2005*11*3
Mail
......Back......Home......Next......
To Be Continued......
 11話にして、初めて高耶さんの洋装披露です。
 彼は明治大正あたりの近代小説によく出てくる、「サナトリウム」とか、「労咳」とか、そういう単語が似合う美しくも儚き文学青年に違いありません。(←労咳はやめておいて)
 が、しかし。学帽ですよ。学帽(笑)。それでも坊主だけは勘弁してやってください。本当に。
 今回の題名の、「音と香りは夕暮れの大気に漂う」は、ドビュッシーのピアノ曲の題名から取りました。詩的で素敵なタイトルですよね。情景が思い浮かびます。
 11話、話の展開はあまり進みませんでしたが、高耶さんの心は核心に近づきつつある様子。直江の方は依然としてはっきりしませんが。煮え切らない男め。
 次回12話は、いよいよ師走の名取試験です……。プロット通りに書き上げられれば良いのですが、自分でも思わぬ展開に転んでいきそうな予感もしますね。
 
 
 
 第十一話


 あの日から高耶は、直江のことを避けるようになっていた。
 毎週日曜にはかかさず行っていた笛の稽古も、「名取試験の稽古があるから」とか、「学校の用事があるから」とか、適当な口実を作って断り続け、最後の稽古をしてから、もう一ヶ月にもなる。
 その間に季節は移ろい、日もすっかり短くなって、冷気を伴った風が秋の訪れを感じさせる時分となった。
 この頃にはさすがに直江も、高耶から意図的に避けられていることに気づき始めていた。
 原因は分からない。思い当たることがあるとすれば、八月の末に二人で夜道を散歩したあの日のことなのだが。
 しかしあの時の自分のどの行動が、それほどまでに彼の機嫌を損ねてしまったのか……直江には皆目検討もつかなかった。
 それとも、彼と直江家の跡取りである自分が交際していることに対して、周りの者から何か、無粋なことを言われでもしたのだろうか。
 あるいはそれが一番ありえる理由かもしれない。往々にしてそういう、妬み根性だけは旺盛な連中はいるものだ。
 しかし確認しようにも、当の本人に随分長い間会えていない。
 会社帰りに耳にする、山茶花垣越しに漏れ聴こえる笛の音にすら、自分を拒むような響きが含まれている気がしていた。
 どこかその音色は物悲しく、何か、ともすれば泉のように溢れ出てしまいそうな激情を、必死に抑え付けるかのような、押し殺そうとするかのような……そんな、切なくも苦しい気持ちが凝縮された調べであった。
 それが誰を想い、かの少年が奏でた調べであるかまでは、直江ですら読み取ることはできなかったのだ……。



                *



 九月も終わりのある日のことだった。
 大学を出たての時に友人と共に直江が興した会社は、依然として軌道に乗るには遠く、出勤中は山積みの業務に忙殺され、帰路につく時間も連日深夜に及ぶことが当たり前であった。
 しかしその日は普段では考えられないぐらい早い時間に、直江は帰宅の路についていた。
 取引先との交渉を終えた後、予定では接待の食事に赴くはずが、古くからの知己である取引先の人間に顔色の悪さを指摘され、「直江君はもう良いから、帰りなさい」と、気を使わせるという失態を演じてしまったのだ。
 確かにこの所高耶とのことで思うことがあり、加えて季節の変わり目ということで健康管理が疎かとなり、体調をくずしがちであった。
 もちろん直江は最初遠慮したが、付き合いが長いのだから気づかいは無用と、豪快な笑いと共に一蹴されてしまい、そう言われては断ることもできず、直江はその言葉に甘えさせてもらって後の接待は同僚達に任せ、まだ日も落ちぬ夕刻の時間帯に、取引先から直帰することとなったのである。
 普段乗車する乗り合いバスとは、逆方向の路線に乗って、直江は自宅最寄のいつものバス亭で車を降りた。
 排気ガスが地面を舐めながら、フォードが目の前をゆっくりと通り過ぎていく。
 それを追うように、視線を左手に移すと、ちょうどそちらから、今度はいつも直江が帰宅に使う路線のバスが、すれ違いにバス亭に滑り込んできた。
 向こう側に渡るために、そのバスが通り過ぎるのを待っていると、停車したバスの中から二人の少年が降りる様が見て取れた。
 二人組みの少年は、白い半袖シャツに、黒いズボンというまったく同じいでたちをしていた。
 肩からは白いショルダーバッグを下げ、頭に黒い学帽を被っている。一目で、隣町にある第二中学校の学生であることが分かった。
 当時は今とは違い、小学校を終えて中学校に進学する者の数は非常に限られていた。一つの村内に二人とか、三人。下手すれば一人だけということもある。
 多分に漏れず、この町でも中学校に通う生徒の数はごく少数であった。
 直江はまさかと思い、二人組みの学生の顔を遠目から凝視した。そして視界に映ったのは、直江が想像した通りの人物だった。

(高耶さん……)

 高耶は友人らしき栗色の髪の少年と、一言二言、何か言葉を交わすと、軽く手を振りながら「じゃあな」と、少年らしく若々しい笑顔で別れの挨拶を交わす。そしてそのまま直江の存在には気づかず、くるりと踵を返して家の方角へ向かい歩き始めていた。
 予想だにしなかった偶然の再会に、体調の悪さすら忘れ、呆然の体で全身の動きを止めていた直江であったが、すぐに意識を取り戻したため、この好機を逃すようなことは無かった。

「高耶さん!」

 舗装された道路を大またで横切りながら、直江が彼の名を呼ぶ。
 呼び声に気づいた少年は、訝しげな表情で背後を振り返った。
 そして呼び声の主をその視界に認めた瞬間、すぐさま顔を不自然に強張らせたのである。
 直江は、その様子には気づかぬふりをして、彼の傍らに足早に駆け寄った。
 高耶は驚愕も露に目を見開いて、その暗褐色の瞳でこちらをひたと凝視している。

「ずいぶん、お久しぶりですね。高耶さん」
「………………」

 嫌味のない、やさしい口調で話しかけたが、高耶は無言だった。
 困惑するような、どこか、痛みに耐えるような、そんな複雑な表情であった。

「いま、学校帰りですか?」
「……そうだけど」
「それなら、家まで一緒に帰りましょうか。すぐそこまでですけど」
「……ああ」

 高耶がコックリ頷くのを見届けて、直江は少しだけほっとした。口を聞くのも嫌だと突っぱねられたなら、どうしようかと憂慮していたからだ。そんな心配も杞憂に終わり、二人は家へと向かう路をゆっくりと歩き始めた。
 けれど想像していた通り、足取りはどことなく重く、高耶の表情は暗かった。
 重苦しい空気をどうにか払拭しようと、直江はつとめて明るい声音で、隣を歩む少年に話しかけていた。

「あなたの制服姿を見るのは、初めてですね」

 彼の真白い綿シャツと、黒地の学帽を見つめながら、直江は感慨を込めて呟いた。
 普段直江がこの時間帯に帰宅することはほとんど無いため、今日のように彼の下校時間に鉢合わせするのは、彼と知り合って以来初めての体験であった。
 加えて、普段高耶は和装でしか出歩くことがないため、それ以外の彼の服装を直江は見たことが無かった。それゆえに、高耶が中学生だという事実は知っていても、洋装の制服姿の彼というのは、実際にこうして目にするまでなんとなく想像がつかなかったのである。

「なんだか、違う人みたいでびっくりしました」

 まったく害意無く告げた発言であったが、高耶はその言葉に、自嘲するように笑ったのだった。

「……あんまり、洋服は似合わないだろ」
「いいえ、そんなことない」

 直江はすぐさま首を横に振る。
 実際、驚いたのは確かだが、決して似合っていないなんてことはない。
 どころか、人並み外れた長身である直江には流石に及ばないものの、高耶は日本人の男性としては長身の部類に属していて、足が長く、腰の位置も高い、いわゆる西洋人めいた体格の持ち主だった。それがために、洋装のいでたちもなかなかに似合っていると思ったのだ。
 もともと顔立ちが整っているせいもあって、和装時とは違った、一種独特な雰囲気を醸しだしている。
 袖の短いシャツから伸びる腕が、思いのほか細くて、目を引く。
 これでは周りの女学生たちが放ってはおくまいと、直江は自分の学生時代を思い出して、そんな感想を抱いた。

「先ほど一緒にいたのは、学校のお友達ですよね?」
「ああ。小学校の時からの同級生。成田医院の息子なんだけど……」
「ああ……成田さんの所のご子息でしたか」
「家が近いから、よく一緒に帰るんだ」

 成田医院は、町内にある小さな診療所であるが、あそこの家と直江の家は古くから深い付き合いがあり、家主である成田氏の一人息子とも、直江自身幼い頃から面識があった。
 さきほど一瞬見かけた時、高耶に気を取られてほとんど意識を向けていなかったものの、どこかで見たことのある少年だと思ったのもなるほど道理であった。
 しかし、思ってもみない所に人との縁はあるものだ。まさか自分の横笛の君≠ェ、長年の知り合いであるその少年と、小学校以来の友人関係にあったとは……。

「どうかしたか?」

 少し、考え込むように黙り込んでしまった直江を、高耶が怪訝そうに見上げる。
 直江はその問いに、一瞬の間躊躇って、言いずらそうに口を引き結んでいたものの、結局思い悩んだ末に、正直に目の前の少年に打ち明けたのだった。

「いえ……あなたの交友関係というのを、いままで気にしたことがなかったものですから」

 高耶はその言葉を聞いて、少し、傷ついたような表情になった。

「そっか……直江はオレが笛吹いてる姿しか、知らないもんな」

 家で窮屈な生活を送る姿も、学校で学友達と親しく交流する姿も。……考えてみれば直江がこの少年について理解していることは、その全容と比較してあまりにも少ない。

「そうですね……私は、あなたのほんの一部しか知らなかったんですね」

 笛の音を聴けば、高耶の心が分かってしまうという特別な力を所有するためか、いつの間にか自分は、他の誰より彼のことを知り、一番にその心を理解している者であるのだと、勝手に思い込んでしまっていたのかもしれない。
 ところが実際には、自分はこの少年のことを何も知りはしないのだと、今日になって今さらに気づいたのである。
 自分はとんでもない自惚れやであったのではないかと、直江は自らの倨傲を恥じた。
 直江のそんな心情を知ってか知らずか、高耶は目を細めながら、俯きがちにこう語る。

「でもオレも、直江の会社関係とか、交友関係とか……ほかにも、全然知らないけど」

 彼はそこで心持ち表情を暗くした。
 本当は「女性関係とか」と、続けようとしたのだが、なんだか怖くなって、そんなことを気にする自分が情けなくて、不自然に言葉が知り窄みになってしまった。

「そういえば、そうですね」
「親しい友人とか、いるのか?」
「そうですね。友人……というか、同僚に、私のことを滝口≠ニあだ名で呼ぶ変わった人がいますよ」

 滝口? と、一瞬きょとんとして高耶は首を傾げる。けれどすぐにその意味が思い当たった。

「……ああ、横笛≠セから?」
「そう。色部さんって言う人なんですが、昔その人に横笛の君≠フ話をしたら、すっかり笑われてしまってね。それ以来ことあるごとにそのあだ名で呼ばれてるんですよ。酒の席で口がすべったとは言え、後悔したものです」

 直江はそう言って困ったように苦笑したので、高耶も少しだけ、口元を綻ばせた。



 二人はとぼとぼと、夕暮れの家路を歩き続けている。
 電柱に止まるカラスが、カァカァと鳴く様が、初秋の落日を背にしてひどく哀愁を感じさせた。
 西日を受けて、黒い二つの影が足元から長く地面に伸びている。
 どこかの家から、金木犀の香りが風に乗って辺りを包んでいた。
 足元に目線を落とすと、金色の小さな花が、地面にいくつか粉雪のように、まだら模様を描いていた。
 その花を追うようにして角を曲がれば、遠くから笛の調べが聴こえる。
 高耶の家の、笛の稽古の音が漏れ聴こえているに違いなかった。まだ日も落ちぬ、この時間帯のあの家からは、こんなにも鮮明に笛の音が聴こえてくるのかと、直江はいまさらながらその事実に驚いたのだった。
 金木犀の香りと、笛の音。夕暮れの空間に、それらが溶け込むように混ざり合う。

「……音と香りは、夕暮れの大気に漂う=v

 不意に高耶が呟いたので、直江はその横顔を見下ろした。
 ここに広がる情景を、実に的確に、美しく表現した言葉だと思ったのだ。

「素敵な、一節ですね。誰かの詩か何かですか?」

 高耶が長い睫毛を瞬かせながら、首をゆるゆると振る。

「いや。フランスかどこかの作曲家の、ピアノ曲の題名。いま、ふっと思い浮かんだんだ……」
「フランスの?」
「ああ……この前おまえの家で聴かせてもらったラジオで、流れていた曲なんだ。とても綺麗な曲だった……」

 悲しげで、静かな旋律が甦る。
 その密やかな調べは、まるで高耶の心を表すかのように、切なくも重苦しく、……たとえようもなく、美しかった。
 不協和音の奏でる危うい響きが、まるでこの男を想い揺れる、愚かな自分の心のようで。

 直江は、俯きがちに語る、隣を歩む少年の横顔を、ひたと見つめた。
 芳しい香りと、笛のわずかな調べが、二人の間に流れている。
 やがて直江は決意をこめて、その重い唇を開いた。

「……うちの庭にも、金木犀と、銀木犀の木が植えられているんですが、もう少しで満開になりそうなんです。良かったら、見に来ませんか?」

 高耶が顔を上げた。目の前に真剣な直江の眼差しがあった。
 遠まわしながらも、今日になって、初めて核心をつく直江の言葉だった。
 しかし高耶は、どこか切なげに瞳を細めた後、まるで直江の心を退けるように、視線をそらした。
 それが高耶の返答に違いなかった。

「……ごめん。試験の稽古が、忙しいんだ」

 もちろん嘘だった。忙しいのは本当だったが、試験日にはまだ三ヶ月近くある。直江の家を、訪ねる暇さえないほどということは無いのだ。
 けれど、あんな夢を見て、彼の好意を曲解して貶めるような自分に、彼の家を訪ねるような資格はないと、高耶は思っていた。
 
「……そう。残念ですね」

 直江がため息まじりに、静かに呟く。
 そう言って、簡単に引き下がってしまう彼が、高耶には少しだけ恨めしかった。
 どうしてもっと食い下がってはくれないのだろう。自分の存在は、やはり彼にとって、その程度のものなのだろうか。
 しかし、そんなことを考えてしまう愚かな自分をこそ、恥じるべきだと高耶は自戒した。自分の女々しさが、どうしようもなく腹立たしかった。
 一方の直江は、芳しくはない高耶の返事に、内心で項垂れていた。
 いよいよ、彼が自分を避けているというのは、動かしようも無い事実のようだ。
 なぜ、と問い詰めたい気持ちは山々だったが、この様子ではこの頑なな少年は、決してその理由を直江に明かしはしないだろう。
 彼にそうさせる原因は依然として分からないが、事態は自分が思うよりも、よほど深刻なのかもしれない。気にならないはずはなかったが、けれど不用意に踏み込むことで、彼に強く拒絶されることを思うとその一歩が踏み出せない。
 結局彼の返答に食い下がる勇気もなく、「残念ですね」とため息をつく以上のことは、直江にはできなかった。


 それきり二人とも、口を開かなかった。重い沈黙を抱えたまま、山茶花の垣の前を通り過ぎていく。
 ややして、分かれ道へと差し掛かった。
 「それじゃあ、ここで」と、直江は気まずげな表情で会釈をしながら、高耶に背を向けて歩き始めた。
 いつもに比して、ずいぶん素っ気無い別れ際だった。
 あたりまえだろう。彼は、自分の態度に気を悪くしてしまったに違いない。高耶は眉間に皺を寄せながら、きつく唇を噛んだ。
 けれど、どうしようもないではないか。高耶は、これ以上直江と親密になっていくのが、怖いのだ。
 明らかに、彼が自分に対して抱いている感情は、自分が彼に向けるそれと同じ種類のものではないことが分かるのに。これ以上傍にいて、自分の中にあるこの愚かでいかがわしい妄念を彼に知られてしまうことがあるのなら、いっそ死んでしまった方がマシだと思った。
 それなのに、いまこの胸に渦巻く、深い悲しみは何だろう。
 自ら遠ざけたくせに、直江が背を向け自分から離れていくことが、こんなにも耐え難い。いますぐにも駆け出していって、その背中にすがりつきたいような衝動に駆られる。
 金木犀の花びらが、足元に散らばっている。それを踏みしめて、高耶は一歩前に進み出た。
 呼び止めようとするかのように、右手を宙に差し伸べる。
 気づいたときには、遠ざかっていく広い背中に向けて、彼の名を叫んでいた。


「直江!」


 呼びかけを受けて、彼が、ゆっくりとこちらを振り返った。
 心底驚いた風情で、自分を見つめている。その視線がこちらの視線と宙で結ばれた瞬間、高耶の眦に、わずかに涙すら浮かび上がっていた。
 滲んだ瞳のまま、頬を赤く染めて、彼は決死の思いをその一言一言に込めながら、懇願した。


「試験に受かったら、海に連れて行ってくれないか」


 前ぶりのない突然の要望に、直江が目を見開く。緊張の一瞬だった。けれど間髪おくことなく、

「もちろん。いいですよ」

 そう言って、いつもと同じ柔らかな微笑みを彼は浮かべたのだった。
 唐突に、高耶はその笑顔が、とても好きだと思った。
 たぶん、幼い頃氏照が自分に向けてくれた、あの笑顔よりも。

「……でも、試験は十二月でしょう? 海は寒くありませんか?」

 直江の、少し心配そうな問いに、高耶はぶんぶんと首を振る。

「いいんだ。冬の海、好きなんだ」
「そう。それなら良かった……」

 ホッとしたように、彼は息をついた。
 それはあの夜の散歩の別れ際、「今度一緒に、どこかへ遊びに行こう」と提案した、直江の誘いに対する、高耶の返事であるに違いなかった。

「試験のお稽古、がんばってくださいね」

 少し離れたところから、直江が優しく言葉をかけてくる。
 いつもと同じ口調。……良かった。これならきっと、彼は自分のことを嫌ってはいない。そう思って、そのことが嬉しくて、高耶は泣き笑いのような表情を浮かべると、

「ああ。がんばるから、約束だからな」

 そんな風に、念を押すように告げる。
 直江はその言葉に、深く一つ頷いた。そうして今度こそ踵を返すと、彼は笛の音響く黄昏の中、足元に長く伸びる影を引き連れて、家路を歩んでいったのだった。
 高耶はその後ろ姿をしばらく見つめて、やがて見えなくなると、頬を静かに流れる涙をシャツの袖で拭いながら自らも踵を返し、門へ向けて一歩一歩踏みしめるように、足を進めて行った。




 いまは試験のことだけを考えよう。それ以外のことは、その後にまた考えればいい。
 たとえもう、以前のような穏やかな関係の二人に戻ることは無いとしても。
 この先に残された結末は、一つしかないのだとしても。
 そうだとしても、……それに立ち向かえるだけの勇気を、持たなくてはならないのだ。




 赤く染まる夕陽を見つめながら、帽子を脱ぎ取り、無造作に前髪をかきあげる。
 赤と白と青の滲んだ光が、大空に淡く、ゆるやかな階調を描いている。
 隣家の塀の上からは金木犀の木が覗き、その向かいの空き地には、夕焼けよりも赤い曼珠沙華が、燃え上がるようにその花弁を天に広げていた。

 
高山流水
篠笛悲恋物語