2005*10*26
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 以上、第10話「恋夢こいゆめ」でした。「高き山と〜」の文中で、登場人物が独白文を繰り広げたのは今回が初めてですね。いままでは敢えて心情描写は入れないようにしていたので。いよいよ高耶さんが主人公らしくなってきたよう。まさに悩める青少年です。
 北条家居候の二人、千葉と石巻ですが、この二人の名前は戦国大名北条氏の家臣団から取っていたりします。子孫の方がいたらごめんなさい。(←絶対いない)
 それにしても、高耶さんがまったく笛を吹かなかったのは今回の話が初めて。笛吹き少年高耶さんの、遅い性の目覚め編です。ようやっと直江への想いを意識しはじめた高耶さんは、果たしてその恋心を直江へ伝えることができるのか。はっきり言ってこの話の直江は非常に鈍いので、いつものように受身のオウギタカヤでは、恋の成就は望めないぞ。
 成就できるかできないかは、高耶さんの頑張り次第ですが……納多の筆の乗り次第とも言う。大丈夫。信じることさ、必ず最後に愛は勝つ!(←……と言いながら40巻発売のカウントダウンを続けていたあの頃を思い出す……)
 
 第十話


 笛を吹き終えた高耶に、直江は静かな声音で尋ねたのだった。

 ── 今日は、何かあったんですか。

 しばらくの無言の後、川の水音に掻き消えんばかりの小さな声で、彼は呟いた。

 ── ……夢を、見たんだ。

 ── 夢……?

 直江が反復する。こちらを覗き込む瞳は、とても真摯だった。

 ── うん。懐かしいけど、とても悲しい夢……だからちょっと、一人でいたくなかったんだ……。

 顔を俯かせて、両手を膝の上で組んだ。高耶の表情は、指の影になって見えなかった。

 ── そうだったんですか……。

 直江が相槌を打つと、コクリと頭を頷かせる。

 ── ああ、ただ、それだけだよ……。


 くぐもった声で、淋しく彼は、そう呟いた。



                *



 しばらく川原で時を過ごした後、二人はもと来た道を引き返して帰路に着き、直江は高耶を家の裏門の前まで送り届けたのだった。

「今日は、とても楽しかった。たまには夜の散歩も良いものですね」

 名残惜しげに、外灯の下に佇む直江はそう言った。

「そう思ってくれるのなら……良かった」
「ええ。また誘ってくださいね」
「うん……」

 高耶は終始、俯きがちに返すのだった。その様子は出掛けの時とはまさに両極端で、彼がずいぶん無理をして、あの笑顔を浮かべていたことがわかる。
 まだ、家には帰りたくないのだろう。詳しい事情を聞いたわけではないが、歯切れの悪い高耶の態度から、直江はそう察した。
 本当なら、精神的に不安定ないまの高耶をこのまま家に帰すのは、忍びない。もう少しだけの間彼のそばにいてあげたいのは山々なのだが、ただでさえ夜間の外出を禁止されている所を、彼はこっそり抜け出してきたのである。これ以上連れ歩くことはできないだろう。それを諌めるのが、年長者としての役割であると直江は考えた。
 それでもこのままさよならをするのは何となく物足りなくて、直江は彼をもう少しだけ引きとめるように、会話を続けたのだった。

「……そうだ。今度は散歩だけじゃなくて、二人でどこか遠くへ出かけてみませんか」
「遠くって?」
「どこでも。あなたの好きな所に。名取の試験に向けてこれから稽古が大変になるでしょうが、たまには息抜きだって大切ですし。動物園でもキネマでも、あなたの行きたい所に連れて行ってあげますよ」

 元気付けるように直江は言った。高耶は彼の言葉の端々から窺える好意がありがたくて、小さく笑って、「ありがとう」と、素直に感謝の言葉を述べたのだった。
 三寸ほど目線上にある、直江の顔を見上げる。
 本当に彼はよくしてくれていると思う。こんな年の離れた、笛ぐらいしか取り得のない自分に。
 彼の好意が心地よくて、ついつい依存してしまいたくなってしまう。こんなことじゃいけないと分かってはいるのに。こんな甘ったれた態度を続けていれば、いつか愛想を尽かされてしまうとは、分かってはいるのに……。

「あの、さ……直江」

 意を決したように、高耶は彼の顔を見つめた。
 名を呼ばれた直江は、「なんですか?」と、少しだけ首をかしげて、続く高耶の言葉を待つ。
 けれどその先の言葉は続かなかった。言いよどむように唇を開いて、眉根を寄せながら唇を引き結び、やがて小さく苦笑すると、

「いや、なんでもない……おやすみなさい」

 そう呟いて、そのまま素っ気無く踵を返し、振り返りもせず裏門から中に入ってしまう。

「え……あ、おやすみなさい」

 慌てて返したが、高耶は足早に遠ざかっていってしまったので、彼の耳に届いたかどうか。
 離れ座敷の陰に消えていった、彼の人の後ろ姿をしばし脳裏にとどめながら、直江は心配げに表情を曇らせる。
 彼は最後、いったい、何を言おうとしていたのだろう。


一人でいたくなかったんだ……


 淋しげにそう語っていた、無表情な横顔を思い出す。
 やはり彼を、このまま家に帰すべきではなかったのだろうか。

「おやすみなさい……高耶さん」

 届くことは無いとは知りつつ、直江はもう一度そう呟くと、やがて名残惜しげに背後を気にかけながら、外灯に照らされる夜の道を革靴の音を立てて引き返していった。



                *



 あの夢を見るのは、ずいぶん久しぶりのことだった。
 幼い頃は何度と無く、繰り返し見続けてきた夢だ。
 高耶が北条の家に引き取られたのは、母を亡くした直後の、九歳の時だった。
 初めて見る家に、初めて会う人たち。母を亡くして間もない少年に対し、周囲の目は冷たかった。
 口さがない噂話に、謂れの無い中傷。とりわけ義母からうける不当な扱いが幼い高耶の心にどれだけ深い傷をつけたか、はかり知れない。
 九歳という年齢は、何も知らずに無邪気な心のままでいるにはあまりに高く、周りから無作為に向けられる言葉という刃から自分の身を護るには、あまりに低い年齢であった。
 その頃は毎日のようにあの夢を見ていた。
 優しく笑う母の夢。夢の中でだけはあの優しい母に会うことができる。
 かつての楽しい日々を恋い慕うように、あの夢に焦がれ続けた。
 けれど甘美なる記憶とは裏腹に、あの夢の最後に訪れるのは、いつも母との死別≠ニいう耐え難い結末だった。
 そんな高耶にとって、一条の光とも言える存在になりえたのは、腹違いの兄の氏照だった。
 内臓に疾患のあった氏照が、入院生活を終えて高耶の前に現れたのは、北条の家に引き取られてから三ヶ月を過ぎた頃のこと。
 常識で考えれば、自分の父親が妾との間に設けた子供など、本妻の息子である彼が快く思うはずがない。
 それでも氏照は新しくできた弟に対し、親切だった。北条の家で、高耶に優しく接してくれた唯一の人間だった。だからだろうか、あの頃の高耶にとって、氏照の存在は「生活のすべて」と言っても過言でないほどに、特別なものだった。
 半分しか血の繋がらぬ兄のことを、これ以上ないぐらいに慕っていた。
 それにも関わらず氏照は……彼の愛する人は、再び彼を残して先立って行ってしまった。
 そうして嘆き悲しむ高耶のもとに、その時現れた人こそあの男……。
 直江信綱だったのだ。

(こんなにも依存してしまうのは、オレがあいつのこと、兄さんの身代わりとして見ているからなんだろうか……)

 兄が死んだ、ちょうどその日の夜に、自分の前に現れた彼。
 直江を最初に見た時、彼はどこか似ていると思った。
 年のころだけではなく、穏やかな物腰や、低い声、思慮深い話し方、亡き兄が持つ空気とどことなく同じものを、彼も有していた。
 いまにして思えば、人見知りの激しい高耶が知り合って間もない直江と、あんなにもすんなりと親しくなることができたのは、「彼の中に氏照の影を見ていたから」という理由が大きいに違いない。
 氏照の死と入れ違えるようにして現れたことも、余計に高耶をそうさせたのだった。

(でも、違う……あいつは、氏照兄とは違う)

 北条の家に引き取られてからの高耶にとって、氏照はすべてとも言える存在だった。
 笛を始めたのも、元はと言えば氏照が教えてくれたからだ。兄に嫌われたくなくて、失望されたくなくて、必死で笛の練習を続けていた。笛が特に好きだったから……という理由ではなかった。兄が好きだったからこそ、続けていたのに過ぎなかった。
 兄に見捨てられてしまったら、この家で幼い高耶が生きていくすべなど無かったのだから。
 それが、直江と出会ってから高耶は変わった。
 直江が、高耶の笛を聴くたびに、そうして褒めてくれるたび、高耶の心は高鳴った。
 見ず知らずの人間が、自分の奏でる笛の調べに無条件で感動してくれるのは快感だった。彼の賛辞は、打算や阿りの一切無い高耶の演奏へ対する純粋なる評価だった。嬉しく思わないわけはなかった。そうしたらもっと上手くなろう、もっとたくさんの曲を直江に聴いてもらおうと、高耶はひたすらに練習を続け、それを繰り返していくうちに、笛を奏でることが楽しくてたまらなくなっていた。
 直江と一緒に笛を奏でるあの空間が、高耶は大好きになっていた。
 先日彼に語った、「みんなおまえのおかげなんだ」という言葉は、決してお世辞や誇張ではない。確かに直江が現れたことによって、未だ羽化できずにいたこの少年の秘めたる笛の才は、殻を脱ぎ、やわらかな羽を広げて、誰もが驚嘆するほどに劇的な変化を遂げたのだ。

(兄さんとは違う……氏照兄は、オレがこの家で生きていくためのすべてとも言える存在だった。でも彼は……)

 高耶は離れ座敷の縁側に近寄ると、そろそろと音を立てぬようガラス戸を開き、下駄を脱いで室内へと上がった。
 下駄の向きを揃えて、ガラス戸を慎重に閉めながら、唐突に思う。

(それじゃあ彼は、オレにとっての、いったい何なんだろう)

 不意に浮かんだ疑問に、高耶は戸の柄にかけていた両手を止めた。
 そのまま数瞬ほど考え込んだが、思うように答えが出せず、息を一つついて背後を振り向いた……その時。
 高耶はそこに佇む人影に、ハッと顔を上げた。
 いつの間に背後まで来たのだろうか、寝巻き姿の青年が一人壁に背を預けて佇んでいた。

「仰木君、夜中に部屋を抜け出すとは、穏やかじゃないな」

 にやついた顔で青年は、腕を組みながら言った。
 高耶はスッと瞳を細めて、警戒心を強める。青年の名は石巻。千葉と同じく北条家の内弟子であり、この離れの高耶の隣の部屋に住む者だった。
 年は高耶より幾つか上だが、入門したのは随分と後なので、高耶は彼の兄弟子に当たる。
 しかし彼は石巻のことが苦手だった。もの静かで礼儀正しい千葉とは違い、何かと問題が多く、そのくせ要領が良いので面倒ごとは高耶に押し付けて自分は知らぬ存ぜぬを貫き通す厚顔無恥さ。加えてこの家での高耶の立場の弱さを逆手に取られ、この男にはずいぶんと割りに合わない目に合わされてきたものだ。
 よって、心証の悪い人間と相対した高耶は、半ば条件反射で石巻の日に焼けた顔を睨みつけたのだった。

「別に、外の空気を吸っていただけです」

 素っ気無くそう言って、これ以上の詮索は受け付けまいと、石巻の前を何事も無く通り過ぎようとした。だがその時のことである。

「さっきの男、ずいぶんと良いナリをしていたみたいじゃないか」

 ビクリッと、歩む足を止めた。「見られたのか」と、咄嗟に振り返って石巻の顔を凝視した。その反応を見て石巻は底意地の悪そうな、いやらしげな笑みをその口元に浮かべながら、高耶にこう言ったのだ。

「あれ、おまえのオトコか?」

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。だがすぐにその意味を察して、大きく両眼を見開きながら、高耶は絶句した。
 
「なっ……」

 視界に映る、ニヤニヤと口元に浮かべられた、その下卑た笑い。高耶は途端顔を真っ青にして、拳をブルブルと震わせながら、怒りを抑え込んだような声で言い放った。

「下種な勘繰りはよせ……っ!」

 しかし石巻は依然として、そのニヤけた笑みを収めようとはしなかった。
 どころか、肩を怒らせる高耶にズンズン歩み寄ると、前触れもなく高耶の二の腕を浴衣の上から掴んだ。

「! なにすっ……」

 叫んで振り払おうとしたが、体格の勝る石巻の手は思うように払えない。石巻は抵抗する高耶の顔を至近距離で覗き込むと、その苛烈な光を宿す両眼をまじまじと凝視しながら、「へぇ……」と、意味ありげに感嘆した。

「おまえのこと、前々から先輩方が騒いでいた時は、別にどうとも思わなかったが……確かに最近おまえ、色気が出てきたみたいだな」

 何を言っているんだと、高耶が怪訝そうに、そして不快げに眉間に皺を寄せる。とにかくこの男の下卑た笑いが至近距離にあることが、我慢ならなかった。しかしそんな高耶の反応は意に介さず、石巻は掴んでいた右手にさらに力を込めると、そのまま高耶の肩を背後の壁へと押し付けた。

「なっ……離せ!」

 流石にこの状態に危機感を覚えて全力で抵抗したが、この男、以前に柔術でも修していたのか、片手半身で器用に高耶の動きを封じ込んでしまい、どんなにもがいても振りほどく事ができない。
 そうしているうちに石巻のもう一方の手が、高耶の体の線をなぞるように、薄地の浴衣の上をいたずらに彷徨い始めた。

「……っ! や、やめ……ッ!」

 予想外の展開に、自分でも恥ずかしくなるぐらい、情けない声が出た。驚愕以前に、あまりの嫌悪で、嘔吐感が込み上げてくる。顔面蒼白となって悶えるように身をよじる高耶の姿を、まさぐる手は止めず、石巻は面白いものでも見るように眺めていた。

「俺はそっちのケは無いつもりだったんだが、先輩方の気持ちも、少し分かる気がするかもな」
「っざけるな! 離せ石巻ッ!」

 相手は明らかに高耶を玩具にして遊んでいるのだ。その嘲るように浮かべられた笑みが、高耶の羞恥心を煽る。激怒に身を熱くしながら、高耶は渾身の憎悪を込めて石巻をギンッと睨みつけた。
 と、右手方向から何かが動く物音が聞こえたのは、その時だった。

「……何をしているんだ」

 冷えた声が廊下に響いた。
 驚いて声の方向を振り向くと、そこには自室の襖戸から顔を覗かせる、千葉の姿があった。
 寝起きなのだろう、いつもはピシリと整った髪は寝乱れており、起きぬけ特有の倦怠感が彼の全身を包んでいる。

「やぁ千葉。起こしちまったか。悪いな」

 悪びれもしない声で、石巻が言う。
 その飄々とした様子に、千葉は不愉快そうに眉を顰めながら、

「いまいったい、何時だと思っているんだ。悪ふざけも大概にしておけよ」

 そう苦言を呈すると、ピシャリと音を立てて襖を閉めた。
 寝入りばなに騒々しい物音で眠りを妨害されては、彼が抗議に起きだしてくるのも無理はない。
 だが高耶にとって、千葉の乱入は天の助けとも言えるものだった。
 石巻が千葉に意識を向けている間に、拘束されていた二の腕を解いて、壁際に押し付けられていた態勢から抜け出すことに成功していたのだ。

「……ちっ、千葉の邪魔のせいで、興が冷めちまったな」

 石巻が舌打ちしながらそう呟く様子も腹立たしく、高耶は踵を返して、一刻も早くこの男の傍から離れようとした。殴りつけてやりたいほどに業が湧く気持ちは山々だったが、下手なことをすれば後で義母にどんな告げ口をされるかと思うとそれも侭ならず、憤懣やる方ない思いをどうにか理性で捻じ伏せた。

「待てよ仰木君」

 呼び止められたが、高耶が振り返るはずもない。しかし、廊下の隅にある自室の襖の縁に手をかけた時、石巻から告げられた言葉に高耶は全身を硬直させたのだった。

「おまえが最近、直江家の人間と会っているっていう噂を聞いたんだが……」

 ギクリと、動きを止めた。言われた言葉の内容が、一瞬うまく咀嚼しきれない。
 そんな高耶の様子を嘲笑を浮かべて眺めていた石巻が、鷹揚な態度で呟いた。

「あの噂、本当だったらしいな」

 高耶はそれを聞くやいなや、襖を開けて、逃げ込むように室内に入ると後ろ手で勢いよく締め切った。
 部屋の中は真っ暗だった。明かりをつける気力もなく、高耶はそのままの姿勢でしばらくの間立ち尽くしていた。
 石巻が最後に告げた言葉を、脳内でゆっくりと反芻する。

(オレと直江とのことが、噂になっている……?)

 直江との付き合いについては、今まで家族の者には誰にも告げずにきた。これは名取でさえない自分が彼に笛を教えることに、少なからず後ろめたい思いがあったからである。
 しかしそのこと自体は、噂になってもさして構わない。教えると言っても、本格的な指導をしているわけではないし、月謝をもらっているわけでもない。これだけ頻繁に交際をしていれば、誰かの目にとまり、やがてそれが噂となって広まることもあるだろう。そのこと自体は何も不自然ではない。
 ただ気になるのは……。


 ── あれ、おまえのオトコか?


(違う、直江とはそんなんじゃない。オレたちに疚しいことなんて何も無い)


 高耶は両腕で自分の体を抱きしめた。冷や汗がそっと背筋を伝っていくのを感じる。
 明かりの無い部屋に、両目が徐々に慣れていく。暗がりの先にある机の上に、笛の袋が置いてあるのが見えた。それは母が唯一自分に残した、形見の品の笛だった。

 ……そう思うのに、ならばなぜこんなにも、心穏やかでいられなくなるのだろう。疚しいことがないのなら、堂々としていれば良いのに。石巻がどんな噂を広めようと、鼻で笑って否定してやれば良いだけなのに。気に揉まずとも、妙な詮索をされるようなことは、事実何もないのだ。
 彼と自分との間に、醜聞が立つのが不快なのか。良家の子息である直江の、名誉を傷つけるような噂が立つのが我慢できないのか。
 いや、違う。それだけではない。そんな言葉だけでは説明のつかないもっと違う感情が、自分の中で渦巻いているのを、確かに感じる。
 その感情がいったいなんなのか。高耶はそれに名前をつけるのが怖くて、思考を遮るように、じっと目を瞑る。それでも溢れる感情を遮断しきれない。目を逸らせば逸らすほどに、動かしがたい事実が己の目の前に突きつけられるように横たわっている。
 高耶は先刻心の中で自らに問いかけた言葉を、もう一度声には出さずに、己の心に向かって問いかける。

(オレにとって……直江は、いったい、何なんだろう……)

 ずるずると、畳の上に座り込んだ。
 認めてはならない現実がそこにある。
 開けてはならぬ扉が、音を立てて開かれていく。
 蒸し暑い空気に乗って、夏の虫たちのすずなりの声が、部屋の外からかすかに響いていた。
 高耶は震えながら、かの人の名を、そっとその唇で闇の中に紡いだ。





 その夜高耶は夢を見た。
 己の体を、衣服の上から卑猥な動きで撫で回す手。
 その動きは、昨夜眠りに着く前に高耶が受けた、石巻の手によるものとまったく同じものだったが……間近にせまる相手の顔は、石巻のものではなく、直江の端整な顔そのものだった。
 そのまま直江の手は、石巻も及ばなかった箇所にまで滑り降り、肌をたどり、愛撫のような動きを続けていく。

 ── 高耶さん。

 熱い囁きに、体を震わせた。
 石巻相手には嫌悪感しか覚えなかった行為が、高耶の心を妖しく惑わす。あれほど抵抗した行為を、ただ為されるままに受け入れている自分がいる。そのことを意外にすら思わない自分がいる。
 そうして彼の手が、衣服の合間から忍び込み、日に焼けぬ太ももを撫で上げる。ひとしきりそうした後、長く節ばった彼の指が腿の内側をたどり、その上にある局部を包み込もうとした、その瞬間に……高耶は目を覚ました。
 呼吸は乱れて、しきりに胸を上下させた。喉がひりつくように熱い。
 ゆっくりと上半身を起こす。汗だくの肌が心地悪い。
 饐えた臭いが、鼻をついた。独特の臭気は、若い高耶には覚えのある種類のそれだった。
 高耶は瞳をひきしぼるように瞑って、知らず、両手で己の体を抱きしめる。

(なんで……)

 ── 高耶さん。

 熱い囁きが、鼓膜に張り付くように頭の中を占拠する。

(違う、そうじゃないだろう……)

 聞き分けのない子供のように、ぶんぶんと頭を振る。不埒な思考を必死に追い出す。そうじゃないと、彼はそんな相手じゃないと。彼のことを、自分は決してそんな風には思っていないと……!

(そんなんじゃ……)



 ── いないの? 好きな方。

 ── そう……そうなの。ある意味で、幸せかもしれないわね。こんなに苦しい思いを、知らずに済むんですもの……。



 不意に、いつか話した、一人の少女の言葉が脳裏に甦った。



 ── 好きな人ができるのって、どんな気持ちかな……。



 文机の上に乗る笛袋には、小さな匂い袋がついていた。
 笛を聴かせてくれたお礼にと、彼女から渡された、美しい縮織の袋。
 あの夜以降記憶の底から浮上することすらなかった彼女のことが、どうしてか、こんなにも思い出される。
 ……いま、無性に彼女に会いたい。
 会って、話をしたい。
 恋のために、何もかもを捨てようとさえしたあの少女に、いまの気持ちを聞いて欲しい。この感情が、なんと呼ばれる想いなのか……誰でもいい。打ち明けたい。
 高耶は切実にそう思い、敷き布を強く握り締めた。
 痛みに耐えるように、拳を固く固く、握り続ける。
 叫びだしたい思いを、一滴の涙に込めて、ただ一筋頬を濡らした。
 
 その夜は二度と、眠りが訪れることはなかった。
 

高山流水
篠笛恋夢物語