2005*8*6
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To Be Continued......
 「桜」と、キーを打つたびに悲しくなるのは何故ですか?
 あの日以来、「桜」と「星」と「虹」と「泉」は私にとって禁忌です。つつくだけでボロボロ涙がこぼれます。
 さぁ、試験だなんだで更新が遅くなってしまった「高き山と流れる水、そして君思う調べ」、第5話「桜契さくらちぎり」でしたが、夏休みに入ったのでまた本腰入れて続きをupしていきたいと思います。
 義母に虐められる高耶さん。不遇な身の上の高耶さん。
 いよいよ、話が本題に入ってきた感じですね。
 そんな傷ついた高耶さんの心の闇を癒してあげられるのは、そう。
 あの男しかいないのです……!
 第五話


 雨はやまず、どころか直江の家を出た時よりいっそう激しくなっていた。
 おかげで自宅に辿り着いた頃には、麻縞織の着物はびしょ濡れになっていた。
 陽が沈む前には帰るはずだったのが、雨のせいですっかり暮れてしまっている。
 憂鬱な気持ちで山茶花の垣に囲まれた門をくぐり、玄関の戸をガラガラとを開け、「ただ今帰りました」と、控えめな声で呟いた。
 明かりの乏しい、暗い玄関。正面の飾り棚には、庭から切り取った房藤空木ふさふじうつぎが生けられていた。
 ポタポタと、しずくを落とす番傘を、丁寧な手つきで畳んでいると、襖を開けて現れたのは、濃紺の品の良い紬に身を包み、日本髪をきっちりと結った婦人だった。
 一見して、いかにも良家から嫁いできた貴婦人といった趣である。
 しかしこの婦人が現れた途端に、高耶の表情が、気のせいではなく硬くなった。そのままどこか、怯えたような目つきで土間から上段の婦人を見上げる。
 婦人はキツい目元を鋭く細めながら、濡れねずみの高耶をまるで汚いものでも見るように一瞥し、眉を顰めた。

「ずいぶんお早いお帰りですこと」

 冷えきった口調でピシャリと言う。
 高耶は目を、そろそろと瞑ると、その一瞬の動作で表情を消し去り、続けて深く頭を垂れながら「申しわけありません。奥様」と、抑揚の少ない声で、礼儀正しく謝罪した。
 己の身に纏わりついた雨露が、ぽたぽたと落ちる三和土の床を、何をするとも無しに凝視する。
 しばらくそうした後に顔を上げても、婦人の機嫌は治っていなかった。
 婦人……高耶にとっては義母に当たるこの女性は、目をそらしながらひとり言を呟くように、……しかし高耶の耳にはしっかり届くように、悪意も露に呟く。

「氏照の喪も明けてないというのに、ふらふらと出歩いて……あの子もさぞ喜んでいることでしょうね」

 さすがにこの言葉には、顔が強張らざるを得なかった。
 この義母は、高耶が何か彼女の気を悪くするようなことがある度、直接ではなくあくまで遠まわしに、苦言を呈するのが常だった。
 何年も飽きもせずに言われ続け、いい加減慣れきってしまった高耶ではあるが、兄の死から一月も経たぬうちに出歩くことに罪悪感を感じていたのは確かなので、何も言い返すこともできず、苦い表情で口元を強く引き結んだ。

「申しわけ……ございません」

 しぼるように言葉を漏らし、再度両目を固くとじる。
 ここで顔を上げて、その両眼で視線を向けようものなら、この義母の機嫌をさらに損ねることは既に分かりきっているので。
 高耶は小さい頃から、この眼差しのきつさが災いして、義母の不興を勝って何度と無く折檻を受けてきた。
 身体も大きくなって、さすがにそういうことは無くなったのだが、萎縮するように顔を俯かせる、幼い頃から染み付いてしまった癖は今も抜けてはいない。
 ポタポタと、着物の裾からしずくが落ちている。
 そのまま両者が黙り込んでしまった時、重い沈黙をやぶるように、義母が現れた方とは反対側の廊下から、姿を見せた者がいた。
 黒地に白い絣模様の、品の良い紗の着物をまとった、三十過ぎほどの男性。細いフレームの眼鏡をかけたその鋭利な横顔の持ち主は、年の倍近く離れた高耶のもう一人の兄、氏政である。

「まぁ、氏政さん」

 途端、義母の声色が変わる。
 高耶に向けるものとは明らかに違う、息子を慈しむような響きを帯びた、それだ。

「お母さん、ここにいたんですか」

 そう言って、玄関口に近づいてきた氏政は、雨露に濡れたままで三和土に佇む高耶の姿を認めると、驚いて足を止める。

「高耶、帰ってきていたのか」

 目を開けた高耶と、まっすぐに視線が合う。

「……ええ、たった今戻りました」
「それは見れば分かるが。それより母さん、早紀江が探していました。早く客間に行ってあげてください」
「早紀江さんが?まぁ、何かしたのかしら。分かりました、すぐ行きます」

 そう言って、高耶の存在などすっかり忘れたように、慌ただしく廊下の向こうに消えていった。
 その様子を見送った後、張り詰めていた息を重く吐いた高耶に、振り返った氏政が淡々とした口調で告げた。

「おまえもそんなところに立ってないで、早く風呂に入りなさい」

 言われた言葉に、はっとして心持ち目を見開く。

「ええ……分かりました」

 高耶が頷くのを見届けると、氏政はそれ以上何も言わずに去っていった。
 その後ろ姿を、視線で追い続ける。
 パタリと襖が閉まる音と共に、その姿が消えるまで。

 仲が悪いわけではないが、特に話すこともなく、氏照とそうであったようには親しく付き合うことのなかった兄だ。
 義母からの言われ慣れた嫌味よりも、氏政が何気ない口調で告げた最後の一言が、思いのほか優しくて、それが意外に思えて、高耶には印象深かった。

 重く濡れた前髪を、気だるい動作でかきあげる。
 遠く響く雷が、ちりりと鼓膜を揺さぶった。
 屋外でしとしとと降りつづける雨は、まだ当分の間やみそうもない。




                *




 翌日も直江は、いつものようにいつもの道を通って帰宅した。
 昼頃まで降っていた雨のなごりが、紫陽花の葉の上で揺らいで白玉のように光っている。
 風に雨の匂いがただよう夜。
 その夜も、山茶花の垣からは美しい笛の音が漏れ聞こえていた。
 だが今日の音色は、どこかしら元気がない気がする。特に根拠はないのだが、なんとなくそう思う。
 具合でも悪いのだろうか。昨日雨の中を帰したせいで、体が冷えて、風邪でもひいてしまったのではないだろうか。
 心配になったが、まさか今時分いきなり訪ねていくわけにもいかない。
 直江は数秒の間、垣の手前で落ち着きの無い子供のように右往左往していたが、彼が離れから顔を見せるような気配も一向にないので、あきらめるように息をついて、その場からトボトボと立ち去っていった。


 その翌日も会社の帰り、高耶の暮らす家の前を通りかかる。
 その日の音色は、まるで彼が自分に、「心配ないよ」と伝えているかのように、明るく元気に弾んでいた。
 何か、良いことでもあったのだろうか。今度会うときに聞いてみようか。
 けれどそんなこと唐突に尋ねたら、変な風に思われないやしないだろうか。
 おかしいことに、ひとまわりも年の離れた彼のことが、気になってしょうがない。彼の反応に一喜一憂している自分がいる。
 そんな自分が、まるで思春期の少年の頃に戻ったようで、直江はどこか懐かしさと、照れくささを感じて外灯の下、一人笑っていた。


 そうして瞬く間に数日が経ち、日曜日となる。
 二回目の稽古も、彼は快く引き受けてくれた。自分の稽古を終えたばかりで疲れているだろうに。
 そのことを申しわけないとは思いながらも、高耶との稽古は、予想以上に実りあり、楽しい時間だった。
 練習の甲斐あって、二回目の稽古時には直江は、危なげなく笛の音を出せるようになっていた。
 それからは、ようやく運指を教えてもらい、音階の練習となる。
 記憶力は良い方だが、なにしろ楽器に触れるのは学校で習った縦笛の時以来なので、なかなかに苦戦の連続だった。
 今日の稽古では、これから初めに練習する曲の、笛譜を見せてもらった。

「これ、オレが昔使ってたものなんだけど……お古で良ければ使って」

 差し出されたのは、紐で一綴りにされた和紙の冊子である。
 誰かの手作りなのだろうか。少し傷んだ紙に、墨文字で縦書きに記された歌の横に、漢数字やアラビア数字が記されている。
 和楽器の楽譜など初めて見るものなので、直江は興味深そうに手元を熱心に覗き込んでいた。
 最初の頁に書かれている曲の歌詞は、こうだ。

 ──さくら さくら のやまもさとも みわたすかぎり……

「古謡の『さくら』ですね」
「ああ、ちょっと時期はずれだけど……有名だし、まずはこれからな。オレもこの曲から始めたから」
「そうだったんですか。綺麗な曲ですしね。私は好きですよ、この曲」
「そっか……なら良かった。オレも、大好きなんだ」

 澄んだ瞳で言うものだから、なんだかこちらが無性に照れてしまう。

「楽しみですね。早くちゃんと吹けるようになりたい」

 にっこり笑って言う直江に、高耶もつられて笑い返した。

「そうだな……。来年の桜の時期には、このままやっていけば絶対吹けるようになってるから。桜の木のもとで吹くといい。おまえならきっと、さまになるから……」

 桜舞い散る木の根元に、ひとり佇む男の姿を思い描く。
 それは、どこかまったく別の世界のように……、幻想的で不思議な光景だ。
 高耶はそう考えて、ハタと我に返り、心持ち頬を赤くした。
 その様子に直江は気づいたのか、気づかなかったのか、どちらなのかはよくわからないが、涼しげな目もとを細めながら、高耶をやさしく見つめ、

「いいですね。そしたら、あなたも一緒に吹いてくださいね」

 ふわりと笑ってそう言った。

「笛を?……そうだな。けど、三味線で合わせても、綺麗かもな」
「三味線もできるんですか?凄いですね」

 無邪気に感心してみせる直江。その様子を見て、彼はひとまわりも年上の人間だというのに、なんだか子供みたいだと高耶は思った。

「まぁ、でもオレ、弦楽器はあんまり得意じゃないから。期待しない方がいいな」

 そうは言うが、おそらく謙遜だろう。あれだけ笛を吹きこなせる彼ならば、他の楽器も人並み以上の腕を持っているに違いない。
 そんな彼の慎み深さを好ましく思って、直江は少しおどけた口調で、

「いえ、笛方が素人芸なんですから、片方があまり上手すぎても合わせるのに困りますしね」

 そんな風に言って、二人して笑い合った。
 まだ数えるほどしか会ったことのない二人であったが、確実に両者の距離は、近づきつつあるようだった。
 直江は立ち上がり、客間から出て縁側に立つと、雨戸を開け放して庭を望んだ。
 庭の向こうに見える母屋を指差して、客間に座る高耶を振り返る。

「母屋の床の間から見える庭に、桜の木が植えられているんです」

 「桜の木?」そう言って、高耶も身を乗り出して、庭を眺めたが、南天や金糸梅の木に遮られて、残念ながらこの離れからは見えないようだった。
 しかしこの屋敷には、いったいどれほどの、四季折々の草木花が植えられているというのか。まるで源氏物語に出てくる六条邸みたいだと、高耶は思った。だとしたらこの離れはさしずめ夏の御殿か。

「……風流だな」
「ええ。花が咲いたら、桜を眺めながらその部屋で一緒に演奏しましょうね」

 にこりと笑って、「約束ですよ」と念を押す直江が、今度こそ子供のようだったので、高耶は苦笑しながら、


「ああ、約束だ。……直江」

 そう言って、たしかにひとつ頷いたのだった。
 高耶の瞳に、嬉しそうに細められた鳶色の瞳が映った。
 風に揺られた風鈴が、ちりちりと、蝉の声に対抗するように、涼しげな音を響かせていた……そんな夏の午後の出来事だった。







 その約束を、のちに果たすとき。
 どれだけの絶望に、胸をふさぐことになるか。
 どれだけの哀しみの涙に、頬を濡らすことになるか。

 いまの高耶には、想像すべくもないことだったのだ……。
高山流水
篠笛哀愁物語