第四話


 自慢じゃないが、直江は生まれてこのかたこれと言って楽器の経験があるわけでもなく、まして横笛などは触れることさえ初めてである。
 いざ篠笛を手にしてみても、いったいどうやって吹けば音が出るのかさえよく分からなかった。

「フルートとか、金管楽器を吹いていた経験はある?」
「いえ……楽器の経験はほとんどないんですが。小さい頃姉のピアノをふざけて弾いていたぐらいで……」

 駄目でしょうか、と不安そうに尋ねると、高耶は首を振って、

「いや、そういうんじゃないんだ。ただ、フルート経験者っていうのはどうしてもタンギングをする癖が身についてしまってるから、経験がないならかえってその方がいい」

 そう丁寧に説明してくれた。
 よく分からないので首を傾げたが、「あとあときちんと説明するから」と、とりあえずは基本的な構えから教わることになった。

「まずは正座して、背筋をピンと伸ばす。篠笛は普通正座で吹くものだから。そしてオレと同じように笛を構えて」

 と、手本を示すように高耶が笛を両手に持って口元で構えたので、直江も見様見真似で篠笛を顔の前に構えた。

「そうそう、けど管尻が少し下がってるから、なるべく水平に……うん、そう」

 言いながら、立ち上がって直江の背後に彼はしゃがみこみ、直江の姿勢を正した。

「次に指の押さえ方だけど、右手は管と直角になるように上から自然にかぶせて。中指は第一関節と第二関節の中間で指孔を押さえるようにするんだ。……こうやって」

 直江の背後から腕を回して、指を握って押さえ方を教える。肩の後ろの彼の呼吸がとても近い。

「そして左手は親指を笛の裏側に軽く添えて、人差指、中指、薬指の指紋の中心で押さえるんだ。……そう、これでいい。この構えを忘れないようにな」

 今度は左側から腕を伸ばしたので、背後から抱きしめられるような形になった。直江が少し首を回して振り返ると、驚くほど近くに高耶の顔があったので、高耶も慌ててパッと離れた。
 耳元が少し赤くなっている。
 ずいぶん初心な反応をするものだと、直江は少し微笑ましくなった。

「あ、ごめん。……えーと、次に吹き方だけど、唇を閉じて、縦じわがのびる程度口端を軽く横に引いて、それから下唇の下側の境目部分を、歌口うたぐちの手前側の縁に合わせるようにして、唇を歌口にのせるんだ。……分かるか?」

 身振り手振りをまじえながら説明するが、なかなかうまく伝えられなくて四苦八苦している。
 高耶自身自分で吹くことには慣れていても、他人に教えることは初めての経験なので、想像以上に苦戦しているようだ。
 直江も高耶の言葉をよく聞いて、必死に指示の通りにしようとする。

「これで良いですか?」
「……うん、まぁそんな感じかな。そしたら唇の中心から、1センチぐらいの横幅の空気を出すんだ。吹いてみて」

 促されて、直江は息を吹き込んだ。しかしスカスカした音しか出ない。何度かフーッ、フーッ、とやってみたが、腑抜けたような音が鳴るのみだった。
 途方に暮れていると、高耶がやさしい口調で横から励ます。

「最初の音だしが難しいんだ。一度出せるようになれば簡単なんだけど。息を鳴る点に命中させるように吹いて、息が二手に分かれて一方は管の中に、もう一方は外に流れると音が出るんだ」

  細かく注意されながらその後も何度も息を吹き続けたが、なかなか思うような音は出なかった。
 そのうち息苦しくなって、いったん笛を口元から放すと直江は大きく息を吐いた。

「……難しいですね」
「がんばれ。唇のかたちは人それぞれだから、同じような吹き方をしても空気の出る角度とか方向が微妙に違ってきて、その人なりのコツをつかまないとダメなんだ。これはもう慣れるまで練習するしかないからな」

 励まされて練習を続けたが、さすがにすぐにはできるようにならない。
 「これは時間がかかりそうだ」と察して、いったん笛を唇から離すと、直江は横で正座してこちらを眺める高耶を振り向いた。
 「どうかした?」と首をかしげる高耶に、申し訳なさそうに告げる。

「高耶さん、そうしてただ見ていてもらうのもなんですから、私が音が出るようになるまであなたはご自分の練習をしていてください」
「え、でも……」
「ここなら、布団を被って音が漏れないよう気にする必要もありませんしね。自由に利用してくださって結構ですよ」

 にっこりと笑って告げた。
 布団を被ってまで夜中に練習し続けていた彼のことだ。もっともっと笛の練習をする時間がほしいと思っているに違いない。
 そう思って告げた提案だったが、案の定高耶は嬉しそうに、けれど遠慮がちな笑みを浮かべて言う。

「いいのか……?直江さんに笛を教えるために来てるのに」

 彼はこの年頃の少年にしては、何かにつけてとても遠慮深い。
 芸事の家に生まれて、厳しく教育を受けて育ったためだろうか。自分の前ぐらいは、もう少しわがままを通してくれても構わないのにと、直江はそう思った。

「気にしないで。どころか、自分の練習をしながらあなたの笛を聴けるだなんて、これ以上嬉しいことないですから」

 是非練習してください、と半ば頼み込むようにいう直江に、彼は少し苦笑して、「それじゃあお言葉に甘えさせていただく」と、自分の座布団へと戻ると、膝元を直し、笛の練習を始めた。
 流れ出した曲は「安宅松あたかのまつ」。武蔵坊弁慶が、安宅松のもとで里の童に奥州平泉への道を教えてもらうという内容の、有名な長唄だ。
 美しい調べにボーッと聴き入りだした直江を見て、歌口から唇を離し、「手が止まってるぞ」と笑った。
 直江は慌てて笛を構えると、自分の練習を始めた。

 その後もたびたび手を止める直江を、高耶が注意しつつ、そんなことを繰り返しながら夏の午後は暮れていった……。




               *




 稽古に精を出す間に、いつの間にか日が落ちかかる時分となっていた。
 その後約束どおり客間で夕飯をごちそうになった高耶であったが、いったい今日は何のお祝い事があるのかと思わず首を傾げるような豪華な料理を出され、「こんな豪勢なの、氏政さんの祝言以来かも」と恐縮しながらも、嬉しそうに食べていた。
 その様子を微笑ましく思いながら、杯を傾けている直江に、「そういえば」と高耶は思い出したように尋ねた。

「いつも、この離れで一人で食事してるのか?」
「いえ、両親と取る場合もありますし、都合の合わない場合は自分の部屋に運ばせて一人で取る場合もあります。義父が仕事仲間や昔の教え子を連れて来て飲み合うこともありますが、絡まれるのも嫌なので、そういう時はだいたい一人で取りますね」

 ふーん……と、高耶は関心深そうに頷いている。

「お父様は、小説家の先生だったっけ」
「ええ。前は大学で教鞭を取っていましたが、同人誌の方の後輩なんかを連れて来てはよく騒いでますよ。話を聞けばなかなか面白い方ばかりなんですがね」

 首をひょいとすくめてみせる。確かに話を聞くだけなら楽しいのだが、酔うとからまれて、自分の思想やら何やらを無理矢理語らされるのは困りものである。

「しがない会社員に文学的思想を求められても困りますよね……そうだ、仲間内の一人に詩吟を嗜んでいる人がいましてね、絶対喜ぶと思うので、今度あなたも酒宴に出て笛を吹いてあげてくれませんか」

 えぇっ?と、小鉢の中身を突いていた箸を止めて、彼は顔を上げた。

「そんな、文豪の先生方に囲まれてなんて、オレ吹けないよ」
「そんな構えなくたっていいんですよ。皆さん気さくというか……変わり者ばかりですから」
「でも、詩吟なんて……青葉の笛ぐらいなら吹けるけど」

 ぜひにと頼まれても、こればかりはなるべくなら遠慮願いたい高耶であった。

「ところで……前々から伺おうと思ってたんですが、高耶さんは学生さんですか?」
「あぁ、今年中学五年だけど」

 お茶を口に運びながら彼は答えた。
 当時の尋常中学校は五年制で、最高学年の五年生は年齢的には十七歳程の少年に当たった。
 小学校の後は既に義務教育ではなく、中学に通うためには高額な月謝を払わねばならないため、必然的に裕福な家庭の子弟でなければならないのだが。

「うちのような芸事の家の子は、必要ないからと中学校には上がらせない場合が多いけど。北条の家では『芸の修行にかまけて勉学を修することを疎かにしてはならない』って家訓があるから……」

 高耶自身、小学校を卒業した時点で中学に行くつもりはなかったのだそうだが、兄の氏照に「絶対に行きなさい」と言われて、通うことになったのだという。

「奥様には必要ないって反対されていたんだけど、氏照兄が後押ししてくれたんだ。『学校に通うことは、おまえの人生において必ず利をもたらすことだから』って。一時期そのことで奥様と口論になったりしたんだけど……本当に兄さんにはよくしてもらってた」
「そうだったんですか……とても、優しいお兄さんだったんですね」

 高耶が嬉しそうに、そしてどこか淋しげに頷く。
 氏照が亡くなって既に数週間が過ぎ去った今でも、やはり大事な人を亡くした高耶の心は癒されきってはいないのだろう。
 そんな彼の俯いた頭を、やさしく撫でてあげたいような衝動にかられたが、いくらなんでも十七歳にもなる男児にそれはないだろうと思い、直江は上げかけた手を膝の上にとどめた。

「でも、五年生ということは今年で卒業ですね。卒業の後は家を継がれるんですか?」
「まさか……オレは三男だし、氏政さんが継ぐよ」

 そう語った瞬間、彼の顔が少し陰ったように感じたのは気のせいだろうか。

「……でも、卒業しても家は出ないで、家元の下でまだまだ稽古に励むつもり。学校を出れば練習時間も、稽古も他のお弟子さんと同じぐらい取れるし。もっともっと上手くなりたいんだ。……オレ、やっぱり笛吹くのが好きだから」

 澄んだ瞳でそう言う高耶を見て、直江はあたたかく微笑んだ。

「そうですか、がんばってくださいね。あなたなら、きっともっと上手になれますよ」

 だといいんだけど。と、高耶もきれいに微笑み返した。
 外では、松虫の声がちりちりと響き、真夏の夕暮れを涼しく彩っていた。




                *




 陽が落ち没しかけると、「そろそろ戻らないと」と高耶が腰を上げたので、直江は表の門まで送ることにした。
 ところが、先ほどから急に雨露が降りてきて、夕立だろうか。雨が庭の砂利道を強く叩きつけていた。

 「車を呼びましょう」と主張する直江であったが、高耶は「そんなことされたらこっちが困る」と、相変わらず送迎を頑なに拒む。
 どうしてそこまで拒むのかはよくわからないが「それなら、傘を持っていってください」と、白地に紺の縁の番傘を強引に手に持たせた。

「今日は本当にお疲れさまでした。嬉しかったですよ、来てくださって。来週も必ず来てくださいね」

 玄関で、雨音にかき消されないように少し大きな声で告げた言葉に彼は少し不安そうにこめかみを掻いて、。

「上手く教えられたか不安だけど」
「いいえ、とても分かりやすかったですよ」
「そう。それなら良かった。オレも楽しかったよ」

 そう言って、はにかんだように笑った。
 とてもやさしい気持ちになれるような笑みだった。
 直江が自分用の洋傘を持とうとすると、「いや、雨降ってるしここまででいいから」と断り、草履に足をつっかけ、借り物の傘を差した。
 梔子くちなしの花香る雨だれの庭を背に、高耶がこちらをゆっくりと振り返る。
 直江は玄関口に立って、彼を名残惜しげに見送った。

「濡れないように気をつけてくださいね」
「ああ、ありがとう。それじゃあまた、来週な……」
「ええ。また来週」

 傘を持たぬほうの手で小さく手を振った高耶に、直江もつられて手を振る。
 早くも水溜りを作り始めた庭の砂利道を、泥水が着物に飛ばぬよう気をつけてそろそろと歩きながら、彼は雨の幕の向こうへと去っていった。
 砂利を踏む音が、雨音に掻き消される。
 かすかに遠雷の音が響いていたが、不思議と直江の耳には届いていなかった。
 
高山流水
篠笛悲恋物語
2005*6*17
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To Be Continued......
 どうもこの話を書いていると、「澪つくし」というドラマを思い出すのは何故でしょう。(←って古いネタだなぁ。分かる人いらっしゃいます?)
 うーん、確かにこの話の高耶さんと境遇的にはちょっと似てるかもね……。
 最近原作ミラージュに思いを馳せることがとみに多いせいか、この話の控えめな高耶さんに書きながら戸惑っています(笑)。もっともっと直江への愛を魂の底から絶叫してほしいわっっ!!!
 ……でも焦ってはなりません。いわばこのお話は2巻あたりのエピソードなのです。あの頃の高耶さんはまだまだぬるま湯につかるようなやっこい愛情を直江に向けていました。あんな感じです。仰木高耶の本領発揮はこれからです。乞うご期待。
 そういえば高耶さん、まだ中学生だったんですね。たぶん当時の学生は……丸刈り……なんて突っ込みは断じてしてはなりませぬ!!!仰木高耶はあくまでサラサラ黒髪ストレートなのですッ!!学帽の下から美しい黒髪が覗くのですッ。マントに下駄にくわえ葉っぱなのです!!(←それは時代が違う)
 直江も高耶さんの頭なでなでしたらちくちくじゃ嫌です(泣)。
 そう言えば直江の家の職業が分かりました。多分高踏派です……。(←本気にしないように)しかしそう考えれば、やはりこの話の直江には連城響生の素養があるに違いない。とりあえず高耶さんを監禁するあたりから始めてみようか。いえ、そんなハードな話にはなりませんってば!
 それにしてもこの話、想像以上に完結までに時間がかかりそう。いまのところいよいよ「破局への序章」みたいな場面までノートの方には書き終えているのですが。らぶらぶになるまでにはほど遠いです……。まぁ、じらされればじらされるほど、その願いが叶ったときの感動というのはより大きくなるということは、既に原作20巻で証明済みですしね!
 その日を夢見ながらせっせと更新します♪