第十四話


 そうして暫く二人手を繋ぎ合った後、直江が先日の名取試験の様子を尋ねてきたので、高耶は当日の模様……どんな曲目を演奏したか、どんな受験生が他にいたかなどを、つらつらと語っていった。
 千葉が受験を辞退したため、取りを勤めたという当日の演奏の様子を、高耶の口から聞きながら、直江はその光景をまるでじかに眼に映したかのように、脳裏に鮮明に思い浮かべた。
 鶸茶色の正絹の着物に身を包み、衆目の見守る中、奇跡の音色を奏で出す、その少年の姿。
 その場に自分がいなかったという事実が、ひどく、不思議なことのように思えた。
 高耶の奏でる笛の音を、この耳で聴いてはいないという事実が……。

「……そうだ、仲直りの記念にと言ってはなんですが、笛を、聴かせていただけませんか」

 囁くような声で唐突に、直江がそんなことを呟いたので、

「……おまえ、オレの合格祝いに来てくれたんじゃなかったっけ」

 と高耶が苦笑交じりに問うた。
 けれど直江は悪気の無い笑顔をその端整な顔に浮かべながら、

「そうです。だから、あなたの合格の記念もかねてです」

 と、筋が通っているのか通っていないのかよく分からないことを言ったので、高耶は「彼らしいな」と小さく笑って、特にそれに反抗するようなことはせず、彼の要望に答えるために、懐から、笛袋に入った篠笛を取り出した。
 母から譲り受けた、十本調子の篠笛。
 丁寧な手つきで、桜の木をくりぬいた筒の蓋を開けて、笛を手に取り出す。

「なんの曲がいい?」
「なんでも構いません。……いや、でもどうせなら試験の時、あなたが吹いた曲がいい。曲名は分かりませんが、遠くからあの曲を聴くたびに、近くで一度じっくりと聴けたらと思っていました」

 名取試験の時に吹いた曲をと、直江が希望したので、高耶は少しだけ躊躇った。
 なにしろ、試験の課題曲のうちの一つ、「黒髪」は、恋に狂う女の嘆きの心を謳いあげた曲なのだ。
 それを彼の前で演奏するのは、流石に躊躇われた。
 自分では意図無く無我の境地で奏しているつもりなのだが、どこかで、自分が彼に向ける切ない心と重ねあわせるような部分があったかもしれない。
 そんな高耶の葛藤に気づく様子もなく、直江は期待に目を潤ませながら、高耶が笛に生命の音を吹き込む瞬間を待ち侘びていた。
 何しろ、こうして高耶を目の前にして、彼の演奏を直にこの耳で聴くのは、本当に久しぶりなのだ。
 どれだけこの瞬間を望んだことか。
 弾む鼓動を、抑えることができない。
 そんな直江を前にして、高耶は惑うように篠笛を両手に思案に暮れていたが、やがて意を決したように、息を大きく一つ吐いて、笛を口元にスッと構えた。
 直江がその様子を、ひたと見つめる。
 夕方の薄闇に包まれた部屋で、灯明がひとつ灯るように、かすかな光がそこに生まれたような気がした。
 黒い睫毛を伏せた、その静かな風情。
 精神統一するように呼吸を繰り返し、集中力を高める様を、まるで網膜に焼き付けるかのごとき真剣さで凝視し続ける。

 一つ。
 二つ。
 三つ。


 ……その時だった。


(なんだ……)

 直江は顔を、わずかに強張らせた。

 なんだろう。この違和感は。
 
 その瞬間に何か、とてつもない違和感に思考が包まれるのを感じた。
 危機感が、脳内を占領する。
 彼の中の研ぎ澄まされた第六感が、警鐘を鳴らすように。
 寒気のするような鋭い感触が、背筋を駆け上っていく。
 なんだ。なんなのだこの感覚は。
 しかしその違和感の正体を、その一瞬で察した。
 高耶が構える柿渋の篠笛。
 そこに黒い、影が見える。
 妖炎が立ち上るかのような、黒い空気が。
 高耶が、篠笛に唇を付ける。
 そのまま第一声を吹き込み、美しき音が生まれ出た。


 ピィィィーーーー。


 透き通るように、甲高い音。
 次々と、指で孔を塞ぎ、音を紡ぎ出していく。
 その様をつぶさに凝視しながら、直江は危機感に動かされるままに立ち上がり、机を蹴倒すようにしてもの凄い勢いで彼に駆け寄った。
 彼の表情が、奇妙に強張る様が、視界に映った。
 その一瞬後に、直江は高耶が口元に構える横笛を、右手で力の限り弾き飛ばす。
 ガンッと、篠笛は音を立てて勢い良く障子にぶち当たり、跳ね返って畳の床に落ちた。
 コロコロと転がって、座布団の端にぶつかり、笛がその動きをとめる。
 静寂が、漂っている。
 高耶が、こちらを見上げていた。
 直江の突然の奇行を目の当たりにして、驚愕に目を張り切れんばかりに見開きながら、声を出すことすら忘れたように。

「な……なにすっ」

 それでも意識を取り戻し、口元を不自然に押さえながら彼が発した言葉を遮るように、直江は少年の細い肩に掴みかかった。

「飲み込みましたか!」

 えっ? と呻くように彼が呟いたので、直江は畳み掛けるように、

「飲み込んだんですかッ!」

 とただならぬ形相で叫ぶ。
 高耶は顔を歪ませながらしどろもどろになって弱々しく答えた。

「な、んか……変な味が……」

 その言葉を聞いて、直江は比喩でなく顔が蒼白となった。

「早く……早く吐き出しなさい!」

 机の上にあった湯呑みをとっさに手に取って、高耶の口元へ押し付ける。
 が、唐突すぎる尋常ではない行動に、思考がついていかず、高耶はただ茫然と口元を手で押さえるのみだったので、直江は強硬手段とばかりに高耶の口を手でこじ開けて、湯のみに入った茶を口の中に流し込んだ。
 高耶はあまりのことに仰天して、両手を思わず振り回し、男の体を殴りつける。

「なッ……ゲホッ!ゲッホ……ゲホッ!」

 茶が気管に入って、苦しさのあまり咳き込みながらその場に吐き出す。
 紺色の着物と畳とが、吐き出された液体によって、しとどに濡れていく。
 そんな彼の背中を、直江は洋服が汚れるのも厭わずに、抱き込むような姿勢で叩いた。
 その間も、容赦なく湯呑みの中身を高耶の口に押し付ける。
 高耶は涙目になりながら、たまらず全身で抵抗したが、直江が羽交い絞めするようにして動きを封じ込めるので、為すすべなく、呼吸気管に流れこんだ液体を咳き込みながら吐き出し続けた。

「早く口の中をゆすいで! 飲み込まずに吐き出しなさい!」

 そうは言っても、高耶には直江の行動の意図が依然として理解できない。
 苦しみに顔を歪めながら、高耶が恨みのこもった眼差しで睨みつけてきた。

「なっお……ゲホッ、な……んで……ゲホッゲホッ、んな……」

 直江は答えることはせず、ただただ彼の背中をさすり続けた。
 いまは説明よりも、応急処置が先だ。
 ゲホッ、ゲホッと苦しげに絶え間なく咳き込み続ける高耶を鬼気迫る面持ちで見つめながら、彼の無事を、ひたすらに念じ続ける。
 しかしその願いもむなしく、それから間もなくして高耶の様子に変化が起こり始めた。
 激しく繰り返し続けていた咳が収まると、今度は呼吸が急速に荒くなり始め、顔色が青さを通りこして、紙の様に真っ白になっていく。
 ゼェゼェと肩を上下させながら、ぎりりと直江のYシャツを掴む手は、力をこめすぎてブルブルと震えていた。

「高耶さんっ、しっかり!」

 落ち着かせようとして、懸命に背中を撫でる直江を、彼は苦痛のあまり涙を両目いっぱいに溜めながら、

「な……ぉぇ……」

 と消え入るような声で呼んで、喉のあたりを痕がつくほど強く掴みながら、胸の中に倒れ込むようにすがりついてくる。
 直江はたまらず彼の体をヒシッと抱きしめると、

「大丈夫……大丈夫です高耶さんっ。心配しないで……すぐに吐き出しましたし、絶対、すぐによくなるから……っ!」

 そう自分に言い聞かせるように叫ぶなり、直江はピッチリと閉められた障子に向かって、声を張り上げた。

「誰か! ……誰か来てくれッ!」

 追い詰められたような叫び声に、家の者はすぐに反応した。
 もともと来客とあって応接間に神経を向けていたおかげだろう。直江が呼ぶなりまず駆けつけたのは、日に焼けた肌をした体格の良い青年だった。

「どうかしまし……」

 青年は障子を開けるなり、絶句してその場に固まった。
 悶え苦しむようにして、男の肩に凭れ掛かる少年の姿。

「お、仰木!?」
「病人だ! すぐに医者を呼んでくれ!」
「え、医者って……」

 まごつく青年に対し、直江は烈火のごとき剣幕で一喝する。

「早くしてくれッ! 成田医院だ! この家にも電話があるだろうッ!?」

 人命に関わるんだ! と大音量で怒鳴りつける直江の仁王のごとき形相に、石巻は怯えるように「は、はい……っ!」と頷くと、すぐさまその場から駆け出していった。
 それと入れ違えるようにして駆けつけてきたのは、先ほど直江が来客した際に応対に出た女性であった。

「……っ! どうしたの高耶君!」

 直江の腕の中でぐったりとしている高耶の姿を見るなり、慌てて駆け寄る早紀江を直江は手で制止した。

「彼のことは私が。あなたはなるべく近い部屋にすぐ布団と着替え、あと水と手拭いの用意を!」

 彼女は高耶と直江の顔を交互に見て、一瞬躊躇したが、すぐに自らの為すべきことを察したのだろう。

「わ、……わかりましたっ」

 コクコクと頷き、素早い動作で彼女は立ち上がると、「隣のお部屋にご用意します」と、間を仕切っていた襖を開けて中へと促した。
 直江はもはや自力で身動きすらできない状態の高耶の体を支えて、両足の下に腕を通すと、そのまま抱き上げてすっくと立ち上がった。
 隣の部屋に運ぶと、早紀江が急いで敷いた布団の上に寝かせて、吐瀉物で汚れた着物を着替えさせる。
 間もなく騒ぎを聞きつけて部屋に入室してきたのは、氏政と家元夫人であった。
 氏政は高耶の姿を見るなり、血相を変えて少年の元に駆け寄った。
 過呼吸かと思われるほど荒く息を繰り返す高耶の肩を掴み、彼の顔を覗きこんだ後、氏政は傍らに座る直江を振り返った。

「いったいどうしたんですかっ。夕食の時は変わった様子はなかったのに……」

 直江は息を一つ吐くと、少し冷静さを取り戻した、しかし硬い声音で状況を説明した。

「彼の笛に、何か毒物が塗られていたようです……。歌口に口をつけて、その後しばらくしてから突然様子がおかしくなって……」

 毒? と、さしもの氏政も真っ青な顔になって聞き返した。

「ええ。焦げ茶色の笛です。彼がいつも持ち歩いている」

 直江の指差す方向を見て、氏政は両眼をはちきれんばかりに見開いた。
 隣室の光景。早紀江が片付けをしている、その隅の方に、無造作に転がる十本調子の笛。
 直江は知らなかったが、氏政には一目見て、それが高耶の母の形見の品であることが分かった。
 その事実に、ブルブルと拳を震わせながら、ゆっくりと家元夫人の方を振り返ると、

「どういうことですか……お母さん」

 怒りを押し殺したような低い声で呟いた。
 家元夫人は、事態の深刻さに顔を蒼白にしながら、惑うように息子に視線を向けた。

「何がです……」
「どういうことかと、伺っているんですよ……。あなたはご自分がどれほど恐ろしいことをされたか、分かっているんですか……」

 一瞬、意味がわからなかったのだろう。夫人は眉を顰めたが、その次の瞬間には詰問の意味を把握して、彼女はサッと顔色を変えた。

「氏政さん。母親に対して、言って良いことと悪いことがありますよ……ッ」
「ええ、あなたは私の母親でしょう。しかし高耶の母ではない。実の母でないのなら、子供に対し何をしても構わないと言うのですか、あなたは……!」
「ッ! なんていうことを!」
「いまさら言い逃れなさる気ですか。あの吉祥丸≠フ笛に毒を仕込むだなんて、あなたがやった以外には考えられないでしょう!」
「いい加減になさい!氏政ッ!」

 凄まじい剣幕で叫んだ彼女の声に重なるようにして、直江が鋭い声で一喝した。

「やめてください!」

 ピタリと、両者の動きが止まる。
 両者の注目のもと、直江は高耶の手を握り締めながら、首を激しく横に振った。

「彼の前でいまするような話ではないでしょう! 場所を考えてください!」

 高耶は苦しげに呼吸を繰り返すばかりで、とても彼らの会話を把握できるような状態ではなかったろうが、そうであったとしても彼の目の前で交わすような会話でないことだけは確かだった。
 氏政は怒りを堪えるように拳を強く握り締めながら、やがてギュッと両目を瞑ると、

「……申し訳ない、頭に血が上ってしまった」

 と、家元夫人に背を向け、直江と高耶に向かって頭を下げた。

「いえ……私も少し興奮しすぎました。お許しください」

 項垂れるようにして、直江も謝罪する。
 背後では夫人がその場に立ち尽くしながら、わなわなと肩を震わせている。
 氏政はそれを背中のみで気配で察し、一つ大きく溜息を吐いた後、

「お母さん……この件については後でお話いたしましょう」

 いつもの冷たい声音で、断罪するようにそう言った。
 言葉の中に、鋭い刃が見える。
 夫人は普段息子に対しては決して向けたことのないきつい表情を浮かべながら、

「……そうですね、分かりました。それでは私は下がっていましょう。私がそばにいては、高耶も治るものも治らなくなるでしょうからね」

 憤懣やるかたない様子でそう告げると、吊り気味の目を更に吊り上げて高耶を一瞥し、くるりと踵を返して衣擦れの音も荒く退室していった。
 本当に、氏政の言うように彼女が仕組んだことなのかどうかは、直江には分からない。
 北条の家の諸事情について、直江は一切の知識を持たなかった。
 なんとなく察せるものはあったが、高耶自身がそれを知られることを、望んではいない節があったので、あえて知ろうとせずにいたのもある。
 しかし現在最も重要なのは、犯人の究明というよりも、高耶の安否であることは確かだ。
 直江は高耶の額に手のひらを当てた。熱が上がってきている。
 早紀江が用意した桶に張った水に、手拭いをつけて絞ると、高耶の額に丁寧な手つきで乗せた。

「直江さん、私どもが看病いたします。お客様にそのようなことしていただくわけには……」

 直江の着替えを用意してきた早紀江がそう言ったが、

「いえ、私にやらせてください。……もとはと言えば私が彼に笛を吹くように頼んだんだ。私が看るのが筋というものです」

 申し出をゆるゆると首を振って丁重に断り、ゼェゼェと苦しげに眉根を顰める高耶の髪を、一筋梳いた。
 発汗量が凄まじく、こめかみに水滴が滲んで滴り落ちるたび、直江は布でそれを拭っていった。
 ……しかしそうは言っても、直江に医学の心得があるわけではない。
 何らかの毒物を摂取したことによる中毒症状だということは分かっているが、その分野に関する知識が乏しいので、どういった処置を施して良いのかも分からない。
 直江はギリリと唇を噛んだ。
 いま自分にできることと言えば、医師が到着するまでの間、意識薄れゆく高耶の手のひらを、こうやって力づけるように握り締めていることだけだ。
 苦痛のあまり自ら両手で掴んだ首に、くっきりとついた手形の痣が、正視するのも憚られるぐらい痛々しい。
 力無くこちらの手を握り返す高耶の左手を、両手で包み込んだ。
 少年は半開きの朦朧とした両の目で、こちらをを見上げている。
 いまほど、時の流れを遅く感じたことはない。



 それから小半時ほど経って、ようやく北条邸に医師が駆けつけてきた。
 直江の状況説明を横で聞きながら、医師は高耶の診察を進めた。聴診器を胸に当て、注射を打った後、直江はたまらず、縋るように尋ねた。

「成田さん、高耶さんは……」
「……笛に塗られていたのはシアン化カリウム、またはシアン化ナトリウムの可能性が高い。そのいずれかを嚥下して胃に達したことによって胃酸と反応し、シアン化水素が発生したものと思われます」

 聞きなれない単語であるが、シアン化カリウムはいわゆる青酸カリ、シアン化ナトリウムは青酸ソーダの正式名称である。
 いずれも「耳掻き一匙で人を殺せる」などと俗に呼ばれるほどの、致死率の極めて高い猛毒であった。
 しかしいまはそんな専門的知識より、教えてほしいことはただ一つだ。

「それで、彼は助かるんですか!」

 直江の必死の問いに、高耶の友人の父親である成田医師は、冷静な口調で事実を告げたのだった。

「心配はいりません。摂取したのはごく微量で、致死量にはほど遠い。犯人も殺意があってやったことではありますまい。本当にその気があるのなら、笛に塗るなどという不確実な方法は取らないでしょう」

 医師は聴診器を耳から外して、直江を振り返った。

「しかし油断はできません。高耶君はもともと健康状態が優れなかったようで、摂取量に対し衰弱が激しい。きちんとした治療を受けなければ後遺症が残る可能性もあります。すぐに市立病院の方に移しましょう」

 直江はその言葉を聞くなり、すぐに家の電話を借りて、直江の家から自家用車をこちらに寄越すよう手配した。
 数分ほどで専属運転手によって自動車が北条の家の前に到着し、それに氏政、成田医師、そして気絶した高耶を抱いた直江が乗り込み、車は市街地にある市立病院に向けて発車した。



 病院に到着してからが長かった。
 待合室で氏政と共に、まんじりともしない心地で、高耶の治療が終わるのを待つ。
 命に別状がないことは既に医師から聞いてわかっていたが、それでも安否が気遣われてならなかった。
 万が一のことがあったらと思うと、とても平静な状態ではいられない。
 そうして息苦しい思いのまま時間だけが刻一刻と流れる中で、高耶の容態がようやく安定したのは、既に夜明け近い時分のことであった。
 病室から姿を現した医師の話によれば、依然絶対安静ではあるものの、どうにか峠も越えて恢復に向かっているという。直江はその言葉を聞いて、ようやくホッと肩を下ろしたのだった。
 しかし医師の顔色は、その吉報に対して不自然に冴えない。
 直江はそれを訝しく思い、胸に不安の影を落としながら、「どうかしたんですか?」と、カルテを手に目の前に立つ医師に尋ねた。

「患者さんの容態が安定したのは確かです。ただ……」
「ただ?」

 語尾を濁した医師に対し、緊張を孕んだ声音で直江は復唱する。
 氏政も怪訝げに目を瞬かせていた。

「ただ……先ほど弟さんは意識を戻されましたが」
「意識が戻った?」
「ええ、ですが……」

 躊躇うように区切った医師は、直江と氏政の眼に促されるようにして、次に続く信じられない言葉をその唇で紡いだのである。


「弟さんは、失声、あるいは失語に陥っています」


 え……と、直江は息を止めて医師の顔を見つめた。
 いま、何と言ったのだろう。
 声も無く、告げられた事実を脳内で咀嚼する。
 驚愕のあまり、言葉の意味をうまく把握できない。
 まるで悪い冗談としか思えない。
 沈黙漂う病院の待合室で、先に反応を返したのは、氏政だった。

「言葉が、話せないということですか……?」
「……ええ。原因については、いま検査をしている最中ですが、青酸中毒の後遺症によるものか、それとも精神的なショックによる一時的なものか、おそらくはどちらかと思われます」
「治るのですか? 弟は」
「心因性失声症であれば、今後のケア次第で……」

 医師は説明を続けていたが、直江の頭には入らなかった。
 高耶が、失声症……。
 つい数時間前まで、あれほど健やかに自分の隣にいた彼が。
 そんな馬鹿なことが……。

「彼に……会えますか」

 説明を終えた医師に、取り縋るように直江は尋ねた。

「お願いします、彼に会わせてください……!」

 鬼気迫る形相で訴える直江に、医師はたじろぐように、

「十分程度ならば、面会を許可できますが……」

 そう言って、病人との面会の許しを与えた。
 その言葉を聞くなり、直江は矢も盾もたまらずに、氏政と共に高耶の休む病室へと駆け寄った。
 ギシリという音を立てて、病室の扉を開け放つ。
 室内は薄暗い。枕元の白熱灯が照る中で、そこに浮かび上がるような白いパイプベッドに、高耶は静かに横たわっていた。
 白い着物を着こんで、青白い横顔をした高耶が……。

 た、かや……さん……。

 そう呟くなり、入り口で、直江は身動きできず立ち尽くしていた。
 茫然とした面持ちで。呼吸すら止めて。

「高耶……」

 そんな直江に構わず、彼の体を押しのけるように氏政が一歩前に進み出て、高耶の枕元へと歩み寄った。
 名前を呼んだとき、高耶がうっすらと両の瞼を開けた。
 焦点の結ばれない瞳が、揺れるように、天井を見つめ、やがて氏政を見たのだった。
 青白い顔。こけた頬。精気のない瞳。

「なんていう……」

 沈痛そうに眉を顰めて、氏政はゆるゆると首を左右に振る。
 それでも彼は、すぐに冷静な無表情に戻ると、高耶を落ち着かせるように、静かな声音で囁いた。

「安心しなさい……一時的なものだと医師も言っていた。きちんと治療を受ければすぐに治る」

 高耶は力なく瞬きをしていた。ぼんやりとしたように、氏政を見上げていたが、やがてゆっくりと小さく首を頷かせる。
 氏政はそれを見て、そっと吐息をつき、高耶の額にかかる黒い前髪を、慣れぬ仕草でするりとかきあげる。
 その表情に微笑はなかったが、伸ばされた指先に彼の思いが滲んでいた。

「……私は家の方に連絡してくる。家元も、公演の出先からおまえのことを聞いて、こちらに戻られるそうだ。みんな、おまえのことを心配している」

 もちろん、そうでない輩もいるだろう。けれどそんなことは言葉には出さない。少なくとも、おまえの安否を気遣う者がいるということを、彼に伝えたかっただけなのだから。

「安静にして、早く治しなさい……」

 そう言い残して、氏政は静かな動作で高耶から離れると、すれ違い際直江に会釈をして、病室から退室していった。
 後には、直江と高耶のみが残された。
 床に影を縫いとめられたように立ち尽くしていた直江は、やがて意を決したように、そろそろと革靴の音を立てて、白いパイプベッドに近寄っていく。
 傍らに立って、横たわる少年を見下ろした。

「高耶さん……」

 名前を呼んで、彼はようやく直江の存在に気づいたようだった。
 ゆっくりと、直江の方に首を傾ける。
 彼は一瞬だけ、心持ち驚いたように目を瞠って、瞬きをした。
 唇が、かすかに動いて、言葉を紡いだようだった。


 な、おえ……と。


 しかし言葉は音にはならず、夜の病室にむなしく消えた。
 
(高耶さん……)

 直江はそっと、床に片膝をついて、高耶の傍らに跪いた。
 ひたむきにこちらを見つめる、二つの暗褐色の瞳。
 直江はたまらず、俯いて、高耶の視線を振り切るかのように、瞼を固く閉じた。

「申しわけ……ありません」

 振り絞るように呟いた、小さな言葉。
 それ以外の言葉が浮かばなかった。

「本当に……申しわけ……」

 ありませんと。ひたすらに謝罪を続ける直江。
 私が、あなたに笛を吹くよう頼みさえしなければ……。
 今さら悔いても仕方が無い。けれど思わずにはいられない。
 胸を塞ぐ後悔の嵐に、直江は肩を聳やかしてうち震える。
 そんな彼に、白い手がそっと伸びた。
 高耶の右手が、直江に差し伸べられているのだった。
 点滴の針のついた、彼の腕が……。

「高耶さん……っ」

 直江はその手を、壊れ物を扱うように、大事に両手に包み込んだ。
 血の気の無い手を、絡め合わせるように。
 そして高耶の双眸を覗き込む。悲しい光を宿した瞳を。
 いつだって、この淋しげな光湛えた瞳に惹かれずにはいられなかった……。
 直江は高耶に縋りつくようにして、囁いた。


「私が、……あなたの声を聞くから……」


 言葉と共に、直江の頬にそっと、涙が一筋流れた。

「たとえ言葉が話せなくても、あなたの笛を聴けば、私にはあなたの気持ちがわかるから……」

 かすれる声で、熱く呟く。
 嗚咽を堪えるような、切ない声音で。
 夜明けの白い病室で、男は祈りの言葉を呟く。
 流れる涙が、高耶の腕にぽたりと落ちた。


「私がずっと……あなたのそばにいるから……」


 誓う言葉は薄闇に溶けて、熱い雫と共に高耶に降り注ぐ。
 少年の両目が、涙で滲み、その頬にするりと伝い落ちた。
 涙を流しながら、彼は嬉しげに儚く微笑んで、こくりと確かにひとつ頷く。
 そうして彼は何かを呟いた。
 かすれて、空気の漏れる音しか出ない、その声で。
 彼は男に何かを伝えようと、懸命に。
 けれど告白は夜のしじまに消えて、男の耳には届かない。
 それでも、少年は満足したように、疲れた瞼をゆっくりと閉ざす。
 ……そうして、やがて深い眠りの渕に落ちていった。
 
 

 愛しい男に、見守られながら……。



 直江は眠りについた彼の横顔を、いつまでも見つめ続けている。
 薄く白いカーテンが、黎明の儚き明かりを通して、闇の室内に光を落とす。
 目覚めの鳥たちが、朝の訪れを告げている。
 夜明けの光は、二人の先に続く道を照らすのだろうか……。



 その答えを知る者は、いまは、誰もいないけれど……。
 
高山流水
篠笛愛憎物語
2005*12*31
Bbs or Mail
......Back......Home......Next......
To Be Continued......
 14話です。前々からの予告通り、今回は相当心が痛む回でしたね……。
 記憶喪失といえば高耶さん、失声といえば直江の専売特許のようなものでしたが、この物語では高耶さんが言葉を失ってしまいました……。
 大晦日に、なんという内容のものをアップしているんですか。逆に言えば、新年初めての更新をこれにはしたくなかったというのもあり。
 今回は、直江が初めて、高耶さんを抱きしめた回でもありました……が、高耶さん、それを嬉しく感じる余裕すらありませんでしたね。
 で、でも……大丈夫です。15話、ここよりも更に堕ちていくことはありませぬゆえ。
 次の話はたぶん、この作品の主題に触れる、最も重要な回となるはずです。
 というよりこの先はもう、伏線を解消しながら、ただクライマックスにひた走るだけなので、すべての回が重要なのですが。
 さて次回、雨降って、地固まるのか。