5. 会議室の入り口には、茫然の体で二人を凝視しながら石像のように突っ立っている嘉田嶺次郎が。会議室の床には、直江に押し倒された格好のままフリーズしている仰木高耶が。その上には、流石に高耶から唇を離して不満そうに横目で嶺次郎を見る直江信綱がいた。 辺りには静寂が取り巻いている。流石にこの状況で出すべき言葉が咄嗟には思いつかない。 しかしその三者三様の沈黙を越えて、まず一番に口を開いたのは直江だった。 「何か用か、嘉田」 そのやけに冷静な言葉に嶺次郎はやっと我に返り、「あ、ああ……」と歯切れの悪い返事をした。 「その、……そこの机にな、資料を置き忘れて取りに来たのじゃが……」 目線で促されて直江が顔を振り返らせると、確かにその会議室の大テーブルの端っこに、ポツネンと白い紙の束が置き去りにされていた。 まったく……いいところで邪魔が入った……と、さも迷惑そうに直江が大仰な溜息をつくと、その時彼の真下で人形のように固まっていた高耶が、突然ビクリッと肩を震わせた。 「う、うわあああぁぁぁっ!」 奇声を上げて足を蹴り上げると、不意打ちをくらった直江が思わず身を引いた瞬間にすかさず高耶がガバリッと上体を起こす。 慌てて直江の下から這い出て壁際に逃れた彼女は、激しいキスの効果で真っ赤に色づいた唇で荒い呼吸を漏らしながら、乱れた胸元の服をババッとかき寄せて、頬を紅潮させながら直江の顔をギラリッと激しく睨みつけた。 未だに状況が上手く飲み込めていない嶺次郎は、何事かと思い、再び声も無く目を丸くした。 しかし目の前の女性の一連の動作を見て、そこから何かを察したらしい。唐突に愕然と顔を青ざめて、高耶の横顔をまじまじと舐めるように凝視した。 「ま、まさか……おんし……」 驚愕に上ずった嶺次郎の声を聞いて、高耶は「ああ……バレた……」と胸のうちで絶望的な呟きを漏らした。 直江にバレたのとは訳が違う。確かにこの男にだけは絶対に知られたくないと思っていたのは事実だが、それは、「こんな女体化したことがバレたらこの男に何されるか分かったもんじゃない」という危険回避のためであり、前回の直江若返り事件の真相説明を求められるのが嫌だったからであり……と、直江に知られること自体が恥ずかしかったからというわけではないのだ。 もう、この男とはどこもかしこも全てを許し合ってしまった仲だ。今更体面も何もない。 現に直江にこんな情けない姿を見られたからといって、恥ずかしいという気持ちはそれほど沸き起こってこなかった。それぐらいで直江の想いが揺らぐことなど無いという自信があるからだ。 なんと言うのだろう、付き合い始めのカップルは、相手に嫌われないようなるべく自分の自信の無い部分を隠し隠し付き合おうとするが、一年も経てば寝起きのむくんだ顔を見られようが汚い部屋を見られようが全く頓着しなくなるのと同義だ。(←いやちょっと違うだろう) しかし、相手が嶺次郎となると話は違う。 いかに親しき仲とは言え、直江のように何もかも隠すことなく曝け出し合うようなことは出来ない。どうしたって体面は気になるし、人間進んで自らの恥部を見せつけようとする者はいない。 故に直江にバレたことよりも、今嶺次郎に自分の女体化がバレたことの方が、高耶にとって遥かにはっずかしぃ〜ことだった。 そんな思いに捕らわれて、今度こそ絶望感に身を焦がしながら顔を俯かせた高耶の耳に、次に届いた言葉とは……。 「おんし……橘っ。おまんもしかせんとも、このおなごを無理矢理強姦しようとしちょったんがかああぁぁ──ッ!」 ………………。 「「……はあぁ?」」 二秒ほどの沈黙の後、二人の声が見事にハモった。 予想だにしなかった嶺次郎の反応に驚いて高耶がバッと顔を上げると、そこには直江に駆け寄って、顔を真っ赤にしながら胸倉を掴み上げる嶺次郎の姿があった。 「ご、強姦?」 「そらっとぼけるな!おまん抵抗するひ弱な女子を無理矢理犯すような最低な男じゃったがか!見損なったぞ橘っ!」 がくがくと揺さぶられる直江は、間の抜けたような顔で憤怒に顔を歪ませる嶺次郎を見上げる。 その様を数秒間観察しながら、高耶はなるほど……と現在の状況を冷静に把握した。 どうやら目の前の女性が高耶だと言うことに、嶺次郎が気がついたわけではなかったらしい。 それどころか先ほどの場面を見て、「橘が嫌がる女を無理矢理押し倒して強姦しようとしていた」のだと勝手に勘違いしてしまったのだ。(いや、あながち勘違いでもないのだが……) 直江の方もその事情を察したのか、我に返って己の胸倉を揺さぶる嶺次郎の腕を掴む。 「待て嘉田、誤解だ」 「何が誤解じゃ!わしの目の黒いうちは赤鯨衆隊内で婦女暴行なんちゅう行為は断固許さんっ!」 んなこと言って、オレここに来てから室戸の連中に寝込み襲われたり他にもいろいろとあったけどあれはいいのか?と心中で一人ツッコんでいたが、高耶は「いやそんなこと考えてる場合じゃないだろう」と首をフルフル振った。 今知ったが、嶺次郎という男は性的な行為に対して意外に潔癖なところがあるようだ。このまま放っておくと、その正義感ゆえに勢い余って直江に殴りかかりそうである。 とりあえず、強姦に近いものがあったのは事実だが、最後のほうでは済し崩しになっていたし、何より死ぬ気で逃げようと思えばどうとでもなったことは否めないので、高耶は彼の不名誉なレッテルを外すべく、直江を壮絶な勢いで睨みつける嶺次郎の背中に声を掛けた。 「待て、嶺次郎っ…………さん」 突如として背後から発されたアルトの声に、ハッとなって嶺次郎が勢いよく振り返る。 「おんし……」 「違うんだ。オ……私、急にあなたが入って来たから驚いただけで、橘が悪いわけじゃないんだ」 高耶が控えめにそう告げると、嶺次郎が驚きに目を見開いて、慌てて直江の胸倉を掴み直すと、反対の手で彼の顔に人差し指を突きつけて見せた。 「しかしおんしっ、あれほど憎々しげに橘を睨んでおったじゃろう!」 「いや、それはただ単に恥ずかしかっただけで……」 そこで息を一つおくと、高耶は少し恥ずかしそうに顔を赤くしながら、「それに……」と、心持ち顔を視線を下へ向ける。 「抵抗したにはしたけど、その……本気で嫌だったわけじゃないから……」 そう言うと、パッと気恥ずかしげに顔を俯かせてしまった。 その様を唖然とした面持ちで嶺次郎が凝視し、背後の直江も驚きに言葉を失って高耶を見つめている。 そして当の高耶はと言うと……。 (ち、違うぅぅ──っ!こんなのは本当のオレじゃねえぇぇ──ッ!) 逆巻く波が心の中を躍り狂っていた。 不本意である。実に不本意である。だって本当に自分は死ぬ気で嫌がっていたのだから。ただ、直江のテクが高耶の抵抗心より遥かに上回っていたというだけで……。 しかし不本意ながらも、こうとでも言わないと嶺次郎は納得してくれそうにも無い。 それに高耶としても、「黒き神官」だの「隊内一冷徹な男」だのといった数々の橘の呼称の中にもう一つ、「強姦魔」などというシロモノが加わるようになっては困るのである。仰木隊長の美的感覚が許さないのである。 そんなわけで泣く泣く二重の意味でクサイ演技を打った高耶であったが、あまりの気恥ずかしさで顔を二度と上げられない。 だって、直江が嬉しそうにニヤつく顔が目に浮かぶようではないか……! そんな風に羞恥に身を悶えさせる高耶を見つめていた嶺次郎は、すっかりその演技に騙されてしまい、安心したように肩から力を抜いた。 「ほ、ほうか……なら良かった……」 ホッとして溜息を一つつくと、思い出したように直江のほうを振り返って悪びれもせずに背中をバンッバンッとはたいた。 「……嘉田」 「なんじゃおんし、そんならそうと早う言え。てっきりわしゃぁおんしも女子に飢えて見境がなくなっちょる隊士のクチかと……」 俺がそんなに不自由してるように見えるか!……と直江は内心で毒づいたが、言葉にはせず代わりに盛大な溜息を漏らして見せた。 大体、最初から誤解だと言っているではないか。全く。 「分かってくれて嬉しいことだ……」 そう呟くと、直江は踵を返して大テーブルの端に置いてあった紙の束を手に取った。 「おお、すまんな」と手を差し出した嶺次郎に資料を渡すと、そのたくましい腕を胸前に組んで、いかにも迷惑そうに顔を顰めて告げる。 「分かったならもう行ってくれないか。人の恋路を邪魔する奴は≠ニ昔の唄にもあっただろう」 ブッと高耶が壁際で噴き出した。 何が恋路だこの馬鹿!と思わず顔を上げて直江の顔を睨みつけたが、当人は全く頓着していない。 「ほぉか。そうとは知らず悪かったの。じゃが橘、こんな公共の場でしっぽりしけ込むのはどうかと思うぞ。やるなら部屋に戻れ」 ぽんぽんっと直江の肩を叩いてついでにありがたい忠告をすると、スタスタとドアの方へ足を運んだ。 そうしてドアノブに手を掛けた途端に、嶺次郎が高耶を振り返る。 なんだ?と警戒して高耶が視線をキツくすると、嶺次郎は目の前の女性に向けて磊落な笑みを浮かべ、 「それにしても橘もやるのぉ。おんしほどの上玉の別嬪は、わしも久しぶりに見たわい」 ここは血の気が多い奴らが多いき、寝込みを襲われんよう気ぃつけ。と、嫌味のない口調で告げた。 「……気をつける」 高耶が半ばうんざりとしてその忠告を頂戴すると、うんうん、と頷いて今度こそ嶺次郎は会議室を退室していった。 「…………」 何だかもう、ドッと疲れが来た。よく考えればまだ朝の6時ほどだというのに、早くも高耶は床について休んでしまいたい衝動に駆られていた。 (もうオレは寝たい……) そんな感じに両手で目を覆って半分自暴自棄の境地に陥ってた高耶の横に、今日も今日とて朝から元気な男が靴音をたてて歩み寄ってくる。 「全く、とんだ邪魔が入りましたね」 直江の言葉が頭上から落ちてくると、高耶は力無く顔を仰のかせて、疲れたように吐き捨てた。 「何が邪魔だ……この阿呆が……」 「先ほどは庇ってくださってありがとうございました。嬉しかったですよ、あの言葉」 そう言って本当に嬉しそうに微笑するのだから、こっちの力も抜けるというものだ。 高耶は柳眉を歪ませた苦い顔をして、直江から視線を外すと溜息を一つついた。 「勘違いするな。おまえがこの先、「隊内一冷徹な男」から「隊内一の節操無し」なんて呼ばれるようになったら、オレが困るからだ」 だから言葉の額面どおりに受け止めるんじゃねぇぞと、釘を刺すように言い放つ。 「酷いですね、節操無しだなんて。私はあなた以外の人間なんかには目もくれたことはありませんよ」 あーそーかい、と生返事を返すと、高耶はすっくと立ち上がってこんな奴に用は無いとばかりに部屋から退室しようとした。 「どこへ行くんですか?高耶さん」 「オレはおまえのくだらないお遊びに付き合ってるほど暇じゃない」 そうにべも無く言い放って、ドアノブに手を掛けた時、ガチャリと回そうとした手の上から直江の大きな手の平が重ねあわされる。 見上げると、そこには不敵に微笑んだ端整な直江の顔があって、高耶は思わずその男っぽい造作にふっと目を奪われた。 「駄目ですよ。ちゃんと理由を説明してくれるんでしょう?」 直江が高耶の細い腰をぐいっと引いた。バランスを崩した高耶は、勢いそのまま直江の胸の中にポスンッと倒れこむ。 直江は両手を高耶の背中にまわして、ぎゅっとやわらかい力で胸のうちに包み込んだ。 高耶が慌てて、直江の腕を掴む。 「直……」 「話してくれるまで、ずっとこうしてますよ?」 向けられる直江の微笑みは優しくて、高耶は一つ二つと漆黒の瞳を瞬かせた。 こんなに優しく直江に抱きしめられたのは、本当に久しぶりなのではないかと、唐突に思った。 直江の匂いに包まれるうちに、なんだか、今朝から起こったいざこざやらムシャクシャやらが全部昇華されていくような気がした。 先ほどまで感じていた直江に対する怒りが氷のように溶けていく自分自身に半ば呆れて、オレがこんな風だからこいつがつけあがるんだと、込みあがる情念を意地になって必死に押さえ込もうとするが、それでも呆気ないほどにムシャクシャした気持ちが体外に逃げ出していって、高耶にはこれ以上怒気を保り続けていることができない。 そのまま十秒間ほど心中で攻防戦を繰り広げていたが、「これは駄目だ」と観念して、高耶は少し眦を下げながら、降参のしるしの微笑を浮かべた。 「分かった。説明する……」 |