+第一節+ ──おまえ……景虎のことが、好きだったのか? 彼に、そう尋ねたことがある。 いまから思えば、あまりに愚かで、聞かれた方の失笑すら誘うようなきわめて陳腐な質問だった。 あの頃の自分はひたすらに無知すぎて、自分が放つ言葉の刃が、どれだけの鋭さをもってあの男の心を斬り裂いていたのかを、知ろうともしていなかった。 記憶に無い他人から評される過去の己の姿に、いつも戸惑い、思い出せないもどかしさに苛立ちを隠せなかった。 自棄になって周りに当り散らすことも幾度となくあった。 けれど忘れてはいなかっただろうか。記憶の底に埋もれてしまったのは、果たして自分に関する記憶のみであったのか。 決して忘れてはいけないことが、たくさんあった。 かけがえのない瞬間が、ふたりだけの思い出が、たくさんあった。 思い出すことの出来ない苦しみと、忘れられる苦しみとでは、どちらがより深い絶望の渕を見るのだろう……。 幾度となく繰り返した問いに、答えは出ない。けれどいまになって思うのだ。 それはあの頃に幾度となく見た、あの男の瞳に映し出されていたその冷たく暗い光に。 すべての答えが示されているような気がしていた。 まだ……オレは、おまえに伝えていない言葉があるんだ。 * * * * * * * それは一瞬の油断の先に起きた出来事だった。 死霊たちの楽園と化したここ裏四国では、過日赤鯨衆と死闘を繰り広げ、接戦の末に大敗を喫した一条方の敗残兵が地縛霊化し、時折無害な死遍路を襲う案件がいくつか報告され問題となっていた。 霊同士の諍いを仲裁する役目は、通常現場に最も近いアジトに詰める遍路方の隊士達の任務となっている。しかしその大半はこの結界を自己の分身とする今空海・仰木高耶が責任の一旦を担い、隊士らの助けすら必要とせず率先して仲裁に当たっているのだった。 厳格な寒さが吐息を凍らす二月。 その日争いの火種を巻き起こした霊は、一条方の敗残霊が何らかの原因で活性化し、これを核として周辺に縛されていた幾つかの地縛霊を取りこむことで複合霊と化したものであった。 通常複合霊は、強力な依代を媒体にし、術師が特定の修法を行って霊同士を故意に複合させない限り発生することはないきわめて特異な存在である。しかし裏四国は結界の持つシステム上、様々な霊的要因が重なってこういった特殊な形態を持つ霊が生み出される事例があった。 一つ一つは矮小な霊でも、異なる性質を持つ霊たちが複合することで化学変化にも似た改変が生起し、強力な霊力を持つ事が時として起こりうる。 このようなものを鎮めるのは余程の実力差がないかぎり難しい。小規模なものとは言え、結界の各地に配置される高耶の分身たち、ましてや遍路方の平隊士達にその任に当たらせるには少し荷が勝ちすぎていた。 監察方からの連絡を受けた幹部らのうち、現場から至近に位置する砦に配置されていた高耶が、急遽この複合霊の鎮静に趣くことになった。 同じく間近の砦に詰め、いち早く情報を聞きつけた監察奉行橘義明こと、直江信綱と合流し、現場の林中に駆けつけたときには、一帯は薙ぎ倒された木々と負傷者の血臭漂う凄惨な光景に覆われていた。 「負傷者は退避! ここはオレ達の手で鎮圧する!」 ジープから飛び降りるなり高耶が鋭い声で叫ぶ。 複合霊の猛攻を防ぐのみで精一杯だった隊士達は、高耶の登場を見るなり天の助けとばかりに喜びの声を上げた。 「隊長じゃ!」 「仰木隊長が来てくださったぞ!」 口々に上がる歓声を聞きながら、傍らに付き従う直江がすぐに小隊長格の隊士を見つけて駆け寄った。 「被害の程度は!」 「死遍路が10名ほどやられています。他に鎮圧に向かった隊士が3名重傷。わしらでは《気の盾》を張って被害を防ぐので精一杯でしたっ」 「ここは住宅街に近い。近辺の現代人と死遍路をすぐに誘導させろ! その後、半径50メートルの範囲で簡易結界の用意を!」 「分かりました!」 素早く命令を下す直江を尻目に、高耶は左手首の霊枷を外しながら、奮戦する隊士達に向かって声を張り上げた。 「ここはいい! 動ける者は負傷者を救護班のもとに運べ! 行くぞ橘!」 「御意!」 残雪積もる林中を猛烈な勢いで駆け出した二人に向かって、複合霊が念波を繰り出した。 直江が瞬時に《護身波》を張って受け止める。その隙に高耶が弾丸のような念を続けざまに叩き込んだ。 ギィィヤァァァァアアアアーーーー!!! 劈くような悲鳴を轟かせる複合霊に、直江も容赦無く《力》を叩きつける。 狂ったような勢いで繰り出される衝撃波が木々を深く抉っていく。高耶はそれらの念を瞬時に《護身壁》で防ぎながら、 「橘っ、オレがこいつを抑え込んでいる間に!」 調伏を! と口の動きのみで読み取り、直江は素早く頷いて一歩後退し、手馴れた動作で外縛印を結んだ。 それを確認した高耶が、飛びかかるようにして凄まじい猛攻を複合霊に叩きつけていく。 「いけぇぇッ!」 赤い邪眼がぐわんと唸り、炎を帯びた念が生き物のように地面を這う。火焔は残雪を融かしながらいっそう膨れ上がり、怒濤の勢いで怨霊を襲い狂った。 圧倒的な質量を持った念攻撃の嵐に、断末魔の悲鳴を上げながら死に物狂いで暴れまくる霊の声に被せるように、高耶は鋭く叫んだ。 「今だ!」 「《》ッ!」 叫びと共に、痙攣するように霊の身体が震動した。空間が凍りつくような確かな手ごたえを感じ、腰のサイドポシェットから取り出していた鎧玉を手に強く握り締めながら、直江は瞑想するように種字を観じた。 「オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ、オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ、オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ……」 唱えるのは自らが結縁する毘沙門天の真言。 繰り返される真言に感応して玉が霊気を展開し始め、徐々にゆるゆると白い光芒を発していく。 「オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ、オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ、オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ!」 ゆらりと影を蠢かせながら、玉が熱と光を帯びていく。霊圧と共に膨れ上がる光芒が臨界点に達したと同時に、直江は叫び、握り締めた鎧玉を地面へと押し付けた。 (──《調伏》!) 小さく宣告すると、光芒を発する玉から凄まじい霊気が迸り、地面を蛇のように奔った。 落雷のごとき轟音と共に、周囲が白い光の世界に包まれる! ギィィヤァァァァアアアアアアアーーーーッ!!! 複合された霊たちの最期の悲鳴が空間をつんざくほどに響き渡る。 (やったか!) ドロドロとした怨念が、白い清浄な光に包み込まれていき、やがて霊力の渦に収斂されていくかに思われた……その時。 それは一瞬の油断の先に起きた出来事だった。 直江の外縛を支えていた高耶に向かい、最後の抵抗を試みた複合霊が、ドス黒い念波を浴びせかけたのだ。 その瞬間だった、高耶が突如強烈な既視感に襲われ、一瞬の無防備を晒したのは。 (……ッ!) その一瞬が命取りだった。 「高耶さんッ!」 危機に素早く反応した直江が、引き倒す勢いで高耶に飛びかかる。 背後で起こった爆風に両者共々吹きとばされ、高耶は地面にもんどりうった。 その衝撃波を最後に霊は調伏光の中に掻き消えていき、残響の余韻を残しながら、辺りはやがて静寂に包まれていった。 「つぅ……」 したたかに全身を打ちつけたため、苦痛に眉を寄せながら高耶は上体を起こす。 一瞬意識の揺らぎを感じたが、すぐにそれを振り払い、自分の膝元に覆いかぶさるようにして横たわる直江を慌てて両手で揺らした。 「直江……っ! おい、しっかりしろ直江っ!」 何度か肩を揺らしてみるが、一向に反応がない。 嫌な予感に襲われて、冷たい雪の上に伏せる直江の身体を抱え起し、頭を支えながら意識を戻そうと頬を叩く。 「直江、直江! ……目を覚ませ、直江っ!」 必死の形相で直江の名を呼び続ける。途端、頭を支える手に生温かい液体が伝うのを感じた。 覚えのある感触に、高耶は顔面を蒼白にして手元を覗き込んだ。 どろりと流れる、赫い液体。額から滴り落ちる赤黒い血。 息を飲むほどに鮮やかな色に、一瞬にして眩暈のような感覚に襲われる。 (なお、……え……) 意識が混濁する。目の前が闇に閉ざされていく。 唇が震える。瞳孔を見開く。 いま横たわる彼から流れる赤い血と、その臭いと、目を固く閉ざす彼の姿しか高耶の意識の中に存在しない。 脳裏に甦るのはかつての忌まわしい記憶の断片だった。 動かない身体。 何かを紡ごうとした唇。 最後に微笑んだ瞳。 叫び。 泣き声。 絶叫。 嗚咽。 慟哭。 涙。 絶望。 そして……闇。 ──オレを……置いて、いくな…………。 全身が、音も無く震えだす。冷たく硬直する手には、生温かい血がゆるゆると指の間を伝って、雪の上に落ちた。 自分の名を呼ぶ隊士達の声さえも、遠い夢の中のようで、耳に届かない。 それから暫く後、遅れて現場に辿り着いた潮の手によって肩を強く揺らされるまで、高耶はそのまま茫然と、呆けたように、意識を失くした直江の姿をただ見つめていた……。 →2 |