陽炎花嫁かげろう はなよめ

























 第十二話


 場面は移り、一方の直江・長秀方である。

「ちっ、逃げ足の速い」

 吐き出すように言って、長秀は苛立たしげに足元の石を蹴り飛ばした。いくら景虎の《念痕》という手がかりがあるとは言え、一度夜陰に紛れた霊を探すのは想像以上に骨が折れる。
 あの時捕獲に成功さえしていればと、短気に歯噛みする彼は、先だって霊をとり逃がした原因を作った当の男を忌々しげに睨んだ。
 長秀の視線にも気づかぬ様子で、直江は松明を手に、何か考え事をするように上の空の風情だ。
 そんな彼の顔を横目に見しな、長秀はふと何かに気づいたように眉を寄せて、まじまじと直江を凝視した。

「……紅が」

 短い呟きに、直江が気づいて顔を上げる。

「何だ?」
「ついておるぞ、唇に」

 指で差し示す長秀に、直江はぎょっとして己の口を押さえた。
 そのまま乱暴に手の甲でごしごし拭う様を眺めながら、長秀は口の端を上げて何とも人の悪い笑みを浮かべている。
 ……見られてはならぬものを見せてしまった。よりにもよってこの男に。己の迂闊さに直江は歯噛みしたい心地であった。

「なぜあの時俺を妨害した?」

 腕を組んで尋ねる長秀の言葉に、直江はばつの悪い顔で手の甲を確かめながら、

「……あのまま念を撃ち込んでいれば、あのおなごが致命傷を負っていたからだ」

 と、咎めるような口調で答えた。
 長秀という男は手加減というものを知らない。あのまま彼の放った強力な念波に晒されていれば、女の霊は防ぐ手立てもなく、魂に甚大な損傷を受けていたことだろう。
 いくら彼らが怨霊調伏を第一の使命とするとは言え、無闇やたらに霊を駆除すれば良いという理屈はない。穏便な方法で浄化させられる手段があるのなら、極力その道を模索するべきである。それは景虎らが再三に渡ってこの男に忠告してきたことだ。
 ふん、と説教はごめんだとばかりに長秀は鼻で息を吐いた。
 なるほど直江の言い分もっともだが、あの時の彼の切羽詰まった形相は、それだけの理由では説明がつかないことは誰の目から見ても明白である。

「あの者の正体、何か心当たりでもあるのか」

 直江は途端惑うようにおし黙った。瞳には明らかに困惑の色が見える。
 そして言葉を丁寧に選ぶかの如く、彼は低い口調で呟いた。

「……おそらくあのおなご、生前の私を知る者だ」
「何?」

 長秀が目を瞠った。ではやはり、あの女は間違いなく「直江信綱自身」の知り合いだったというのか。

「確証はない。しかしもしそうならば、私には……」

 直江は途端真摯な表情となって、己の拳を胸前で強く握り締めた。

「あの迷える魂を、この手で……」

 救う義務がある。
 ……そう直江が語ろうとした、まさにその瞬間、北の山道から強烈な霊波動が溢れるのを、彼らの第六感が捕らえた。
 異変を瞬時に察知して、両者共に振り返る。
 視界の遠方に、巨大な黒い影が聳えている。そこから流れ来る昏い念の波動。わずかに景虎の気配も直江には感じることができる。彼はすぐに状況を察した。

(そうか、あの大欅!)

 悟ると同時に駆け出した。数瞬遅れて長秀も、彼の後に従って夜闇に包まれた川沿いの道を縫うように奔っていく。


                               *


「よせっ! 鎮まれ糸!」

 悲憤に念を暴走させる糸に、景虎は叫んだ。かまいたちのように襲い狂う念の津波を、《護身波》で防ぎながら必死の説得を試みるが、景虎の言葉に彼女が耳を傾ける気配はない。

「糸! ……ッく!」

 鋭い念の刃が二の腕を薙ぐ。単の衣が裂けて、白の生地がじわりと血の色に染まった。

「景虎ぎみ!」

 晴家が叫んでこちらに近寄らんとするが、《力》の間断無き放出に阻まれて身動きが取れない。
 景虎は腕の傷口を手で押さえながら、苦渋の決断を下さざるをえなかった。

(調伏するしかない……!)

 ここまで正気を失ってしまってはもはや下手な説得は不可能。もたもたしていればこちらの身が危うくなる。
 人買いに売られ、悲惨な末路を歩んだ娘。契りを交わした相手と添い遂げられなかったことを悔やみ、花嫁御にとり憑いて求める相手を探し続けた彼女を、できうるかぎり安らかな方法で浄化させてやりたかったのだが……。

(哀れなおなごだが、仕方あるまい)

 景虎は一瞬苦痛に耐えるかのように眉を顰めたが、やがて意を決したように顔を上げた。

「晴家、外縛するぞ! 右から回り込めッ!」
「……っ、承知し申した!」

 頷きざま巨体を揺らして、獣のような機敏さで駆け出す。
 次々と襲い掛かる念を悉く跳ね返しながら、晴家は地に張る欅の根を飛び越えると、霊に踊りかからんばかりの勢いで丹田に込めた念を叩きつけた。
 ビシイイイィィィィィッ!
 千切れ飛んだ念が地面を穿ち、木陰に堆く積もった雪を派手に舞い上げる。
 糸も晴家の攻撃を察知しざま、白く輝く凶暴な念の塊を撃ち返した。正気を失った霊が放出する《力》は、抑制の箍がないだけに際限がなく強力だ。
 轟音を上げて凄まじい《力》同士がぶつかり合う。圧倒的な質量を持った攻撃に、晴家の体がじりじりと押し返された。

「うっ……、おのれええぇ!!」

 猛る晴家に加勢するように、霊の背後から景虎もありったけの《力》を解き放つ。

「これでも!」

 ビュウビュウと唸る念の波に木々の枝葉が千切れ飛ぶ。
 景虎の全身から放たれた目映いばかりの高熱を放つ気炎が、空に渦を描きながら、落ちかかる矢の雨のごとく糸の細い体に襲い掛かった!

《ギャアアアアアアアアァァァァ───ッ!》

 反応できず景虎の渾身の念を身に浴びた糸は、時空を揺らすかのごとき力の爆発にたまらず煽られて、背後の老木の幹に叩きつけられる。ぐったりと項垂れたその一瞬の隙をついて、景虎は両の指をすばやく複雑に絡め合わせた。

「《》!」

 宣言と共に外縛を開始する。ビクリと戦慄く糸の四肢。途端両の手に圧し掛かる反発力に、景虎はたまらず歯を食いしばった。凄まじく重い手ごたえだ。彼の苦戦する様子に、晴家もすかさず印を結んで支援に回る。
 二人の換生者による見えざる念の束縛を打ち破らんと、糸は狂乱するかのごとき激しさでもがき苦しんだ。

《イヤアアアアアアァァァァッ! 祐衛門様アァァァ──ッ!》

 断末魔の悲鳴を上げて必死に抵抗する女の霊。予想以上の力だ。恋に狂う人間のかくも恐ろしき執念の在りようを、景虎と晴家は肌で知る思いだった。このままでは外縛を支えきれなくなる……!

「くっ……!」

 踏みしめる右足がズズッと音を立てて後退する。重圧に体が支えられない。
 霊の体から千の刃のごとく繰り出される間断無き猛攻に、あと少しのところで二人の体が吹き飛ばされようとした時……そこに、大音声の叫び声が景虎達の後方から上がった。


「やめろ! お糸ッ!」


 驚愕して女が瞬時に顔を上げる。景虎達は突如として止んだ攻撃の反動で、上半身を支えきれず後ろに倒れこんだ。その途端に外縛の網が完全に消失する。

《ゆ、祐衛門様ッ!》

 視線を後方の闇に転じると、白の単を身につけただけの、寒々しい姿の男がそこに立っている。
 だがすっと伸びた背筋には覇気が漲り、春の夜の凍える冷気をその佇まいからは微塵も感じさせない。
 暗き夜闇の中、雲の隙間から漏れ出ずる月の光に照らされて、その男の厳しく引き締まった表情が明らかになる。
 そこに現れたのは、糸が死霊として彷徨いながら恋焦がれ続けたという男。直江与兵衛尉信綱であった。

「落ち着け、お糸! これ以上はそなたの魂が傷つく!」

 芯の通った張りのある声で叫ばれた言葉に、景虎は目を見開いた。

「直、江……?」

 倒れた体を起こしつつ、直江の姿を凝視する。傍らにはやや遅れて長秀の姿もある。
 遅れてきた直江達は先ほどの女の名乗りを聞いていないはず。なのに彼は今しがたはっきりと糸の名を呼んだのだ。しかも親しげな様子で、「お糸」と。どういうことだ。

(まさか祐衛門とは、本当に……?)

 そんな馬鹿なと、動転する景虎の横で、糸が身を震わせながら直江の方ににじり寄った。

《わ、わたくしの名を……っ》

 感激のあまり、声が震えて息が詰まる。

《思い出して……いただけたのですね。祐衛門様……ッ!》

 糸の頬には、静かに大粒の涙が伝い落ちていた。歓喜に咽ぶ心を留めようもなく、彼女は涙を流しながら絶え入りそうな儚い笑顔を浮かべた。
 だが直江は、そんな糸に対し無情にも「違う」と、首を横に振ったのだ。

「私は久木祐衛門ではない」

 糸の足が止まる。愕然と目を瞠りながら、傷ついた表情で彼女は叫ぶ。

《なぜ嘘をつかれるのです……!》

 直江の両眼を脇目もふらず凝視しながら、目尻に溜まる涙を振り落とすように、彼女は身を揺らして訴えた。

《わたくしには分かる……おまえさまには我が故郷、総社の匂いが致します。それにその話し振り、声の調 子、上州の武士の物に間違いありません!》

 彼女の訴えに、直江は終始無言であった。だが糸は構わず言葉を続ける。

《……お覚えでしょうか、我ら総社衆の本城、蒼海城を。城から見えた上毛山の美しさ、城下のなだらかな家並み、城を囲む染谷川や牛池川の清らかさ……》

 懐かしく愛おしむように、糸は目を瞑る。彼女の脳裏には、いま、上野国総社の美しき四季に映える情景が、鮮明に映し出されているのだろう。
 幼き日々をそこで過ごし、甲斐の女郎宿にいながら、朝な夕な身悶えるほどに焦がれ続けた、彼女の愛しき故郷の風景。
 直江は苦しげな仕草で眉間に皺を寄せた。

「もちろん覚えている。そなたのこともだ」
《では、やはり……!》

 感極まって近寄らんとする糸を、目で制した。こちらを射竦めるような直江の視線に、女は覚えず固まる。
 次に男の口から語られたのは、一同が仰天するような言葉であった。

「おのが夫の主君の名も忘れたか、荻沢の娘よ」

 えっ? と息を飲んだのは糸だけではなかった。
 様子を窺っていた景虎や長秀も、瞬時にその言葉が意味するところを察して瞠目している。

「そなたとは祐衛門との縁組が決まった際に、目通りをした覚えがある。荻沢殿は、祐衛門ほどの男ならばそなたの婿に迎えるに申し分無いと、たいそう喜んでおいでだった」

 絶句する景虎らを尻目に、直江は淡々とした口調で驚愕の事実を語った。

「祐衛門は私が元服する前の幼少より近くに仕えていた。どこか似たところがあったとしても不思議はないやも知れぬ」

 ま、まさか……っ。糸は周章して目をこれ以上ないほどに見開いた。

《かっ……景孝様!?》

 鋭く飛んだ言葉。直江はその問いを肯定するように、確かに一つ頷いて見せる。


「そうだ、我が名は長尾景孝。久木祐衛門は我が近習であった男だ」






 平成二十年五月三十一日

ついに今回で種明かしです。
「総社長尾」と出てきた時点ですぐに気づかれた方も多いのでは。
一度、直江家に入る前の「長尾景孝」時代の彼の話を書いてみたかったんです。原作にもちっとも出てこないんですもの(T-T)

もっとも、原作において「直江信綱=総社長尾の長尾景孝」であると明記されている箇所はありません。しかし「直江はもともと上州の出身」とだけは記述されておりますので、少なくとも彼が関東長尾家出身であることだけは原作の設定的にも間違いないことと思われます。
 今後の原作の展開次第で修正が必要になる可能性も大ですけどね!

ちなみに長尾景孝の設定は、邂逅編の直江の設定を加味しながらほぼ史実に準じています(ただ年齢的な問題で齟齬有り)が、荻沢糸と久木祐衛門というキャラは完全なオリジナルです。
守護代家の嫡子なんていうかなり高貴な身分なんですから、親しい守役や近習なんかもたくさんいたんでしょうね。直江。

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