9. 浦戸アジトを出た高耶達は、高知市街地を抜けて高知自動車道に入り、大豊で国道32号線に乗り換えると豊永で439号線に移り、徳島県へと入ってそのまま剣山地へと車をかっ飛ばしていったのだが……。 途中でこんなアクシデントもあった。 「なおえ……」 前方に意識を集中させていた直江は、隣りから呼びかけるか細い声音に反応して視線を助手席にずらした。 助手席に座る人─高耶は不安げな表情でこちらを仰ぎ見ていた。長い黒髪の向こうの顔は、心なしか青ざめているように見える。 「どうしました?具合が悪くなったんですか」 少し焦ったように高耶に問いかけた。乱暴な運転をした覚えは無いが、少しでも早く目的地に着くようにと思うあまり、無意識のうちにスピードを出しすぎていたのかもしれない。 車に酔ったのかという問いに対し、高耶は無言で首を横に振った。 「まずい。トイレに行きたくなった……」 その答えに、直江はホッとして息を吐くと再び視線を前方に移した。 「ああ、トイレですか。大丈夫ですよ、すぐ先に休憩所がありますから」 横目に、高耶が先ほどより強く首を左右に振る様子が見える。 汗が滲んだのか、しきりに服の裾で手の平をこすっている。 「全然大丈夫じゃない。おまえはオレに女子トイレに入れって言うのか」 「我慢してください。いくらなんでも今のあなたじゃあ、たとえ男子トイレに入っても追い出されるのがオチですよ」 ウィンカーを出してセダンが左折する。日曜ということもあって道の駅の駐車場はなかなかの込み合いだったが、入れ替わりに手際良く車を止めると、シートベルトを外しながら振り向き、動かない高耶を見て彼女のシートベルトに手をかけた。 「さあ、恥ずかしがってないで行きましょう。そんなに気にしなくても誰もあなたが元は男だなんて気付きません」 「別に恥ずかしがってるんじゃない」 「それじゃあ何なんです」 そう問うと、高耶はグッと拳を膝の上に握り、心持ち顔を俯かせながら言いにくそうにこう呟いた。 「……オレ、やり方が分からない」 ハッと息をのんで、直江は思わず黙り込んだ。 「それは……」 「どうすればいいんだよ」 「すみません、流石に私にもアドバイスのしようがありません……」 確かに、直江に聞いたって高耶の求める答えが返ってくるわけも無かった。 「…………」 二人の間に気まずい沈黙が流れる。 しかしこうやって黙っていたって問題が解決するわけではない。直江は意を決して運転席から降りると、回り込んで助手席のドアを開け、高耶の腕を引いて立ち上がらせた。 「ともかくこうしていても仕方ありません。いざとなれば人間やれるものです。大丈夫ですよ」 「何が大丈夫だ。おまえ人事だと思って適当なこと言ってんじゃねぇよっ」 「心外ですね。あなたのことで私が真剣でなかったことなんて一度としてありましたか?」 そのまま手首を掴むと、むずがる高耶を無理矢理引っ張って駐車場を歩き始める。 程なくすると建物左のトイレ前に辿り着いたのだが、女子トイレを見るなりに二人は同時に顔を顰めた。 「これは、随分時間が掛かりそうですね」 団体客が入っているらしく、トイレの手前には長蛇の列ができていた。男子トイレはガラガラなのに、女子の方だけ異常に混んでいる。 一体性別の違いでどうしてここまで差ができるのか、元は男性の高耶は大いに理解に苦しんだ。 「私は向こうでコーヒーでも飲んで待っていますから」 建物を指差してそう告げ、手首を放した直江を、無意識に高耶は不安げな眼差しで見上げていた。 直江はその頼りなげな表情を見て、クスリと微笑すると、 「そんな顔されても私がご一緒できるのはここまでです」 「……あたりまえだろう」 「そんなに心配しないで。ほら、誰かが言ってたでしょう?誰にも教えられなくても、男は女との寝方を知っているし、女は出産の仕方を知っているってね」 それは調伏の方法を例えた色部の言だろうと心中でツッこんだが、引きつった笑いだけを浮かべて、高耶は足取り重く女子トイレの長蛇の列へと進んでいった。 自らも用を足して、自販機で買ったコーヒーをベンチに座りながら啜っていた直江は、カップの中身が空になると無造作にゴミ箱へと投げ捨てて、視線を腕時計へと落とした。 (随分と遅いな……) 確かに混み合ってはいたが、いくらなんでも遅すぎる気がする。やはり何か不都合があって手間取っているのだろうか。 そう言えば女性には月経という非っ常に不便且つ鬱陶しい機能が備わっているのだ。その関係でどうすれば良いか分からず途方に暮れているという可能性もある。 それに個人差はあるようだが、月経期間中は激しい嘔吐感や腹痛を伴い、酷い場合には気絶してしまうこともあるのだと聞いた。高耶などは下手に身体が細いだけに、人より症状も一段と重そうだ。 そう思うと直江は急に心配になってきた。 直江は足早に室内から出ると、トイレの方へと歩を進ませる。しかし例え様子見に行っても女子トイレの中にまで入るわけにはいかない。 性別の差というのは存外効率の悪いものだ、などと考えながら真剣に頭を悩ませていると……。 「いいじゃんよぉ。俺らと一緒に遊びに行こうって」 「そうそう、俺いい場所知ってんだ。絶対楽しいからさ」 前方から頭の軽そうな連中が何やらギャースカ騒ぎ立てる声が耳に飛び込んできた。どうやらナンパでもしているらしいが、あんな誘い方で乗るような女がいるならそれこそお目にかかってみたいものだと、直江は冷めた目で一瞥すると……。 「だから、さっきから断るって言ってるだろうっ」 ナンパ男の向こうから、スッと通ったアルトの声が響いた。驚いて凝視すると、そこに先ほどから直江が探し求めていた彼の人の姿が視界に映る。 「高耶さんっ!」 叫び声に反応してこちらを向いた高耶は、直江の姿をそこに確認するなり明らかにホッした表情でこちらに手を振って見せた。 「直江っ」 高耶の声で振り向いたナンパ男達の視線をものともせずに、直江はズカズカと輪の中に押し入ると、彼女の手を掴んで腕の中に引き寄せた。 「大丈夫ですかっ」 「ああ。悪い、直江。こいつらやたらしつこくて」 肩を抱く体勢にも高耶は抵抗せずに、ピタリと直江の身体に付いている。女の自分が言っても埒が明かないと判断して、どうやらこの場はこちらに任されたようだ。 直江は高耶から目を上げると、目の前に佇む四人の若者たちに視線を移した。 若者たちは突然現れたアーミールックの男の前に硬直している。 確かに、高耶のようなブラウン管の中でもそうそう見かけない美形が、こんな田舎の道の駅で一人フラフラ歩いているのを見たら、声を掛けてみたくなるのも解る。それが男のさがというものだ。 ……しかし、だ。 直江は右から順に四人の男の顔を見回して、最後の一人まで巡らせ終えると、真冬の冷気のような非情な表情を浮かべて、底知れぬ低さで言い放った。 「……己が身の程を知れ」 ピシリと場が凍りつく。若者たちの顔が一気にサーッと青に染まった。 漆黒のサバイバルスーツに身を包んだ187センチの男というだけでも威圧感は計り知れないものがあるのに、この上相手があの、四百年間狂気の愛を貫き通した、破綻の愛憎と妄執に生きる男・直江信綱である。彼に本気の殺意を向けられて、何か言い返すことが出来るほどの気概がこのナンパ男たちの中に存在しうるわけもなかった。 直江は無言で踵を返し、高耶の腕を引いてその場を後にした。 若者たちはまだ動けない。茫然と二つの後ろ姿を見つめながら、やがてその影が完全に消えた頃に、中の一人が震えながら涙声になって呟いた。 「……こ、こっこ……っ怖かったぁぁ〜ッッ!」 あとの三人もしきりに首を縦に振っている。 彼らにとって、この浮世離れした美形男女による恐怖体験は、一生忘れようにも忘れられぬ、秋の日の苦き思い出の1ページとして記憶の奥底に沈むこととなった……。 「……ぁったく、しつこい奴らで困ったぜ」 シートに身体を沈ませながら、うんざりとした声で高耶が言った。 隣りの直江も、不機嫌に眉をひそめた表情で高耶を咎める。 「ああいう連中に声を掛けられた時ははっきり断らないと駄目ですよ、高耶さん」 「断ったさ。『連れがいるから遠慮する』ってな。……いつもは適当に言って一睨みでもすれば引き下がるのに、今日は全然駄目だったな。やっぱり女だから舐めて見られたのか」 「それもあるでしょうが……って高耶さん、その口ぶりだとあなたああいう連中にしょっちゅう声を掛けられてるんですかっ?」 高耶はウッと詰まった表情になり、マズイことを言ったとばかりにこめかみを人差し指で掻いた。 「……別に、しょっちゅうってわけじゃない」 「しょっちゅうじゃなくても、何度かはあったんですね?」 「……ここ最近は一度も無い。あったのは、三・四年前に少しだ……。それに、あの手のタイプには声掛けられるって言っても大概は難癖付けで、ああいう風に誘ってくる奴はもっと……」 ピクリと、直江の眉が動いた。 「もっと……何なんですか」 「もっと、年の行った……って、もうどうでもいいだろう、そんなこと」 「よくありません。そのもっと年の行った輩≠ノ何て誘われるんですか」 「それは……」 「それは?」 しつこい直江の問いかけに、高耶は顔をムッと顰めると、 「だから……ッ、札束出されて『一晩これでどうだ』とかどうとか……って、ああもうッ、気色悪いこと思い出させるなッ」 半ば自棄のようになって、心底嫌そうに言い放つ。 対して直江は、思いきり渋い顔になって「はぁぁー」と心底大きな溜息をついた。 「……高耶さん」 「なんだよ、安心しろ。《力》使うのだけは我慢してやったから。たまに耐えられなくて殴り飛ばしたがな」 「……あなたって人は、どうしてそう昔っっからいっつもいっつも……」 「あっちが勝手に寄ってくるだけだ。オレのせいじゃない」 「本当に、そう思うんですか?」 直江が少し意地の悪い声音で訪ねた。高耶はその問いを聞いて、キッと直江に向き直ると鋭い眼光で睨みつける。 「オレが悪いっていうのか、オレが周りの男誘ってるって?冗談じゃないっ、大体三年前のはおまえが悪いんだろう!」 叫ばれた言葉に、直江は目を見開いた。高耶は再び正面に向き直ると、視線を落として先ほどの荒々しさとは打って変わった、ひどく冷静な声音で呟いた。 「おまえがいないから悪いんだ……」 独り言のように囁かれた言葉に、直江は思わず硬直する。高耶の瞳の奥に映される感情の色が、直江には鮮やかなまでに見えた。 「…………」 直江はフロントガラスに向き直り、無言でエンジンをかけた。セダンは重いエンジン音と共に道の駅の駐車場を発車する。 そのまま暫く二人は沈黙を通していたが、十分ほど自動車道を走ったところで直江が唐突に呟いた。 「あなたが心配なんです」 フッと高耶が顔を上げた。直江は未だ前を見つめたままだ。 高耶は息を吐いて、口元に少し苦笑を浮かべる。 「怒ってないよ」 その言葉に、直江は明らかにホッとしとように吐息をついて、 「良かった」 そう少し弱い口調で言った。 そして一つ呼吸を置いてから、直江はチラリと高耶の方に視線をくれて、こう尋ねたのである。 「……もし、あなたに札束を出した相手が、あなたとまだ再会していなかった頃の私なら、やはり断りましたか?」 唐突に訪ねられかけた問に高耶は目を瞬いて、運転席に座る直江の横顔を見上げた。 「面識の無いおまえってことか?」 「ええ、そうです」 直江がそう答えると、寸暇の間も無く「そりゃあ断るさ」と高耶が問の答えを返す。 再びフロントガラスから視線をこちらにうつした直江と目線が合うと、少し小首を傾げて長い髪を掻きあげ、伏し目がちに告げた。 「勿体無いじゃないか」 「勿体無い……?」 「そんな、昼メロみたいなベタな設定がおまえとの初めてだなんて、あんまりにも勿体無いだろ」 四百年を越えた想いの果てに、ようやく行き着いた先がラブホでは夢が無さすぎだ。 言外にそう告げる高耶の言い分を察して、直江は苦笑を浮かべ「そうですね」と呟くと、白く細い頬に手を伸ばして触れるだけの口づけをおとした。 「……ちゃんと運転しろ」 「わかってますよ」 優しく微笑んで再び運転に意識を集中させると、暫くして、高耶が顔を背けて窓の外の景色を見ながら、「直江」とこちらの名を呼ぶのが聞こえた。 「何ですか」 高耶は俯いて、長くなった黒髪で頬の赤さを隠すようにして、ぶっきらぼうな調子で告げたのだ。 「さっきは……助けてくれて、ありがとう」 直江は微笑し、低く甘い声で助手席の君に返事を寄せる。 「いいえ、当然のことです。お姫さまを護るのが、ナイトの役目ですから」 そう告げた直江の言葉に、高耶は一瞬、馬に跨り異国の騎士の出で立ちをした直江の姿を脳内に想像してしまった。 それがやけに似合っていただけに、高耶は途端、こんなことを真面目に考えている自分が妙に恥ずかしくなって、ムムッと不機嫌に顔を顰める。 「……誰が姫だよ」 「あなたですよ、高子姫」 「……ッ、その名前はよせっ」 思わず荒立てた言葉に直江が優しく笑った。 セダンは高知自動車道をひた走り、徳島県が霊峰・剣山に向って行く。 |