「外に出たい」と言い出した直江を連れて、高耶は石造りの家を後にした。
黒衣のマントに身を包んだ直江の体を支えながら、一歩一歩、直江の指差す方向に従うままに砂の大地を歩いていく。
気味悪いほどに青かった空が、太陽が傾いたせいで、今度は橙色に染まりつつあった。
月は依然として天上高くあり、白い光を放ちながら、ふたりのすがたを見下ろし続けていた。
直江の身体は本当にもう限界が近いのだろう。一歩支えて歩くごとに、苦しそうな息づかいが聞こえた。
それでも高耶は直江の望むようにさせようと思い、懸命に励ましながら、赤い大地を進んでいった。
しばらく歩くと、白い柱が視界に映った。
よく見れば、それは高耶が目を覚ました所にあった、あの石柱なのだった。
白の石柱のもとまで歩み寄ると、直江は柱に手をのばし、そっと触れると、嬉しそうに微笑んだ。
「ああ……ここに再び来ることができて良かった。身体が悪くてずっと動けなかったから……もう、二度と来られないのではないかと……不安だった……」
愛しげに、石柱の肌を撫でて、目を瞑った。
「最期のときが来たら、ここで迎えようと、そう決めていたから……」
直江が呟いた言葉に、高耶は瞠目して、白い石の柱を見つめた。
「ここは……いったい何なんだ?」
問いに、直江は白い石柱の先にそびえる砂の丘を見上げると、ゆっくりと噛み締めるように呟いた。
「ここは、かつて“イセ”と呼ばれていた場所」
イセ……?目を見開いて直江を見つめる高耶に、直江はコクリと頷く。
「私は、この神殿の遺構を守る、ただひとり残された神官……。何百年もの間、ずっとこの地を見守り続けてきた……」
高耶は、その言葉に、驚愕を隠すことが出来なかった。
「伊勢神宮か……」
直江が再びコクリと頷いた。
高耶は茫然と、白亜の石柱を見つめた。
変わり果てた神宮の姿を見て、ふいになぜだか涙が溢れてきた。
「本当に……あの日から、果てしない年月が過ぎてしまったんだな……」
あの美しかった神宮が。緑に囲まれ永遠の常若を保ち続けたあの社が、かつての面影なく不毛の砂地に覆い尽くされてしまうほどに。想像もつかないほどの莫大な年月が、この大地を駆け巡っていったのだ。
目を閉じれば、まだあの緑溢れる神宮の姿が鮮明に思い浮かべられるのに……。
(その途方もない時間を……おまえは……)
無言で押し黙る高耶を見守りながら、直江は高耶の手を引いて、石柱の先の丘の方へと登っていった。
丘の頂上に着いて、直江は歩む足を止めた。
不思議なことに、そこは高耶が目を覚ましたとき、その身を横たえていたちょうどその場所だった。
「ここに、あなたが眠っているんです……」
直江は大地にひざまずき、そっと指で砂地を撫でた。
「この下に、あなたの桜が眠っている。もう、ずいぶんと昔に砂に覆いつくされて、地面の下に埋もれてしまったけれど、……それでもずっとこの聖地は、あなたの残してきた想いを、祀り続けてきたんです……」
かつてあった石造りの正殿も、神木も、なにひとつとしてもはやこの地に残されてはいない。
あるのはただ、ひとり残された神官と、そこに祀られた者を思う……男のけがれなき信仰心だけだった。
「この掛け替えの無い場所で、私の“人生”の終幕を迎えようと、ずっと思っていた……」
直江は悲しげに微笑し、そうして高耶をまっすぐに見上げた。
「けれど、夢にも思わなかった……。まさかその傍らに、あなたが再びこうしていてくれるだなんて」
にっこりと微笑んで、赤い砂を握り締めた。
(直、江……)
この地の下に、自分が眠っている。
幾千幾万もの年を経て、いまもこの地に眠り続けている。
高耶は直江の傍らにひざまずいた。
そうしてそっと大地を撫でた。
ここは、ふたりの別れの場所だった。
そして約束を交わした場所だった……。
いまも、薄れることなく記憶にある。あの時かわした言葉が、鮮明に甦る。
──愛しています。景虎様。
(ああ……)
高耶は大地を握りしめた。
そっと目を瞑った。
「オレたちの家は……、ここにあったんだな……」
オレがいて、おまえがいて。
遥かな時を、共に過ごし続けた。
そうして今も、おまえの心がここにある。
(ずっと一緒だった……)
言葉をかわすことはなくても、心はきっと、ずっと一緒だった。
大地に残る想いが、きっとおまえを包み続けていた。
「岬の家は……ここにあった……」
目を閉じれば、波音が聞こえる。
たくさんの笑顔の訪れが、そこにあった。
叶えられなかった約束は、本当は、こんなにも近くで果たされていたのだ。
しばらくそうして二人は無言のままにいた。
陽は傾き、大地よりも赤い光がじょじょに青を侵していく。
めぐる風は砂を孕み、二人の頬を撫でていく。
その時……静寂を、初めて破ったのは直江の透徹とした声だった。
「聞こえますか……、大地の叫びが……」
彼は遠い目をして、遥か先まで続く赤き大地の地平線を見つめていた。高耶もその視線を追う。
「……私の魂と同じように、この星自身も……終わりの時を迎えようとしている。私が消えてそう間を置くこともなく、この星の命も息絶えることでしょう……」
たんたんと告げる直江の言葉に、何気なく問いかけた。
「この星の命がついえたら、その先はいったいどうなるんだ……?」
直江は少し黙って、遥か過去に思いを馳せるように目を細め、
「きっと彼が、新たな大地を生み落とす……」
そう、噛み締めるようにつぶやいた。
「彼……?」
「そう、約束したんです。ずっと昔に……。私が約束を果たし終えるまで、待っていてくれるように。……それまで彼は、眠りにつきながら、私が願いを果たすときを待ち続けていてくれているんです……」
この場所で……。
再び直江が大地を見つめる。
高耶の眠る、その地を見つめる。
──それが、あなたの願いなの?
──それじゃあ、俺は、あなたが約束を終えるときまで、ずっとここで待っているよ。
──高耶のそばで、あなたのことを見守っているよ。
(ずいぶん……待たせてしまいましたね)
今も眠るその人に、心を馳せて、男は黙祷するように、手のひらをゆっくりと合わせた。
「私の命が終わることで、この星の生命はついえる。人の輪廻は完全に途絶え……私たちは悠久の眠りにつく」
この星に魂の宿るべき器は、もはや存在しない。
生まれ変わることも、再び目覚めることもなく、今度こそ幾兆もの彷徨える魂たちは、終わり無き永の安らぎを与えられるのだ……。
「そして彼が、……きっと、新たな世界を生み出す……」
高耶は茫然と、直江の言葉を聞いていた。
この地で、直江の終わりの時を待つ者がいる。
眠りにつきながら、“その時”の訪れを知る者がいる……。
高耶はこの時、ここに来て初めて、すべての謎がとけていくのを感じた。
(おまえなのか……)
言葉もなく、砂の下に眠る者に思いを馳せた。
ゆるゆると、大地を両手で撫であげる。
(おまえが……オレをここに連れてきたのか……)
直江に逢わせるために。
彼の証明を、見届けさせるために。
世界の終わりに、彼が、幸福な最期を遂げることができるように……。
時空の壁を突き抜けて……。
(おまえが……直江のために……)
胸がつまって、熱いものがこみあげた。
砂の大地に、いまは遠い友の幻が映し出された。
魂から搾り出すように、その名を呼んだ。
──譲……。
その時だった。
ふいに、高耶が手を置いていた場所の砂が、淡い光を放ち始めた。
光はどんどん強くなって、冷たい大地が熱を帯びていく。
驚いて手を離すと、白い光が高耶を包み込んだ。
茫然と目を見開いていると、光はその間にも強さを増していき、やがて砂の下から、キラキラと発光する小さな塊が現れる。
光の塊は砂から離れると、スッと音も無く宙に舞い上がり、ちょうど高耶の頭の手前で上昇を止めた。
そのままふわふわと浮遊する塊を凝視したあと、高耶はおそるおそる、両手を前に差し出して、光の塊を受け止める。
手のひらに乗せた塊は、じょじょに光を収めていった。
ゆるゆると白い光が弱まって、やがて塊の輪郭が姿を現した。そうして完全に光を失ったとき、そこに現れたものに、高耶は心臓が止まりそうになった。
それは小さな、銀色のブレスレットだった。
何かに潰されたのか、止め具の部分が外れて、いびつな形にひしゃげていた。
白い光を失った後も、太陽に反射して、銀地がキラキラと輝いていた。
高耶の瞳に、涙があふれた。
ふるえる指で、ブレスレットを顔に近寄せた。
「まさか……」
音も無く、水滴が頬を伝い落ちる。
「まだ……まだ、残っていただなんて……」
その後は、言葉にならなかった。
流れ落ちる涙が、手のひらのブレスレット濡らした。
「それは……?」
直江が、不思議そうな目で、高耶の様子を見つめていた。
「覚えてないのか……?おまえが、オレにくれた霊枷だ……。ずっと、大事にして左腕につけていた……」
直江に見えるように、手のひらの細い銀塊を差し出す。
「ほら、まだ読めるだろう……?ここに、おまえの言葉が記してある……」
腕輪の内側に掘られた文字列。指でなぞりながら、確かめるように読み上げた。
「“Never forget your own earth”……」
──あなたの大地を、忘れてしまわないように。
地から離れ飛び立つ鳥を、見守る母なる大地のように。
何もかもを忘れそうになる心に、そっと、やさしい風を送り続けていた。
「ずっと……オレをつなぎとめていてくれていた……」
男の想いを宿した枷は、いつも高耶の手首にあり、そうして心と共にあった。
どんなにつらい時も、この枷さえあれば乗り越えていけるような気がした。
いつでも、孤独は感じなかった。
「もう……とっくに、朽ちて無くなっていると思ったのに……」
腕輪は亡骸と共に、泉の底に沈められたはずだった。
その腕につけられたまま、高耶の身体と共に、腐蝕し、土に帰っていったはずだと。
それでも枷は、幾千年の時を経ても、あの時と変わらない姿でそこにあった。
男の想いと同じように、その銀色の光は、涸れることも、朽ちることもなく。
「おまえの想いが……まだ、この枷に残っていたんだな……」
直江の想いが、地に埋まる霊枷を、悠久の時をかけて包み続けていたのだ。
あの日高耶の心を包んだように。
そうして今も変わらず。
彼の、他ならぬ……永劫の愛の証拠だった。
涙を流して語り続ける高耶を、直江は無言で見つめていた。
「おまえはいつも、オレが思う何倍もの強さで……答えを返してくれる……」
最後の瞬間、直江の永遠の誓いを信じて、疑うことなく、そうして安らかな眠りにつけたことは確かだけど……。
改めて思い知るのだ。
確かに……誓いは果たされたのだと。
この霊枷は、直江の想いの化身だった。
きっと、地中の奥深くに埋もれながら、もう一度持ち主の腕の中に帰る日を、遥かな時を経て待ち続けていたのだ。
高耶を待っていたのだ……。
枷を、高耶は愛しおしげに見つめると、右手のひらに乗せて、直江の方へと差し出した。
驚く直江に、涙の滲んだ目で微笑みながら告げる。
「はめてくれないか……」
高耶の乞いに、やさしく微笑し彼はコクリと頷いた。
ブレスレットを右手に掴むと、高耶の左腕をそっと引き寄せる。
そうして、丁寧な手つきで銀の輪を、細い手首に通した。
高耶は、数千年ぶりに主の元へと戻ったその霊枷を、キュッと心臓の上で握り締める。
不安な時は、いつもこうして胸に抱きしめながら、贈り主の名を心の中で呪文のように唱えていた。
「オレの……一生の宝物だった……」
人生の中で、一番大事にしていた物を聞かれたら、間違いなくこれを一番にあげただろう。
大切なひとから贈られた、世界でひとつしかない、大切なもの。
高耶は視線をあげて、「ありがとう」、というように微笑むと、ふいに直江の黒衣に隠された腕の辺りを見た。
そうして今度は己の身体を見回すと、困ったように、はにかんだ笑いを浮かべた。
「なにか、返せるものがあればいいのに……何も無いな……」
身一つの高耶には、直江に与えてやれるものが、何一つ無い。
直江はニコリと笑い返すと、高耶の手を取り、その双眸を覗き込んだ。
「あなたには、かけがえのないものを、たくさんもらいましたよ……」
白い手のひらをゆっくりと撫でて、霊枷をつけた手首ごと、大きな手で包み込んだ。
「それだけで、私はもう十分です……」
高耶の暗褐色の瞳を見つめながら、そう告げた直江の、明るい茶色の瞳を、高耶は息を飲んで凝視した。
言葉が喉まで出かかって、それでも言葉にできなくて、くしゃりと顔をゆがめると、高耶は声も無く、直江の首にしがみついた。
そうして見つめ合う暇さえ無く、直江の唇に口づけた。
四百年と、直江がひとり歩んだ幾千年の、想いのすべてをこめた口づけだった。
もどかしい想いをすべて叩きつけるように、舌をからめて、言葉に出来ない思慕を口中から注ぎ込む。
まわした手に力が入り、直江の身体を引き寄せる。それに応えるように、直江も高耶の腰にそろそろと手を回し、やがて溶け合うように抱きしめあった。
息をついで、ゆっくりと唇を離すと、閉ざしていた瞳をゆるゆると開いて、互いの双眸を見つめあう。
「あなたの唇に触れたのは……いったい、どれだけぶりだろうか……」
直江は左手を高耶の頬にそえると、指でそっと唇をなぞった。
「二度と……触れることなどないと思っていたのに……」
最後に触れたのは、ちょうどこの場所、この地の上で。
高耶の刻む、最後の呼吸を、吸い取るように。別れの口づけを贈った。
冷たくなっていく頬に、いつまでも手をそえていた。
忘れていた情景が蘇る。
最後まで、幸せそうに微笑んでいたその横顔を。
あたたかな微笑をうかべながら、息を引き取った、その瞬間を。
なごりを惜しみながら、虹色に光る泉の底に、その身体を横たえた。
それきり、最後だった。
もう、二度と触れることはないと……そう思った、彼の体温を、こうしていま、全身で感じている……。
「あなたがここにいる……」
愛しい肌のぬくもり。
記憶は歴史の中に薄れ、輪郭を失い、やわらかな光の存在でしかなかった彼の姿が、いま現実を伴って直江のなかで蘇る。
「あなたが……ここに、……いる……」
もう一度くり返すと、直江は強く瞳をとじ、言葉なく俯いた。
小刻みに肩をふるわせ始めた彼を、高耶は無言で見つめる。
しばらくそのままでいると、やがて、彼はほんとうに小さな声で、かすかにこう呟いた。
「さびしかったんです……」
直江の言葉に、高耶は息を飲んだ。
魂から、すべての想いを搾り出したような、そんな言葉だった。
「とても、……さびしかったんです……」
ぽたぽたと、彼の頬から地面へと、水滴が伝い落ちる。
幸福を……感じていたのは確かだけれど。
それでも。
耐えられないほど孤独なときがあった。
この数千年の生のなかで、いつでも、どんな時も彼は穏やかでいられたわけではなかった。
桜の神木が枯れ朽ちて、砂の下に埋まってしまったとき。
涙を流したあの夜を、こんなにも鮮明に思い出せる。
心が弱くなってしまったその時に、暗闇の中、どんなに気配を探しても、彼はどこにもいなかった……。
どれだけ哀しかったか。
どれだけ……孤独だったか。
幻ではない彼が、ここにいる。
どんなに求めても、二度とこの手に帰ることは無かった彼が。
血を吐くほどに手を伸ばしても、決してその手を取ることは無かった彼が……。
自分の前に存在している。
確かな実体を持って。あの時と少しも変わらぬ姿で。
幾億もの夜をこえて。いま。
その奇跡のまえでは、このちっぽけな存在は、もう、一片の言葉すらなく、ただ涙を流し続けるしかない……。
(なお……え……)
愛しい男の嗚咽を聞きながら、高耶は両眼を固く瞑り、その頬に涙を流した。
頬を撫でていた直江の左手に、水滴が舞い落ちる。
その大きな手を、高耶は上からそっと包み、手のひらに頬を愛しげにすりつけた。
涙に濡れる直江の瞳を、見上げる。明るい茶色の瞳は、かつての彼の瞳の鳶色に、少しだけ似ていた。
「もう……二度と離さない……」
かすれる声で紡いだ、高耶のその呟きが、合図だった。
直江の節ばった指が、高耶の首筋へと降りて、あわ立つ肌を撫でながらシャツの中にそっと忍び込む。
うながすようにみずからシャツのボタンをはずし、男の手を受け入れる。
手を伸ばして黒衣のマントを掴み、互いに着衣を脱がしあう。
あらわれた素肌は不思議な感触をしていた。未知の感覚に、けれども恐れや違和感は無い。ためらうことなく素肌に手をすべらせる高耶を抱き寄せ、直江はそっと、彼の身を砂の上に横たえた。
覆いかぶさり、深く口づけを交わす。
唇は甘く、涙の匂いがした。
直江の唇が、高耶のなめらかな肌を伝い降りていく。
胸元に愛しい男のぬくもりを感じながら、高耶は閉ざされた瞼を開いて、天空を見あげた。
月が、冷たい光を放ちながらこちらを見下ろしている。
終わりを迎える大地で、最後の交わりをかわす。
「おまえは……もう、オレだけのものだ……」
愛撫をその身に受けながら、全世界に聞かせるように、男の身体を強くいだいて高耶は宣言する。
「誰の目にも触れさせない……誰にも渡さない……おまえの瞳は、もう、オレしか映さない……」
潤み頬を伝い続ける涙を、直江の唇が吸い取る。
注がれる月光のような眼差しは、あの頃とちっとも変わらない。
見つめあう二人に、もはや互い以外のものは映らない。
上杉景虎というひとりの男が、生涯をかけて望み続けていた願いが、いま、ようやく叶った瞬間だった……。
男の癒されぬ孤独な魂を、いま、再び受け入れる。
赤く燃える大地の上に、二つの影が重なり合う。
生命の絶えた星の上で、最後の愛を交わす。
おまえが永劫の愛をくれるのなら、オレはおまえを癒す、泉になろう……。
どこまでも癒し、そうして何もかもを受け入れる。
おまえだけの泉になろう……。
*
陽は傾き、夕陽は青き空を赤く染め上げていた。
地平線との狭間で、悲鳴を上げるように、その美しい光を迸らせる。
大地と交わる太陽が、まるで最後の抵抗のように輝くさまを、ふたりは静かに、いつまでも見つめていた。
沈まない夕陽が無いように、明けない夜は無いと言うけれど。
もう、二度とこの地に喜びの朝はやってこないことを、ふたりだけが知っていた……。
直江は高耶の膝に頭を乗せて、砂にその身を横たえながら、夕焼けの残照を見つめていた。
赤と白と青の光が、空の上に鮮やかなグラデーションを描いている。
もう、二度とは見られない遥かな残照を。
切ない想いを以って、脳膜に焼き付けるように、仰ぎ見る。
世界が終わる、終末の光景を、他でもない愛しい人と共に。
高耶の指が、直江の髪をやさしく梳いていた。
空を見つめる直江の瞳は、もはや鮮明な焦点を結んでいない。
終わりの時が、刻一刻と近づいていた。
大地の底から、鐘の音が鳴り響いていた。
別れを告げる時が来た。
「あなたと、こうしていると……今まで忘れ去っていた、たくさんのことが……私の中に、蘇ってくる……」
直江がかすれた声で呟いた。
もう、言葉を紡ぐのもつらいのだろう。途切れ途切れの言葉を、懸命の思いで高耶に伝えようとする。
「あなたとの……四百年の思い出や……。そう……。どうしていままで忘れていたんだろう……。長秀や……晴家、色部さん……それに高坂も……いまになって、たくさんの記憶が……どんどん溢れてくる……」
眼を閉じれば、こんなにも鮮明に思い描けるのに。
遥か過去に、別れを遂げたかけがえのない仲間たち。
顔も名前も忘れ果ててしまっていたと知ったら、彼らはきっと、自分を怒るに違いない。
「あいつらは……向こうで元気にしているでしょうか……」
高耶は髪を梳く指をとめて、直江の瞳を、真上から覗き込んだ。
「ああ。きっと向こうで、オレたちのことを待ってる」
そう告げた彼の言葉に、驚いたように顔を上げた。
高耶を見つめる直江の瞳は、少年のように澄みきっていた。
「一緒に、行ってくださるんですか……?」
直江の問いに、彼は木漏れ日のような微笑を浮かべて、彼の頬を手のひらで包んだ。
「言っただろう?……もう、二度と離さないって……」
直江は目を見開いて、一瞬後、声も無く顔をゆがめた。
目じりからこぼれ出た涙を、高耶は指でやさしくすくった。
「泣くな……」
後から後から湧きいずる涙が、頬を落ちて、砂の上に痕を残す。
見あげてくる瞳は、きっと、もう高耶の姿をはっきりとは映していない。
「景虎様……」
最後の力を振り絞って、直江が言葉を高耶に贈る。
「景虎様……私は、本当に幸福でした……あなたに出逢えて、誓いを……果たすことが……できて……」
いままでの生涯が、走馬灯のように頭の中を巡っているのだろう。
景虎と生きた、光のような日々を。仲間と支えあい歩んだ日々を。最後の瞬間を信じ、何者も恐れずにただひたすらに進んだ、永遠のような日々を。
約束の時は訪れた。
数千年もの時間を経て、いま、男の前に訪れた。
男の胸に残る答えは、いまも変わらず、たったひとつだった。
「愛しています。景虎様」
あの時と同じ場所で。
あの時と同じ言葉を、いま、直江が唇の上に乗せる。
約束の言葉を、その人に告げる。
万感の思いをこめて、告白する。
両目から大粒の涙を流しながら告げた直江は、満足そうに微笑んでいた。
心の底からの笑顔だった。
高耶も、落ちる涙をもう止めることはできなかった。
直江の想いを受け入れて、微笑むことしかできなかった。
高耶の笑顔に、直江も嬉しそうに微笑み返した。
言葉もなく、ふたりは見つめあい続けていた。
陽が地平線の底に沈み、赤き大地に最後の夜が訪れる。
あたたかな鼓動の刻みも、もう残りわずかとなっていた。
高耶は直江の右手を取ると、霊枷をつけた左手で、指をからめるように握り締めた。
本当ならば、この星の最後の生命として、孤独のままに、逝くはずだった彼……。
直江が自分の最期の瞬間を、幸福のうちに遂げさせてくれたように。
自分も直江の最期のときを、最上の幸福で、包みこんであげたい。
きっと、そのために自分はここにいるのだから。
これ以上無いほどの愛しさをこめて、男の耳もとに囁く。
「もう、おまえは一人じゃないから……」
幾千もの年月を、たった一人で歩んできた彼を……。
永劫の孤独を、歩み続けてきた彼を……。
「オレが……、ずっとそばにいるから……」
今度こそ、とわの幸福で包む。
「愛しているよ……直江」
囁きと共に、唇を重ねる。
男の瞼が、静かに閉ざされる。
最後の呼吸を終えて、やがて安らかな眠りについた。
いま、ようやく、ひとりの男の歴史が幕を閉じた……。
──高耶?
遠くから声が聞こえた。
眼をあげると、そこに懐かしい人の姿があった。
「ゆ、ずる……?」
──そうだよ。久しぶりだね、高耶。
微笑んだ彼は、あの日と変わらぬ姿で、そこにいた。
いつのまに現れたのだろう。闇に包まれた砂漠の中で、そこだけ火が灯されたように、ぼんやりと光ながら彼は佇んでいた。
──もう、眠ってしまったみたいだね……。
直江の身体を見下ろしながら、彼が呟いた。
瞳には慈しみのような感情が宿されていた。
──彼は、ずいぶん疲れてしまったようだから、おまえが明るいところに連れてってあげなよ。
「明るい……ところに?」
──ああ、あのままじゃ、彼は疲れすぎてしまって、ひとりじゃ辿り着けそうになかったから、おまえを呼んだんだよ。
ふわりと笑って、高耶を見つめた。
言われた言葉に驚き、茫然とした思いで彼の瞳を見つめ返す。
──俺はまだ、ここでやるべきことが残っているから、おまえは彼と一緒に、先に天にあがっていて。
飾らない笑顔を浮かべながら、天に向けて指を指し示す。
人差し指から光がのびて、天空に向かい一条の光が突き抜けた。
そのさまを見つめて、ふたたび視線を戻すと、高耶はふるえる声で、言葉を告げた。
「……りがとう……ありがとう、譲……」
──いいんだよ、高耶。
少し照れたように頭をかくと、
──彼はちゃんと約束を守ったから、ごほうびってわけじゃないけど……なにかしてあげたかったんだよ。
と、感慨深く呟いた。
正直、本当にここまでやれるとは、思ってなかったから。
彼の執念は、敬服に値した。
その切実なる想いに敬意を払って。
光の中にとけて、直江の中から消え去ろうとした高耶の魂を、最後の最後に禁忌の力でこちらの世界に引き寄せたのだ。
禁断の扉を開けて、奇跡の再会は遂げられた。
──それに、知ってたくせに放っておいたりしたら……おまえ絶対怒るだろ?
からかうように、おかしげに目を細める。
こんな状況だというのに、その様があまりにも自然なので、まるであの頃に戻ったように、高耶も彼に微笑み返した。
(ありがとう……)
冷たい風が砂を撫でていく。
夜の帳を降ろした世界。天上にほの光る月。
もう一度天を仰ぎ見ると、彼は促すように、高耶たちを振り返った。
──さあ、もう時間だ。ここは寒いから、早く彼をあたたかい場所に連れてってあげなよ。きっと、いろんな人が待ってるだろうから。
告げながら、彼の身体がじょじょに光を失っていく。
かすれつつある身体で、にこりと微笑みながら、別れの言葉を唇に乗せる。
──元気で。
高耶がこくりと頷くのを見届けて、彼は満足そうに口元を綻ばせると、やがて闇の中に消えていった。
しばらく微動だにせず、彼の消えたその場所を見つめていた。
そうして、あとに残された高耶は、ゆっくりと正面を向き直る。
膝の上には、直江が静かに眠りについていた。
もうぬくもりをなくした彼の身体をそっと支えて、高耶はその愛しい身体を、丁寧に砂の上へと横たえた。
かつて高耶の亡骸をこの地が包んだように。
直江の亡骸も、この伊勢の大地がきっとやさしく包んでくれる。
そうして同じ土へと還る。
いつまでも……想いはここに、残り続ける……。
──人の思いは山河に染み込み、決して消えることはないんです。
(おまえが教えてくれた言葉だ……)
思えばあの日から随分遠くへ来てしまった。
……始まりは越後だった。
越後の地で憎しみと共に出逢った二人は、四百年の時を経て、互いに愛し合い、結ばれて……そうして永劫の時をこえて、この伊勢の地で再びめぐり逢ったのだ。
高耶はゆっくりと立ち上がると、両手を手前に差し出した。
「行こうか……直江」
言葉をかけると、手のひらの上に小さな光の玉が現れた。
琥珀色に輝くそれを、大事に胸に引き寄せると、光はじょじょに大きくなり、やがて実像を結んだ。
高耶の手の上に、大きな手のひらが重なる。
顔を上げれば、男の笑顔があった。
鳶色の瞳が、高耶をあたたかく見下ろしている。
高耶の大好きだったあの姿で、魂は像を結び、高耶の前にもう一度現れた。
手と手をつないで、見つめあうと、ふたりは地を蹴り、天へと舞い上がった。
闇の中に、明るい光が灯されていた。ああ、やっと自分たちは、あの場所へと行けるのだ……。
ずいぶん遠回りをしたけれど、本当に幸せな人生だった。
遠回りをしなければ、おまえの愛を知ることもなかった。
もう、おまえは眠っていいんだよ。
生命の尽きたこの地には、輪廻する場所も残されていないから。
生まれ変わりを恐れて、死を逃れ続ける必要も、もう無いのだから。
あの場所には、永久のやすらぎが待っている。
完全なる沈黙が、オレたちの疲れた魂を包み込んでくれる。
恐いものなど何もない。
オレがずっとそばにいる。
今度こそひとつになれる。
二度と……離れることはない。
あたたかな光に包まれる瞬間、高耶は直江と見つめあい、そうして下界を見下ろした。
二人の歴史を刻み込んだ、かけがえのない大地。
ここが、オレたちが辿り着いた、最上の場所。
誰にも侵されることのない……たったひとつの。
永遠の、理想郷──。
光の中に消えていく。
あの時からいつもつながっていたその手を、もう一度つなげて。
二つの魂は互いに溶け合いながら。
そうして。
二人の壮大なる物語は、ここにようやく終わりを迎えた。