11. 千秋に促されるまま、連れ立って森の奥の方に歩を進めだした高耶たちをそこで呼び止めたのは、直江だった。 「ちょっと待て、長秀」 《あん?何か用か》 「用かじゃない。どうしておまえが着替えに向かう高耶さんについていくんだ」 もっともな意見であった。仮にも高耶はいま、正真正銘の女性である。その彼女の着替えに、どうして男である千秋が同行せねばならないのか。 《ばーか、俺はちょっと景虎の着替え手伝ってやるだけだよ。化粧もしてやんなきゃなんねーしな。安心しろ。いくら相手が景虎だって、俺様が女の子の着替えなんざ覗いたりするもんかよ。フェミニストだもん》 腰に手を当てて威張るように言った千秋に、直江はまだ疑念のまなざしを注いでいる。 《あのなー……直江。おまえ晴家がいくら美人だからって、あいつの着替え見てその気になったりするかぁ?》 「……………………」 直江は沈黙した。しかしよく考えなくても綾子に凄まじく失礼なことを言っている。本人が聞いたら怒り狂うことは間違いない。 《そゆこと。だからおまえはそっちで大人しくスーツに着替えておけ。鏡が欲しかったらそこの神狐に出してもらえよ》 などと、千秋は神狐をまるでドラ○もんか何かのように言ってのけた。 しかしこのアルマーニを出したのも神狐であったし、向こうの森の方に置いてある高耶の着替えも化粧道具も、すべて神狐が出したものであったので、あまり違いはないかもしれない。 ただ、ポンコツながらも未来の驚異の科学力を以って造られたネコ型ロボットと、やたらと俗っぽいが遥か千年以上の年を重ねた土佐弁の「神」とでは、どちらがありがたさが上かと言えば、意見の別れどころだが……。 「どうでもいいが……、おまえ化粧なんてできるのか」 高耶の疑問に千秋は自慢げに胸を張った。 《たりまえよー。俺の腕はプロ級なんだぜ?ホレ、大昔に化粧師の真似事もやってたしよう。ここ半年も暇なとき、死遍路の女の子たち相手に勉強してたしなー》 ……なんだか充実した霊体生活をエンジョイしているらしい。 実は高耶相手にメイキャップの実験をするのも、今回の計画の目的の一部に入っていたのだ。 《ホレ、ぐずぐずしてっとデートの時間が短くなるぞ。ちゃっちゃと着替え済ませねーと》 急くように高耶の背中を押す。確かにダラダラと時間をつぶして、今日一日かぎりの自由時間を減らしてしまうのはあまりにもったいない。 それでもまだ直江は不満そうな顔をしていたが、高耶に「おまえは大人しくそこで待っていろ」と、まるで犬に「待て」をするかのように命じられてしまったので、引き下がるよりすべなく、千秋と高耶は並んで奥の方へと歩いていってしまった。 高耶の支度を待つ間、直江も最近ではすっかり着慣れてしまった黒のサバイバルスーツを脱ぎ捨て、本来の彼の戦闘服とも言える、ダークスーツに袖を通した。 直江はネクタイを縛り終えると、改めて木の丸太に腰掛ける神狐を振り返った。広場には直江と神狐しかいない。いつのまにやら、精神体高耶はどこかに消えてしまっていた。 「久しぶりだな……神狐」 直江は神狐を真っ向から見つめた。彼らは過去に一度出会っている。一年近く前、山神に高耶の探索を依頼し、彼女らと行動を共にしていた直江が、剣山中で引き合わされた相手が当の神狐だった。 神狐は小麦色のしっぽを揺らし、鷹揚に頷く。 《あの時の男か。おんしには半年前の一件で顔を合わせちょったが、おんしにとっては一年ぶりやきの……直江信綱》 確かに、半年前の一件では神狐の術によってその身を若返らされてしまった直江だが、実際にその主犯が神狐であることを知ったのは今朝方だった。 《おんしのことはわしも前々から気にかかっちょった。……やたらと心に残る男での。なぜこんなに印象深く感じたのかと疑問でいたのじゃが……そしたらなんじゃ、おんしが覡一族の娘と共に探していた相手というのがあの仰木高耶だったと知って、わしは大いに納得したもんじゃ》 「……意味がわからないが」 《そのうち分かる、おんしも》 と神狐はなぜか少し淋しそうに笑って、懐かしそうに目を細めるようにした。 神狐がなにを考えているのか、直江には分からなかった。けれどそう語った神狐の金色の瞳に、孤独のような影を読み取って、直江は少し目を見開いた。 しかし一瞬後には、何ごとも無かったかのように神狐は顔を上げる。そしてあっけらかんとした声で、直江にこう尋ねた。 《ところでおんし、何か困ったことがあるようじゃの》 「えっ」 《何かわしに頼みたいことがあるのではないか?》 唐突な言葉に、直江は見るからに動揺した。端から見て分かるほど、そんなに自分は切迫した顔をしていたのだろうか。 「なぜ……そう思う」 《わしは千年以上生ちゅうのじゃぞ。そのくらいのこと分からいでか》 カッカッカッと。実にじじむさい黄門様のような笑い声を上げた。やはり千年以上の齢を経た神霊の能力は、侮りがたいものがあるらしい。 《おんしのことはわしも気に入っちょる。何か願いがあるなら叶えてやりたいが……おんしだけ無償に叶えては仰木高耶にも、あの千秋修平という男にも不公平じゃからの。交換条件として、こちらからもひとつ頼みがある》 「……頼み?なんだ」 直江は心持ち身構えた。仮にも霊峰剣山に住む神仙が、換生者であるとは言え一介の人間にすぎない自分に依頼する内容とは、いったいどんなものなのか。 しかし神狐が次に語ったことと言えば……。 《頼む!オーギタカヤにわしを許してくれるよう、おんしからとりなしてくれぬか!》 「……は?」 《今回のことで仰木はまっこと怒り狂っちゅう。いまはデートで浮かれて忘れているようじゃが、思い出したら終わりじゃ!このままでは間違いなく毛むしりの刑じゃ!わしの自慢のフサフサ毛並みが台無しになってしまう!じゃから頼むっ、おんしから今回のことは水に流してくれるようとりはからってくれ!》 ……前言撤回。やはりコイツはただのボケギツネだ。 それとも神仙にここまで恐れられる高耶の存在こそ恐ろしいのか。……たぶん後者だ。 それでも自分の想い人をまるで極悪非道人間のように言われて、気を良くする直江信綱がいるはずもなく、直江は不機嫌そうに咳払いをすると、しっぽを逆立てて必死の形相で訴えかける神狐にしぶしぶと言った風に頷く。 「まぁ……いいだろう。彼の報復ははっきり言って凄まじいからな。俺は身にしみて知っている」 そうじゃろうそうじゃろうと、神狐もしきりに頷いた。 その情けない様子が直江を不安にさせる。けれどいくらボケてはいても、この神狐の霊力が確かなことは今までの経験から見て間違いなかった。 なんだか、こんなしょーもない神狐にこんなことをお願いするのは、どうも気が憚られてしょうがなかったが、背に腹は変えられない。 事態は実に緊急を要している。この切迫した事態を打開するには、藁だろうがキツネだろうが、何に縋ることも我慢せねば。 直江は深くため息をつくと、やや必死な面持ちをして、真剣な声音で神狐に告げた。 「頼む、神狐。いますぐ叶えてほしいことがある」 *** ピィピィと、どこかで鳥の鳴く声が響いた。山の中の寒々とした空気もいくらかやわらいだ、そんな秋の日の午前11時頃のことである。 遅いな……と、直江は腕時計にチラリと目線を走らせた。 高耶が千秋とこの場を去ってから、既に40分以上経っている。女性の支度とはえてして時間がかかるものなのだが、それでもやはり気がせいて、まだかまだかとしきりに時計の針を追っていた。 加えて、千秋が支度を手伝っているというのが面白くない。自分は女に化粧などできないから(とるのは得意だが)、相手に任せるよりすべがないのだが、なにしろ化粧を施すというのは顔と顔を近づけあわなければできないことだ。その光景を想像しただけで直江は忸怩たる思いがした。 千秋が聞けば、「おまえホンット、分かっちゃいたけど、俺に対して信用ねーのな」と憤慨したことだろうが。しょうがない。四百年来の同僚甲斐の無い奴よと言われようが、あまりにも魅力的な彼女(?)を持った人間にしか分からない苦悩なのだ。これは。 千秋もたぶん、口では文句を垂れても、これも直江の性癖とハナからあきらめているだろう。というか、ここで嫉妬に狂わないようでは直江信綱ではない。理解の深い友人を持って直江は幸せと言えた。 そんな風に、のっそりと丸太の上で昼寝を決め込んだ神狐を尻目に、直江がイライラと足踏みをしていた時だ。 《よぉ直江っ、待たせたな。お嬢さまのお支度がご完了したぜ?》 上機嫌な声で言って、森の中から千秋が姿を現した。ハッと直江は顔を上げて、高耶の姿を探す。 「彼はっ?いや、彼女はっ?どこだっ」 《そんなに焦んなくたって、景虎は逃げたりしねーだろ……》 いや、よく逃げるよ高耶さんは。というミラ読者&直江の心のツッコミは置いておいて、やれやれといった風に千秋は後ろを振り返ると。 《ホレ景虎、恥ずかしがってねーで出て来いって》 そう促されて、木の陰に佇んでいた人物は、しぶしぶと言った様子で、ゆっくりと直江の前に姿を現した。 そうして直江の視覚に彼女の姿が入った瞬間、直江は思わず、言葉も何も失ってしまっていた。 彼女は、秋らしい袷の着物に身を包んでいた。 蒸栗色地に色とりどりの菊、紅葉、秋草が品良く散らされた小紋に、黒地に美しい扇模様の名古屋帯を、お太鼓に締めている。清潔な白の半襟に対し、帯揚げと帯締めは鮮やかな紅柄色で、手に持つ小さな手提げも同色の花模様。品良くまとめられたコーディネートは、21歳という子供とも大人とも分けがたい年齢の彼女に、これ以上ないくらいよく似合っている。 くせの無い黒髪はそのまま細い肩に落ちかかり、うすく化粧を施した高耶は花のように愛らしく、びっくりするほど綺麗だった。 直江はしばらくの間言葉もなく、茫然とした面持ちで彼女を凝視していた。 高耶も何秒間か、その沈黙の時間に耐えて、直江の言葉を待っていた。 けれどいつまでたっても直江の反応は無くて、しばらくするとこらえきれなくなり、絹の袖を揺らして怒ったように顔を横に背けた。 「なんだよっ……気に入らないなら、そう言えばいいじゃねぇかっ」 腹立たしげに言ったが、その声に力は無く、どことなく悲しそうな声音だった。珊瑚色の紅を刷いた唇を、真一文字に引き結んでいる。 「いえ……そうじゃ、ないんです……」 そんな高耶に、直江が弱弱しく、困惑したような声をあげた。そして、そうじゃないなら、なんだよと、厳しい視線をなおもくれる高耶に、彼は真剣な表情でこう言った。 「ただ……あんまりあなたが綺麗だから、綺麗すぎて……私が何かしたら消えてなくなってしまうんじゃないかと思って……、怖くて言葉が出なかったんです……」 物凄い台詞を、まだ夢でも見ているような口調で、しかし大真面目に呟いた。 言われた言葉に、彼女は数瞬ポカンとしたように目を見開いている。けれど男の言葉の意味を正確に把握するやいなや、さすがの高耶もこれには、赤くなるより他すべがなかった。 「そ、それは…………ありがとう」 耳まで真っ赤に染めながら、照れたように俯く。 せっかくお洒落したのに彼の反応は薄く、気に入られなかったのだと思って悲しくなったのに、予想以上の反応が返ってきて、しかもその歯の浮ききった台詞を嬉しいと感じてしまった自分がなお恥ずかしくて、もう自分でもどうしようもない事態に陥っていた。 顔を上げると直江の熱い視線とぶつかる。そうして惹かれあうように、ふたりは互いに見つめあった。 「とてもよく似合っています、高耶さん……」 「直江……」 別世界に飛んでいってしまったふたりの傍らでは千秋が、直江の台詞のあまりの恥ずかしさに木の幹に額を押し付けて悶絶し、その横では神狐が、ふたりのあまりのラブラブモード突入っぷりに呆けたように口を開けていた。 直江信綱……予想も期待も裏切らない男というのは、この男のことを言うのだった。 ふたりがようやく現実世界に帰ってきた頃、慣れない(女物の)着物姿の高耶に向かって小姑よろしく諸々の注意をする千秋の姿があった。 《そんじゃ、女体化の術は明日の明け方頃には解けちまうって話だからな。その前にはビジュアル的に、着物も化粧もとっておいた方がいいぞ》 もっとも、直江がいるかぎりその心配はまったくねーだろーがな、ククク……と、笑う千秋を「おまえな……」と渋い顔で高耶がねめつけた。 なんだかこの話の運びでは、夜自分が直江にいただかれてしまうのは既に決定事項らしい。……いや、この男とデートに出掛けるというのにそういう運びにならない方がかえって不自然なので、高耶の方も大概あきらめがつくのだが。 これはいよいよ覚悟を決めておいた方がいいな……と、彼女はひそかにため息をもらした。 そんな高耶の様子は気にせず、千秋のお小言は続いていた。 《あとあんまガニ股に歩くんじゃねーぞ。……それと直江、気持ちは分からんでもないが、せっかく着付けたのにすぐに着崩さすんじゃねーぞ。化粧もとるんじゃねーぞ》 「……駄目なのか」 《ったりめーだ!俺様の苦心の策を車に乗り込むなり数秒で落としたりするなよ!キス禁止令!》 ううっ、と直江が無念そうな呻きをあげた。直江にとって高耶へのキス禁止令発動は、あまりにも耐えがたき厳しい試練だった。 あんまりつらそうな顔をしたので、千秋は少し哀れに思ったのか、直江の肩にポンと手を置き、 《まぁ一日中とは言わねぇ。夜までの辛抱だ。夜まで》 「そうか、夜までか……頑張ってみる」 と、なにやら男同士で友情に満ちたやりとりを交わしていた。 アホな会話に呆れながらも、男同士の話に女の自分が加われないのが高耶はなんとなく悲しかった。(しかしここに綾子がいたら、「女の子同士の会話で盛り上がれるわね!景虎ぁ!」と激しく喜んだに違いない) しかしそこで気づいたように言った。 「にしても……こんな格好で、あの山道引き返すのか?」 高耶が着物のすそを持ち上げる。ちらりと見えた白い足に、直江の胸がどきゅんと疼いたのはとりあえず置いておいて、確かに、こんな姿で元来た道を引き返すのはなかなか骨な作業だった。体力的にはともかく、突き出した枝やらなにやらに絹の布をひっかけやしないかと不安だ。 「大丈夫ですよ、高耶さん。私が抱いて運んであげますから」 ニッコリと直江が嬉しそうに微笑む。着物の高耶をお姫様だっこで運ぶ気のようだ。想像するだけで読者にとっても悶絶ものの光景である。 しかしその素晴らしき提案に水を差す輩がいた。 《……まあ、それも良いじゃろうが、それは夜ベッドに運ぶ時までとっとけ。わしがテレポートで車まで送ってやるき》 えっ、と高耶も直江も驚愕に目を見開き神狐を振り向いた。 「おまえ、そんなことができるのかっ」 《あったりまえじゃ。わしは何度も言うが、齢千年を超える神狐さまじゃぞ》 と、いまさら説得力もなにもないことを言った。 若返りに女体化の次はどこでも○アか。やっぱりこいつはドラ○もんだ。今度タケ○プターかタイムマ○ンでも出してもらいたいぜ……などと高耶が考えていると、とたんに神狐の身体がパアァァッと黄金色に光にみるみる包まれた。 《さ、いまから送るぞ。準備はええな?》 「あっ、ちょっと待て!……千秋っ」 高耶が神狐を遮り、長い黒髪を揺らして千秋の方に振り返った。《あんだよ》と返す彼を、高耶は神妙な面持ちで見つめた。そして渋々といった風に、心持ち頭を下げる。 「なんだか……結局ハメられたことには変わりねぇけど、でも……一応言っておく。……色々とありがとうな」 真顔で告げられたので、千秋の方も困惑したように苦笑した。《高慢ちきな大将のわりには殊勝な態度だな》とガシガシ頭をかいて、鼻先を指でこすると、軽くニヒルな笑みを浮かべる。 《ま、せぇぜぇハメはずしてこいよ。結界のことなんざ今日ぐらいはほっぽいてさ。……じゃな、景虎。直江》 そう告げた千秋の声が最後まで耳に届いた瞬間、高耶と直江の身体は急激に淡い光の粒子に包まれ、やがてシュンッという音を立ててその場から消え去った。 最後の千秋の言葉が、彼なりの優しさに満ちていたように感じたのは、きっと気のせいではないだろう……。 |