唐突に突き飛ばされた景虎は、振り払われたことに衝撃を受けているのか、目の前の男を茫然とした表情で見上げている。 直江の誰何の叫びに間を置かずして、バタンッと音を立てて襖が勢いよく開いた。 「来たか、直江!」 不穏な気配に気付いた晴家と長秀が、部屋の中に飛び込みしな叫ぶ。すかさず景虎の周りを囲みこみ、怨霊の退路を塞いだ。 同時に晴家が早口に真言を紡ぐと、瞬時に場の空気が一変した。あらかじめ室内には塩を蒔いて、簡易ながら四方に結界符咒を仕掛けてあったのだ。それを発動させたことで、もはや霊は袋の鼠状態となった。 臨戦態勢を取る晴家達に、しかし怨霊に憑かれた景虎はまったく反応せず、両眼を見開きながらひたすらに直江を見つめ続けている。 そして次に彼が呟いたのは、こちらがまったく予想だにしなかった言葉であった。 「わたくしのことが分かりませぬか……おまえさま」 かすれた声音が、室内に静かに響いた。 「わたくしのことなど、忘れてしまわれましたか」 哀しげに顔をゆがめながら景虎は、刀を手にして構える直江に、ずるずるとすがり寄る。 「おまえさまを思い、恋い焦がるあまり、わたくしは悪霊とまで化してしまったというのに……」 何、と三名は同時に息を飲んだ。この怨霊、直江のことを知っている!? 晴家と長秀がこちらに問うような視線を投げる。だが直江は瞬時に首を横に振った。知らぬ、このような者と言外に告げる。嘘ではない。直江は怨霊の正体に皆目見当がつかないのだ。 男のつれない反応に、景虎は絶望の色を露にした。俯いて、両目からはらはらと涙をこぼす。打ちひしがれるその様子を前にして、ますます直江は混乱を極めた。 「……分からぬ、そなた何者だ? 私を知る者か?」 無神経な言葉に、景虎は「おお……」と呻くなり悲しみに泣き崩れ、直江の胸に顔を伏せた。 三者は互いに顔を見合わせた。予想だにしなかった展開に、すっかり毒気を抜かれてしまった。いったい、何者なのだ、この怨霊。 「泣いていては分からぬ。そなた名は? 申してみよ、思い出せるやもしれぬ」 嗚咽を漏らす彼にやや優しい口調で問いかけたが、景虎は答えようとはせず、首を振り続けるのみだった。これでは埒が明かない。 (しかし、妙だな) 郷の者から聞いた話によれば、この者はウエモンなる男を怨んで怨霊と化したおなごであったはず。 だが当の怨霊は、あろうことか、直江に恋焦がれるあまり悪霊と化してしまったと訴えたのだ。 まったく身に覚えはないものの、偽りを言っているようにも見えない。土台、怨霊は己の感情に何よりも忠実な存在だ。嘘などつけるはずがない。 もしや直江自身とではなく、直江の宿体・九郎左衛門に関係する者なのでは……。 そう思考を巡らせていた、まさにその時であった。突如景虎が頭を両の手で押さえながら、苦悶の声と共に激しく苦しみ出したのは。 「う……っ、ああぁ……ッ!」 景虎は直江から離れると、苦痛の声を漏らして、褥の上で悶え苦しんだ。呻く景虎の体から、淡く白い気炎が立ち上る。 「景虎様っ!」 どうやら憑依状態に入って意識を沈めていた《本物の景虎》が、ようやく自我を取り戻したらしい。景虎は怨霊に主導権を譲るまいと、しきりに内側から攻撃し、己の体から異物を追い出さんと抵抗を試みているのだ。 景虎は震える手をどうにか動かし、帯の内側に隠し持っていた白い札を取り出した。それは事前に直江から「護身用に」と渡されていた、能生白山権現の不動明王札だ。 「……ッ、ノウマク・サンマンダ……バザラダンカン!」 景虎が真言を搾り出すように叫ぶ。札が見る見る熱を帯びて青白い炎を噴いた。その瞬間、霊は降魔の力にたまらず景虎の中から飛び出した。 「景虎ぎみ!」 糸が切れた人形のように崩れ落ちる景虎の体を、咄嗟に晴家が支える。 正体を現した怨霊が、天井近くに浮遊している。幽玄な光を発する全身は薄くかすんではいるが、その目鼻立ちは問題なく知覚することができた。 小柄な若い女の霊だ。旅装束に身を包み、豊かな黒髪を背で一つに結んでいる。意志の強そうな瞳。小作りな造作。目元のほくろ。やや受け口ぎみの艶やかな唇……。 直江は怨霊の姿を凝視する。そして同時に思わず目を瞠った。この顔、どこかで見た覚えがある……! そんな彼を、おなごの霊は悲しげに眉を寄せながら見下ろしていた。 《……ユウエモンサマ……》 そしてその言葉が耳に届いた刹那、直江は驚愕のあまり「あっ」と声を漏らした。 (ユウエモン? まさかその名……!) 「正体見せおったな! 死霊め!」 直江の思考を遮るように、その時好戦的な口調で叫んだ者がいた。 待機に焦れた長秀である。彼は叫ぶと同時に漲る《力》を全身に巡らせ始めた。気の波動が体からふつふつとちぎれ飛び、光ながら空を舞う姿は燐のようだ。 長秀の鋭い敵意を的確に感知した霊は、怯むように身を翻すと、己の身を守るかのごとく全身からまばゆい光を発し始めた。 「くっ……!」 とてつもない光だ。とても目を開けていられず、一同は思わず庇うように光から顔を背けた。この間隙を縫って怨霊はこの場を逃げ出すつもりに違いない。 「舐めるな!」 長秀が瞳を唸らせ、ありったけの念を撃ち放つ! が、それを瞬時に遮ったのはなんと直江の《力》であった。 「待たれよ安田殿ッ!」 「なッ……!?」 横から伸びた念波が長秀の手を弾く。あまりに唐突な妨害に、一瞬手元が狂った。焦点の定まらぬまま放出された攻撃は、怨霊の体を間一髪のところですり抜け、念の塊が障子を突き破り、轟音と閃光を上げながら空間を乱した。 結界が氷に熱湯をかけたかのごとく、みるみるうちに融けて霧散していく。ろくな浄化修法もままならずに張られた簡易結界程度では、長秀の強力な念に耐え切ることができなかったのだ。 そしてその隙を見逃す敵ではない。 おなごの霊はひらりと体を翻すと、閃光の余韻に視界を奪われていた直江達の隙をついて、障子をすり抜けて行ってしまう。 逃げられたと悟った長秀は、一瞬「どういうつもりだ」と猛る獣のような視線を直江に寄越したが、今は詮議に弁明している余裕はない。 「追え!」 景虎はふらつく体をどうにか御し、直江らに鋭く命じた。頷く暇すらなくすぐさま直江と長秀が飛び出す。 景虎も晴家の手を借りて体を起こし、草鞋に足を通す間ももどかしく、怨霊の行方を追って駆け出していった。 |
平成二十年五月十九日 晴家は襖の向こうで、「くっそおおお直江め!景虎ぎみに少しでも無礼を働いてみろ!八つ裂きにしてくれようほどにいいいいッ!」とか心で叫びながら悶々としていたに違いありません。(笑) そしてそんな晴家の隣で、冷ややかな視線を送る長秀。 結構いいコンビかも。 もし晴家が襖から中の様子を覗いてたら、直江の命は無かったでしょうね。 危ない危ない。 →十一話 →小説 |