陽炎花嫁かげろう はなよめ

























 第九話


 とんでもないことになってしまった……。

 景虎は手に持つ鏡に己の姿を映しながら、盛大に溜息をついた。
 鏡の中の自分は、先ほど手早く化粧直しをしたばかりだというのに、これ以上ないほどに陰鬱な顔色をしている。
 そんな彼の背後に立つ初は、景虎の黒髪を黄楊つげの櫛で梳りながら、不満げな口調で彼に言い聞かせていた。

「化粧をしたまま寝るのは本当は肌に良くないんですよ。なるべく早く終わらせて、白粉を落としてくださいね」
「……ああ」

 景虎は精気の無い声で相槌を打った。
 もちろんこちらとて、早めに済ませてしまいたいのは山々だ。だが肝腎の怨霊が行動を起こさない限り、こちらから成すべき術はほとんど無い。すべては怨霊の心一つで決まるのである。
 白い単姿に着替え、支度をすべて終えた景虎は、重い足取りで寝所へと向かった。


 今夜、景虎は直江と「初夜」を迎える。
 ……もちろん、祝言の一連の儀式と同じく、形ばかりのものであることは間違いないが。
 それでも、やはり景虎にとって複雑な思いを押し隠すのは容易ではない。
 女装した上で、男同士で祝言を挙げるのはまだいい。屈辱的だが、いかにしても堪えられぬというほどの行為ではなかった。
 ……しかしそれが閨中の行為に及ぶとなると、話は完全に異なる。

 寝所には既に、支度を終えた直江が畳に座しながら、景虎が床入りするのを待っていた。
 晴家と長秀は襖一つ隔てた次の間で待機している。霊が景虎に憑依した気配あれば、すかさずこちらに踏み込む手はずだ。
 それまでは、当然ながら密室の中に景虎と直江二人きりである。
 明かりは枕元に灯るわずかな灯明のみ。ほの暗い部屋の中で、白の単に身を包んだ二人が、しとねを挟んで畳の上に向き合うように座っていた。
 揺れる光のもとで、白い衣から直江の張り詰めた筋肉が透けて見える。
 動作をするたびに躍動する四肢。浅黒い肌の色。
 薄い布一枚に覆われた男性的なたくましい肢体を、決して意識はすまいと、景虎は直江から目を逸らし続けた。
 膝に置く指先がかすかにわなないている。
 緊張のあまり、景虎は座した所からピクリとも動けずにいる。そうして無言のまま、直江の出方を気を張り詰めて窺っていると……。

「景虎様」

 沈黙に堪えかねて、先に言葉を発したのは直江だった。

「……なんだ」

 ゴクリと息を飲んだ後、低い声で呟いた。そんな彼に、直江は極めて冷静な口調で次のように告げたのだ。

「あえて言うまでもないことと思いますが、私はあなたに何もするつもりはありませんので」
「あッ……、あたりまえだッ!」

 ギョッとして景虎は思わずどなり返してしまう。しかし、それは確かに彼が最も懸念していた点に間違いなかったので、動揺をうまく包み隠すことができずに、彼はおなごの演技すら忘れて直江に高々と宣告した。

「良いかっ、計画の遂行を思えばこそねやを共にすることを許したが、こちらに少しでも近づいてみろ。その瞬間貴様を攻撃するゆえ、その心積りでいろよ!」

 ゆめゆめ忘れるな! と上ずった声で念を押すなり、景虎は素早く褥の中に潜り込んだ。
 そんな彼を、 直江はひどく冷静な無表情のまま、何事か思案するように凝視している。
 口数少なく、何を考えているのか推察できぬ先ほどからの男の態度が、景虎には恐怖であった。
 男はしばらく景虎の背中を眺めていたようだったが、一つの溜息の後に、傍らにあった大小を枕元に置くと、ようやく褥の端を持ち上げて隣に入ろうとした。
 その刹那、景虎の肩が、突如ビクリと揺れた。
 張り詰めるような空気。こちらを極度に警戒している様が、その後姿からありありと感じ取れる。
 まるでおまえのことなど一欠けらすら信用していないのだと、言わんばかりに。

「…………」

 直江は目を眇めるようにしてもの言わぬ背中を一瞥したが、そのまま黙って褥の中にするりと身を横たえた。


 景虎は寝所で体を横たえながら、しきりに畳の目を睨み続けている。
 灯明が一つ灯された室内は薄暗く、その薄闇に閉ざされた部屋の中にわずかに響く呼吸は、景虎のもの一つだけではない。
 彼の右横には、よく知る男の気配があった。
 手を伸ばせば容易に触れられるほど近くにある気配。
 背中から伝わる熱。若い男の匂い。
 しかし景虎は、その気配を懸命に意識の中から排除しようとしていた。昂る神経を抑え込みながら、何か別の事に意識を集中させようと、甲斐無き努力を続けている。
 ……こんなはずではなかったのだ。
 怨霊調伏の使命を思えばこそ、逃げだしたくなる気持ちを必死に押し殺して、直江に同衾を許した景虎だ。
 しかしそれは、堪えられると思ったからこその苦渋の決断だった。
 主従とは言え、二人は長らく過酷な旅を共にした同士である。道中同じ室内で体を休めざるをえない場面は何度もあった。いまさら数え上げる必要すらないほどだ。
 今回もそれと全く同じだ。あえて意識するほどのことではないと、景虎は自らに言い聞かせた。堪えられぬはずはない。……しかしこの状態では、その認識はあまりに甘かったと言わざるを得ないようだ。
 男が寝返りを打つたびに、ビクリと体を竦ませる。僅かな寝息や身じろぎすらも敏感に察知して、反射のように冷や汗が噴き出していた。
 景虎は直江を、普段臣下として見ることこそあれ、男≠ニして意識することはなかった。しかし今、この時に限って、直江という男が一個のオスであることを、彼は改めて認識せざるをえなかったのである。
 萎縮している無様な己を、隣の男に察せられたくはないが、体がいうことをきかない。必死に平常心を保とうとしても、歯の音が震える。鼓動が早鐘を打つ。
 自分のすぐ背後に、褥を並べて成熟した男子の気配があるという事実が、景虎の神経を耐え難いほどに磨耗させていた。
 
(ダメだ……っ)

 震えを止めようと、掛け布に潜って両手で体を抱きしめるが、一向に収まる気配を見せない。
 直江の体の熱が、オスの肉体が発する体臭が、こちらを包み込むような感覚に襲われるたび、全身が恐怖に戦慄く。

(不審に、思われる……っ)

「景虎様?」

 その時、突如直江が名を呼んだので、景虎は大袈裟なほどにビクリッと震えた。

「どうかなさいましたか」
「いっ、いや……、なんでもないっ……」

 褥を通して体の震えが伝わってしまったのだろう。直江にしてみれば、もしや景虎に霊が憑依したのではと疑っての問いだったのだが。

(……気づいているのか)

 直江は表情を硬くしながら、内心で呟いた。
 景虎は決して気づくまいが、何もこの状況に置かれて狼狽を極めているのは、彼一人だけではなかった。
 表面上には出さないが、一方の直江の精神も、薄衣一つで横たわる景虎を目の前にして千々に乱れきっていたのである。

(まさか気づいて警戒しているのか。俺の妄念を……)

 直江は寝返りを打って、動揺を押し隠そうとするように景虎に背を向けた。
 外道丸の一件の後、重傷を負った景虎の看病に務めていた時期があるため、彼の寝姿を目にするのは、直江にとって取り立てて珍しい事とは言えない。
 しかし今回のように、隣に褥を延べ寄り添うようにして寝るなど、かつて無い経験だ。
 ただでさえ、彼の寝顔というのは心臓に悪い。あの姿を目の当たりにして、覚えず、奇妙な妄念をかきたてたのは一度や二度のことではなかった。
 景虎に知られれば、その場で切り殺されたとしても弁明の余地など無いほどに、悪質な類のそれ。
 彼は夜毎に、この男の頭の中で女のように組み伏せられ、その体を犯し貪られていることなど、知りはすまい。
 泣き喚く景虎の全身をねぶるように愛撫し、その体を自身で思うさま貫き、許しを乞われてもやめず、彼の高慢な瞳の色が敗北の屈辱に染まりゆく様を、恍惚と見ているなど……。

(知られてたまるものか)

 直江は自身の精神を抑制するために、唇を噛み締めた。
 くだらぬ妄想に思考を没頭させている時ではない。己自身にも因果のわからぬ夢寐むびの邪念。理解しがたい。好色で自堕落な人間ならばともかく、よりにもよってそういった類の人間を最も忌むはずのこの自分が。
 誰にも察せられてはならぬ。ましてや、このような淫猥な想念を夜毎浮かべては喜悦に浸っているなどという悪趣味、景虎本人にわずかたりとも露見してはならぬのだ。
 動揺してはならぬ。あくまでも完璧な冷徹さを装っていなければ、すべてを見通すあの者の双眸が、己の疚しい心を暴き立てるだろう。
 平静を乱すな。そう心に念じ、悶々とする思考を自制しようと精神を統一していた……まさにその時であった。

 直江の背に、誰かの手が触れてきたのである。
 誰かなどと考える必要もない。隣で寝ているはずの景虎だ。何か異変があったのだろうか。
 しかしそう考えた瞬間思わぬことが起こった。直江が振り返ろうとすると、それをおし止めるかのように、景虎の両腕が直江の背にしなだれかかってきたのだ。

(なにを……っ?)

 どういうつもりだ、と困惑しながら彼の腕を引き剥がすように振り返ったが、景虎はなおも吸い付くように直江に全身を寄せてくる。直江は混乱した。そうしている間に、彼は両腕を直江の首に絡ませ、肩口に頬をすり寄せ、胸と胸とをぴったりと合わせるように抱きついてくる。
 直江は気が動転した。

「景虎様っ、いったいどういう了見……っ!?」

 問いただそうとした言葉を、何かが遮った。
 景虎の唇が、己の唇を塞いでいるのだ。
 直江は驚愕に目を見開いた。ありえないことだ。景虎が自ら己に接吻するなど。
 茫然としている間に、景虎は触れる唇の隙間から、より直江を求めようとするかのように舌を出し、直江の唇の狭間をくすぐった。
 その瞬間、直江の頭の中で何かが弾け飛んだ。
 直江は景虎の後頭部を右手で掴むと、自らも唇を景虎に押し付けた。
 舌を差込み、思うさま口中を貪る。景虎も迎え入れるように彼と舌を絡め合わせた。
 背に手を回して景虎の体を強く抱きしめる。ずっとこうしたかったのだ。直江は彼の体を褥の上に押し倒し、その上に覆いかぶさると、単の前をくつろげて右手をさし入れた。
 仄暗い灯りの中に浮かび上がるなめらかな肌を、てのひらがゆっくりと辿る。首筋から鎖骨、そして胸の中心に至ると指の腹で色づく突起を愛撫した。

 「……ッ」

 景虎が眉を寄せてかすかに声を漏らした。それと同時に、彼は単の裾から覗く足を、直江の足へと絡みつかせる。直江は首筋を口づけながら、景虎の顔を上目遣いに見上げた。
 とろけるような恍惚を映す景虎の瞳。だがその時だった。彼の快感に潤む瞳に宿る光が、明らかに景虎の持つそれとは異なることを、直江が唐突に悟ったのは。
 この者は景虎ではない!
 直江は愛撫の手を止めて、首に手を絡める景虎を勢い良く引き剥がした。

「何者だ、そなた!」

 厳しい声で誰何する。ついに怨霊が景虎の体に憑依したのだ!






 平成二十年五月七日

直江信綱ご乱心(笑)。
前に書いた邂逅編小説で、直江と景虎様のキスシーンを入れたことがあるのですが、その時は正直「うわ、やっちゃったv」感が強かったです。
そして原作の二人はあと最低10年はキスなんてすることはないんだろうなぁなんて寂しく思っていたら、それから間もなくして掲載された「外道丸様」で直江が2回もキスしてて、爆笑した記憶が。
どうやら私は直江という男を見くびっていたようだ……。

ですから今後、今回のように直江が景虎様を押し倒してくれる日もそう遠い話ではないと、私は確信しています(笑)。

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