3. 浦戸アジトの一室、ベッドの上。 高耶は瞑想から眼を覚まし、組んでいた足を解いて一つ溜息を洩らした。 長い髪をかきあげて首をめぐらす。窓の方を見ると、なんだかんだやっているうちに時間が過ぎたらしく、既に日が昇ってカーテン越しに光が漏れていた。 こうしてはいられない。すぐさま剣山山中へ向かって、千秋にこの情けない姿を不本意ながらも見せて、無理矢理にでも術を解かせなければならない。 高耶はかなり焦っていた。前回の直江の若返りとはわけが違う。若返りは若返りであり、十歳やそこら年が減ったところでせいぜい身長が変わる程度だが、今回は女体化だ。あまりにも勝手が違いすぎる。 四百年生きてきた中で女の身体に換生したことは無くも無かったが、とりあえずあの件は経験のうちには入れられない。女の身体構造なんて実際、よく分からないし……何より激しく困惑しているのだ。 高耶だとて至極健康な(……でもないか(泣))青年男児である。人並みに性欲もあるし、嗜好だって、当然ながら彼は女の子が好きだ。決してゲイではない。 そう、高耶は別に同性愛者ではないのだ。直江のことだって、彼がたとえ綾子のように女の身に換生するようになったとしても、直江が直江である限りは己の魂の伴侶であることに変わりない。魂に性別などは関係ないのだ。 ゆえに嗜好的には高耶は、普通のこの年頃の青年と全く変わりない。 そんな彼がいきなり妙齢の女性の身体に変身してしまったら、これはもう当惑するしか他にすべは無いだろう。はっきり言ってどうしたらいいのか分からない。 しかし誰かに相談するわけにもいかない。こんな恥ずかしい姿を知人に見られるのは耐えられるわけもなかった。 今回の事件は、半年前の直江の事件以上に隊士達の反響を呼ぶこと間違いないだろう。 それでなくても高耶は赤鯨衆の西の総軍団長であり、裏四国結界を管理する伝説の《今空海》という、常に隊士達からの注目を集める存在であるのだ。威厳というものがある。 その今空海が、いきなりこんな華奢な女の子になってしまったとあっては、威厳もへったくれもないだろう。死遍路もビックリだ。隊士達にバレることだけは、どうあっても回避せねばならない。 「さっさと出よう……」 グズグズしていると隊士達が起き出してきて、アジトから抜けにくくなる。 身を起こしてベッドから降りると、先程つっかけていたスリッパではなく、壁につけてあったスニーカーを引き寄せた。 両足をスニーカーに突っ込むと、歩き出そうとしたそこでハタと気づく。 靴が少しブカブカする。当たり前だ。目線の高さから察するに、昨日までの男の自分より10センチは背が低くなっている。ということは靴のサイズだとて元より小さくなっていて当然だった。 どうしようかと数秒逡巡して、仕方なく靴紐を思い切り強く結びなおした。こうしておけば、少なくとも歩いている途中で足が抜けることは無いだろう。 数歩、床を踏みしめるようにして歩いてみた。 このまますぐさま部屋の外に出ようかと思ったが、思い直して洗面所へと向かう。 アジトから抜け出すまでが問題なのだ。早番の隊士もいるから、数は少ないだろうがどうしたって廊下で出くわしてしまう。その時この赤眼を見られたら終わりだ。顔だけなら「仰木高耶と似ている女」ですむだろうが、こんな邪眼を持っている人間は高耶以外にありえない。即刻バレて、その瞬間に自分は隊内中の笑いものになってしまう……! (そんなことは許されない……!) 高耶は鏡の前に立って、台の上に置いてあったケースからカラーコンタクトレンズを取り出すと、指にくっつけて両目に右、左と入れていった。 普段カラコンタイプの遮毒コンタクトは滅多に使わない。ノーマルよりも質が落ちるので、6時間以上継続して付けられないし、遮毒率も落ちてしまうからだ。 それでもいつかは役に立つ時もあるだろうと思い部屋に置いてあったのだが、まさかそのいつかがこんな状況下であろうとは、発明した中川も思いもよらなかったことだろう。 本当ならこの上からサングラスか何かを付けられれば良いのだが、生憎そんなものは高耶の部屋に常備していない。 さて、眼の方はこれで一応良いとして、問題は服だ。 今身に付けているYシャツもコットンパンツも、裾が長くてブカブカである。かと言ってこの服より小さい服があるわけでもないので、我慢するより他無いだろう。 それでも高耶はクローゼットを開けると、中でも一番嵩張らない型の上着を出して、上から羽織った。 袖がズルズル長くて閉口したが、剣山へはバイクで向かうつもりなのだ。この寒空の下で上着も無しに走るのは、はっきり言って自殺行為である。 今度こそ仕度を整えると、ドアノブへと指を掛けて、ゆっくりと室外にドアを開け放していった。 用心深くキョロキョロと左右を見回すと、ちょうど人通りが絶えているようで、廊下には隊士の影も形も見当たらない。 (よし……今だっ) 胸の中でそう叫んで、一気に部屋から駆け出した。 靴のせいで足が多少もたついたが、なるべく音を立てないように注意深く足を踏みしめて、長い髪を靡かせながら廊下を疾走していく。 角を曲がった瞬間、一人の隊士と擦れ違った。しかし一瞬擦れ違っただけなので、相手もこちらの顔は見えなかったらしく、振り返ることも無くそのまま廊下を歩んでいく。 そのことに多少安堵しながら高耶は階段に着くと、段を踏み外さないように用心しながら一つ一つ小走りに駆け下りていった。 その際にも下階から隊士二人組みがこちらに上がってくる。高耶は心持ち頭を俯かすと無言でその横を通り過ぎた。隊士二人がこちらを振り返り見ているようだったので、一瞬「まずったか」と舌打ちしたが、すぐに後方から聞こえてきた会話でそれが杞憂であることを知った。 「おいっ、今の子すっげカワイくなかった?」 「白鮫の娘かの〜。あんな別嬪なら一度見たら忘れんじゃろうが……」 次第に交わされる声が遠のいていく。 「…………」 階段を降りきった高耶は、再び廊下を疾走しながら、複雑気に眉を顰めた。 まあ、とにかくバレたわけではないらしい。思ったよりも浦戸の平隊士は注意力散漫のようだ。今度機会があれば、喝を入れておく必要があるかもしれない……。 そんなことを思案していて不覚にも高耶は、次の角から歩んでくる人の気配に気づくことができなかったのだ。 ドシンッ。 「うわっ!?」 気がついた時には、既に尻餅を着いて床にへたり込んでいた。 何なんだっ、と半ば茫然として床上にへたっていると、頭の上から男の声が降りかかってきた。 「大丈夫か?」 おそらくぶつかった相手だろう。横髪を指でかきあげて、声のする方へと視線を上げると、差し出された男の大きな手の平が見えた。そうしてなおも目線を上げて顔を仰のかせると……。 高耶は一瞬、言葉を失った。眼を見開いて、確認するかのように目の前の人物をまじまじと見つめて、それでもやはり思ったとおりの人物であることを悟ると、思わず高耶は「げっ……」と呻きを洩らしていた。 (なんでここにコイツがいるんだよおぉ───っ!) 心中で絶叫を轟かせながら、高耶は柳眉を顰めて顔を思いっきり目の前の男から逸らした。 冗談ではない。この男、どうしてこうもタイミング悪く、よりによってこんな時に自分と出くわすのだ! 大体何なんだこいつは。普段こっちが、逢いに来て欲しいかも……なんて思っている時にはなかなか現れないくせに!ふざけている。どいつもこいつも。オレに何か恨みでもあるのか!? 「どうかしましたか」 男が心配したように声を掛けてきた。 「どこか具合でも悪いんですか?」 その優しげな響きを持った声に、高耶はビクリッと片眉を上げた。 平常この男にこんな風に穏やかな調子で話しかけられると、大概は心が休まるような暖かい気持ちに包まれるのだが、今回ばかりは違う。 一瞬忘れそうになるが、この男──直江は、目の前にいる女が高耶本人であることに気がついていないはずなのだ。先程の態度から推測してみても、その予想に間違いないはず。 それなのにどうしてこの男は、赤の他人である初対面の女に、こんな、まるで高耶自身に接するかのような優しい言葉をかけているのか……。 大体、赤鯨衆での直江は高耶以外の人間に敬語を使うことなど無い。なのになぜ、今さっきの言葉には丁寧語が使われていたのか……? (この男……女相手だからって、色目使ってやがるのか……ッ) そう考えた瞬間、フツフツとしたどす黒い感情が身のうちに込みあがってきた。 しかしハタと気がついた。 いけない、今はこんなことをしている場合ではないのだ。直江が気づいていない今のうちに、即刻この場から立ち去らなければならない。 そうだ。一番危険なのはこのオトコにバレることだ。自分が女の身体になってしまったことなど知られてみろ。もう、明日の朝には孕まされてそうだ。 (危険だ……危険すぎる……!) 今までの四百年間で、普通の人間よりはよっぽど多くのことを経験してきたつもりだが、さすがに出産したことは一度も無い。しかしこれから経験しようとも思わない……! そんな切実な思いを胸のうちに去来させると、危機回避のためここから全力で逃げ出すことを心内で決断して、高耶は必死の思いで一気に捲くし立てた。 「いや何でもない。気にしないでくれ。すまなかったな」 そうして、直江の方を見ないまま勢いをつけて立ち上がると、小さく会釈をしてその場からそそくさと逃げ出した。そう、高耶はその時、無事に逃げ出せたと思っていたのだが……。 「待ってください!」 そうは問屋が卸さなかった。(というか読者が許さなかった) 擦れ違い際、あろうことか直江にガシッとその細腕を掴まれてしまったのだ。 「な、何す……」 焦りながら腕を引いて直江の腕を振り解こうとしたが、ただでさえ馬鹿力の直江に女の自分が敵うわけも無く、強引に引き寄せられてしまった。 高耶はもう、この瞬間に「終わった……」と思った。 直江にバレてしまったのだ。当たり前かもしれない。平隊士ならともかく、相手は直江なのだ。女体化してしまった程度でこの男の眼を誤魔化せるわけも無かった。よく考えなくとも、この男が自分のことを分からないはずが無いではないか。 しかしそんな諦めの境地のうちに、次の瞬間鼓膜に届いた言葉は、高耶の予想とはかけ離れた種のモノだった。 「名前を教えていただけませんか」 見つめてくる直江の真剣な鳶色の瞳。囁かれる声は極上に艶っぽくて、思わずどこかがうずいてしまいそうだ。(…って無いのか、今は) 高耶は意味が分からずに「はぁ?」と調子が外れた声を出して、首を横に傾げた。 何を言っているんだろう、この男。今更教えてもらわなくたって、オレの名前なんていつでも呼んでるじゃないか。 大体こいつは「仰木隊長」「仰木隊長」って、普段気をつけて呼んでる割には何かあれば人前でもすぐ「高耶さん」って呼ぶし。これじゃあ何のために正体隠してるんだか分かったもんじゃない。というより今更他人のフリしたって、オレ達の関係知らない奴なんて卯太郎ぐらいじゃないのか?(武藤は最近ようやく気づいてきたようだし) そんな風にして数瞬の間あまり関係のないことに思いを馳せていると、重ねるようにして直江がもう一度高耶に言った。 「ですから、あなたのお名前を教えていただきたいんです」 高耶は無言でその言葉を受け止めた。 名前を教えてほしい?……っていうことはオレの正体がバレたわけじゃなかったのか。 なんだよ、直江のクセにオレのことが分からないのかよ。腹立つ。 しかし待て、それじゃあ何で名前なんて聞いてるんだ?普通初対面の人間に向かっていきなり聞いてくるか?これじゃあまるでナンパ……。 「……っ!」 高耶が途端に形相を変えた。 よく考えなくたって、「ねーキミ名前なんて言うの〜?」はナンパの常套文句じゃないか! ということは何か?直江は今オレにナンパを仕掛けているというのか。初対面の女に。 オレというものがありながら他の女にナンパしてやがるっていうのか……ッ! 裏切られたような心地に襲われて、高耶は顔中真っ赤にして直江を射殺すような眼でギンッと睨みつけた。 この際「他の女っつっても結局本人なんだからいーじゃねぇか」というツッコミは、理性がすっぱ抜けた高耶に通用するわけも無い。 その眼光に驚いてスキを見せた直江に、眼にも止まらぬ速さで掴みかかると、思いっきり力を込めて張り手を食らわした。 「え……っ!」 直江が眼と口を開いてこちらをポカンと凝視している。 そのマヌケ面が無性に癇に触ってもう一度殴ってやろうかと思ったが、それよりもこの男をどうしても怒鳴りつけてやりたくて、再び掴みかかると、高耶は全身全霊の怒りを込めて叫んでやった。 「てめぇ、オレという者がありながら女ナンパするとはどういう了見だあぁぁ──ッ!」 |