2005*9*3
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To Be Continued......
 直江の服の袖をつかみながら、「いいだろ?」と小首をかしげて夜の散歩に誘う仰木高耶。
 「え、そりゃあいいですよ」となんとなく流している直江が憎い。憎らしい。でもそういう感じのサラリとした反応を返す直江が、実は私の好み。ふたりは普段、ちょっと素っ気無いぐらいがちょうどいいなんて思ってるのは、私だけかなぁ。原作を読みながら、「うわぁーんもっとイチャつけイチャつけイチャつけーッ!!」と喚きたてるのが好きなので。そうすると自然と想像力が発達し、文章の行間をつぶさに読み解いていくようになる。「ここの台詞には、きっとこんな切ない思いがこめられていたに違いない!」とか。「この場面でふたりは無言だけれど、きっと目線を交わして思いを共有していたに違いない!」とか。……そうしていざ山場を迎えたときは、互いを喰らい尽くすほどの勢いで激しく求め合う!もはや世界にはふたりだけしか存在しない!!これが究極の理想ですねッ!
 ……私の直高論はどうでも良いのでした。それにしてもこの話の直江はニュータイプだったんですね。地球の重力から解き放たれなければ(笑)。けれど高耶さんとの感応はまだまだのようで……。
 第九話


 ── 高耶、この笛はね。お母さんが高耶のお父さんにいただいたものなのよ。

 母はそう言って、よくその笛を見せてくれたものだった。

 ── そう、高耶が私のお腹にいるときにね、お祝いにお父さんが、作ってくださったものなの。すごいでしょう? お父さんの手作りなのよ。

 誇らしげに見せてくれた笛。焦げ茶色に黒光りしたその笛は、子供の目にもとてもきれいに映ったものだ。

 ── この笛の音をお腹の中で聴きながら育った子は、きっと心の綺麗な子になるからって、お父さんが仰ったから。お母さん毎日笛をあなたに聴かせてあげていたのよ。

 愛しげに細められていた瞳。
 母はとても線の細い、儚げな人だった。その細い体で、いつも忙しそうに働いていた後ろ姿を、いまでもよく覚えている。

 ── この笛はお父さんが、お母さんと高耶のために作ってくださったものだから、高耶のものでもあるの。だから、お母さんがいなくなったら、この笛はあなたにあげるわね。お母さんとお父さんの、大事な思い出がつまったものだから……大切に使ってね。

 病床につきながら、母はオレの小さな手を取りながら、苦しげな息の合間に、そうやさしく語った。

 ── 向こうのお家でも、元気に暮らすのよ。ちゃんと奥様の言いつけを聞いて、いいこにしていなさいね。お父さんや、お兄さんたちに可愛がっていただきなさいね。……ごめんね、高耶……。ごめんね……。

 そう言って、母はゆっくりと瞼をおろしたのだった。
 つめたく冷えていく手を握り締めながら、泣きじゃくり続けながら、母の青白いその横顔を、いつまでも見つめていた……。


 ── 母さん、どうして返事をしてくれないの。

 ── 母さん。おかあさん……。





               *




 あの日から数日が過ぎていた。
 八月も終わりに近い、外気は高いが、涼しい風の吹く日。その夜も会社の帰り道、乗り合いバスのバス停から、五分ほど歩いたところにある、黒い瓦屋根の家の手前の道を通った直江は、そこから漏れ出ずる笛の音が聞こえやしないかと、立ち止まり、山茶花の垣に耳を近づけて、聴覚に神経を研ぎ澄ませていたのだった。
 けれど、今日に限ってあの笛の音が聴こえない。
 どうしたのだろう。今日はもう、疲れて眠ってしまったのだろうか。いや、寝るには少し早すぎるかな。
 そんなことを考えながら、腕の時計で時刻を確認し、しばらくの間うろうろと、山茶花の垣の前を行ったり来たりしていた直江であったが……。

「直江」

 その背後から、声をかける者がいた。
 この声はと思い、瞬時に振り返ると、そこには彼が予想していたとおりの人物が立っていたのだった。

「た、高耶さん?」
「こんばんは、直江。こんなところでいったい何してるんだよ」

 白地の涼しげな浴衣に身を包んだ高耶が、夜の闇の中、こちらを見あげながら、くすくすと笑っている。

「おまえ、いつもあんなことしてるのか?」
「……ひどいですね。覗き見していたんですか」
「ごめん。なんだかおまえ、うろうろしていて熊みたいだったから。つい、な」

 熊って……。
 直江は少なからずショックを受けて、がっくりと肩を降ろした。

「ところで、今日はいったいどうしたんですか? こんな時間に外に出て」
「あ、そうそう。これからちょっと散歩に行かないか?」

 散歩? 突然の提案に眼を瞠る直江に、高耶は「うん。夜の散歩」と言って、こっくり首を頷かせた。

「今夜は月がきれいだから、やっぱりこんな日は散歩に出かけなきゃと思って。おまえが来るの、ずっと待ってたんだ」

 にこにこと上機嫌にそう言った高耶は、直江の服の袖を掴んで、「いいだろ?」と、小首を傾げて聞いた。

「え、そりゃあいいですよ」
「本当か? じゃあ行こうぜ」

 嬉々として、高耶は直江の服の袖を引っ張って歩き出した。
 今夜の彼は随分と機嫌が良いようだ。軽やかに下駄をカポカポと鳴らしながら、鼻歌交じりに歩いている。
 けれど、寝不足なのだろうか。眼の下にできた大きな隈が、少しだけ気になった。
 青い月の灯る夜の道を、ふたり並んで歩いていく。
 帯に差していた団扇を手に取って、高耶は直江に向けてパタパタと扇ぎ出した。

「直江、暑くないか? そんな背広着込んで」
「いえ、今夜は風が出ていて涼しいですから、大丈夫ですよ」

 そう言ってみたものの、彼は扇ぐ手をやめようとはしないので、直江は上着を脱いで腕にかけ、ネクタイを少し緩めた。
 高耶もそれを見て満足したらしく、団扇を扇ぐ手を止めて、自分の胸のあたりでパタパタとしていた。
 Yシャツ一枚を羽織った肌に、水気を含んだ風が染みとおるように吹き込む。
 やがてそうしてブラブラと、とくに行くあてもなく夜の道を彷徨い歩いていると、開けた土手道へと辿り着いた。
 あ、と。直江が短く呟いた。高耶が「どうかした?」と横を歩む彼の顔を見上げると、

「高耶さん。ほら、蛍がいますよ」

 え? と驚き、直江が指差すほうを見つめる。
 川原の中洲のあたりを凝視してみるが、それらしき光りを確認することはできなかった。

「え、どこ? 見えないぞ」
「あそこの中洲の下の方ですよ。四匹、いや五匹、光って見えます」

 なおも眼を凝らして見たが、高耶の視界には映らない。

「ダメだ。見えない」
「もう少し近くにいってみましょうか」

 直江は高耶の腕を掴むと、土手をくだって、川べりの方を歩き出した。
 中州の手前に辿り着いて、川岸にしゃがみこみ、覗き込んでみると、そこにやっとチラチラと小さく光る姿が複数見て取れたのだ。

「あ、ほんとだ。蛍だ」
「ね、いたでしょう?」
「ああ。おまえって、耳だけじゃなくて目もいいんだなぁ」

 か細く光る星屑のような蛍を眺めながら、心底感心したように高耶が言う。
 直江も彼の隣に屈み込み、スラックスが汚れるのもかまわず、川岸に腰を下ろした。

「耳や目だけじゃなくて、嗅覚や味覚もいいんですよ」
「え? っていうことは、五感全部?」
「そうなりますね」

 へぇー、と興味深そうに隣の直江を下から覗き込んだ。
 そんな高耶を見下ろしながら、直江は言葉を続ける。

「でも、いつでも他の人よりよく見えたり、聞こえたりしているわけじゃないんです。ほんのたまに、遠くにあって見えないはずのものが、まるで目の前にあるように見えたり、普通なら聞こえないぐらい遠くから発された音が、はっきりと聞こえたり」

 そう言って、右耳に手を添えた。
 水を揺らす風の音を聴くように、蛍の羽音を聞こうとするかのように、目を細めて耳をすます。

「……何か聞こえるのか?」
「いいえ、いまは何も。だから、ほんのたまにのことなんですよ」

 耳から手を離して、右横に座る高耶の方に視線を戻した。

「こんな話するの、家族以外では、あなたが初めてです」

 その言葉に、高耶が吃驚してその瞳を見開いた。

「え……いいのか? そんな大事なこと話してしまって」
「いいんですよ。あなただから、聞いてほしいと思ったんです」
「オレに……?」

 コクリと頷く直江。
 そうして彼は、夜のしじまにとけるような、静かな口調で語り始めたのだった。

「あれは確か、私が20歳の頃でしたか……そう、直江の家に養子に入ってすぐのことでしたから、たぶんそれぐらい。大学からの帰り道、私は山茶花の垣の合間から、その音を聴いたんです」

 蛍の明かりが、ちろちろと水面を照らしていた。
 月明かりが、直江の横顔を照らしていた。
 高耶は無言で、直江の言葉に耳を傾けていた。

「それはとてもつたない、笛の調べでした。いまの私とさほど変わらないほどに。けれどその笛の音が、山茶花の垣の向こうから、まるで目の前で奏でられているかのように、耳の奥に鮮明に響いた。頭の中が、その音色でいっぱいになった」

 直江は瞳をゆっくりと閉じた。その時に思いを馳せるかのように。いまでもはっきりと思い起こすことが出来る、あの笛の音。
 どこか悲しげに響く、か弱い旋律……。

「それから八年の間、あの道を通るたびにあの笛の音が聴こえていました。不思議だったんです。どうして、あの笛の音を聴くときは必ず、どんなに小さな音であっても、こんなにも鮮明に耳に響くのか……。いったいどんな方が吹いているのか」

 学校や、仕事の人間関係に疲れた心を癒してくれたのは、いつもあの淋しげな笛の音なのだった。
 聴くことができない日は、何か物足りなくて、山茶花の垣根の外灯の下で、随分長い間待ち続けていたこともあった。
 心が不安定な日はあの笛の音に飢えていて、寒い冬の夜に、一時間近くも垣根の外に立ち尽くして聞き続けていたこともあった。
 そういうときはいつも思っていた。この笛の調べの持ち主は、いったいどんな人なのだろう。
 けれど自分はあまりにこの笛の音に惹かれすぎていて、音の持ち主の像を極端なほど美化しすぎている嫌いがあった。
 だから実際に会ってしまったら、想像との違いにショックを受けるだろうことは分かりきっていたので、直江はあえて笛の音の主に会おうとする、勇気を持てずにいたのだった。
 そうして八年の季節を過ぎた夏の日の夜、彼は深く茂る山茶花の葉の隔たりを越えて、ひとりの少年を垣間見た……。

「それって……」

 緊張で少しかすれた声で、高耶が問う。
 直江はその答えを噛み締めるかのように、ゆっくりと確かに頷いた。

「初めてあなたに会った夜の、それよりずっと前から……いつだって私は、あなたの笛を聴いていたんです。誰が吹いているのかもわからない笛の音を……」

 氏照が亡くなったあの日。
 淋しく、悲痛な旋律を奏でていた、少年の姿を見咎めたあの夜まで。
 驚愕のあまり、ろくな言葉を紡げずにいた高耶は、ようやく気持ちを取り戻して、少し震えた声で呟いた。

「そんなに前から、聴いていてくれたのか……」
「ええ。ずっと聴いていたんです。笛の音の持ち主を、心の中で横笛の君≠ニ呼びながら」

 視線の先にある、風に揺れる前髪の下の直江の双眼は、ひどく暖かな感情で彩られている。

「横笛って……平家物語かよ」

 そこで緊張の糸がほぐれたように、高耶は小さく笑った。
 そして少し自嘲気味なことをその唇で呟いた。

「がっかりしただろ、こんなガキでさ」
「そんなことありません。あなたは、私の想像したとおりの人でしたよ」

 え、と。思わず言葉をつまらせた。
 再びの緊張で、喉がカラカラになった。

「想像通りって……どんな」

 高耶は手を組んだり解いたりしながら、落ち着かなげな様子で、どこか怯えるように、そして何かを期待するように直江を横目に見ながら、尋ねたのである。
 その問いに対して、直江が語った答えとは。

「若くて、未成熟で……そしてどこか淋しい気持ちを抱いた、優しい心の持ち主だと思っていたんですよ」

 高耶は暗褐色の瞳を、大きく見開いて、みるみる頬を赤く染めながら、顎を膝の上に乗せて俯いた。

「別に……優しくなんかないさ」

 素っ気無い口調で呟く。手持ち無沙汰な右手で、浴衣の裾を落ち着き無くいじっている。
 直江が覗き込むようにすると、すぐにプイとよそを向いてしまった。
 けれど一瞬だけ見た、その俯いた横顔が、泣き顔のように見えたのは気のせいだろうか。

 (高耶さん……)

 もの言わぬ彼のつむじのあたりを見つめている。
 その淋しさを包み込むかのように、自然と、唇から泉のように湧き出た言葉。

「あなたがそう思わなくても。私がそう思ったのだから、それでいいんですよ」

 高耶が、浴衣を弄んでいた指をピタリと止める。
 気配で直江が微笑んでいるのが分かった。
 きっとこれ以上ないぐらいに優しい表情をしていることも。
 空を仰いで闇夜を見上げた。
 銀色の月が、降り注ぐ流星のように冷たい光を放っていた。
 いま直江の方を振り返り、彼の顔を見たら、自分は間違いなく泣き出してしまうだろうことは分かっていたので、高耶は決して彼を見ようとはせず、夜空に浮かぶ月ばかりを眺めていた。
 しばらくの間二人穏やかな静寂に包まれながら、蛍の光る川岸に無言で座り続けていた。


 そうしていくらかの時が過ぎた後、心地よい沈黙を最初に破ったのは、直江のこんな言葉だった。

「そうだ……せっかくだからあなたの笛、聴かせていただけませんか」

 唐突に、彼がそんなことを呟いたので、高耶はチラリと直江の方を窺い見たが、すぐに目線を元に戻す。

「今日はまだあなたの笛を聴いていない。今夜の記念にと思って、聴かせてほしいのですが、駄目でしょうか……」

 何に対しての記念にと、彼が言ったのかは分からないが、高耶はその要望に、応えを返そうとはしなかった。
 しかしその手は彼の望みを叶えようと、袂から笛袋を取り出して、笛を両の手に取った。
 今夜、彼が自分に与えてくれたものの数々に比べれば、一回や二回自分の未熟な笛を吹いたくらいじゃ、とても釣り合いがとれないとは思ったけれど。
 いま自分がせめて彼にしてやれることは、せいぜいこれぐらいであったので。
 深呼吸を一回すると、両手で構えて、眼を瞑る。風が一端止むのを待って、おもむろに歌口に息を吹き込んだ。
 月光照る闇の中、一陣の風が駆け抜けるかのように、高耶の笛の音が流れ出る。
 隣で直江がその様子を、静かに見つめていた。
 直江は、その音色に耳を傾けた瞬間に初めて、今日の高耶のひどく浮かれた様子が、淋しさや不安を包み隠すための、つたない偽装であったことに、やっと気づいたのだった。
 彼の笛は、言葉や表情よりもよほど雄弁に彼の心を映し出すから……。
 八年前のあの日から変わらず、彼の笛の音を聴くだけで、彼の心を理解できる……。それはまるで、奇跡のような正確さで。彼の心を暴いて、その深淵の縁を覗き込むように。
 音と共に、彼の気持ちが直江の中に染みとおる。
 五感のすべてで、彼の思念を感じ取る。
 
 直江はそっと、高耶の肩に手を置いた。
 一瞬、ぎくりと身体が震えたが、拒まれることはなかったので、そのままそっと手を置き続けた。
 直江の体温が、浴衣の布越しに伝わってくる。
 笛を持つ手に、力をこめた。
 火傷しそうなほどに、身体中が熱かった。
 蛍の火がぽつぽつと、川の水面の上に揺れている。まるで精霊流しの灯火のように。
 水の流れに沿って、川の向こうへと消えていく。
 風に笛の調べが乗って、天へと高く舞い上がっていく。
 世界を溶かしていくかのように、音の流れがあたりを静かに包み込む。
 まるでこの夜に、ふたりの他は誰も存在しないかのように。
 目を閉じれば、隣にいる彼の鼓動以外は何も聞こえない。
 風が草木を揺らす音さえ、彼の呼吸のなかに消えていく。

 高耶はいつまでも、音に生命を吹き込むかのように、深い闇の中で魂の灯る笛の調べを紡ぎ続けていた……。






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