7. 所は変わって、ここは浦戸アジト医務室。 中川の朝は早く、今日も午前5時30分には寝床から起き出して支度をし、不足して取り寄せた薬品や医療具の補充を行っていた。 コンコンッ。 「失礼しまーっす」 ノックの後に入ってきたのは楢崎だった。 「中川さん、頼まれてたモン持ってきましたよ」 そう言って、両手に抱えたダンボール箱を差し出す。箱の中でガラスのこすれあう音がガチャガチャと鳴った。 「ああ、ありがとう楢崎。その辺りに置いといてください」 「ラジャ!」 明るい返事と共にテクテクと歩き、「愛媛みかん」と書かれたダンボールをよっと床に置く。 「お疲れさま。それにしても、楢崎は毎朝こんなに早いのかい?」 中川が楢崎の、イマドキの若者らしくスラリと均整の取れた背中に向って問いかけた。 今朝ちょうど廊下に出た所に楢崎と出くわしたので、倉庫から補充の薬品を持ってきてくれるよう頼んだのだが。 「んーいや、毎朝っつーわけじゃないッスよ。今日は何だかやけに早く目が覚めちまって。……ま、おかげで朝からイイもん見ちゃったけど」 早起きは三文の得ってヤツか〜?と言って、にししと腕を組んで笑う楢崎に、中川が首を傾げた。 「イイもん?何か見たのかい?」 「聞きたいっすか?」 振り向き様、「誰かに話したいオーラ」を全身から発散しながらウズウズと中川を見つめる。 「実は……、今朝さ、中川さんに会う前に廊下でバッタリ橘さんに会ったんだけど」 「橘さんに?」 「そう。でもそんだけじゃなくてその隣りになーんとっ、橘さんのコレがいたんすよ!」 楢崎が嬉々としてピーンッと小指を天に向って突き上げる。しかし中川にはよく分からなかったようだ。 「はぁ、コレ?」 自分も小指を突き立てて眉根を寄せる。 楢崎はその様子にじれて畳み掛けるように言った。 「コレっすよコレ!橘の恋人!」 「あ、へぇ……、橘さんの」 中川が納得したように頷いた。 「そうそう。もうスッゲ美人でさ、顔なんてこんなちっちゃくて背もスラッと高くて。橘と並んでると美男美女でまるでドラマのワンシーン見てるみてぇだったなー。なんかちょい悔しいけど」 頭の中で回想しながら楢崎が語りまくる。この分では会う人会う人話しまくって、翌日にはアジト中に噂が広がり渡っていそうだ。 (橘さん……、また公衆の面前で仰木さんとイチャついていたんだな……) まったく困ったものだ、と中川は少し溜息をついてみせた。本人たちはわりとフツーにやっていることでも、周りから見たらイチャついてるようにしか見えないことがあの二人は多々ある。 大体にしてあの二人は目立つのだ。まずあの容姿だけでも人目を十二分に引く物があるし、一方は天下の今空海・仰木高耶。そしてもう一方が泣く子も黙る隊内一冷徹な男・橘義明である。個々でそこに立っているだけで自然と注目が集るのに、ましてやあの二人が揃い立ってくっついているとあっては……。 今度さり気なく注意しておくか……と、視線を手元の名簿に落とした時。 ハタ、と気づいた。 「楢崎、いま何て言った?」 「え?」 突然の中川の真剣な声音に、楢崎が困惑した声をあげる。 「いいから、いま何て言ったんですか」 「え……何って、だからなんかちょっと悔しいけど≠チて」 「その前っ。その一つ前ですよ!何を言っちょったんですか!」 中川が食いつくように楢崎の両肩を手で握った。いつも穏やかな光を灯している瞳は閃光が宿り、必死な形相で肩をガクガクと揺する。 「えええっ……その、何だっけ。確か橘と並んでるとスゲー美男美女で、ドラマのワンシーンみたいだ≠チて……」 「何ですってぇえ!?」 中川が顔面蒼白でムンクのような叫びをあげた。楢崎がビビッてズササッと後退さる。 「な、中川サン……?」 楢崎の呼びかけにも反応はなく、中川は依然として硬直したままだ。 (た、たちばなさんっ……。あなた仰木さんと言うものがありながら、まさか女性の方とう、浮気っ!?) 中川は愕然として額を押さえた。何ていうことだ。何と言うことだ! (橘さん、見損ないましたよ……!私はあなたと仰木さんのこと密かに応援していたのにっ!) 裏切られたような心地に襲われた。いや、自分が気を悪くするだけならまだいいのだ。問題は高耶にもしこのことが知られたら。もしもあの人が、橘さんが他の人間と浮気していると知ったとしたら……! ただではすまないだろう。何しろあの仰木さんだ。あれほどまでに橘義明という男に妄執の炎の燃やす人間が、この事実を知って何の反応も無いことなどありえない。 高耶の反応が怖い。情景が目に浮かぶようだ。最悪、精神錯乱のあまり魂核異常に深いダメージを与えてしまうかもしれない。 (何ていうことをおおぉぉ……) 思わず右手拳を正面のデスクにダンッと叩きつけた。その音に楢崎がビビクッと飛び上がる。 だがその時、中川はハタと我に帰った。 視線を上げる。楢崎が怯えるようにこちらを窺い見ていた。 「楢崎……それは、本当に女性の方だったのかい」 楢崎が跳ね気味の髪を揺らしながら、コクコクと顔を頷かせる。 中川は黙った。まさか、彼が仰木隊長を見間違えたなどということはないだろう。しかも女性と。 「それじゃあ、何故その女性が橘さんの恋人なんだと分かったんだい」 「それは……橘が、その女のヒトの両肩掴んでなんかワケありな話してたみたいだったから、俺が「お取り込み中なのか?」って聞いたら……」 「肯ったのかっ」 「いや、何も言わなかった……」 中川は再度眉を寄せて考える。察するに、「雰囲気的に恋人同士のようだった」から楢崎はその女性が橘の恋人だと判断したのだろう。 とすると、楢崎の単なる勘違いという可能性もある。橘自身が「この人は俺の恋人だ」と言ったのでないのなら、まだ希望は十分残されているわけだ。 大体、考えても見ろ掃部。あの橘さんが、「俺は高耶さんを救うためなら世界中の人間を皆殺しにしたって構わないんだ」と、傍迷惑なことを豪語して憚らないあの橘さんが、仰木さん以外の人間に例え摘み食いだけにしたって目をくれるだなんて、明らかにおかしいじゃないか。 私は知っている。あの人は白鮫たちにもかなり人気があることを。しかしあの人のあしらい方の冷たいことと言ったら……!「赤鯨衆一冷徹な男」という名がついたのは、橘さんに無碍に断られた白鮫たちが半ばあてつけのように呼び出したことからが始まりだと専らの噂なのだ。 たとえどんな美女だろうと、あの人にとって仰木さん以外の人間など路傍の石にも等しい存在なのだろう。(願わくば私のことはたんぽぽくらいに見てくれていると嬉しい……) 混乱のあまりそんな基本的な見解に辿り着かなかった。最近疲れが溜まっているんだろうか。こんなことじゃ赤鯨衆の心霊医師は務まらないぞ!掃部! (しかし……その場で無言のまま否定しなかったというのもおかしいな) 橘なら妙な噂話を立てられて高耶の心を煩わせることのないよう、真っ先に否定するのではないだろうか? 楢崎に誤解させたまま放置しておくというのは、常に冷静なあの人にしてはおかしな失態だ。 「やはり……これは一度確認をとってみる必要があるな……」 「確認……?」 楢崎が「わけがわからない」と言った風に瞳をパチクリさせている。 「楢崎、橘さんはどこら辺にいたんだ」 「えっ、……確か、一階の東棟だったから……U会議か資料室の辺りだったかなぁ」 U会議とは「第二会議室」のここ浦度アジトにおいての通称である。ちなみに「第一会議室」は「T会議」だ。 「あそこらへんだな。……よし、分かった。ありがとう楢崎、知らせてくれて。私はこれからちょっと用事があるからこれで」 「え……?ちょ、ちょっと待っ」 楢崎の声を聞かず中川は白衣を靡かせてそそくさと医務室から廊下へ立ち去ってしまった。 残された楢崎は茫然と、医務室の白いドアを見つめる。 「あんなに慌てて、中川さん……。実は、橘のファンだったとか?」 ポツリとつぶやいて、まさかなぁと頭をカキカキした。 楢崎は知らない。この後とある事件を境にして、そう言う自分こそがこの赤鯨衆隊内において、橘義明ファンの第一人者になることなど……。 *** 「気に入りませんね」 直江が憮然とした声で呟いた。隣りで黒髪のスタイルの良い女性が、呆れたように溜息をつく。 「何が気に入らねぇだよ」 「こんな服じゃなくて、もっとましな物は無いんですか?せっかくなんだから、もう少しどうにか……」 と、高耶が身に着けたトレーナーとジャージの下を見つめながら直江が眉を寄せた。 「あのなぁ、直江。ここはデパートでもブティックでもねぇんだぞ。おまえのお気に召すような支給品が赤鯨衆のキツキツの経理に通るわけがないだろう」 「そんな、私の見たところ他の白鮫たちはもっと派手派手しい格好をしていましたよ。それこそシャネルだのグッチだのエルメスだのヴィトンだのの今年の新作バッグをぶら下げて」 「何でおまえがヴィトンの今年の新作を知ってるんだよ……。あいつらのあれは自分の小遣いで賄ってるんだ。どうやって稼いでんのかはよく知らないがな。それにあいつらだって戦闘時には支給品のアシックスだの無印だのを着てるだろうが」 それは……そうですが、と直江がおもしろくなさそうに口を結んだ。 ここは浦戸アジトの第一倉庫である。高耶と直江は、女体化した高耶の服装を整えるために、白鮫用の支給服を倉庫まで取りに来たのだ。 そして、適当なものを見繕って試着した高耶を見ての直江の第一声が、先ほどのアレである。 なんだよ、おまえが着替えろっていうから着替えてやったのに、ぐちゃぐちゃ文句ばっかり言いやがって……と、高耶の方も機嫌悪く眉を寄せたのだったが。 「まぁ……。あなたは何を着たって綺麗だからいいんですけどね……」 と、ポツリと呟いたその言葉で顔を上げた。数秒ほど直江の顔を見つめて、少し顔を俯かすと頬をやや赤く染めて言う。 「あ、……ありがと、よ」 視線を泳がせて、照れ隠しに思いっきり不機嫌そうな顔をする。 なんだか、直江にこうやって歯が浮くような台詞を言われるのは慣れっこのはずなのに、今日はなぜかやたらと気恥ずかしかった。もう少し言ってくれないかな……などと考えてしまい、自分で言ってて更に恥ずかしくなって顔を真下に俯かせる。 高耶の思考回路は女体化の影響により、様々なところに女性の特性≠ェ滲み出ていた。女という生き物はことほどさように、好きな人に「キレイだね」などと言われるともう嬉しくってしょうがなくなってしまうような単純な生物なのである。 直江の方は、「馬鹿なこと言ってんじゃねぇ」とかなんとかいつもの調子でかわされると思っていたのに、予想に反した高耶の反応に、不思議そうに瞳を瞬かせていた。 「高耶さん……?どうかしましたか」 「なっ……なんでもねぇよ」 こいつ、オンナゴコロの分からねぇやつだなっ……と思い、一層赤くなる顔を誤魔化すように横に背けた時である。 ガラガラガラッ。 盛大な音を立ててシャッターが開く音がした。二人はギョッとして、思わず光の差し込む方向を振り返る。 カツカツカツとコンクリートを靴が噛む音が響いてくる。不規則にばらつくその音から察するに、侵入者はどうやら複数のようだ。 「誰か、来たみたいですね」 直江が呟くと、高耶は焦って直江の腕をガシリと掴んだ。 「ヤバイッ。隠れるぞ直江」 「どうしてですか?さっきも言ったように暗示効果であなたの正体はバレないんですから大丈夫ですよ」 「それはっ……そうだが」 「ほら、こっちに来るみたいですよ。挙動不審だと怪しまれるだけですから自然にしていましょう」 そうこう言っているうちに、物陰からこちらに向う人物の姿が現れた。 その相手の姿をしかと捉えて、高耶は思わず眉を跳ね上げる。 (げっ……寧波っ) 入り口から現れたのは、冬でも露出度のやたら高い白鮫の長、鵜来の寧波だった。 よりにもよってまぁ、扱いにくい人間がきたものである。 高耶に反して横の直江は、寧波を見ても表情を変えずに自然体のままでいたのだが、しかし、次の瞬間に現れたもう一方の侵入者の姿を見て、その端整な顔を思いっきり歪ませた。 (兵頭隼人……っ) 天敵登場である。直江は「やっぱり隠れとけば良かった……!」とその瞬間猛烈に後悔したが、時既に遅し。 「あれ、橘じゃあないか」 寧波が気づいて声を上げた。それにつられて、兵頭の方も視線をこちらに移し、 「こんな場所で何しゆうがか、橘……」 嫌そうに顔を顰めて呟いた。直江も直江で視線を逸らさず、男の一重瞼の瞳を鋭い眼光でねめつけながら返す。 「貴様には関係ない」 冷たく言い放つと、両者の視線の間でバチバチと閃光が弾けた。 その様子を隣りで見ながら、高耶は「何をやってるんだ、こいつらは」と呆れて額を手で押さえる。 二人の様子を意に介さず、そこで声をはさんだのは寧波だった。 「橘、そん隣の娘は?」 興味深そうに彼女が覗き込んだ先には、もちろん黒髪の美女・高耶がいた。 やっぱり話が回ってきたか、と高耶は内心焦っていたが、我に返った直江がすかさずフォローを入れる。 「諜報班に新しく入った隊士で、俺の部下だ」 高耶は男の咄嗟の機転に少し感心した。なかなかに上手い言い分である。他の隊士になら「新入の白鮫」で通るが、寧波相手ではそうもいかない。しかし「諜報班」と言っておけば、潜入捜査などの際に女性の手が必要なことから、高耶のような女人が属していることも不思議ではないし、直江と一緒に行動を共にしていても何ら不審な点は無い。 「ふーん。あんた、名前は?」 こちらに振られて、げっ、と腹の中で高耶は声を上げていた。何もそんなことを尋ねなくたって良いではないか……! しかしここでダンマリする理由もないし、「答えたくない」などと言うのも滅茶苦茶不審だ。逃れられないことを感じ、仕方なく、高耶は低い声音で、寧波に向って告げた。 「……高子」 隣りで、直江がわずかに笑った気配がした。しょうがねぇだろっこれしか思い浮かばなかったんだから!と殴りつけてやりたい衝動に駆られたが、ぐっと抑えて耐える。 「タカコ……ねぇ」 寧波はじろじろと不躾に覗き込んでくる。そうされると苛烈な瞳で睨み返さずにはいられないのは、もはや処置の施しようも無い高耶の悪癖だった。 しかし相手の人間は大概びびって顔を逸らすか、怒りを覚えて語気荒く因縁をつけてくるものだが、この寧波の場合は違ったようである。 「ふん。なかなか見込みのありそうな女子じゃないか」 そう言って朗らかに笑って見せた。キョトンとする高耶の肩に、鍛えられた手をバシンッと乗せて、 「諜報活動に飽きたら白鮫の所にいつでもおいで。あんたみたいな女ならウチはいつでも大歓迎やから」 ウチらは綺麗な子が好きやきねぇ……と言ってフフッと不敵に笑う寧波を見て、高耶はヒクリと唇を歪ませた。 寧波のような女から言われると、やたらと迫力のあるものである。 (ぜってぇアイツらの仲間に入るなんて嫌だ……) 高耶は顔を青ざめさせて本気で思った。それはもう激しく。白鮫に入るくらいならまだ室戸に入る方がまだマシだ。(直江が死んでも許さないだろうが……) そんな思いに心を馳せていると、ふと、前方から視線を感じて顔を上げた。 そして二組の黒玉とかち合う。その瞳がやけに真剣な光を帯びていたので、高耶は不審に思って首を傾げた。 (何だ?) そう思って、真意を探ろうとなおも兵頭を見つめ返そうとした時だった。 直江がヌッと、物もいわずに高耶と兵頭の間に立ちふさがった。視界が途端男の広い背中に覆われて何も見えなくなる。 何だ急に、と直江の後ろ髪を睨みつけたが、本人の表情は身長差がありすぎて見えない。 「見るな」 直江が怒りも露に低く言った。はっ?と高耶が眉を寄せて、少し身体をずらし直江の陰から兵頭の顔を見る。 兵頭もポカンとした表情で直江を凝視していた。 「減る」 再び言った直江の言葉は、わけの分からないものだった。高耶が意味を把握しそこねていると、直江が振り返って「行きましょう」と目配せした。 「どういう……」 「どういう意味だ、橘」 高耶の疑問の声に重ねるように兵頭が言い放つ。兵頭の表情は先ほどと一転して、直江を睨みつけながら憎々しげに歪ませていた。 それに答えて直江も不遜な調子で告げる。 「言葉の通りだ。貴様に見せるのは勿体無い」 「何じゃと、おんしっ」 「生憎と先約済みなんでな。横恋慕はやめてもらおうか」 勝ち誇ったように言い放つ直江の言葉を聞きながら、高耶は盛大に溜息をついた。 こいつはどうしてこう、相手の神経を逆撫でするようなことばっかり言うんだか……。 大体、今の言ではまるで兵頭が自分に気でもあるかのようではないか。それこそ自意識過剰すぎだ。 ……などと究極トボけたことを考えていると、おもむろに直江にガシリと腕を掴まれて、無理矢理引っ張られた。 「な、なに……」 「こんな奴の近くは早く離れたほうがいい。行くぞ」 と、直江は部下≠ノ命令を下して、グイグイと高耶の腕を無理矢理引きずっていった。 「待て、橘!」 後ろから兵頭の声が上がったが、無視して直江は進んでいく。 高耶は直江に腕を引かれながらチラリと背後を振り返る。すると、兵頭と一瞬視線が交錯した。 兵頭は何故か驚いたように目を見開いて、それきり口を閉ざしてしまった。 高耶はその何か物言いたげな視線が気になったが、やがて物陰に隠れて兵頭と寧波の視界から消えていった。 残された兵頭と寧波は、先ほどの男女の去っていった方を茫然と見つめながら立ち尽くしている。 「……なんだい橘のヤツ、仰木のオトコじゃぁなかったのかい?」 寧波の呟きに、兵頭がハッとした顔で振り返った。 「どうしたんだい、隼人」 「……いや、何でもない」 なにやら苦々しげな表情で返すと、兵頭はクッと瞳を細めて視線を鋭くする。 (何故こんなに胸が苦しいんじゃ……) 不可解な胸の痛みに兵頭は眉を顰めた。どうしてだか、先ほどのあの高子とか言う女の顔を思い浮かべると、鉛を飲み込んだように胸の辺りがジクジクと痛くなる。 気づけば女の煌めく漆黒の瞳に、そして薄紅の頬に色づいた唇に、見蕩れるように目が離せなくなっていた。今も目の奥に焼きついて離れない。 無言で佇む兵頭の横顔を眺めやりながら、不審そうに眉をひん曲げて、寧波がその顔を覗き込むようにして言った。 「まさか……隼人、さっきのあの娘が気になるのかい?」 再びハッと兵頭が顔を上げて、動揺したように瞳を揺らすと、真剣な光を灯したその眼を細めた。そうして視線を己の左腕に巻かれた白い紐に移し、苦い笑みを唇に刻む。 (わしが興味があるのは、あの男、仰木高耶じゃ。ひ弱な女子になど用は無い) しかしそれでは、どうしてあの女が橘の背に庇われた瞬間に、胸の底がイラついて気分がひどく悪くなったのか……。 仰木と橘、そして先ほどの女。三者の姿を脳裏に描き上げて、兵頭はなおさら胸が苦しくなった。 「……確かにいい女じゃったが。わしは強いもんにしか興味はない」 そう独り言のように呟く。しかし声音はいつものこの男らしくはなく、弱々しく語尾が濁っていた。 兵頭は少しよろついた足取りで踵を返すと、倉庫の奥の方へと踵を返して歩いていってしまった。 その後ろ姿を見つめながら、寧波は首を傾げて率直な疑問を唇に乗せる。 「強いもんっちゅうと、そのうちにやっぱ橘は入るのかねぇ……」 などと、ミラージュ読者の誰もが一回は思う疑問を何気なく呟いて、彼女は男の後ろ姿を追って歩き出した。 |