置いておいて、直江は米谷の向かいの席まで来て声をかけた。 米谷は動かしていた箸を止めて、顔を上げて直江を見た。だがその表情が何やらおかしい。直江の顔を不審そうにジロジロと眺めている。 直江は米谷の反応を訝しく思い、眉をしかめたが、向かいの席に座りながら構わず再度話しかけた。 「朝食をとったら、十時からの会議の打ち合わせをする。食べ終わったらこれに目を通しておいてくれ」 そう言って、机の上にファイルを置いた。 米谷は未だ眉根を寄せてこちらを眺めている。流石に直江も不審が募り、米谷に尋ねようとすると、 「おい、おんし」 と直江に話しかけてきた男がいた。 一つ席を空けて隣の兵頭である。 「上司には敬語で話したらどうじゃ、新入隊士」 「……なんのことだ?」 「おんし、見たことない顔じゃきに新入りじゃろう?口の利き方がなっちょらんと言うちょるんじゃ」 直江は思いっきり顔をしかめた。いったい朝っぱらから、何を訳の分からないことを言っているのか。 「寝言は寝て言えよ、兵頭隼人」 にべもなく言い放つ直江にそこで言い返したのは、兵頭ではなく米谷であった。 「おい、おまんっ、兵頭さんになんちゅう口を利くんじゃ!」 「何?」 「いいから早く謝れ、ほらっ」 米谷は血相変えて直江に向けて叫んだ。 だが直江には、なぜ部下である米谷に自分がこんなことを言われなくてはならないのかが分からない。 無言でいる直江を横目に見ながら、再び兵頭が口を開いた。 「フン。見たところ随分強い《力》の持ち主のようじゃが、あまり思い上がらんことじゃな。どうしても分からんようなら、わしが体で分からせてやってもいい」 青くなったのは米谷だ。 兵頭を宥めるために、必死に弁明の言葉を投げかけようとしたが、それを遮ったのは直江の怒声であった。 「いいかげんにしろ!」 直江の鋭い叫びに、食堂中の隊士達が何事かと振り返る。 「さっきから聞いていれば、何を訳の分からないことを言っているんだ。おまえは俺に喧嘩を売ってるのか」 「言葉どおりじゃろう。新入りなら新入りらしく、米谷には敬語を使え」 「新入りだろうがなんだろうが、俺は宿毛砦長だ。部下にどうして敬語をつかわなければならない」 淡々と無表情に返事を返していた兵頭が、そこで初めて表情を崩した。 「……何を言っちょる?ここの砦長は橘義明じゃろう」 「……貴様っ、ふざけるな!」 直江は席から立って、兵頭の胸倉を鷲づかみ無理矢理立ち上がらせた。 両者ともにキツイ眼光でギリギリと睨みつけ合う。まさに、一触即発。 まわりの隊士達も止めるか止めまいかと右往左往しながら、を息を潜めて二人を見守っている。流石に、室戸の長に正面きって意見できるような勇猛な隊士はいないようだ。 と、その時であった。直江がある違和感に気がついたのは。 (なんだ……?) 直江は思わず兵頭の足元に視線を走らせた。だが、上げ底の靴を履いているわけではなく、かと言って段差もない。 直江は混乱した。一体どういうことだ…! (どうしてこんなに、俺より身長が高いんだ!?) 呆然とする直江には気づかず、兵頭は胸倉をつかんだ直江の手を鋭く振り払うと、 「どうやら本当に体に分からせてもらいたいらしいな。…いいじゃろう。表に出ろ」 そう言って外に向けて顎をしゃくった。 そのとたん、静まり返っていた食堂が一斉にざわめきだす。 「どうしたんじゃいったい」 「どうやらあん男が兵頭さんを怒らせたらしい」 「兵頭さんを?命知らずなヤツじゃのう」 「誰じゃ?相手のあの男は」 「分からん。新入隊士じゃないがか?」 「誰か砦長に知らせてこいよ」 周りを見渡すと、会話をしているのは明らかに宿毛砦の隊士達だ。見覚えのある人間が何人もいる。 口々に囁く隊士達の会話に、直江はさらに混乱する。 (まさか……!) 兵頭が刀の切っ先のような視線で直江を睨みつけながら、尋ねてきた。 「おんし、名は何という?」 「橘義明だ!」 たまらず叫んだ直江の言葉に、兵頭は目を丸くした。 「橘、じゃと……?」 その表情を見た瞬間、直江は悟った。 突然直江はその場から走り出し、食堂の入り口へと向う。 「待て!」 兵頭も叫んで直江を追いかけた。 だが追いかけるまでも無く、直江は食堂の入り口の廊下で立ち止まった。 そこには壁に、大きな姿見が掛けてあった。 直江はそれを覗き込みながら、呆然とした体で立ちすくんでいる。 「おんし、いったい……」 兵頭の言葉も、まるで耳に届いてはいなかった。 (馬鹿な……っ) そこに映っていたのは直江の予想に反して、まぎれもない“橘義明”であった。 ただし……。 「なんということだ……」 直江は鏡の中の人物を、信じられぬ思いで凝視した。 そこにいたのは、色素の薄い髪と鳶色の瞳を持つ、16、7歳ぐらいの──少年。 直江は右手を持ち上げて、己の頬を撫で上げた。 鏡の中の少年も、愕然とした表情を浮かべながら左頬に手を添える。 そう、直江は、16、7歳の橘義明に。少年時代に若返っていたのだ……! to be continued...★ |