長尾景孝だと……っ!? 二人のやり取りを前に、すっかり度肝を抜かれた様子の景虎の横で、やはり、と声を上げたのは晴家だ。 「総社衆の長尾景孝、聞いた覚えのある名だと思っていました。あの男が直江家に入婿する前に名乗っていたものです」 その言葉に、景虎は途端目が覚めるような思いで晴家を振り返る。 「そうだっ、あやつはもともと、関東長尾家の生まれであったか」 なぜすぐに思い当たらなかったのか、己でも理解しがたい。確かに、景虎が越相同盟の人質として越後入りしてからしばらくの間、あの男が長尾景孝を名乗っていたことを記憶していた。 しかしその頃の直江は若輩ゆえに春日山での席次は低く、景虎との面識もほとんどなかったゆえに景虎にとっては記憶に薄いのだ。 それに直江自身、己のことを人に語る性分ではなかったし、自尊心の高い男だから武田に滅ぼされた家という出自をどこか疎んじていたのだろう。好んで総社長尾時代の過去を話すことをしなかったのである。だからこそ直江=総社長尾と結びつくのが遅れたのかもしれない。景虎は己の中でそう結論づけた。 糸は大驚失色して慌てふためき、その場にズサリと跪いた。 《も、申し訳ござりませぬ景孝様! ご無礼をお許しくださいませ!》 糸の生まれである荻沢家は、代々総社長尾に仕えた譜代の臣だ。主家に対する忠誠心は厚く、まして直江は夫・祐衛門が守役のようにして長く仕えた主君である。糸はひれ伏すより他すべがない。 「良い。既に総社長尾は滅びた。私も今は越後上杉家の臣・直江信綱を名乗る身だ」 そなたの主筋に当たる者ではなくなってしまったのだから、と首を振る直江に、糸は堪え切れず土に着かんばかりだった顔を上げた。 《では……ではっ、久木祐衛門は、いかがなされましたか……! 景孝様のお側に、お仕えしておられるのですか!》 それは彼女が、あの日総社の地を立ってから今に至るまで、何よりも探し求めてきた問いだった。 鬼気迫る形相での切実な問いかけに、直江はすぐには答えなかった。眉を苦しげにひそめながら、沈痛な面持ちで糸をひた向きに見つめている。 そして意を決したように、彼はゆっくりと口を開いた。 「祐衛門は……、討ち死にした」 糸が激しく息を飲む音がした。 「蒼海城が落城し、我らが越後へ敗走する際に、久木は武田の兵と交戦し、最期を遂げた」 永録9年(1566)10月、武田の挙兵により、抵抗虚しく灰塵に帰した総社の本城。命からがら三国峠を越えて越後へと落ち延びた日々のことを、直江は回顧するように双眸を細める。 そして幼少より己が側に親しく仕えた、あの男の最期の姿を……。 「そなたが越後を目指した時には、……既にあの男はこの世にはおらなんだのだ。お糸」 はち切れんばかりに眼を見開いた女は、顔色を真っ青にしながらわなわなと震え出した。 《そ、んな……そんな……ああ……っ》 凍りついた口元から、乾いた呻き声が漏れる。糸はよろめく体を支えきれず、その場に崩れ落ちるように倒れ伏した。 それは、彼女が最も求めぬ答えだった。最もあってはならぬ答えだった。 絶望で瞳から涙が溢れ落ちる。成す術もなく蹲り、地面の土を強く握り締めながら、怒りと憎悪と悲嘆を込めて錯乱したように彼女は叫んだ。 《武田め……おのれっ、おのれ武田めえええぇぇぇッ! 許すまいぞ武田めええええぇぇぇぇッ!》 血を吐くような絶叫が辺りにこだまする。気が触れんばかりの慟哭と嘆きの思念が、空気に溶けて神域を満たしていく。 正気を失って狂い泣く女の様に、景虎達はやりきれないものを胸に覚えて苦しげに拳を握った。 彼らは知っていたのだ。彼女が憎悪する武田は既に、先年の天目山での戦にて織田の軍勢に大敗を喫し、信玄亡き後の武田の当主・武田勝頼の自刃によって敢え無く滅亡を遂げていることを。 怨みを晴らすべき相手は、もはやどこにも存在しない。彼らは糸の嘆きに、戦国の世に生きる者達の虚しさを感じずにはいられなかった。 「糸……」 直江は歩を進めて跪くと、そっと名を呼び、震える彼女の体にゆっくりと手を伸ばした。 淡く光って透ける肩に、彼は宥めるように手を乗せる。 「我らの力が及ばなかったばかりに、つらい思いをさせたな……」 静かに語る男の言葉に、泣き伏していた糸が驚いたように顔を上げた。 傍で成り行きを見守っていた景虎も、瞠目しながら直江の横顔を注視している。 (直江……?) 《景……孝さま……っ》 武田の侵略を防ぎきることができず、戦禍に乗じて略奪されていった彼女を助けられなかったのも、元はと言えば領民を守るべき立場にある主家の者の力が足りなかったせいだ。戦乱の世において、弱さとはそれだけで罪業であるのだ。直江はひどく苦い心地になり、眉間に深く皺を刻んで痛苦に耐え忍んだ。 「聞け、お糸。そなたにあの者の最期の言葉を伝えねばならぬ」 涙に濡れる糸の両眼を真摯に覗き込むようにして、直江は彼女に語り聞かせた。 「祐衛門は最期に、私に無事越後に逃げ延びるよう。そしてお糸を、……そなたをよろしく頼むと、言い残して果てたのだ」 過ぎ去りし昔日に思いを馳せる。 19年前、武田軍の手によって放たれた火は総社の地に際限なく広がり、直江が城を脱出した時、蒼海城下はもはや業火に燃やし尽くされた地獄絵図のごときありさまであった。 赤々と燃え盛り、黒炭と化して崩れ落ちていく蒼海城天守閣。平安の世より続く総社明神の絢爛たる社殿も、摂社末社に至るまで悉く焼け落ち、数多くの宝物が灰燼に帰していった。上州の名族・総社長尾の誇りが踏みにじられた瞬間であった。 闇の中に燃え上がる炎に照らされた横顔。飛び交う怒声。降り注ぐ矢。白刃の閃き。 己の身を呈して主君の命を守った男。血に濡れた指でこちらの腕を強く握り締めながら、息も絶え絶えに、彼は最期の言葉を紡いだ。 ──お逃げくだされ、景孝様……。そして、できればお糸に、お伝えください……。 直江は瞳を閉じる。そして搾り出すような声音で呟いた。 「すまなかった=Aと……」 その言葉が耳に届いた瞬間、糸の瞳がたわんで揺れる。結舌して、肩を震わせながら茫然と、目の前の男を凝視している。 ──私の妻になってくれ。お糸。 ──約束しよう。そなたを、この手で生涯守り抜くと。 ──必ず生きて戻る。そしてすべてが終わったら、祝言を挙げよう。だからそなたも、必ず無事で……。 必ず無事で……。 (祐、衛門……さ、ま……) 愛した男から贈られた言葉が、次々と今、己の耳に、脳膜に甦る。 涙が音もなく流れ落ちる。溢れる思いを止められない。嗚咽を漏らしながら、糸は直江の胸にすがりついて、声を上げて泣いた。 叶うことのなかった約束。祝言を夢見て待ち続けた、彼女の思う相手は、とうの昔に死んでしまっていた。 春の野に霞み漂う陽炎のように、やがて儚い幻と消えた、孤独な花嫁……。 直江は胸に伏す彼女を拒むことはしなかった。抱き寄せもせず、ただ肩に手を置いて、号泣する糸を黙って見守る。 景虎も、晴家も、長秀も……無言で彼らの様子を見つめ続けている。 冷気に包まれた夜の神域に 風が梢を揺らす音と、女の嗚咽だけが、闇の中に索漠と響き渡っている。 「探すか?」 やがて、存分に泣き尽くした糸が少し落ち着いたのを見はからって、直江が小さく問うた。 「あの男は上野の地で果てた。越後では見つかるまいが、総社に戻り探し続ければ……あるいは」 糸がその魂核に無念を焼き付けて、十数年の時を経てもこの地で孤独に彷徨い続けていたように、祐衛門の霊もまた、彼が討ち死にした総社の地で怨嗟の念を抱いたまま、今もこの世に留まり続けているかもしれない。 可能性は低いが、賭けてみるかと直江は問う。 だが糸は、涙を流しながらも、毅然とした声で答えた。 《いいえ。わたくしは、このままあの世に参ろうと思います……》 涙を振り切るように瞼を閉じて、決心を込めて彼女は両目を開けると、顔をすっと上げた。 《ご縁さえあれば、あの世でお会いすることも叶いましょう。わたくしはあちらであの方をお待ちすることに致します》 旅装束を翻し、ゆっくりと立ち上がる糸。生前と変わらぬ、物怖じせぬ無垢な視線で直江を見上げる。 瞳に宿る光に、既に迷いの色は無い。 《お導きくださりませ。景孝様》 虚空に染み入るような、透徹とした声音。 その無垢なる様を前に、直江はついに堪えきれなくなり、「良いのか」、と衝動の命ずるまま強い声で尋ねた。 「私は、祐衛門を死なせてしまった男だぞ」 糸が目を見開く。 敗走のさ中、己が身を庇って敵の凶刃に倒れた祐衛門。彼を死なせたという意味でなら、彼女にとって武田も己も怨むべき仇という点でなんら違いは無いはず。 そんな男が、そなたを導いても良いのか。 直江の言葉に、女は少し迷うように無言でいたが、すぐにゆるゆると首を振ってこう答えた。 《景孝様をお守りできたのなら、我が夫は満足でございましょう》 春の日差しのように美しく微笑んだ彼女に、直江は思わず息すら忘れて瞠目する。 本当に良いのか、と目で問うたが、彼女の決意は強く、揺らがない。 しかしなおも納得しがたいように渋面を浮かべる直江に、女は苦笑するかのように眉を下げた。 《ああ……やはり景孝様は、祐衛門様とよく似ておられる……》 彼女はそう、目の前の男を見上げながらどこか愛しげに、そして満足げに呟いた。祐衛門が長年仕えていた大切な主君を、憎むことなどできるはずがないと……。 《……さあ、景孝様》 糸は直江を促し、両手を合わせて胸前に合掌した。 直江が景虎を振り返る。視線が交錯すると景虎は確かに一つ頷いて、彼の背を押すようにした。 「送ってやれ」と。 直江はそれでようやく覚悟を決めたのだろう。糸と正面に向き合って、やがて視線に促されるように静かな動作で印を結ぶと、高々と種字を観じる。 「のうまくさまんだ ぼだなん ばいしらまんだや そわか」 真言を紡ぐ声と共に、糸の体が、見る見る淡く白い光芒に包まれていく。 それは浄化の光。穏やかな場所へと迷える者を導く、清浄な御仏の力。 眠りにつくべき者を、この手で遥か高みの空へと上げる……。 「南無刀八毘沙門天、悪鬼征伐、我に御力与えたまえ……ッ」 糸は瞳を濡らしながらも、穏やかに微笑んでいた。そして運命の時を、最後の宣告を待つ。 (祐衛門……必ず迎えに行ってやれ) そう願うことだけが、せめておまえ達にしてやれる己の唯一の償いだ。 直江は目頭に力を込め、腹の底から力強く叫んだ。 「《調伏》……!」 両手から放たれた真白い光芒が、辺りを埋め尽くすように広がっていく。 糸はその光にそっと抱かれながら、穏やかな顔を浮かべて、やがて収束する輝きの渦の中に、跡形もなく烏有に帰していった。 彼女の残した思念が、陽炎のように仄かに漂う。 ──ありがとうございました……景孝様。 虚空に満ち満ちる言葉。砂に書いた字が波に浚われるかのごとく、儚く消えていく。 直江は印を結んだまま両眼を閉じると、死者への悼みの念を込めて最後に一つ、すべてのものに向けて重々しく宣言する。 「浄魂──」 光の消えた神域には、四人の夜叉と高く枝を広げた神木だけが、一つの魂の安息を黙祷するように、闇の中にただ立ち尽くしていた。 |
平成二十年六月十日 邂逅編の直江は、こういう場面に出会ったらどんな反応をするのか。 難しい問題でしたが、一生懸命考えて私なりの直江を描いてみました。 「琵琶島姫」、「氷雪問答」の直江は、苦悩が深まる一方でどこか憑き物が落ちたような印象を受けます。景虎様と出逢ったことで、彼が本来持つ優しい本質≠ェ、姿を表に現してきたのではないでしょうか。 ちなみに景虎様が、晴家と違って長尾景孝の正体に瞬時に気づけなかったのには、ちゃんとした理由があります。 一つは北条の出である彼は、上杉の養子となる以前の越後の事情にそれほど詳しくはなかったこと。(晴家・長秀はこの辺の事情に詳しい) 一つは景虎様が直江の過去に全然関心がなかったこと。 一つは、景虎様にとって直江は「直江」というイメージが強すぎて、他の名前がピンとこなかったこと。……です。 直江の過去に関心がないというのは、景虎様にとって直江は既に「己の家臣」であり、景勝の家臣であった彼の生前にまったく興味はないのだと、つまりはそういう心情の無意識の表れなのですv →十四話 →小説 |