前編 赤鯨衆のアイドルである、西の総軍団長・仰木高耶がその日眠りから覚醒したのも、朝の午前六時のことである。 高耶は瞼を開けるやいなや、ベッドからガバッと身を起こした。 そのままキョロキョロと首をめぐらせて、室内を眺め見る。 (いない……?) 高耶は知らず、落胆のため息を吐いた。 「夢、だったのか……」 あの怪しい、土佐弁神狐のことだ。 高耶が願い事を話した次の瞬間、いきなり黄金に輝きだして消え去ってしまった。 そして高耶もこうして、夢から目覚めてしまったのだ。 (なんだ。夢だったのかよ……) もとより怪しいとは思っていたのだ。だいたい、神狐のくせに罠にはまるはんて間抜けすぎるし、自力で外せないというのもおかしな感じだ。 (それにしても……ちょっと、見たかったかな) 直江の十代……。と、胸の内で呟きながら高耶は苦笑した。 そう、夢の中で高耶が神狐に頼んだ願い事とは、「高校生の頃の橘義明を見てみたい」というものであった。 高耶はずっと心の奥底で、自分が出会った以前の橘義明を知りたいと思っていた。 自分の知らない歴史があの男にはあるのかと考えるだけで、強烈な嫉妬心が込みあがり、堪らなくなるのだ。 その歴史を知っている者が、確実に存在するのだから。高耶さえ知らない直江の歴史を。 それに、直江は自分の高校時代を実際に見ているのに、自分は見たことがないのだ。 不公平ではないか。 だから橘義明の高校時代の写真なり、幻影なりを見せてもらおうと、あの神狐に頼んだのだが……。 (やめやめ。いつまでもこんな幻想抱いてたってしょうがねぇ) 高耶はベッドから降りて、シャワールームへと向かった。 熱水を浴びながら今日の予定を頭に巡らせる。 今日は十時から宿毛砦で幹部会議が行われる。事前の打ち合わせもあるから、八時にはここを発つ予定となっている。 宿毛砦といえば、あの男が砦長を務める場所だ。 (久しぶりだな……) あの男の顔を見ずに過ごす生活が、ここのところ何週間も続いていた。 お互いに息をつくまもなく激務をこなし続けているのだ。こういった会議だけが二人の会う機会となってしまった。 知らず、胸の内が熱くなるのを感じる。 たとえ顔を見るだけでも、報告のために言葉を交わすだけでも、あの男が傍にいるということだけで、高耶の心は癒されてしまうのだ。 (早く、そばに来い。直江……) 高耶は熱水に打たれる火照った己の体を、しなやかな両手でやわらかく抱きしめた。 高耶がホーネットの赤いボディを光らせて宿毛砦に到着したのは、会議の一時間前にあたる、午前九時のことであった。 フルフェイスのヘルメットを外して頭を振っていた高耶に近寄ってきたのは、先ほどジープの助手席に乗って到着した、武藤潮である。 「ようっ。三日ぶりだな、仰木」 「武藤か」 「あれっ、おまえまたなんか顔色悪くねぇ?ちゃんと寝てんのかよ」 心配そうに覗き込んできた潮に高耶は苦笑した。 「夢見が悪かっただけだ」 「夢?ユーレイに襲われる夢でも見たのか?」 「そんなのいつもの事だろ」 たわいもない会話を交わしながら玄関へと足を運ぶと、館内に入った瞬間、高耶は妙な違和感に気がついた。 (何…?) 隊士達がやけに落ち着かない様子なのだ。それぞれ何やら興奮したように会話を繰り広げていて、高耶たちが入ってきたことにも気づかない。 「なんだぁ?何かあったのか?」 潮が首をかしげる。 高耶も訝しんで、隊士に何事か問いただそうかと思ったときであった。 「にしてもあの橘がな〜」 橘だと!? 聞こえてきた一人の隊士の言葉に、高耶は顔を強張らせた。 よく聞くと周りの隊士達は皆、しきりに「橘」という単語を口にしている。 もしかせずとも、隊士達の話題の中心は、あの直江らしい。 「おい、おまえ達!」 高耶は近くにいた隊士達に詰め寄っていた。 「何をこんなとこで話し込んでいるんだ」 「おっ、仰木さん……っ」 「橘になにかあったのかッ。あいつは今どこにいる!」 「砦長なら……医務し…」 「医務室だとっ」 高耶はその言葉を聞いて、矢も楯もたまらず医務室に向かって走り出した。 隊士達は仰木高耶の尋常でない形相に、呆気にとられて立ちすくんでいる。 「お、おいっ。待てよ仰木!」 我に帰った潮も慌ててあとを追いかけていったが、全力疾走で走り去った高耶は、とうに潮の視界から消え去っていた。 高耶は広い館内の廊下を走りながら、沸き起こる不安に呼吸が止まりそうになっていた。 よほどのことがない限り、あんなに口々に隊士達が噂しあうわけがない。 (何があったんだ……直江!) 脳裏に思い浮かぶ最悪の予想に、心臓はすぐさま押しつぶされそうであった。 廊下の角を曲がると、医務室の白いドアが視界に入る。 高耶は駆け寄って、ものすごい勢いでドアを開け放つと我を忘れて叫んだ。 「橘ッ!」 高耶の叫び声に、医務室にいた面々は一斉に振り返った。 そこには四人の人間がいた。 一人は中川。椅子に腰掛けてこちらを見ている。 その傍らに立つのは嶺次郎。高耶よりも先にここに到着していたらしい。 そこから離れて壁に寄りかかって腕を組んでいるのは、兵頭。 そして最後の一人……。 中川の向かいに座って、自分を見つめている人物。 高耶は一瞬、見知らぬ人間かと思った。 いや、確かに見覚えは無かった。 色素の薄い髪に黒い上下を着た、端整で理知的な面差しが印象的な大人びた空気を身に纏う16、7歳の少年。 だが、こちらを見つめる鳶色の瞳は、あまりにもよく見知ったものであった。 そう。こんな、見ているこっちが火傷しそうな熱い瞳で自分を見つめる人間は、世界にただ一人しか存在しない。 愕然とした思いで、高耶はその名を呟いた。 「なお、え……」 「仰木隊長……」 直江は高耶の名を呼んで、苦い笑みを口元にのぼらせた。 その表情を見た瞬間、高耶の胸に沸き起こったものは、驚きの感情ではなかった。 (なんて……、なんて……カッコイイんだ……) 高耶は知らず、ウットリとした溜め息を漏らした。 高耶の様子を不思議に思い、訝しげな表情で直江は見つめてくる。 そんな表情の一つ一つにも新鮮さを覚え、高耶の心臓はドキドキと鐘打った。 高耶の胸の内を占領する感情は、驚愕ではなく、感動であった。 なぜなら、高耶には直江がこうなってしまった原因が分かっている。驚く必要はない。 実際、神狐のことは単なる夢だったと完全に思い込んでいて、願いの存在など今の今まで忘れていたのだが、直江を見た瞬間すぐさまあれは現実のことだったのだと確信した。 自分は「直江を十代にしてくれ」と頼んだ覚えはないが、あの神狐は勘違いして、このような形で願いを叶えてくれたのだろう。 (ありがとう、神狐……。ボケギツネなんて言ってごめんな……) と、今まで散々にこきおろしていた意見をいとも簡単に翻し、高耶は頬を紅潮させながら両手を合わせて、姿の見えない神狐に心の中で感謝した。 「仰木さん……?どがいしたとですか?」 中川が流石に不審に思って高耶に問いかけてきた。 「い、いや。……それよりどうしたんだ橘。そんな姿になってしまって」 弾む声をどうにか御しながら、高耶はシラを切った。 いくらなんでも、自分が神狐にお願いして若返らせたという事実は、伏せておいた方が良いだろう。 「原因は分かりません……。多分、朝起きた時には既にこの状態になってしまっていたようです」 そう言って、高耶に見られたくないとばかりに顔をうつむかせた直江の瞳は、憂いを帯びて苦しげに細められていた。 それを見た瞬間、高耶の理性はブチギレそうになった。 (あああ……こ、このまま押し倒してぇ……!) 思考は暴走直前の危ない橋を渡っていた。 高校時代の直江の姿を想像したことは何度かあったが、今目の前にいる直江は高耶の想像以上のモノであった。 未だ成長途中の若い四肢。今の彼よりも狭い肩。女々しいわけではないが、少し少女めいた感のある横顔。やわらかそうな茶色の前髪から覗く、瞳を縁取る長い睫毛。 身長は座っているからよく分からないが、多分自分と同じくらいだろうか。十分に長身ではあるが、今の彼を知っているだけにそのギャップが激しく、随分と可愛くなったように見える。 それに、年齢を経ると共に男らしさが増していったようだが、もともと彼は女顔だったらしい。中性的ですらある顔立ちは、まさしく「美少年」タイプのものであった。 その結ばれた端整な唇を思うさま貪りたい欲求を必死に押し殺して、全力で高耶はコワレそうになる一歩手前の危うい理性を制御した。 その不自然なまでに気迫に満ちた無表情な顔と、鋭く血走った目で直江を睨みつける高耶を見て、そこにいる誰もが思った。 (仰木高耶が本気で怒っている……) 盛大な勘違いをしてしまった嶺次郎と中川と兵頭である。 高耶はただ単に、沸き起こる欲情を押さえつけようと必死にもがき苦しんでいるだけだ。 「お、仰木さん……。落ち着いてください」 「別に……。オレは落ち着いている」 と言っているわりには、高耶の声音は恐ろしいほどに低く鋭い。 もちろんこれも、興奮でオクターブ一つ高くなりそうな声音をくい止めた結果なのだが、周りはそうは思わない。 (高耶さん……) 直江は高耶の様子を見て、苦しげに目を細めた。 冷たい空気の流れる中、口を開いたのは中川だ。 「どうやら診察の結果、《力》の方には特に異常は見られないようです。原因は分かりませんが……16、17歳ほどに肉体が若返ってしまったと言うだけで、その……戦力的にも生活能力的にも特に問題はありませんから……仰木さん」 宥めるように高耶に言ったが、もともと高耶は怒っているわけではないのだから、高耶の尋常でない形相を緩める効果にはならなかった。 「……、もう、他の隊士達にもバレているんだな?」 そこで答えたのは嶺次郎。 「ああ。朝っぱらから隊士達の目の前で橘と兵頭が一騒動おこしたせいでな。宿毛砦の隊士には筒抜けじゃ。一応口外せんようには言ってあるが……」 と言っても、外の隊士達はあんな調子である。 直江が顔を上げて兵頭を睨みすえた。 兵頭は皮肉げに唇を吊り上げて見せ、直江に向けていった。 「謝る気はない」 「なんだと」 直江は眉間にしわを寄せた。 その顔を高耶が、「怒った顔もまた……」などと思いながらウットリと見つめているのにも気づかずに会話は進む。 「良かったじゃろう。あそこでわしがおんしに気がつかせねば、おんしはもっといらん恥をかいていたじゃろうからな」 「兵頭……」 「なんじゃ、やる気か?今朝の続きをするつもりならわしは構わんぞ?」 兵頭は馬鹿にしたような目で直江を見つめた。 どうやら兵頭は、自分より一回りも年下となってしまった直江を侮っているらしい。 「二人ともええ加減にしろ」 憎々しげに睨み返す直江と兵頭の間に入って嶺次郎は諌めた。 直江は舌打ちをして、再び顔をうつむかせる。兵頭も、今にも爆発しそうな憤怒のオーラを身に纏っている(かのように見えるだけで実際には違う)高耶の存在を思い出して、その場は一時引き下がった。 数秒ほど医務室に沈黙が訪れたが、それを破ったのは高耶のやはり低く感情を押し込めた声であった。 「橘。若返ってしまった以外には、本当にその他には異常が無いんだな?」 直江がその言葉に真剣な表情で答えた。 「ええ、ご心配には及びません。任務に支障をきたすようなことはありませんので」 高耶は真摯な瞳でこちらを見つめる直江の視線にクラクラしながらも、どうにか理性を保って直江に宣告した。 「宿毛の隊士達に露見してしまったのは今更もう仕方がない。が、原因が究明されない以上、これ以上隊士達の混乱を広めるのは防いだ方がいい。……よって、今日の会議にはおまえは出席せず、代理をたてる準備をしろ」 そのほうがええじゃろう、と嶺次郎も賛同し、高耶の意見は可決された。今日一日は様子を見るためにも、外出はせず館内でおとなしくしているようにも命じた。 もちろん、隊士達の混乱を広めないため、という理由もあったのだが、実は今の直江を他人の目にあまり触れさせたくないから、という理由の方が強かったりした。 「仰木隊長……」 直江が訴えかけるかのような眼差しでこちらを見つめてくる。 (くっ……、そんな目でオレを見つめるんじゃねぇっ……) 高耶は殊更眉根をきつく引き絞った。 「橘、後で話がある。夜の十時ぐらいにおまえの部屋に行くから、そのつもりでな」 高耶はそう威圧感も露に冷たく言い放つと、早々と踵を返した。 これ以上、理性を保ったままティーンエイジャー直江の瞳に見つめられ続ける拷問に、高耶は耐えられなくなったからである。 (高耶……さん……) そんな高耶の心うちも知らず、その後ろ姿を直江が苦しげな視線で見つめている。 だが高耶が振り返ることは無く、無情な音を立てて医務室のドアは閉ざされた。 (なんじゃったんじゃ……。今のは……) 嶺次郎と中川と兵頭は、互いに顔を見合わせてそれぞれ首をかしげたのであった。 医務室から退室した瞬間、高耶に声をかけてきた人物がいた。 「仰木っ」 潮である。そういえば玄関までは彼と一緒に歩いていたのだった。 「取り込んでたようだから、部屋には入らなかったんだけど……、橘のヤツどうしたんだって」 潮は高耶が医務室から出るまで外で待っていたらしい。高耶は廊下を歩き出しながら奇妙なハイテンションで潮に答えた。 「ああ……スゴかったぜ……」 「はぁっ?」 訳の分からぬ高耶の言葉に、潮は思い切り眉根を寄せて高耶を覗き込んだ。 高耶の潤んだ瞳は、夢うつつといった感じに、あらぬ所をウットリと見つめている。 (な、なんか……遠いところにイッちゃってるぞ、仰木……) 潮のこめかみに冷たい汗がツッと流れた。 (もしかして……、橘のあまりの容体の悪さにショック受けて、気ぃおかしくしちまったんじゃ……っ) 潮は真っ青になった。たまらず立ち止まって高耶の肩を両手でつかみ、前後に力いっぱい揺さぶった。 「お、おいっ、仰木。気をしっかり持てよ。いくらショックだったからって現実逃避しちゃいけねぇよ!」 「……何を言っているんだ?武藤。別にオレはショックなんて受けちゃいないさ。ショックどころか、想像以上の良さに感動してるくらいだ」 高耶はそう言って、紅潮した頬に片手を添えて溜め息を漏らした。 「オ、オウギィ……」 潮は思わず泣きそうになった。いけない、このままではこの友人はダメになってしまう。 「しっかりしてくれよぉ、仰木ぃ。何があったんだよ。そんなに橘、悪いのか?なぁ、俺に出来ることならなんでもするからさぁ……」 「……なんでも?」 自分の世界に入っていた高耶が、そこで突然反応を返した。 「ああ、なんでもするよ。なんかして欲しいこと、あるのか?」 潮は高耶をどうにか元に戻そうと、必死になって言葉を掛けた。高耶はうつむいてしばしの間逡巡した後、潮にこう言った。 「……おまえ、この前新しく広報部を設置したって言ってたよな」 思いもかけぬ質問に潮は目を丸くした。 「え、ああ……。まだ準備段階だけど、……それが?」 「広報部ってことは、おまえの他にもカメラ使えるヤツいるよな?」 「ああ、このまえ平隊士に募集かけて何人か集まったんだ。特に岩内なんか結構なウデでさ」 「岩内?」 「ほら。さっき俺が乗ってきたジープの運転してたヤツ。現代霊なんだけど、生前はやっぱ専門に勉強してたらしい」 それがどうしたのか?という潮の問いには答えず、高耶は再び何事か考え始めた。 訳が分からず潮は首をかしげると、そこで聞き覚えのある声が廊下に響いた。 「景虎!」 潮は振り返ると、そこに見知った人物が接近してくるのが見えた。 「れっ。加藤の清正じゃねぇか」 「国虎、久しぶりだな」 あいも変わらず学ラン姿で、加藤清正の登場である。 「どうしたんだ。二人してこんなところに突っ立って」 清正が何気なく問いかけると、その時初めて清正の存在に気づいたかのように、高耶はゆっくりと顔を上げた。 そして清正の姿を視界に捉えた瞬間、カッと目を見開いたのである。 (これだ……ッ!) 「武藤、清正、おまえたちに頼みがある!」 「「えっ?」」 高耶は無邪気な子供のように爛々と瞳を輝かせながら、両者をその赤き邪眼で射抜いた。 その瞬間、金縛りにあったかのように二人は動けなくなった。 「聞いて、くれるな?」 悪魔のような微笑と共に、高耶が尋ねる。 その声音には、有無を言わせぬ強烈な迫力があった。 ここで首を横に振れる人間は、世界中探しても某・弥勒か某・大六天魔王ぐらいのものであっただろう。 to be continued...★ |