2005*11*17
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To Be Continued......
 今回の12話は、本当は氏照と同じように、弟のことを慈しんでいたのだけれども、過去に受けた傷ゆえに、そして自分自身の不器用さゆえに、それをずっと伝えることができなかった兄上のお話でした。「群青」好きのあなたならお楽しみいただけたかと思います。
 兄上とのエピソードは、もっとこう、小出しにして深く書き込んでいきたかったのですが、それよりも話を早く進めたくて進めたくて、中途半端な感じになってしまった感は否めません。……連載物の難しさですね。完結したら書き足したいものです。
 今回は兄上が主人公のお話ですので、直江が出てきません。これは非常に珍しい。「高き山〜」の話に限らず、直江がまったく登場しないどころか、直江の「な」の字も出ない話なんて!
 それでも大丈夫、怖くない。次回13話からは物語のメインに復帰致しますので。
 次回、名取となった高耶さんは、いよいよ直江との距離を縮めることができるのか?
 激動の13話、後ご期待♪
 
 第十二話


 あれから数ヶ月の月日が流れ、いよいよ十二月の朔日、名取試験当日がやってきた。
 その日はこの町で、今年初めての雪が降った。儚くも脆い細雪が、北条の家の小さな庭に、天から音もなく静かに降り注いでいた。
 この日は、試験を受ける北条流の門下生が、全国から家元のもとへと遥々集結する。
 会場は北条の屋敷の応接間。ようするに、家元に直接師事する宗家の門下生にとっては、普段から使用している稽古部屋である。
 今年の受験生は、高耶を含め七名であった。しかし残念なことに、共に試験を受けるはずの千葉は、折り悪く直前に持病をぶり返してしまい、稽古もできないためとても受験に臨めるような状態ではないと判断され、試験を受けることすらなく、彼の名取は来期に持ち越すことになってしまった。よくよく、運の悪い青年であった。
 千葉の離脱によって、実質名取試験を受験する生徒は六名になる。控えの部屋で顔を見回すと、年齢性別ともに皆バラバラで、六名の中では高耶が最年少であるようだった。
 試験は午後一時から開始された。まず最初に大阪の門下生から試験が始まり、次に愛知、神奈川、そして最後に宗家の門下生という運びとなっている。
 当初の予定では、兄弟子の千葉が取りとなるはずだったのだが、彼が外れたことによって、自動的に高耶が最後を務めることとなった。
 応接間には、上座に家元、家元夫人が座り、その右手に各門下生の師匠、そして立唄、三味線、囃子方がそれぞれに座している。
 囃子方等は本家の名取の弟子が務めている。試験課題二つのうち、一つは受験生である笛方との合奏なので、三味線と鼓とが必要となるのだ。
 やがて五名の試験が滞りなく終わり、残すは本家門下生、高耶の番のみとなった。
 氏政は家元夫人の横に座しながら、スルスルと障子を開け、低く頭を下げて入室する若者を見上げた。
 若者は鶸茶ひわちゃ色の無地紋付という上等な品に身を包んでいた。
 歩く度に、シュッシュッと衣擦れの音がする。高耶が正絹の着物に袖を通すのは、非常に珍しい。記憶違いでなければ、彼は絹のものを一着も持ち合わせてはいないはずだ。
 氏政はその鶸茶の色無地に見覚えがあった。氏照が、生前に愛用していたものである。紋が北条家の家紋三つ鱗≠ナあることからも間違いない。
 氏照の形見として譲り受け、高耶に合わせ改めて仕立て直しをしたのだろう。上品なその色無地は、凛とした空気を纏うこの少年によく似合っていた。
 高耶が下座に置かれた座布団の上に座り、深く丁寧に手を着いて礼をする。

「仰木高耶でございます。本日は、よろしくお願いいたします」

 よく響く声で告げ、深々と頭を下げた後、高耶はピンと背筋を伸ばした。
 真っ直ぐで、透き通るような光を宿す双眸が、上座の家元を見据える。
 室内に座すその場の誰もが、この姿勢の美しい若者の一挙一動に注目していた。そうさせずにはいられない何かを、この若者は生まれながらにして持っているのだ。
 彼は同じように一挺一枚、及び囃子方に礼をした後、傍らに置いた包みから笛を複数取り出した。そのうちの一つを手に取ると、緊張を感じさせない流れるような所作で、口元に構える。
 一つ目の課題曲は、長唄「黒髪」。
 長唄の中では入門曲と呼ばれるほどよく知られた曲だが、それだけに奏者の実力の程が顕著となる曲目である。
 もちろん高耶もこれまでに何度と無く奏してきたものであった。
 一瞬の緊張が、室内を占領する。前弾きの始まりと共に、いよいよ高耶が歌口に息を吹き込んだ。
 仰木高耶にとって、篠笛北条流名取をかけた試験開始の瞬間である。


 ピィィィィ──────


 三味線の旋律に、唄が、そして笛の音が絡まりあっていく。

 
 ── 黒髪の 結ぼれたる思ひをば 解けて寝た夜の枕こそ 独り寝る夜は仇枕


 朗たけた声で、しっとりと紡がれる唄。それに重なる笛の調べ。
 甘美な音色の持ち主の師である氏政は、息を飲んでその調べに聞き入った。
 実際、高耶の演奏は他の受験者と比べても、群を抜いた完成度であった。あれほど合奏を不得手としていた数ヶ月前の彼からは、想像もつかないほどの成長ぶりと言える。
 もちろんそれは、幾度と無く稽古を繰り返し、練習を重ねた彼の努力による所が大きい。しかし、それだけでは説明しきれない何かが、彼の紡ぎ上げる調べの中に、確かに存在していた。


 ── 袖は片敷く妻じゃと云ふて 愚痴な女子の心は知らず しんと更けたる鐘の声


 「黒髪」は、孤閨の淋しさ、そして恋のせつなさをその優美なる調べに乗せて描いた長唄だ。かつては固く結ばれあった相手を恋い慕い、焦がれ、独り寝のつらさを嘆き悲しむ、そんな女の心を唄う。
 以前までの高耶の「黒髪」は、技術を云々する前に、ひどくあっけらかんとした厚みの無い演奏であった。表現があまりに幼く、心をこめているつもりであっても、情景をまったく伴わないのだ。
 言うなれば爽やかな「黒髪」≠ニ呼ぶに相応しかった。無論、男の心離れを嘆く女の心情とはほど遠い。
 高耶がこの曲を吹くたびに、その調べの清々しさのあまり、母からの失笑を買わぬことが無かったことを、氏政はよく覚えている。
 しかし今、彼が奏で上げる「黒髪」はどうだろう。
 熟練の奏者が表現する、繊細で緻密な手弱女の調べとは違う、純粋にして鮮烈な想い。恋に生きる女の激しい嘆き。それは瑞々しくも若い思慕。それがゆえに深い絶望。
 その笛の音から慟哭の声が遠く聴こえるようだ。
 表現の深みが、以前とはまるで比べ物にならない。この数ヶ月間でいったい、何が彼をこの境地へと導いたのか。この歴然の差は稽古の量などでもたらされるものではない。

 氏政は高耶の顔をひたと見つめる。心持ち瞼を伏せて、歌口に吹き込む様。
 その様子に、とある面影が重なったのはその時だった。
 遠い思い出の中に沈む情景が、高耶の姿に重なる。
 肩に垂らした、長い黒髪。白い首元。けぶる睫毛。


 ── 夕べの夢の今朝さめて 床し懐かしやるせなや
  積る知らで 積る白雪──


 唄が終わり、三味線と、笛の音が余韻を残して途切れる。
 課題曲一つ目の、終了だった。
 試験官である家元も、夫人も、及第どころか、この出来では文句のつけようがないだろう。
 氏政の隣に座していた師範たちも、演奏中からしきりに目を見合わせていた。
 高耶の演奏は、明らかに名取試験課題曲の水準のものではなかったのだ。

 程なくして、高耶は二つ目の曲目演奏への準備に移った。
 六本調子の笛から、桜の笛筒から取り出した、十本調子のものへと持ち替える。
 それは高耶にとって、実の母に当たる人の形見の品。
 銘を「吉祥丸」と言う。
 その笛はかつて、高耶の父が手ずから作り、亡き母に贈ったものだった。
 もちろん氏政も、その事実を誰よりも知っていたし、高耶がその柿渋色の笛で楽を奏でるたびに、母が不愉快そうに眉を顰め、きつく目を眇めていたことも知っている。
 今日、あえてその笛で高耶は二曲目の課題曲に挑む。
 曲目は──題名を、「吹雪」。
 「黒髪」のような古典作品ではなく、北条流先代家元による作曲の、篠笛独奏曲である。
 先代とは、すなわち氏政や高耶にとっての祖父に当たる人物である。(尤も、先代は高耶が生まれる前に早世したため、氏政はともかくとして、高耶とこの人物との面識は皆無である)篠笛北条流における名取試験の課題曲には、伝統的に北条流先代、あるいは先々代家元の作曲が使われる慣習があった。
 高耶は笛を構えると共に、その双眸を固く閉じた。
 静寂の流れる中、ゆっくりと、肩を上下させて呼吸をする。
 固唾を呑んで、室内の者達が少年の動作を見守っている。
 ピンと緊張感の張り詰めた応接間には、彼の呼吸音しか聞こえない。
 一つ……二つ……三つ……息を吸い込むと同時に、その両眼を開いた。
 現れた二つの眼に、紅蓮の炎のごとき影が揺らめくのを見た。


 ピィィィィィ─────ッ!!!


 その瞬間、空気を引き裂くような笛の音が木霊する。
 力強く、噛み締めるように高耶が音を生み出していく。
 指が指孔を押さえると共に、畳み掛けるかのごとき激しさで、次から次へと、調べが移り変わる。
 その場の誰もが、時をおかずしてその音楽に引き込まれていた。高耶の奏でる世界に、抗うすべなく没頭する。妖術に絡め取られたかのように、いつの間にか誰しも没入を余儀なくされている。
 音の一つ一つが、まるで輝く雪の結晶のようだ。太陽の光を受けて、反射し、銀の軌跡を空に描く。
 雪原の只中にいるかのようであった。天井があるはずなのに、その眼には板天井を遥かに越えて、空から舞い落ちる無数の雪が映っていた。
 音が天井を突き抜けて、天空へと舞い上がっていく。虚空の彼方に届くかのように。

(なん、ていう……)

 知らず、指先が小刻みに震える。

(これが……本当にあの、弟の笛なのか……)

 彼の直接の師である氏政にすら、いや、だからこそ、驚愕を隠すことが出来ない。
 稽古の時とは明らかに違う。技術とはまた別の、魂を底から揺さぶるような強い何かが、この演奏には込められている。
 霊感というものを、氏政は今まで感じたことがなかった。
 しかしいま、この背筋を稲妻が駆け巡るような感覚を、それ以外の言葉ではもはや表現できない。
 高耶は双眸を見開いたまま、瞬きもせず、次々と音を紡ぎ続けていた。視線は正面を見据えながら、しかし彼の視界はここには無い。
 稽古の時は決して見せることのなかった、神がかりのような危うい光をその瞳に宿し、無我の境地で音楽をその指と笛で生み落としていく。彼の身体中から、白炎が立ち上っていくようにすら感じた。
 ……努力や経験だけでは超えられぬ壁を、まざまざと見せ付けられるかのようだった。
 天才と呼ばれる者の存在をこの世に認めるとしたら、いま、この瞬間以外にはありえない。
 知らず、目頭が熱くなるのを、もはや止めることなどできなかった。

(……氏照、聴こえているか……)

 熱を帯びた瞼を引き絞りながら、今は亡き弟の名を、胸の中で唱える。
 生前、誰より高耶の近くにあったあの青年を、脳裏に思い描く。

(この原石に、誰より早く気づいた者は……おまえだったのだろうな)

 氏政は宙を仰いだ。そこにはあるはずの天井の木目は無く、彼の視界には雪吹き荒ぶ満天が、地平線の限りに広がっている。
 この天高き楽の音は、天上へと昇り、眠れる彼の者の魂にも届いているに違いない。
 氏政の隣に座す家元夫人は、蒼白な表情で高耶の顔を凝視していた。
 その場の誰もが、この少年の奏で出す世界に、一瞬の余裕さえなく魅入られ続けていた。
 全神経を、彼の笛の音の動きだけに注ぎ込む。
 室内だけではない。障子を越えて、音が漏れ出で、流れ出し、控えの部屋にいた受験生も、そして石巻も、……千葉も。
 音楽が、この雪降り積もる白い屋敷を、包み込む。
 それ以外の音は聞こえはしない。誰もが手を止め、その場に立ち尽くし、声も無く、高耶の生み出す音の流れに、耳を傾けていた……。



               *



 試験は無事に終了し、受験生達は各々の宿へと帰っていった。
 昼の間、あれほど降りしきっていた雪は、既に止んで久しく。底冷えするような冷気の中、夜の闇がしんとそこに漂っている。
 夕食の後、廊下に出た氏政は、縁側の隅で、高耶が籐の椅子に座してガラス越しの景色を見つめている様を目にして、足を止めた。
 夕食が終わって、自分に課された家事を済ませた後は、さっさと自室に籠ってしまうこの少年にしては珍しい。氏政はそっと足を進め、彼の傍らに音も無く佇んだ。

「こんな場所で、寒くはないのか」

 ぼんやりと闇の庭を見つめていた高耶は、声をかけられてようやく氏政の存在に気づいたようだった。

「氏政さん……」
「そんな所にいれば、風邪をひく。私の部屋に来なさい。少し、話したいことがあるんだ」

 そう言うと、高耶の返事を待たずしてさっさと踵を返してしまった。
 高耶は躊躇いつつも、やがて籐椅子から腰を上げ、その広い背中についていく。部屋の前に辿り着くと、氏政は自室の襖を開けて、眼の動きで高耶に入るように促した。
 氏政の自室である十畳間は、彼の性格をまさしく象徴するかのように、ひどく整然としていて、生活感のどこか乏しい空間であった。
 高耶が北条の屋敷に引き取られてから八年の年月が経つが、この部屋に足を踏み入れたことは数えるほどしかない。
 文机の横には火鉢が置かれているので、室内は暖かい。冷え切ってしまった体にぬくもりが染み渡る……。
 促されるまま座布団に腰を下ろした高耶に、氏政が穏やかな声音で問うた。

「試験の出来は、自分でどう思った?」

 胸を張って自信満々に答えるかと思われたが、無論高耶の性質からそういうことは無かった。

「……失敗は、無かったように思います」
「謙虚だな。心配せずとも、あの出来ならば合格は間違いない。もう少し自信を持ちなさい」

 そうでしょうか……と、力無く少年は呟く。
 そんな彼の言動が、多少歯がゆく感じたが、この少年の生い立ちを考えれば、このぐらいは致し方の無いことなのかもしれない。氏政はそう思い、軽く息をついた。
 また、自分はこの異腹の弟に、事ある毎過剰なまでに、ひどく遠慮されている事実を知っている。
 そしてそうされる原因の心当たりも、彼には大いにあった。

「……今日、おまえが笛を吹く姿を見て、一瞬、おまえの母親のことを思い出したよ」

 突如として予想だにせぬ氏政の発言に、高耶は眼を心持ち見開いた。

「おまえは、父にはまったく似ていないが、母親にはよく似ている。特に笛を吹く姿は亡き人を前にしているかのようだ」

 高耶は声も無く氏政を見た。
 氏政の瞳は、真っ直ぐに高耶を見つめていながらも、それを突き抜けてどこか遠くを映しているかのようだ。

「母がおまえにつらく当たるのは、そのせいもあるのだろうな……」
「…………」

 氏政の呟きに、高耶は強く唇を噛んだ。
 彼女の気持ちは分からないわけではないが、だからと言って義母に同情の念を持つには、少年はあまりに若すぎたし、幼い頃の記憶が未だ生々しすぎたのだ。
 そんな高耶の様子を窺いながら、氏政は少しだけ眼を細める。

「おまえの母親のことは……私もよく覚えているよ」

 彼がその唇で、自分の前で母の名を紡ぐ様を、高耶は初めて見たような気がした。

「私がまだ名取にもならない頃……彼女は通いの弟子で、いつも一緒に稽古を受けていた。彼女は私より五つ年上で、おまえを身籠った時、二十歳になったところだったから、私は十五歳の中学生だった」

 一気にそう言うと、彼は瞳を伏せる。少しだけ口角を上げて笑う様が、思いのほか淋しそうに見えた。

「今のおまえとそう変わらぬ頃だ。おまえも分かると思うが……ちょうど、多感な時期でな。五つ上とは言え、彼女は……そう、まるで小百合のような人だった。氏照などはまだ、小学校も出ぬ年頃だったから、特に気にもならなかったらしいが……私は少し違った」

 茫然と、氏政を凝視する高耶には構わず、彼は遠い過去を振り返る人と同じ動作で眼を細めながら、過ぎ去りし日々を脳裏に甦らせている。
 一人の少女を目で追うのに忙しくて、稽古中にもまったく身が入らず、師匠にその都度殴られていた……あの頃の思い出。

「そんな彼女が父の子を身籠ったと知った時の衝撃は……今でも手に取るように思いだせるほどだ」
「…………」

 目を閉じてゆっくりと語った、氏政の、苦く刻まれた口元の皺を見つめる。
 高耶は、氏政の語るその思いを、何となく共感することができた。
 半年前、氏照が亡くなる前までの彼にはおそらく共感できなかったであろうその感情。

(氏政さん……)

 その時、柱時計の針が夜八時の時刻を指し示した。
 低く暖かみのある音が室内に響き渡る。二人はしばしその音を無言で聞いた。
 そうしてそれがちょうど八回繰り返され、音の余韻が掻き消えた後、静寂を振り払うかのように、氏政がようやく唇を開いた。

「それから数年経って……彼女の子供が、この家に引き取られてきた」

 そこで言葉を切って、やや躊躇うように視線を彷徨わせた後、彼はどこか観念したかのように、こう言ったのだ。

「その子は、あまりに彼女に似ていて……私は、彼女の子供がとても怖かった」

 低い声で告げられた言葉に、高耶が目を見開く。「怖い?」と、意識無く唇が呟いていた。
 その時氏政が、伏せていた瞳を開けて視線を高耶に向けた。
 向けられた瞳の色は、高耶のそれとよく似た暗褐色だった。

「そう、怖かったんだ。おまえを見ていると、彼女への気持ちを思い出してしまいそうで」

 静かにこちらを見つめる、氏政の双眸。
 高耶は愕然とした表情で、それを見つめ返すより他すべがなかった。
 何か、言葉を返さなければと思うのに、思うように唇が動かなかった。
 いつも自分に対して無関心であり続けていた兄から、八年目にして告げられた事実に、思考が追いつかず、口の中がカラカラに渇いていた。
 高耶は知らず、膝の着物の裾を握り締めていた。
 その様をつぶさに見つめていた氏政は、やがて力無く首をゆるゆると振った。

「……少し、話しすぎたな。人の昔話を聞かされることほど、つまらないものもない」
「…………、そんなこと」

 高耶がようやく小さな声でそう返したが、氏政はただ苦笑しただけだった。
 怜悧な印象しかなかったこの兄が、これほど優しげな笑みをこの年の離れた弟に向けたのは、きっと初めてだろう。
 氏政は机の上に置かれた、中身の入らぬ湯呑みを片手で握り締めた。
 
「おまえに話したかったのは……北条流のことだ。三日後には、試験の結果が出て、おまえも北条≠フ名を名乗ることを許されるだろう」
「……はい」
「その時に、真剣に考えてくれないか。北条流を継ぐことを」

 告げられた言葉の意味を、一瞬高耶は把握し損ねた。
 けれどすぐにその意味を知覚し、その瞬間、今度こそ高耶は驚愕に顔を強張らせる。
 あまりのことに、茫然と氏政を凝視する。口を開いて、動揺のあまり呂律の回らない舌でようやく問いを返した。

「何を、言って……家を継ぐのは、氏政さんでしょう?」

 氏政が語った、「北条流を継ぐ」ということは、すなわち家元から次期宗家の座を譲り受けるということだ。
 氏政が継ぐか、氏照が継ぐかで、少なからず揉めていたことは知っていたが、この家での立場上、まさか自分にその座が回ってくると思うほど高耶は野心的でも、楽天的でもなかったし、またその実力があるとも思わなった。
 氏照亡き今は、氏政が次期家元となることで親類・門下一同納得していたはずだった。
 まだ正式に披露したわけではないが、もはやこれは公然の事実と言って良い。

「今日のおまえの演奏を聴いて、おまえがこの家を継ぐべきだと確信した。家元もおそらく同意だろう」
「そ、そんな……あなたを差し置いて」

 混乱した状態で、必死に辞退しようとしたが、そんな高耶の言葉を遮るように、氏政はゆるゆると首を振る。
 どうして、と。高耶が目で問うと、彼は唇をゆっくりと開いてこう言った。

「私は自分より遥かに優れた奏手がいるのを知っていながら、家を継ごうと思うほど不遜な男にはなれないよ」

 高耶は息を飲んだ。
 彼の眼差しは驚くほど真剣で、そしてどこか悲しげでもあった。
 高耶はその瞳を目にした瞬間、何も言えなくなってしまった。
 彼がいま、どんな思いで自分にその言葉を告げたか、その心中を想像すれば、高耶には氏政に掛ける言葉が見つかりようもない。
 無論、高耶は氏政が語るほど、自分の演奏が優れたものだとは思わない。まして家元に次期と認められるほどのものなどと、自惚れるつもりもなかった。
 しかし自分の演奏から、誰に強要されるでもなく氏政自身がそう感じ取ったものを、今さら言葉によって覆すことなどできはしないことを高耶は知っている。
 ならばこれ以上の反論は、彼の決意に対して無礼に当たると、高耶は悟った。氏政のその両眼からは、諦めにも似た感情が灯されているのを感じ取ることができた。
 高耶はどうにもできず、開きかけた唇を噛み締めた。

「何も、すぐ継げというのではない。おまえはまだ師範の免状も持たない。それまでに、心を決めておいてほしいということだ」

 氏政の声音が穏やかで、高耶にはどこか切なかった。
 いっそ義母のように、冷たい口調で接せられた方がどんなにかマシだった。
 北条流家元の長男として生まれてきた彼が、誰より篠笛を愛してやまない奏者であるということを、この家の者で知らぬものはいない。
 当然、家を継ぐべくして、そしてそれを望んで三十三年の年月を生きてきた彼が、いま腹違いの弟に自らの意志でその座を譲り渡そうとする、その心情を、いったい誰が真に理解できるというのだろう。
 その察してあまりある残酷な痛みを、彼は笑顔の内にひた隠した。
 あるいは彼は、氏照と同等、いやそれ以上に、優しい心の持ち主だったのかもしれない……。
 そんな事実に、高耶は彼と同じ家で暮らすようになってから初めて、気がついたのだった。
 氏照の優しさは出会ってその日に気づいたのに。もう一人の兄の優しさに気づいたのは、あの日から八年経ってのことだった。
 それと同時に、この兄が自分に向ける、ひどく不器用な思いを高耶は知った。

「さて……私の話はそれだけだ。もう夜も遅いし、部屋に戻りなさい。明日の朝も早いのだろう?」

 言葉に促されて、高耶は重い腰を渋々と上げた。
 次期となる件を、承諾したわけではない。あまりにも突然すぎる話に、高耶自身、思考がついていっていないのだ。後日改めて、氏政と話し合うことを心に決め、彼は乱れた裾を手で直しながら立ち上がる。
 たとえ氏政にとって、これは既に決定事項であったのだとしても、あんな彼の淋しげな微笑を見て、快く次期宗家の座を譲り受けられるほど、彼は無神経な人間にはなれないのだ。
 退室際、高耶は障子に手を掛けながら、体半分氏政の方を振り返る。
 「氏政さん」と呼ぼうとして、高耶は言葉を飲み込んだ。

「……、兄さん・・・

 初めて口にする呼びかけに、氏政が眼を瞠る様が見て取れた。
 そうして一瞬の後、苦笑を口元に刻んだ彼が告げた言葉を、高耶は長く忘れることができなかった。


「おまえに……兄ではなく、父≠ニ呼ばれる存在であったらと、そう思ったこともあったよ……」


 氏政は目を伏せた。
 時計の針が秒を刻む音が、僅かに部屋の中に響いている。
 手元の湯呑みを、何をするでも無しに、じっと見つめていた。
 高耶はそんな兄の様子をしばし無言で見つめた後、

「兄さん……おやすみなさい」

 と、微かな声で告げる。
 それに呼応して、「……ああ、おやすみ」と、就寝の言葉を氏政は返した。
 その言葉を確認するように頷いて、高耶はスルスルと障子を閉じる。
 廊下の床は氷のように冷たく、高耶はそこから逃げるように、足早に自室への道のりを急いだ。
 ひたひたと歩む素足が、廊下の床板を音を立てて踏みしめていく。
 頭の中では、去り際、氏政が苦笑まじりに呟いた言葉を、高耶は何度と無く反芻していた。

 ── もしも、自分の父が氏政であったなら……。

 本当にそうだったなら、どんなにか良かったろう。
 氏康の妾の子としてではなく、氏政の嫡出子として、誰から疎まれることもなく、北条家の一員となれていたならば。
 だがそれは、思っても詮無きことだった。
 もし母が氏政のもとに嫁いだとしても、生まれてくるのは、自分ではない、別の誰かなのである。
 仰木高耶である自分が生きた、この十七年間を、否定することなどできはしない……。

 窓から覗く月が、白銀色に輝いて、雪の積もる小さな庭に光を落としている。
 縁側に立ち止まって、瞳を細めながら、高耶はそれを見つめていた。

 その後ろ姿を、廊下の影から、見つめている者がいることも知らずに……。
高山流水
篠笛天分物語