夜闇に乗じて姿を暗ませた怨霊を追う一行であったが、どうやら完全に目標を見失ってしまったようだ。 だからといってここで引き下がるわけにはいかない。直江達は一旦田上の家に戻ると、しばしの合議の末、景虎・晴家、直江・長秀の二手に別れて捜索を続けることにした。 景虎の体に憑依した霊には、毘沙門天の結縁者のみが持つ特異な《念痕》が残っているはず。この状況ではそれを頼りに地道な霊査を続けていくしか手はなかった。 だが灯明一つない夜の山里での索敵は困難を極めた。この漆黒の闇の中行方を暗ませた霊を見つけ出すのは、容易なことではない。 初春の夜の厳しい寒さの中、当て所もなく一行は中仙田の村を彷徨い歩いている。 「霊の正体、何か分かりましたか?」 暗闇の中、松明を手に辺りを睥睨しながら、晴家は前を行く景虎に問いかけた。 いや……と景虎は力なく首を横に振る。憑依されてはいたものの、その間どうしたわけか意識が完全に底の方に沈んでいて、不覚にも霊の思念や情報を全く掴むことができなかったのだ。 唯一思い出せることと言えば、誰かの熱い叫びのようなものが、眠る己の意識を始終揺さぶり続けていたことだけ……。 景虎は女装を解かぬままの単に羽織を肩にかけた姿で、肌寒げに両手を擦り合わせながら答えた。 「しかしあのおなご、どうも越後の者ではないようだな」 話し振りに、どこか純粋な越後者とは異なる響きを感じた景虎である。自身も越後の生まれではない彼だが、だからこそそのわずかな違いを峻別することが可能だった。 「なるほど、確かに」と晴家は頷いて、言葉を続ける。 「それにあの者、ここ一、二年で死した者ではありますまい。少なくとも十年から二十年は霊齢を重ねているように感じました」 霊査能力に優れる晴家には、先ほどの接触だけである程度の情報を読み取ることができたのだ。 ここ一、二年で死霊化したものではないとすると、死した直後は地下に眠りについていたものの、鮫ヶ尾の怨霊大将の出現に触発されて活性化した霊の類か。 「まさか本当に直江の知り合いなのでしょうか……」 どうも腑に落ちぬ顔の晴家だ。蓼食う虫も好き好きとは申せ、あの堅物男をあれほど熱烈に愛する者が存在することが、彼には信じがたいらしい。 「分からぬ。それに宿体の方の知人ということもありえる」 白い息を吐きつつ、景虎は考えあぐねた。兵蔵太の時も速之助という知り合いが現れたのだ。直江の宿体・九郎左衛門を知る者がいたとしても、なんら不思議はない。 直江の宿体は一向一揆の脱退者であったという。もしその知り合いであるというならば、あの女も彼と同じ越中・加賀方面の出の者とも考えられる。 符合は一致するのだが……一つ、気になる点があった。 (あのおなご、直江をユウエモン≠ニ呼んでいた) 直江が得てきたのは、霊がウエモン≠ネる男の名を呼んだとの情報であったが、くぐもった声を聞き取れなかっただけで実際はユウエモン≠ェ正しかったのであろう。 この名前が何を意味するのかは分からない。なぜあの女は直江をユウエモンと呼んだのか。本当にあの男を恋焦がれるあまり、怨霊と化してしまったというのか。 (あんな男のことを……?) 景虎は瞳を鋭く眇めた。そして脳裏に直江の冷たい横顔を思い浮かべる。凍てつく刃の如き鋭い眼光。無機質な色を帯びた、感情的になることを厭うような温かみのない瞳。 まるで、魂の入らぬ木偶人形のような。 ……だがその血も通わぬかに見える彼の指先が、胸が、背なが、本当はこちらが思う以上に存外高い熱を有していることを。 触れた場所から、こちらに雪崩れ込むように熱い奔流が満ち溢れることを。 こちらを射抜く視線が、時おり閃光のごとき激情を孕んで、こちらの魂を鷲掴みにすることを……己は、知っているのだ。 人の情動を嘲笑い、頭ごなしに唾棄するかのような素振りをして。 本当は誰よりも、あの男は……。 はっとそこで景虎は我に返った。 茫然とした仕草で紅を差した己の唇を、思わず手で覆う。 (……何考えてる?) 軽い眩暈と共に不可解な疑念を覚えた、まさにその時。 景虎と晴家の第六感が何かの気配を捉えた。 「……ッ」 この気配は……っ。両者は顔を見合わせた。 哀しみに彩られた負の波動。おなご独特の湿り気を帯びた昏い情念。間違いない、あの怨霊のものだ。 「こっちだ、晴家!」 気配を追って田道を駆けていく。不穏な思念は渋海川の上流から風に乗って流れきていた。 二人がしばらく駆け走ると、前方に巨大な影が現われた。 影は満天に輝く星を突き刺すように、両の腕を広げて空高く聳え立っている。 それは巨大な欅の木であった。先日、直江が見かけた赤谷村の御神木である。 風に揺れてざわざわと梢を揺らす木。風音が不気味な獣の咆哮のようだ。そしてこの霊威を纏う老木は、その根元辺りに白い光の塊を有していた。 白い光の正体は、あの女の霊だ。彼女が大欅の木の元に、淡く儚い光を発しながら佇んでいるのである。景虎らはそれを確認して、すぐさま臨戦態勢に入った。 女も景虎達に気づいて、ゆっくりとした動作でこちらを一瞥する。その緩慢な態度からは、先ほどまでの狼狽の名残をを窺うはできなかった。 「そなた、なぜ花嫁にとり憑くのだ」 じりじりと詰め寄りながら、景虎が鋭利な刃のような声音で問う。 一陣の風が吹いて、老木の枝が音を立ててしなった。 《探していたのです……》 風音が止むのを待つようにして、怨霊はか細い声で答えた。拳を握り締めながら、何かに堪えんとするかのごとき風情で。 「あの男をか?」 《そう、わたくしの夫となるはずだった、祐衛門様……》 女の言葉に、景虎と晴家は顔を見合わせた。またユウエモン≠セ。九郎左衛門でも直江信綱でもなく……。 「あの男の名は直江信綱だ。祐衛門などという者ではないぞ」 《直江……? いいえ、そのような者わたくしは知りませぬ。あの方は 霊は断言するように、瞳を光らせると語気強く言い放った。二人にはますます訳が分からない。まさかこの者、直江を誰か他の人間と思い違いをしているのだろうか。 「そなた……いったい何者なのだ」 今日何度目になるか分からぬ問い。景虎は挑むような眼差しで霊を見据えている。 女は惑うようにしばらく瞳を閉じていたが、やがて静かに双眸を瞬かせると、彼女はようやく重い口を開いて、明確な答えを二人に聞かせたのだ。 《わたくしは 女が語った言葉に、なに、と二人は目を瞠る。 総社長尾と言えば、上野国に領地を構えた関東長尾三家の一つ。上野国総社(現代の群馬県前橋市)を本拠地としたことから、「総社長尾氏」と呼ばれる一族だ。 主家・山内上杉氏に代々仕え、上野国守護代を務めた。上杉謙信による関東出陣の際には、長尾一類として戦に加わり北条の軍勢と戦った、上州屈指の名族である。 荻沢顕重という武将を景虎達は知らなかったが、総社長尾家当主側近というのだから、それ相応の家柄の者だろう。この糸なるおなご、佇まいや話しぶりから薄々感じてはいたが、やはり武家の娘であったか。 《そして久木祐衛門様は、長尾家当主のご令息・長尾 あ! とそこで声を上げたのは晴家だ。 景虎が驚いて問うような視線を寄越す。晴家は景虎に何か言いかけたが、それは続く女の言葉で遮られた。 《なれど……》 女……糸は愁眉をひそめて、堪え難いように俯いた。 《祝言を控えた年。武田信玄の東上野侵攻によって、総社衆の本拠・ 息をつめながら景虎たちは糸の言葉を聞いている。彼女が語った武田による東上野侵攻は、景虎が記憶するところによれば己が越後入りするより数年前、永禄年間に起きた出来事のはず。天正十三年の現在から数えて二十年ほど歳月を遡る話だ。 《人買いに売られたわたくしは、遊女へと身を落とした……》 糸は肩を震わせながら、悲愴な言葉を続ける。 戦に敗れた領国民が、敵国の人買い商人によってその身柄を拘束され、国外にて売買の道具とされるのは戦国の世においては珍しきことではない。故郷の地より無理やり連れ去られた彼らの哀れな末路はあえて言葉にするまでもなく、ましてやうら若きおなごの彼女がその後辿ったであろう運命の悲惨さは、景虎達が想像するに難くなかった。 《……地獄のような日々の中、それでもわたくしは、武家のおなごでありながら、自決の道を選べなかった……!》 糸の瞳から涙がすべり落ちた。実体の無い涙の粒は哀しみと怨みの思いを込めて、女の足元を濡らしていく。 《どのような辱めを受けても、二度とあの方に会えぬかと思えば恐ろしくなり、何度も刃が手から落ちた……できなかったのだ……! 恐ろしくて、できなかったのだ! そんな己が情けのうて、見も知らぬ男に体を売ることでしか生き延びられぬ己が恥ずかしゅうて、幾度も狂いかけた……っ》 女の話に、晴家は沈痛な面持ちで顔を伏せていたが、一方の景虎は神妙な表情で糸をまっすぐに見つめている。 何か思うところがあるのだろうか、その瞳はまるで己が身を斬られたかのごとく、苦痛の色を宿している。 《出口のない、絶望の日々の中……夢見るのは祐衛門様のことだけであった……あのお方にもう一度お会いしたい。あの方と交わした、約束を……このようなわたくしを妻にしてくださると、そう誓った……! いまでもまだ覚えてくださったなら……! それだけを希みに、わたくしは女郎宿より逃げ出したのだ……!》 嗚咽をこらえて語られた言葉は、悲痛に満ち溢れていた。 最後の希望を失わず、一か八かの賭けに出て地獄にも等しき場所から這い出した糸。だが逃亡の糧として宿より路銀を盗み逃げた彼女には、当然のことながら、幾人もの追っ手が差し向けられたのである。 《おなごの足で追っ手を振り切るのは容易のことではなかった……。しかし御仏は我にご慈悲を給われたのであろう、奇跡的にも甲斐より逃げおおせたわたくしは、我が故郷上野へと向かった……》 しかし、這々の体で辿り着いた総社には、既に朋輩の気配はなかった。総社長尾の所領は武田の支配下となり、仄聞したところによれば、家中の者は皆、長尾一類の上杉輝虎(後の謙信)を頼って越後に落ち延びたのだという。 祐衛門は総社長尾の嫡子・景孝の信厚き近習。落ち延びる時も主君の側につき従ったはず。そう考えた糸は、越後上杉の庇護下にあるであろう祐衛門との再会を夢見て、三国峠を越えた先にある越後は府中直江津を、一路目指したのである。 だが女一人での旅路は困難を極めた。総社に辿り着いた時に既に崩れ落ちてもおかしくはないか弱きおなごの精神を支えたのは、ひとえに祐衛門恋しさだった。途中山賊に出くわし、路銀を奪われながら、辛くも越後へ辿り着いた糸であったが、その時にはもはや身も心も満身創痍となり果ててていた。 そして十日町を過ぎて柏崎へと向かう道すがら、病に体を蝕まれた彼女は峠途中の仙田の地で倒れ、人々の看病も虚しく、直江津に辿り着くこと叶わぬまま無念にも没したのである。 遺体は赤谷の大欅の元に、無縁仏の一つとして葬られた。 《お会いしたかった……なんとしてもお会いしたかった……だのに》 彼女の肩がぶるぶると震えだす。 言葉に溢れる愛情。そして絶望……。 信じ続けた相手に、待ち続けた相手に裏切られた。見捨てられた。顧みられなかった。 恨めしい。悲しい。怨めしい。憎らしい。許せない。 とめどなく落ちる涙。絶望を止められない。震えるかいなでその身を抱き、彼女は叫ぶ。 《あの方は、わたくしを覚えてはくださらなんだ……!》 コンナニ愛シテイルノニ……ッ! 怨メシイ! ユウエモンサマ! オウラミモウシマス! オウラミモウシマス……ッ! 負の念に満ちた目映いばかりの光芒が、彼女の体を包む。 いけない、このままでは……! 景虎と晴家が身構える。 猛り狂う情念が、女の悲哀が、今、堰を切って爆発する! |
平成二十年五月二十九日 しかし、晴家は藤ちゃんに謝るべきだと思うな(笑)。 そして何より、目の前の景虎様こそがその蓼喰う虫の筆頭なのでしたv 景虎様は、存外直江を意識している模様。 景虎様って本当は、読者が思っているよりずっと早い段階で、直江のことを特別に意識し始めてるんじゃないかな。 なにしろ「四百年前からずっとこの男に囚われてきた」のだそうですから。 景虎様のあの男への愛もまた、長く深く、激しいものなのですよね。 →十二話 →小説 |