第十五話


 直江は病室の白いカーテンを手で退けて、少しだけガラス窓を開けると、冷たい空気を感じて大きく息を吸い込んだ。
 冬の午後の日は薄い雲に覆われ陰りを落とし、冷気を伴う風が清潔なまでに白いカーテンを翻らせる。
 窓の下では、素心蝋梅が黄色の花をたわわに咲かせて、芳しい香りを辺りに漂わせている。
 今日も忙しい仕事の合間を縫って、会社から高耶の入院する病院へと見舞いに駆けつけた直江である。
 幸い、会社からこの病院は徒歩で通えるほどに近く、暇を見つけては日を置くことなく高耶の様子を見に連日通いつめていた。
 ふと気配を感じて振り返れば、白いパイプベッドに横たわる彼の姿があった。
 黒い睫毛に縁取られた両眼は、固く閉じられて、形の良い眉は心持ち苦しげに顰められていた。
 やわらかな前髪が、風を孕んで揺れている。
 小さな寝息と共に、胸のあたりに掛けられたシーツが僅かに上下している。
 直江はその様子をしばしの間見つめた後、無言で彼に背を向けて、鉄製の枠に縁取られた重い窓を両手でゆっくりと閉めなおした。

 あの日から、五日という時が過ぎてしまっていた。
 毒物中毒によって一時は生命の危険さえ危ぶまれた彼であったが、病状はその後恢復の一途を辿り、今ではベッドから起き上がるのも苦にならぬ程度の復調を見せていた。
 しかし後に医師から聞いた話によれば、表向きは自分たちに心配を掛けまいと平常を取り繕ってはいるが、実際には微熱が続き、食欲は回復せず、彼の体調は本調子ではなく、どころか決して芳しい状態とは言えないのだという。
 彼の症状を、医師は「過労ではないか」と診察をくだしていた。
 おそらくは過酷な稽古や、試験による精神的重圧、緊張で心労が重なった結果であると。
 同じ内弟子の石巻という青年の話によれば、高耶は前々から食欲不振が続いていて、出された食事は手をつけていたものの、部屋に帰ってから戻してしまうことが間々にあったのだという。
 そのままの状態が続いていれば、たとえ毒物事件が起こらなくても、近日中に体を壊して病院に運ばれていただろう。
 心因性による一時的な症状であると言われているが、高耶の声がなかなか戻らないのも、その辺りに原因があるのだろうか。
 それとも、他に何か理由が……。
 彼の表情は、あの日から一向に冴える気配を見せなかった。
 直江がいくら話しかけても、気だるげな無表情を向けるだけで、彼が本来持つ発溂とした快活さはなりを潜めている。
 しかしなにより直江が驚きを隠せなかったことは、今回の件について、事件の翌日警察に通報しようとした氏政を、高耶自身が制止したことであった。
 声の出ない高耶は、鉛筆で紙に言葉を記して兄に思いを伝えたのだった。
 私のことで、北条の家にご迷惑をおかけするわけにはまいりません=c…と。
 直江は後にそれを氏政から伝え聞いて、「何を馬鹿な」と肩を震わせた。
 そんな不条理が、許されて良いはずがない。
 幸い一命を取り留めたとは言え、あれは事故などではなく、明らかな殺人未遂だ。
 一歩間違えれば高耶の命は無かったというのに、それを揉み消さねばならないほどの理由があるというのか。
 確かに、事件が明るみに出れば北条の家名に傷が付くことは間違いないだろう。
 おそらくこれは内部犯行である。高耶の方でも、犯人に心当たりがあるのだろう。だからこそ彼はことが表沙汰になることを避けようとしたのだ。
 しかしだからと言って、どうして犯した罪を贖わせることもなく、彼に向けられた悪意をみすみす見逃さねばならないのだろうか。
 北条の家名とは、彼が犠牲になってしてまでも守るべきほどのものなのか。
 けれどどれほどの異を唱えようとも、事件の第一発見者とは言え、直江は所詮は部外者であった。
 高耶自身と、彼の家族が決定した方針を覆すような術も、権利もありはしない。
 もちろん、直江にも分かっている。氏政がしたことが正しいのだと。
 家の柵という名の束縛は、名門直江家の後継ぎである直江にとっても無関係な話ではない。
 家を優先し、警察への報告を取り止めた氏政の判断を、直江自身ただやみくもに非難できるような身分ではなかった。
 いたずらに事を荒立てて、代々続く笛の名家である北条の名を貶めるべきではない。
 当事者である高耶自身がそう望んだのならば、彼の意に沿うのが最良であるのだ。
 それでも、不条理を感じずにはいられない。
 現に、彼は声を失うほどの傷をその身に受けているではないか。
 あんなに悲しい涙を流してすら、彼にとってその名≠ヘ守らねばならぬものだったのだろうか。

(私は本当に……、あなたのことを知らなすぎたのかもしれませんね……)

 ふるえる手をこちらに伸ばして、涙を流していた。
 あの時、彼は自分に何を伝えようとしていたのか。


「高耶さん……」

 小さく呟いて、高耶の傍らに歩み寄った。
 黒髪がかかった端整な顔立ちは透き通るように青白く、頬はうっすらとこけている。
 そうしてしばらくの間彼の寝顔を見つめていたが、やがて長い睫毛がかすかに震え、瞼の下に隠された暗褐色の両眼がゆっくりと姿を現した。
 ぼやけた視界を調整するように、高耶は二、三度だけ瞬きをすると、傍らに佇む直江に視線を結んだのだった。


 直江……。


 高耶は呟いたが、声はかすれて言葉にならず、唇と喉がわずかに動いただけだった。

「目が、覚めましたか」

 直江は静かに呟くと、ベッドサイドの椅子を引き寄せて腰を下ろす。

「具合の方はいかがですか」

 手の平を伸ばして、寝癖のついた前髪を撫ぜる。
 高耶は心持ち目を細めながら、わずかに首を頷かせた。

「そう……」

 優しく微笑んで、手の平を額から離す。
 高耶はゆっくりと上半身を起こすと、シーツをのけて体を直江の方に向けた。
 直江は窓際のチェストの上に掛けてあった上着を手にとって、体が冷えぬよう彼の少し薄い肩にそっと掛けた。
 チェストの上には、白磁の花瓶に白い寒木瓜の花が飾られていた。

「このお花は、どなたが持って来てくださったんですか」

 高耶がおもむろに手を差し伸べてきたので、直江はチェストの引き出しからノートと鉛筆を取り出して、彼に手渡した。
 膝の上にノートを置いて、サラサラと鉛筆で字を書き綴る。

成田譲っていう、級友。

 文章の書かれたノートを差し出されて、直江は得心した。

「ああ、成田先生の息子さん」

 すぐに、下校中の高耶の横を歩いていた、栗色の髪の少年が脳裏に思い浮かんだ。
 成田医師は高耶を最初に診察した医者である。基本的に今回の件は内密に処されたため、高耶の入院自体を知る者は少ないのだが、医師の口から息子である譲にへと伝わってしまったのだろう。

「学校のお友達も心配しているでしょうし、早く、良くならなくてはなりませんね」

 直江の言葉に、彼はこっくりと頷いた。
 覇気の無い、どこか物憂げな仕草だった。

(高耶さん……)

 そのまま俯いて、彼は黙りこくってしまった。
 視線を逸らして、何をするでもなくノートの紙面をじっと見つめる高耶の横顔を、直江はそっと眺めていた。
 しばらくの間そうしていたが、その沈黙を破ったのは、もちろん、いつものように直江の方だった。

「今日も、会社の休憩時間に抜け出してきたので、あまり長くはいられないのですが……」

 そこで一旦息をくぎって、直江は改まった口調で高耶に告げたのだった。

「今日は、あなたに渡したいものがあって来たんですよ」

 高耶がこちらに目線をよこした。静かな瞳が、不思議そうに「何?」と、直江に対し問いかける。
 彼の視線に促されるように、直江は傍らに置いた革の鞄から、紫の絹布に包んだ細長いものを取り出した。

「開けてみてください」

 差し出されて、高耶はおずおずとした手つきで受け取ると、直江の視線に見守られながら絹の布を丁寧な手つきで取り外し、中から出てきたものを手に取る。

「…………?」

 え?と、驚いたように高耶は両眼を見開いた。
 絹の下から現れたのは、細く短い篠笛。
 調子は十本。拵えは天地籐巻で、外装に漆の類は塗られていない、美しい素竹の色であった。
 これは?と、顔を上げて仕草で問うと、直江は眉根を寄せながら申し分けなさそうに、こう語った。

「私が作ったものです。……あなたの大事な笛を壊してしまったので、これはそのお詫びです」

 お詫び……。高耶は音にはならぬ声で、直江の言葉を茫然としたように反復した。
 直江は、毒が塗られていた十本調子の柿渋色の笛のことを言っているのだった。
 高耶は事件の後日に早紀江から聞いて知ったのだが、あの時直江が、高耶が手に持っていた笛を勢い良く払い落としたため、その拍子に笛が襖の骨組に当たって、管尻の方が少し割れてしまったのだ。

「あなたのお兄さんに伺いました。亡くなったお母様の、形見の品だったのでしょう?」

 直江の問いに、高耶はやや躊躇いがちにこくりと頷いた。
 確かにあの笛は、銘を「吉祥丸」と言い、高耶が幼い頃母から譲り受けた唯一の形見の品である。母が亡くなってから今まで、何よりも大切にしてきたものだった。
 以前直江にあの笛のことについて話したことがあったが、あの時はその由来は明かさず、「大事なものである」ということのみを伝えたのだったが。
 高耶はもう一度、直江に贈られた篠笛をじっと見つめた。
 色は違うが、「吉祥丸」と同じく篠竹を用いた天地籐巻の十本調子である。
 意識して似せてあるのだろう。指孔の位置など、姿はほとんど同じに見えた。

「咄嗟のこととは言え、本当に申し訳ないことをしてしまいました。せめてものお詫びとして受け取っていただけませんか」

 素人の私が作ったものでは代わりにはならないでしょうけど……と、彼は頭を下げて謝意を表す。
 そんなこと、全然気にする必要はないのに。直江の言葉を聞きながら、そう高耶は思った。
 たとえ直江が傷をつけることがなくても、いくら形見の品とは言え毒が塗られていた笛など、二度と吹く気にはなれない。
 実際、あの時直江が傍にいてくれなければ、どうなっていたか分からない。
 もしもあの笛に口をつけたのが、いつものように自室で笛の練習をしている時だったら、助けを呼ぶこともできず、もっと酷い事態に陥っていた可能性もある。逆に言えば直江があの時笛を吹くよう頼んでくれたから、高耶は命を落とさずに済んだのだ。
 だから助けてくれたことを感謝しこそすれ、笛に傷をつけたことを責め立たりなどするはずがないのに。
 いかにも律儀な彼らしかった。

「本当は、試験の合格のお祝いの品として渡そうと思って、前々から作ってあったんです。あなたに吹いていただきたくて、何本も失敗作を作りながら、この間ようやく完成したんですよ」

 語られる間も、無言で高耶は篠笛を見つめ続ける。
 ……直江は知っているのだろうか。「吉祥丸」は、家元である父が亡き母のために作ったものであることを。
 そしてその笛の代わりに、今度は直江が高耶のために、父が母に贈った笛と同じ型のものを作ってくれたのだという。
 その意味を、この男は知っているのだろうか。
 思わず、渡された篠笛を両手で握りしめる。
 ともすれば溢れ出しそうになる感情を、堪えるように唇を噛みしめ、顔を俯かせた。
 高耶は、もう一度ノートを膝元に引き寄せて、鉛筆で短い文章を書き綴った。

ここで、少し吹いても大丈夫だろうか。

「……そうですね、少しだけなら」

 個室ですから、他の患者の方に迷惑がかかることもないでしょうし……と、迷った後そう告げた直江の顔を見ながら、高耶はほっとしたように息を吐くと、少し緊張した面持ちで彼から贈られた笛を掴み、口元に静かな動作で構えた。
 流石に、構えた瞬間唇が強張らざるをえなかった。
 なにしろ笛を吹くのは、あの時以来これが初めてである。
 無意識に力が入る全身の緊張を解くように、高耶は深呼吸を繰り返し、やがて歌口に唇を乗せた。


 ピィィィーーーッ。


 唇から笛に魂が乗り移ったように、涼やかな音が始まった。
 音は大気を震わせて、美しい調べを紡いでゆく。
 激しくはないのに、魂の底から揺さぶられるような、儚く澄んだ音色が、直江の全身を包み込む。
 目を閉じ、音のみに感覚を研ぎ澄ませた。
 彼の思念が、笛という媒体を通して直江の心に余すところなく染み透る。
 孤独で、ひどく淋しい……彼の哀しみに閉ざされた思いが。いま。

(この人は……)

 やがて、短い曲が終わって、高耶がゆっくりと顔を上げた。
 少し音だしをする程度で終わらせるつもりだったはずが、いざ笛に口をつけると止まらなくなってしまって、場所柄も考えず随分長いこと演奏に興じてしまっていた。
 咎められやしまいかと、おずおずと直江を見ると、真摯な眼差しでこちらを見つめる彼と視線とぶつかって、高耶は驚いた。

「高耶さん……」

 鳶色の瞳が、高耶を覗き込む。
 心持ち、涙に潤んでいるように感じるのは気のせいか。
 伸ばされた左手が、高耶の前髪をするりとかきあげた。
 直江の顔が、己の顔の至近距離にまで迫っていて、高耶は身動きが取れなくなった。

「あなたはもっと、自分の気持ちを優先したっていいんですよ」

 え……≠ニ、音にはならぬ声で高耶は呟いた。
 直江の双眸に宿された光は、どこまでもあたたかく、頑なな高耶の心に映し出される。

「どんなにつらい思いをしたって……あなたは笛が好きだから、あの家を出て行くつもりはないんでしょう?」

 信じられないものでも見るかのように、直江の顔を茫然と見つめた。
 ひどく、突拍子の無いことを喋っているようにも聞こえる。唐突に、なんの脈絡も無く。
 けれどこれは違う。
 これではまるで。そう、まるで……。

 高耶は意を決したように鉛筆を握り持ち、文字を書き込むと、再び直江にノートを見せた。


どうして。どうしてそんなにオレの気持ちが分かる。″


 真っ直ぐに注がれる、高耶の視線。
 それに応えるかのように、直江は端整な顔にこれ以上はないほどやさしい表情を浮かべて、高耶をひたむきに見つめながらこう告げたのだ。


「前にも言ったでしょう? 私には、あなたの笛を聴けばあなたの気持ちが分かるんです」


 どくりと、胸の鼓動が大きく音を鳴らした気がした。
 背筋に、表現しがたい衝撃のようなものが駈け走っていった。
 高耶は茫然とした面持ちを崩さぬまま、小刻みにふるえ始めていた。
 見開いていた両眼を、泣き顔のように細める。
 「あ……」と、唸り声のようなものが、喉の奥からかすかに漏れた。
  ふるえる唇が、その時初めてかすれる音を紡いだ。


「鐘子期だ……」


  言葉が声となって、空気をふるわせた。
 その事実に、直江の表情がみるみる驚愕へと変わる。

「高耶さん、声が……」
「中国の、故事に……あった……あの話に出てくる、鐘子期と同じだ。……いつでも、伯牙が琴をかき鳴らせば、……彼はどんな気持ちも分かってくれた……」

 声はしゃがれてかすれていたが、堰を切った水のように、高耶の言葉≠ヘ止まらない。
 熱病にうかされたように、瞳を潤ませながら、熱をこめた口調で彼は語る。
 そんな高耶を、驚きの表情も露に見つめているのは直江だった。
 彼の言う故事とは、『列子』湯問の章第十二話に記載された節の一つのことだ。
 中国春秋時代の頃、伯牙はくがという琴の名手があり、その友に鐘子期しょうしきという男がいた。
 鐘子期は聴くことの名手であり、伯牙が琴を弾いて、高い山々のただずまいを楽の調べで描こうと試みれば、かたわらでそれに耳を傾ける鐘子期は、

ああ、素晴らしい。高く聳え立つようなその調べは、まるで泰山のようだ

 と評し、伯牙が流れ行く水の趣きを琴の調べに写そうと試みれば、鐘子期は、

なんて素敵なのだろう。洋々と水が流れるような調べは、まるで揚子江のようだ

 と喜んでくれる。そのような具合に、伯牙が心に念じ琴の調べに託す気持ちは、鐘子期がぴったりと聴きわけて誤ることがなく、伯牙はそれに感激し、二人は無二の親友として交情を結んだのである。

「高山流水″の故事ですね……」

 直江は思い巡らした後、ようやく答えに思い当たり、呟いた。
 音を知り、人を知る。互いに互いを理解し合う、二人の親友を表す言葉だった。

「……初めて会った時もそうだった」

 熱を帯びた口調を、少し鎮めて、高耶は淡々とした声音で言葉を続けた。
 いままで声に出せなかった分を、全て伝えきろうとするかのように。

「おまえはオレの笛の調べを聴いただけで、氏照兄が亡くなったことが分かったのだと、そう言ってた。……あの時はそんなはずあるものかと思って信じなかったけれど」
「…………」
「本当だったんだろう?」

  半年前、高耶と初めて出会ったあの晩。
 山茶花の垣から漏れ聴こえる笛に、耐えがたいほどの悲しみを感じとり、惹かれるままに垣根越しに姿を垣間見た。
  月景に照らされながら、一人嘆きの旋律を奏でていた高耶の姿を、こんなにも鮮明に覚えている。
 そして振り返った瞳に宿された、光の強さ。


──誰か、大事な方が亡くなったんですか?


──あなたの、笛の音が……そう言っているように聞こえたんです。


「ええ……本当ですよ」

 直江はあの時の情景を胸の内で思い描きながら、ゆっくりと首肯した。

「あの時も思った。まるで……鐘子期のようだと」

 伯牙の心に誰より近くあった鐘子期。琴の調べを通して、自分の心を奇跡のような正確さで理解してくれた彼を、伯牙は生涯の友として友愛の情を交したのだ。

 そう、一生涯変わることなく。
 誰よりも、近くで……。

(ああ……)

「オレにとっての鐘子期は……おまえだったんだな。直江」

 直江の鳶色の両眼をひたと見つめながら、高耶は切ないぐらい美しい微笑を浮かべた。

「オレの笛の音を、誰より理解してくれる……」

(高、耶さん……)

 胸の奥のあたりが、ツキリと痛んだ。
 彼の切なる思いが込められた言葉の数々に、胸の底からひずんでいくようだった。

 この感情は、なんだ。
 この、耐え難いほどの思いは……。

 けれど、その答えをきっと自分は知っているのだ。
 そうでなければ、あの時あれほどまで、彼を喪うかもしれない≠ニいう事実に対する恐怖に、苛まれることもなかったはずだ。
 あの事件は、直江が決して気づいてはならない思いを、……その報われることなき思いを、誰が予期することもなく気づかせてしまったのだった。

 無意識のうちに、心の底で気づくまいとしていた思いを……。

 じっと、瞳に力を込める。
 苦しげな表情を隠すために、高耶から視線を逸らすように俯き、瞳を閉じた。

「そう、ですね……」

 どこか躊躇いのある、苦悩を孕んだような声音だった。

「私も、できることなら誰より近くで……あなたの奏でる笛を聴いていたい。そう思います……」

 最後の方はかすれて、ひどく弱々しく病室に響いた。
 けれど高耶は、直江のそんな葛藤には気づかず、ただ純粋な微笑みを青白い顔に浮かべながら、彼の言葉に頷いていた。


「ああ。そうだったらいい……」


 白い歯を見せながら、嬉しげに笑う高耶。
 その眩しい微笑を、正面から見ることは、直江にはできない。
 そしてそうする資格すら、自分には無いのだと思っていた。
  高耶は手を差し出して、シーツの上に置かれていた直江の手に、躊躇いの無い手付きで己の手を重ねた。
 直江は一瞬、びくりとしたようだったが、特に抗うこともなく彼のしたいようにさせていた。
 
 少年はそのぬくもりをより感じ取ろうとするかのように、瞳を閉じると、直江の手をぎゅっと握って、そのまま恥じらうような仕草で顔を俯かせた。
 ……本当ならば、受け入れるべきではない触れ合いだった。
 けれど、少年が頬を紅潮させながら浮かべたその穏やかな笑顔を、幸福そうな笑顔を……直江は決して、壊したくはなかったのだ。

 後にどれだけ悲しい思いを、高耶にさせることになると分かっていても。
 どれだけ酷なことを彼にしているのか、その事実を解ってはいても……。


 そのまま二人はしばらくの間、互いの体温を伝え合うように、手を重ね続けていた。
 灰色の雲の合間から漏れ出ずる光に照らされた、白い小さな部屋の中で……。






 できることなら、誰より近くで。

 あなたの笛を聴けたのなら……。

 そうであったら……どんなに……。
高山流水
篠笛運命物語
2006*3*9
Mail
......Back......Home......Next......
To Be Continued......
 随分とお待たせしてしまいました。十五話です。
 この物語の題名が、何故「高き山と流れる水、そして君思う調べ」というのか、ここに来てようやく明かされましたね。長い道のりでした……。
 ネタバレを防ぐためにずっと「高き山〜」と略してきましたが、これからはこのお話の題名を略す時は、「高山流水」と表記することにします。私の頭の中では、ずっと「高山流水シリーズ」と呼んでいましたが。(……シリーズと言っても別に第二部第三部があるわけではないです)
 URLもよく見ると、一番最後が「kouzan01.htm」となっていますしね。
 そういうわけで、この物語のテーマ・モチーフは、「列子(湯問)」記載「知音」の故事です。一番最初の第一話でもそのことを匂わすように、高耶さんが直江に向かって「鐘子期」という言葉を呟いています。
 この時点で「故事の高山流水のことか」と察することも可能なのでした。
 ……この故事をあまり詳しくご存知でない方は、今後のネタバレを防ぐために、お調べにならない方が良いかもしれません。
 なんとなく、先の展開が分かってしまいますからね。