第七話


 夕飯をごちそうになってから、別れの挨拶を交わし、直江の家を出る時分にはもう外は夜のただなかとなっていた。
 普段であれば家の手伝いをしていなければならない時間だ。早く帰らねば義母から叱責を受けると思い、小走りに進みかけたが、ここまで遅くなってはこれ以上遅れようが遅れまいが、同じことだろう。
 高耶は思いなおして、カラコロと軽やかに下駄を鳴らしながら、月の明るい清夜の中、風をその身に受けてゆっくりと歩いていった。

 そうしてしばらく歩いていくと、静かな闇の向こうから、女がすすり泣くような声が途切れ途切れに聞こえたのである。
 どこかで聞いた怪談話のようだが、高耶は驚いて立ち止まると、キョロキョロと周りを見回し、やがて声の元が川原の土手から漏れ聞こえていることに気づいた。

(なんだろう……)

 恐ろしさ、というよりは、好奇心が頭をもたげた。
 惹かれるままに、声の元へと足を進める。不思議とすすり泣く声を、不気味だと感じることはなかった。
 土手の手前まで来ると、小川の水際に一本だけ佇む、低い梅の木を見て取ることができた。その木の下に、小さな人影が蹲るようにしてそこにあることに気づいた。
 一歩一歩、恐る恐る近づいてみる。明かりは手に持つ提灯だけで、草むらに足を取られぬように気をつけながらようやく木の根元へと辿り着いた。
 提灯で木のもとを照らす。蹲る人影は若い女のようだった。
 暗目でよく分からないが、白地に淡い水色の花文様を染め抜いた絽の着物を、薄桃色の名古屋帯で締めて、黒髪は緒で高く結い、残りは肩に長く垂らしている。
 顔を覆った両手の間から、押し殺したような嗚咽が漏れる。
 高耶の存在にまだ気づいていないのだろうか。彼女は泣きやむ様子を見せない。
 高耶は惑うように黙り込み、彼女の傍らに立ち尽くしていたが、数秒後、意を決してゆっくりと口を開いた。
 そのことを後に、どれだけ悔いることになるのかも知らずに……。

「申し、お嬢さん。どうかしましたか」

 呼びかけが届いたのか、彼女はビクリッと肩を揺らすと、そろそろと両手を離して、顔を上げた。
 提灯の明かりに、白い顔が浮かび上がる。
 散々泣いて目が腫れてはいるが、顔かたちのよく整った美しい娘だった。暗い闇に浮かび上がる肌が、驚くぐらい白くて、日本人形がそのまま人の大きさになったかのようだ。
 普段、年頃の娘と出会う機会もないため、高耶は思わずポーッとなって、少女の顔をまじまじと見つめた。
 年のころは自分と同じぐらいだろうか。あんまり不躾に見つめすぎて、少女は少し怯えてしまったようだ。

「あ、すみません……えぇと、そこの道を通っていたら、泣き声が聞こえてきて、気になって……」

 慌ててそう弁明したが、少女は何も返さず、高耶を無言で見あげている。その両眼は何の感情もなく、空洞がこちらを覗き込んでいるかのようだった。

「あの、こんな暗いところでどうしたんですか? 若い女の子が一人で。危ないですよ」

 尋ねたが、少女は興味を無くしたように高耶から目線をはずし、そのまま無言で、俯いて顔を膝に埋めてしまった。
 あの……ともう一度声をかけても、反応は返ってこない。
 困ってしまったのは高耶だ。
 さすがにこのまま、この娘を放置して去ることもできない。着ているものから見ても、良い家の娘なのだろうし、今頃家族が大騒ぎして探し回っているかもしれない。
 交番に届けようかとも思ったが、あいにくここから交番は遠く、戻るまでに何かあったらと思うと、迂闊に動けない。
 途方に暮れてそこに立ち呆けていると、その間にも少女は再び泣き出してしまったようで、すすり泣く声が小川の水音の間に聞こえた。
 いったい、どうしたものかと思う。
 高耶は女兄弟もいないし、北条の家の弟子も女性と言えば皆年を召した方ばかりで、一番身近な女性と言ったらせいぜい義母ぐらいなのである。(親しい仲とは口が裂けても言えないが)
 中学の友人の中には、女学校の生徒と文通をしたりなどして、女性と交際をしている者もいた。
 しかし高耶は芸事一筋であったし、生来奥手の性質であった。
 その涼しく整った容貌ゆえに女学生達からは憧れの的で、手紙を渡されることも多かったが、皆一様に贔屓なく断ってきたのである。
 そういうわけで、こういうとき若い女性に対し、いったいどのような態度を取ればよいのかまったく分からないのだ。
 今ここに直江がいたならば、頼り甲斐があったろうに。
 せめて泣き止んでもらえればと思う。これではまるで自分が泣かせてしまったような心地になるので。

(そうだ……)

 そこで高耶は思い出したのだ。
 以前直江に、「あなたの奏でる笛には、人の心をおだやかにさせる力がある」、そう言われたことを。
 その時は、いつものお得意の社交辞令だと思って聞き流していたが、もともと音楽とは、人の心を楽しくさせたり、哀しくさせたり、そういう力を持っているものなのだ。
 それならばもしかしたらと思って、高耶は右手に持った風呂敷包みから桜筒を取り出し、先ほどまで直江の家で吹いていたその笛を手に持って、歌口に口をつけた。
 少女のつむじをチラリと見てから、小川の水面に視線を移し、大きく息を吸い込む。

 ピ───ッと、美しい音があたりに響いた。

 水面が波紋を刻んだような気がした。
 高耶は即興で、今このときに一番ふさわしいと心に感じる調べを、刻々と紡ぎあげていった。
 それはとても、切ないまでに美しい曲だった。
 決して、明るい曲などではない。どちらかと言えば暗い色調の曲。
 人が哀しみにふさぐ時、その心を癒すのは明るい曲などではなく、むしろ哀しい曲なのだという。
 嘆き悲しむ心に染み入るように流れる、切ない音楽。人はそこに、「同調」と呼ばれる美を見出す。
 悲嘆に暮れる閉ざされた心も、美しい旋律と共に天へと昇華していくのだ。
 いつしか、顔を覆って俯いていた少女が、首を持ちあげて、じっと高耶の方を見つめていた。
 大きな瞳から、大粒の涙がこぼれ続けている。止まぬ涙を流しながら、笛の調べに言葉さえなく聞き入っていた。
 彼女の哀しみの心が、高耶の笛の音と溶けあい、同調を遂げたのだろうか。
 少女は顔をゆがめて、その両眼をゆっくりと細めながら、瞼を閉じた。閉ざされた眦から、透明な水滴が伝い落ちると共に、どす黒く濁った心の闇が、音楽に包まれ、すべてが許されていくように、思いが天空の彼方へと昇っていく。
 曲を吹き終え、歌口から唇を離した頃には嗚咽も止み、最後のしずくを落として、彼女の涙は止まっていた。
 高耶が向き直ると、少女と正面から目が合う。少女の瞳は赤く濁っていたが、覗く黒い眼はとても澄んでいるように感じた。

「気分はどう?」

 優しく尋ねた言葉に、少女は高耶をまっすぐ見つめながら、初めて返事を返したのだった。

「ええ。大丈夫。少し落ち着いたわ……ありがとう」

 弱々しい声音は川の音に掻き消えそうなくらい小さい。が、落ち着いたというのは本当らしく、声音に芯は通っていた。
 高耶もその様子に少しホッとして、彼女から一尺ほど離れた草むらに、そっと腰を下ろす。

「どうして、泣いていたんだい?」

 彼女に合わせて、囁くような声で尋ねた。
 長く艶やかな黒髪が、青白い頬へとかかる。言いにくそうに、瞳を二、三瞬きして押し黙っていた。
 それでも少女は先ほどの笛の音のおかげか、少なからず、高耶に心を許したのかも知れない。
 少し唇を閉ざして沈黙していたが、やがて水面を見つめながら、静かにこう答えたのだった。

「とても好きな人が、遠くへ行ってしまったの……」

 夏の香をはらんだ風が、少女の前髪を揺らした。

「遠くって……?」
「……わからないの。お父様は、会津の実家の方に帰したと仰っていたけれど、ブ……ブラジル開拓民として、移民船に乗っていってしまったと、言う人もいるの」

 俯いて、唇を噛み締める、彼女の横顔を高耶は静かに見つめ続けている。
 喋り始めたら止まらなくなってしまったのだろう。饒舌な口調で少女は言葉を続けた。

「……私、駆け落ちをしたの……。もう、私には決まった相手がいるからって、お父様許してくださらなかったから……。でも、家の人に見つかってしまって……あの人と引き離されて、家の中に閉じ込められていたの……。会いたいのに、会えなくて……苦しくて、気が狂いそうで……家を抜け出したのよ……」

 そうだったんだ……と、ゆっくりとやさしい声で相槌を打つ。促すような穏やかな空気の仲、彼女は言葉を続けた。
 そっと、手を持ち上げて土手道の向こうを指差した。

「……この道をね、よく、二人で歩いたのよ。だから、ここの土手をずっと歩いていけば、いつか、どこかからあの人が現れてくれるんじゃないかと……」

 思って……と、消え入るように呟いて、彼女は堪え切れなくなり、ハンケチで目もとを押さえながら言葉なく俯いてしまった。
 会えるのではないかと、信じて歩き続けても、いつまで経っても影も形も見えなくて、哀しくなって、梅の木の下で泣き出してしまったのだろう。
 高耶は、なんと声を掛ければよいのか分からず、ただただ無言で少女の隣に座っていた。
 川面が月の明かりに反射して、キラキラと銀色に光っている。

「……好きな人ができるって、どんな気持ちかな……?」

 不意に、ポツリと漏らした言葉に、少女が顔を上げた。

「いないの? 好きな方」
「ああ……たぶん、いないと思うけど」
「そう……そうなの。ある意味で、幸せかもしれないわね。こんなに苦しい思いを、知らずに済むんですもの……」

 そうなのだろうか。高耶は生まれてこの方、初恋らしいものすらしたことがなかったので、彼女の語る恋の苦しみと言うものがどれほどのものか、想像することができない。

「でも、あの人を愛したことを後悔したことだけは、一度もなかったわ……」

 透徹とした瞳で、そう語った彼女の横顔は、どこか毅然としていて、高耶は知らずその様子に見入っていた。

「これから、どうするつもり?」

 しばらくして問いかけた言葉に、彼女が首を振る。

「どうともできないわ。どこにいるのかも分からないから、訪ねていくこともできないし……家に戻って、大人しくお式の日を待つだけでしょうね……」
「破談には、ならなかったのか?」
「ええ。駆け落ちして、すぐに捕まってしまったから、必死にもみ消したのでしょうね。でも今さらこれぐらいのことで、破談にならないわ……。もう、ずっと小さい頃から、決まっていた結婚ですもの……。やめるわけにも、いかないのよ……」

 もはや、どこかあきらめたような、弱々しい声音だった。
 親に決められた相手に嫁ぐことを、彼女なりに受け入れてしまったのかもしれない……。
 高耶は、この少女がとてもかわいそうだと思った。どうにかして、力になってあげたいと思った。
 しかし、だからといって彼女の恋人を、探し出してあげられるわけでもない。彼にできるのはせいぜい、少女を力づける言葉をかけてあげることだけだ。

「相手の方と、会ったことは?」
「小さい頃、何度か。それにお見合いのときに……。でも、話したことはほとんどないの。話しかけられても、無視したから……」
「そっか。式は、いつごろなんだい?」
「わからないわ……でもたぶん、少し延びると思うから、来年の春頃かしら……」
「そう……。せめて、いい人だといいな」
「…………」

 彼女は眼を瞑って、コクリと頷いた。
 それ以上、声をかけることはできなかった。

 しばらくそうしていると、どこか遠くから、人を呼ぶ声が聞こえた。
 耳を澄ますと、「お嬢さん」と、複数の男女が叫びながらこちらに近づいてくるようだ。

「……迎えが、来たみたい」

 土手に座り込んでいた腰を上げて、着物の汚れを払う。
 高耶も立ち上がり、名も知らぬ少女の顔を見下ろした。

「一人で、歩ける?」
「えぇ、大丈夫。……ありがとう。お話を聞いていただいて、少し、楽になれたみたい……」
「そっか……」

 土手道を、明かりを下げて歩く影が二つ。三つ。もういかなければならない。けれどどこか名残惜しい気持ちに襲われた。
 彼女はふと、気づいたように袖の袂に手を差し入れ、何か小さなものをそこから取り出した。

「これ……笛を聴かせていただいた、お礼に」

 差し出された物を手に取る。それは小さな、鴇色の縮織の袋だ。鞠と白梅が金糸銀糸で織り込んである。

「匂い袋?」
「ええ。私が香を合わせて作ったのよ。こんなものしか差し上げられないけれど……」
「いや、ありがとう。大事にする」

 やさしく微笑むと、彼女も、今日初めて笑顔らしいものを見せた。
 眼は赤く腫れ上がっていたが、とても愛らしい表情だった。

「いつか、もう一度……あなたの笛が聴きたいわ」

 呼び声がどんどん近づいてくる。彼女は後ろを気にしつつ、高耶に告げる。

「もしまた、会うことがあったら、笛を聴かせていただける?」
「ああ、いいよ。約束する。その時は真っ先に聴かせてあげるよ」
「本当? ありがとう。約束ね」

 彼女は笑って、「それじゃあ」と会釈をし、振り返って土手道を引き返していった。
 しばらくすると、遠くの方から、「のりこお嬢様!」と、悲鳴のような女の声が聞こえた。彼女の家の女中か何かなのだろうか。口々に名を叫びながら、複数の影が彼女に駆け寄っている。

(のりこ≠チて言うのか、彼女……)

 手のひらの中の匂い袋を握り締めた。伽羅だろうか。深みがあり、どこか甘い香りが漂った。
 高耶は匂い袋の紐を手に取ると、桜の笛筒を入れる、笛袋の端に結びつけた。
 紐に付けられた小さな鈴が、チリチリと鳴った。


 「また、会うことがあったら」、そんな約束をしたけれど、果たしてもう一度彼女と会うことなどあるのだろうか。
 けれど、どこかでまた会えるような気がしていた。根拠があるわけではないが、なんとなくそう思う。


(今度は、どんな曲を聴かせてあげよう……)


 やがて遠くなる、明かりの束を、道の果ての闇に消えていくまで見つめながら。
 高耶はその時≠フことを思って、縮織の匂い袋をもう一度強く握り締め、葉の茂る梅の木をそっと仰いだ。
 彼女の笑顔に思いを馳せながら……。



 この夏の夜の出来事は、彼にとって、生涯忘れられぬ思い出となったのである……。





高山流水
篠笛悲劇物語
2005*8*10
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To Be Continued......
 いよいよキーパーソン、のりこ嬢の登場。これでやっと中盤に差し掛かった感じです。
 あ、一応言っておきますがこの物語はあくまで「直高純愛物語」ですので。
 ここから本格的に物語の視点は高耶さんへと移り、笛吹き少年高耶さんの物語となっていきます。
 どうも、ミラージュパロディを書いていると、早く直江と高耶さんをくっつけたくてくっつけたくてくっつけたくてたまらなくなるんですが、耐え忍んでいます。
 山あり谷ありあった方が、結ばれたときの感動が強いですしね。あたかも20巻のように……!(って前にもこんなこと言っていたような気がするぞ?)
 どうでもいいけど女の子のキャラって、書くの苦手だなぁ。おかしいな、自分がそうなんだから一番書きやすいはずなのに。綾子ねーさんはまた特別なんですけどねv
 まだまだ複線が多くて、語るにもネタバレになって語れない状態なので、これにて後書きごめん!