第六話
それから、何回か稽古を重ねるようになって、高耶の丁寧な指導を受けるうち、直江は自分でも驚くほどに、熱心に練習に励むようになり、みるみるうちに上達していったのだった。
初めは、彼の笛を聴きたいがためという理由だけで、習い始めた笛であったが、だんだんと自在に音を出せるようになるに従って、楽しさを感じるようになっていった。今では笛を吹き音を奏でること自体に純粋な喜びを覚えていた。
学校が夏の長期休暇に入っても、高耶の方は相変わらず稽古につぐ稽古で忙しいようだった。それにも関わらず、彼は直江と会うのをやめようとはしなかった。
その日は笛の練習ではなく、以前高耶と約束をしたとおり、実家から道具一式を持ってきてもらい、笛作りに挑戦していた。
笛の材料にはしの竹を十分乾燥させ、脂抜きを行った良質のものを使う。これらも高耶に用意してもらったものだ。
高耶の指導に従って、直江は真剣な面持ちで小刀で竹を削っていた。
直江が作るのは、七笨調子のものだ。
竹の材料は、内径が管の頭から管尻にかけて緩やかに変化していく。自然のものなので一つとして同じものはない。
つまり、同じように孔を開けても必ずしも同じ音程になるとはかぎらないということだ。
いまやっているのは竹に孔を開ける作業なのだが、手本として七孔のうちの一つを高耶に開けてもらう。
孔はまず錐で中心を開け、小刀で卵型にくっていく。
竹の繊維に逆らわないよう左右に小刀を動かし、孔の壁は垂直になるように削っていくのだが、これがなかなか上手くいかない。
教えられるままに手を動かし、直江が悪戦苦闘しているその横で、高耶は縁側に腰掛けながら笛を吹いていた。
一心地ついた直江が、竹を翳しながらふと目線を横に移した。
高耶が曲を吹き終えて、篠笛から唇をゆっくりと離し、ふぅ、と息をはいていた。
「それはなんの曲なんですか」
気になって尋ねた直江の言葉に、高耶は首だけ振り返った。
「
京鹿子娘道成寺さ。今度歌舞伎に出ることになったから、その練習」
直江が驚いたように眼を見開いて、高耶をまじまじと見つめる。
「歌舞伎?舞台に、出るんですか?」
「ああ、もともとは門下の名取さんが出る予定だったんだけど、都合が悪くなって代役で出ることになった。そんな大きい舞台じゃないし……。午前中はその稽古に行ってきたんだ」
なんでもないことのようにサラリと言って、彼は膝もとの譜面をペラリと捲る。
そういえば今日のいでたちはいつもの着流し姿ではなく、薄墨色の紋絽の着物に、黒
橡色の袴をつけている。
「すごいじゃないですか。私も見に行きたいです」
「別にすごくない。言っておくけどオレは単なる末席の
地方だからな」
「それでも聴きたいです。舞台の上のあなたの笛」
「あのなぁ……主役は
立方だぞ」
呆れたように高耶は肩をすくめた。
「別に止めやしないけど、笛はオレだけじゃないから、どれがオレの音かなんて分からないぞ」
それでもいいんですよと、躊躇いなく直江は笑う。これではまるで、子供のお遊戯会を見に行く親のようではないかと、高耶は憮然とした表情になった。こちらは修行中とは言え、正真正銘の
専門職だというのに。
布で篠笛を拭きながら、横目にチラリと男の方を窺う。
「ところで、手が止まってるけど笛はできたのか?」
言われてハッと気づき、慌てて竹をやすりで削り始めた。
まったくもう……と、ため息をついて、高耶は再び娘道成寺を吹き始める。
京鹿子娘道成寺とは、紀州道成寺の安珍清姫伝説を歌舞伎舞踊に脚色したもので、熊野詣での若僧・安珍に、清姫が恋慕し、帰途の約束を裏切られたことから大蛇となって後を追い、道成寺の釣鐘に隠れていた安珍を鐘もろともに焼き殺すという、凄絶な復讐劇の後日譚である。
道成寺の鐘の供養の日に、白拍子の
花子が訪れ、「女の身ではあるが鐘を拝ませてほしい」と頼み込む。居合わせた
坊主たちは舞を所望し、
花子は鐘の前で、娘が恋をして女になってゆくまでの、さまざまな姿を踊る。そのうちに、
坊主たちの隙を見て
花子は鐘の中にもぐりこみ、鐘を引き上げてみると、
花子は恐ろしい蛇体と変化している。白拍子と見えた
花子は、伝え聞く、鐘の中に隠れた安珍を蛇体となって焼殺した清姫の亡霊だった……という筋立てであるのだが。
しばらくして、無事七孔をくりぬき終えたのか、直江がちょいちょいと、高耶の袖を引っ張った。
「一応形にはなってますが、こんなところでいいのですかね?」
貸して、と手を差し出されたので、出来立ての笛を直江は手渡し、彼は渡された笛を縦や横にしながら、しげしげと眺め回した。
「どうかな、だいたい良いとは思うけど……」
「本当ですか」
「そりゃ嘘は言わないさ。それじゃあ今度は管頭を木の栓で閉じて、さらに通常の音も倍音も一番よくでる位置まで、試し吹きをしながら湿らした和紙を棒でつき固めて、その位置を割り出すんだ。わかるか?」
「いえ、わかりません」
それもそうだな、と彼は言って、ここはかなり重要な作業なので、懇切丁寧に実演を混じえながら説明を重ねて、吹きを繰り返し、どうにか直江は最も栓をするに良い位地を見定めることができた。
そうしていったん紙と木の栓を取り外し、今度は接着剤をつけて再び栓をする。そして、先ほど確かめた位置までほんの少し湿らした紙をつき固め、最後に接着剤を歌口から流し込み、管頭側を下にして乾燥させた。
固まりきったところで、笛自体の主な製作作業はおおむね終了である。残すは漆による塗装と、籐巻きのみだった。
接着剤の固まり具合を確かめながら、高耶は直江に試し吹きをするように提案した。
「笛は人によって唇の形や手の長さにあわせなきゃいけないし、オレじゃ判断できないから。……ちょっと吹いてみろよ」
返された笛を受け取ると、直江は作法のとおりに笛を構えた。
この頃、なかなか所作が様になってきたと褒められたばかりの指で七孔を押さえ、歌口に息を吹き込んだ。
ピィィ────。
高い音が部屋の中に響き渡った。
当たり前だが、先ほどまで響いていた高耶の「娘道成寺」の音と比べると、明らかに洗練されていない割れた音だった。そのままひとつひとつ孔を押さえて、一通り音を出すと、直江は唇を離した。
「音は出るな。どう、吹きやすい?」
直江は首を傾げて、「悪くはないです」と曖昧に答えた。
「でも、今まで使ってたのよりはいいだろう?」
「そうですね。指にはしっくりきます」
「なら仕上げに管内を塗装しよう」
てきぱきと説明して、用具の準備を始めた。
塗装には朱漆を使うのだが、湿気による割れを防いだり、音の鳴りを良くしたりする効果があるのだという。
なにしろ漆は下手な扱いをするとかぶれてしまうので、手袋をはめて慎重に管の中を塗り重ねていった。
薄く塗っては乾かし、また塗りなおすという作業を続けなけらばならないので、これには数日の時間を要さねばならなかった。
そういうわけで、翌々日にもう一度高耶は直江の家を訪ね、高耶の監督のもと直江はもう一度漆塗りの作業を繰り返した。
「よし、これで乾いて、天地に籐を巻けば完成だな」
「はぁ……けっこう時間かかりましたね……」
おおよそ完成してホッとしたのか、直江は大きくため息をついた。
「お疲れさん。初めてにしてはずいぶん上手にできたな」
「教え方が良かったんですね」
「そうか? オレが初めて作ったときなんか、小刀で盛大に指切って大変だったけど」
着物に血が飛んで、ずいぶん怒られたものだと眉根を寄せて呟く彼に、直江は笑って、
「不器用なんですね……」
そう言ったのに、高耶はすねたように少し頬をふくらめた。
「うるさいな。音楽に器用さはあまり関係ないから、別にいいんだよ」
「そうですね。あなたを見るかぎり、そう思います」
なんだかこれ以上言い合いを続けても腹が立つだけのような気がしたので、高耶は一転して話題を変えた。
「ところで、笛に銘はつけるか?」
「銘……?」
「あぁ。自分で作った笛には、思い入れができるし。オレはつけたりしてるけど」
本格的に笛を習い始めると、十本二十本単位で笛を持つようになる。そのため区別しやすいよう、たとえば「安宅松」を吹く笛には「安宅」と名づけるなど、正式な銘というよりは、呼び習わしの名をつけたりするのだ。
「名前ですか……。どんな銘の笛を持っているんですか」
「オレの?オレは……えっと、一番大事にしてる十笨調子の笛は、吉祥丸≠チて名前だけど」
「吉祥丸?」
「あぁ、オレがつけたわけじゃないんだけど、気に入ってる」
高耶の眼差しが、どこかやわらかくなったような気がした。どのような謂われがあるものなのかは知らないが、彼にとって、とても大切なものなのだなと、直江はそう思った。
「そうですか。吉祥≠ヘめでたい兆し。とても良い名ですね」
「うん……人につけてもらった名の方が、愛着がわくのかもしれないな」
眼を細める高耶。部屋に風が吹き込み、黒い髪がサラサラと揺れた。
直江は不意に、その髪に指を差し入れ梳いてみたいと、唐突にそんなことを思った。
思うと同時に手をすいっと持ち上げたが、かたわらでキョトンと眼を瞠る高耶の顔を見て、すぐ手をおろした。
「どうかしたか?」
「……いえ、なんでも」
上目遣いに、こちらを見上げる高耶に、直江はゆっくりと首を振った。
「……けど、でしたら私の笛は、あなたが名をつけてくれませんか?」
「オレが?」
「ええ。すぐでなくていいんですけど、考えていただけませんか?」
初めて作った自分の笛は、あなたに名をつけてほしいと、そう語る直江に、高耶はしばし唇を閉ざして黙考していたが、やがてコクリと頷き、
「分かった。いい名前、考えてみる」
その代わり、変な名前でも笑うなよと、じろりと睨んだ彼に、「笑いやしませんよ」と、直江はやさしく笑ったのだった。
自分に、笛の素晴らしさを教えてくれた高耶だからこそ、名前をつけて欲しいと思うのだ。
どんな名前をつけたって、きっと彼がつけたもの以上に素晴らしい名前など、ないのだから。