2006*4*25
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To Be Continued......
 高山流水シリーズ16話、「氷姿雪魄ひょうしせっぱく」をお届けいたしました。
 副題の「氷姿雪魄」は、高耶さんの曇りない白く澄んだ心を表しています。雪原に咲く、清らかな白梅のような思いです。
 本当はこの16話と17話は展開上1つの話にするべきだったのですが、あまりに16話が長くなりすぎてしまって途中でブツ切りになってしまいました。
 そういうわけで、14話で高耶さんを害そうとした犯人は義母ではなく、内弟子の千葉だったのです。
 彼がなぜそうせざるをえなかったのかは、17話の方に語られているのですが。(だからブツ切りたくなかったのに……)
 千葉も石巻も、北条家の「家臣」の名から取ったのでなんだか不吉な感じのするキャラなのですが、二人ともそこまで悪い人じゃないと思います。多分。
 高耶さんも、千葉のことはそんなに恨んではいないよう。まぁ石巻のことは大嫌いみたいですが。性格の不一致です。
 今回は高耶さんの成長を描いたエピソードでした。義母ともこれを期に、少しずつでも和解していくことができるのではないでしょうか。
 さて、次の17話ですが、実はもう書きあがっているので近日中には掲載しようと思います。(あくまで予定ですが)
 次回こそは、起承転結の「転」の部分に移りますので(笑)。ここまで来れば間違いないですよっ。
 
 第十六話


――そうだ、直江。この笛には銘がつけてあるのか?

 穏やかな空気の流れる病室で、高耶は閉ざしていた両目を開いて、唐突にこんなことを直江に尋ねた。

――いえ、特にはつけていませんが。
――だったら、オレが決めても良いだろうか。

 少し遠慮がちに小首を傾げる少年に、直江は大きく首を頷かせる。

――もちろんです。あなたのために作ったものなのですから。

 その返事に、彼は満足したように微笑むと、

――そう。それじゃあ、鐘子期≠ヘどうだろう。子期のおまえが作ってくれた笛だから、鐘子期=B

 無邪気な口調でそう言った。

――鐘子期≠ナすか。

 その様子を微笑ましく思って、直江は「良いと思います」と、静かな声音で同意する。
 そこで高耶は、唐突にいたずらを思いついたような表情を浮かべた。

──そうだ……それじゃああの笛の名は、伯牙≠ェ良いな。
──あの笛?

 言葉の意味が思いつかず、直江が反復する。

――ああ。数ヶ月前、おまえが作った笛。オレが銘をつけるようにと頼まれてた笛があっただろう?
――ああ……そう言えば。

 高耶の指導のもと、直江が初めて作った笛のことだ。
 あの笛はいまも大事にして、高耶からもらった笛と共に、曲吹きの練習に使っている。

――まだ銘をつけていなかったから、あちらは伯牙≠ニ名づけよう。いいだろう?

 高耶があんまり嬉しそうに話すので、直江もそれに応えるように優しい笑みを浮かべた。

――ええ……とても素敵ですね。

 高耶も楽しげに微笑する。
 これで伯牙である高耶が鐘子期≠フ笛を。鐘子期である直江が伯牙≠フ笛を。それぞれ、互いに互いの名がついた笛を持つことになるのだ。

――今日からは使えなくなった吉祥丸の代わりに、この笛をいつも離さず持ち歩くようにするよ。

 そしてこの笛を吹くときは、必ずおまえのことを思うよ……。

  そう、小さく呟いた高耶。
 そんな彼を見つめながら、直江がひどく寂しそうに微笑んだのを、高耶は気づくべきだったのかもしれない。
 けれど、幸福を噛み締めるように俯いていた彼には、そんな直江のどこか不安定な表情を、その目に映すことはできなかったのだ……。



                    *



  直江がそうやって、高耶の病室を訪ねた翌日のことだ。
  失声症を克服した高耶は、それを境にしたように食欲を取り戻し、「もう明日にでも退院が可能だろう」と、医師に診断されるまでの恢復に至ったのだった。
  病は気からという諺があるが、高耶の場合はまさにその言葉の通りのようだった。
  家のことより何より、彼にとって無二の存在である直江と、心を通じ合わすことが叶ったという確固とした事実が、どんなことよりも彼の疲れた精神を癒したのだった。
  そんな、雪降りる寒い冬の日の昼。
 入院してからと言うもの、高耶の着替えや身の回りの物等を届ける時は、必ず氏政の妻・早紀江が見舞いがてら病院を訪れ、足りない物を足していたのだが。
 しかしその日は彼女の来院と共に、まったく予想だにしない人物が高耶の前に姿を見せたのだった……。




 病室のドアのノックに、ベッドで上半身を起こしながら読書をしていた高耶は、本を閉じざま「どうぞ」と応えを返した。
 するりと開いたドアから現れたのは、竜胆色の地に七宝文様の小紋、それに薄蘇芳色の羽織を重ねた二十代後半ほどの品の良い女性だった。

「高耶君、おはよう。今朝は体の方は大丈夫?」

 ベッドに近寄りぎわ、心配げな表情で早紀江は問いかける。

「ええ。もう、すっかり大丈夫です。ご心配おかけしました」
「そう、良かった。氏政さんも心配していらしたわ。明日には退院できるのでしょう?」

 一時はどうなることかと思ったけれど、声も無事に戻ったようだし、本当に良かったわ。と、早紀江は優しい口調で言った。
 早紀江は北条の家の中でも、高耶に親切に接してくれる人間の一人だった。
 ただ彼女は控えめで、高耶に対するそれにはさすがに及ばぬものの、姑からの風当たりが強いためだろうか。反感を買うのを避けるために、高耶と関わるのを極力避けているふしがあった。
 それでも義母の目の無い時には、幼い時にはこっそりと手作りの菓子をおやつ時に渡してくれたり、ほつれた着物の縫い目を直してくれたりなど、氏照にはできない細々としたことをよくしてもらっていた。
 そんな彼女が、不意に硬い顔をして黙りこくったので、高耶は怪訝に思って首を傾げた。
 どうしました?と尋ねると、彼女は言いにくそうに口元を右手で押さえながら、

「実は……高耶君。今日は、奥様がこちらにいらしているの」
「え……」

 早紀江の言葉に、顔を強張らせた。

「今、待合室の方にいらっしゃるわ。あなたに何かお話があるらしいの。早く、お通しする支度をして」

 そう言って、乱れたシーツの裾などを丹念に直し始めた。
 高耶は茫然とした面持ちで、その様子をなされるままに凝視している。

(奥様が……)

 胸の中心のあたりが、ズキリとした痛みを発しだす。
 冷や汗が握り締めた拳にじわりと滲んだ。
 喉の奥が、緊張で渇きを訴えていた。
 まさか、来るとは思っていなかった人だ。
 家元が見舞いに訪れた時でさえ、同伴しなかったのだ。
 高耶はあの夜に氏政と義母が言い争っていた内容を、意識かすれゆく中で、それでも薄ぼんやりとだが把握していた。あのようなことがあった後だ、決して来るまいと思い込んでいたのに。

(それでも、いずれは必ず話し合わなければならない人なんだ)


 そうして、寝乱れた着物や髪を整えた後、早紀江が待合室まで義母を呼びに行き、その数分後に病室の白いドアをノックする音が聞こえてきた。

「……どうぞ」

 少し間を置いてから、硬い口調で返事をすると共に、木製の戸を開けて押し入ってきた女性。唐花模様の白大島を着こなし、白髪混じる髪を結い上げた、篠笛北条流家元夫人にして高耶の義母その人であった。
 義母の顔を最後に見たのは、あの事件の直後。薄れる意識の中目にした、部屋の入り口でこちらを凝視している姿だった。
 流れるような上品な動作で、義母はベッドの傍らの椅子に腰をかけながら言った。

「具合いの方は、もう良いのですってね」
「申し訳ありません……。わざわざ私のために、このような所までお越しいただいて。ありがとうございます」
「おまえは正直ね。別にありがたいとも思っていないのが、よく分かるわ」
「…………」

 咄嗟に反論できなくて、馬鹿正直にも思わず押し黙ってしまう。

「わたくしとしても、おまえの母親≠ニいう立場上、一度も顔を見せないわけにもいきませんのでね」

 そうでなければおまえの見舞いなどのために、わざわざ足を煩わせたりはしないと、暗に匂わせているのだった。
 もっとも、高耶の方も気を使うだけの義母など、見舞いに来られても気疲れするだけなので、双方の利害の一致とも言えるのだが。

「……あまり長く居てはおまえも迷惑でしょう。わたくしもそうそう暇ではないのでね、用件の方に移りましょうか」

 そう言って、義母は手に持っていた風呂敷包みの中から、二枚の封筒を取り出した。
 差し出されたので、高耶は二枚の封筒を丁重に受け取って、その表紙に目線を落とした。
 一つ目の封筒の表には、黒インキの、どこか見覚えのある達筆な文字で、「北条流家元殿」と記されている。
 もう一つの方には、「北条三郎殿」と記されていた。先日与えられたばかりの高耶の芸名だ。一通目の封書は開封済みだったが、高耶宛の方は未開封である。
 義母の視線に促されて、高耶は開封済みの封書から中の手紙を取り出した。
 三つ折にされた手紙を、丁寧な手つきで広げる。

「篠笛北条流四代目家元、北条氏康殿……=v

 文面を頭の中で読み上げる。手紙には、次のようなことが書かれていた。

 冠省。この度この手紙を貴殿に御宛て申し上げた理由は他でもありません。
 私は先日貴殿の御子息、仰木高耶氏に取返しの付かない罪を犯してしまいました。
 今回の件は全て私の身勝手な私情に起因する、不徳の致す所であり、御子息自身に問題有っての事ではありません。
 このような事件を起こした身で、この上北条の門下生として御指導を承るのは大変心苦しく、また赦される事とは思いません。よって誠に勝手ながら今日を以って篠笛北条流を破門させて戴きたくお願い申し上げる次第です。
 このような手紙を以って別れの挨拶とすることを御許し下さいませ。無礼であることは承知の上ですが、御子息をあのような卑怯な手段で苦しめておきながら貴殿と直接御会いし、謝罪の旨を申し上げるような勇気は私には有りません。
 厚かましいことは十分承知しておりますが、御寛恕下さいますよう御願い申し上げます。
 私のような未熟者が此処まで来られましたのも、偏に北条流皆々様方の御指導御鞭撻有っての事と思います。その上で皆様の御期待を裏切るような結果となってしまった事、深く御詫び申し上げます。私は是を以って消息を絶ちますが、皆々様方の御壮健の程を遠方より強く御祈り申し上げております。
 取り急ぎ、伏して御詫びと御願い申し上げます。怱々


「千葉……忠春、拝」

 最後の署名を、声に出して読んで、高耶はあまりのことに全身をふるわせた。
 驚愕で、頭が真っ白になる。

「こ、れは……」

 そんな……馬鹿なことが……。

 顔面を蒼白にしながら、冷や汗を流す高耶の横顔を見つめ、義母は冷たい表情で淡々と語り出した。

「昨日の朝から彼の姿が見えなくてね。探したところ、彼の部屋からこの手紙が見つかりました」

 信じがたい事実を、その耳に聞きながら、高耶は茫然とした面持ちで、兄弟子である千葉によって記された文面を凝視する。
 そして小刻みに振動する指をどうにか御しながら、今度は高耶に宛てられた手紙の封を破り、その万年筆で綴られた端整な文字に、目を通した。


君のことが嫉ましかった。
 申し訳無かった。


 手紙に記されていたのは、それだけだった。

「千葉さん……」

 差出人の名前を、思わず呟く。
 額を右手で押さえて、高耶は頭痛に耐えた。
 信じられない、こんなこと。
 だって、心当たりが全く思いつかない。
 あんなことを仕出かす理由なんて、自分を恨んでいるような素振りなんて、まったく見せなかったではないか、彼は。
 高耶より三つ年上で、高耶よりも早くに北条流に入門した兄弟子の千葉。
 内弟子として同じ離れの部屋に長く暮らしていたため、付き合いは長い。同じ内弟子仲間である石巻とは違い、大人しく真面目な性格で、影が薄いながらも好感の持てる青年だった。

「忠春さんには期待していましたのに。こんな所で道を誤って、手放さざるを得ないだなんて、とても残念だわ」

 義母の呟きに、高耶は反発の心を持つことはできない。
 彼の犯した行為を憎むというよりは、「なぜ、こんな馬鹿げたことを」という激しい疑問が、胸の中を駆け巡るばかりだった。
 才能のある若者だったのに、……あのまま修行を続けていれば、名手となれる器の持ち主だったのに。何故。
 混乱のあまり、頭が痛い。破裂しそうだ。

(どうして……っ)


「おまえは、わたくしがやったのだと思っていたのでしょう」


 冷たく放たれた言葉に、全身を硬直させたのはその時。
 冷水を浴びせられたような心地すらする声音だった。
 目線を上げて、義母の顔を真正面から見つめる。
 嫌な汗が、全身の毛穴から噴き出した。
 何か言おうと、唇をわずかに開いたが、何を言えば良いのかも分からず、喉の奥から絞り出たような呻き声が、かすかに漏れただけだった。
 刃のように厳しい視線をその身に受けながら、高耶はギリリと唇を噛み締める。
 弁解の言葉など、思いつかなかった。


「…………はい」


 義母が、手を振り上げたのはその瞬間だった。
 高耶は瞬時に、来るべき衝撃に備えてギュッと目蓋を瞑った。
 それは幼い頃から培われてきた、高耶の習癖と呼べるものだった。
 しかし何秒経っても、想像していた衝撃はやってこなかった。
 不可解に思って恐る恐る目蓋を開けると、目の前の義母は、振り上げていた手を膝の上に戻し、張り詰めた息を吐いてこう言ったのだ。

「……やめておきましょう。おまえが倒れた時、こちらも胸がすいたのは確かな事実。それで相子ということでしょう」

 呟いた義母を、高耶は茫然とした面持ちで凝視する。
 義母は当然、高耶を殴る権利があったはずだった。
 しかし敢えてそれをせず、蔑むような視線を目の前の少年に向けながら、ゆっくりとした口調で彼女は告げた。

「おまえに対する殺意なら……この十七年間、あの子などよりわたくしの方が遥かに上でしょうからね」

 ゾクリとくるような、昏い笑みをその唇に湛えた義母の冷酷な瞳。
 憎しみも怨みも、骨髄にまで達した者だけが持つ眼だった。
 高耶は息を飲んで、義母の顔を真っ向から見た。
 これまでの彼なら、萎縮して義母の目を見返すこともできず、ただ無言で俯いているばかりだっただろう。
 けれど、それでは駄目なのだ。
 いい加減に、叱責と折檻を受けては氏照の部屋に駆け込んでいた幼い日々の自分から、……前へ進まなければ。
 手にしていた手紙を、力を込めて握り締めた。
 彼のみが持つ、鋭利で力強い光を、その両眼に込めて。


「奥様は……ご存知ですか。氏政さんが、私に宗家を継いでほしいと、仰られたこと」


 義母の表情が変わった。
 暫くの間、両者の間に沈黙が漂う。
 彼女は険しく眉を顰めると、張り詰めていた糸を切るように、やがて奇妙なほどもの静かな口調で答えた。

「ええ。おまえが倒れる前の晩に、この耳で聞きました」

 義母の声音は、静かではあるが怖いほどに真剣味を帯びていた。
 ああ、やはりと胸の内で高耶は呟く。
 高耶が犯人として義母を真っ先に思い浮かべたのは、この件に掛かるところが大きかったのだから。

「今思えば、わたくしはこの日が来ることを……ずっと前から分かっていたような気がします」

 透徹とした光をその瞳に宿しながら、義母は窓の外の風景に視線を移した。
 眼下では素心蝋梅の黄色い花々が、冷たい風に揺られてその花弁を落としている。
 義母もまた、遠いその瞳に彼が北条邸に引き取られて間もない日々のこと、映しているのだろうか。
 その無表情な面から感情の機微を察しようとするかのように、義母の横顔を無言で見つめ続けていた。
 いまになって高耶は思うのだ。この人もまた、……淋しい人なのだと。
 少年は強い意志を瞳に込めると、挑むような表情で義母に告げた。

「私には、そのお話をお受けできるような資格はありません」
「……そのような勝手が、許されるとでもお思いですか」

 厳格な口調で返されたが、彼がそこで引くことはなかった。

「庶子の身でありながら、今まで育てていただいた恩義を、忘れたわけではありません」

 真っ直ぐな視線が、義母のそれと空中で交錯した。

「けれどもう私には、北条の家のためだけに、笛を吹くことはできないのです……」

 続く言葉を語る時、彼は瞳の力を弱めて、少しだけ眼を細めた。


「私が、笛を吹く理由は……」


 優しい微笑を胸の中に思い浮かべる。
 あの、何もかもを包み込むような、深くあたたかい笑顔を。


「その理由が、……他に、できてしまったので」


 眼を瞑って、一人の名前を心の中で唱えた。
 それだけでひどく、安らかな気持ちになれる。
 そして同時に、どんなに挫けそうな時も、己を奮い立たせる力強い勇気をもらえる気がするのだ。

「……北条流の家元になる人間は、誰よりも北条の笛を、家を、愛する者でなければならない。その点において、私は次期家元の資格を有し得ない人間です」

 閉ざしていた瞼をもう一度開くと、高耶は昨日まで失声症であったことなどまるで嘘のように、臆する事無く、淀みない声音で言葉を続けた。

「私などより……いいや、生まれたときから誰よりもその資格を有す方を、あなたもご存知のはず」


 他ならぬ、あなたの本当の息子である、北条氏政を……。


「あなた自身もそう思うからこそ、私が名取となることをあれほどに反対し続けていたのでしょう?」


 義母は息を飲んで、少年の言葉をその身に受けた。
 少年の瞳は、確かな意志を宿しながらこちらを、射抜くような強さで見つめている。
 その光の強さに耐えられず、義母は少年から目を逸らし、唇を噛んだ。
 そうだ。彼女が高耶の名取受験をあれほど執拗に反対し続けていたのには、理由があったのだ。
 彼女はいつも危機感を抱いていた。妾が産んだこの義理の息子が、自分の実の息子達を差し置いて北条の家の跡取りとなってしまうことを。
 あの忌々しい女にそっくりな顔をした少年が、自分からまた大きなものを奪い去って行ってしまうことを。
 そしてそれを成し得る可能性を、少年の才能が秘めていることを。
 だからこそ、彼女は高耶に「北条」の名を名乗ることを頑なに禁止した。
 名取になれば、北条家の人間として、「北条」の名を冠し彼は舞台に立つことになる。
 そうして徐々に世間はその少年の才能を認め、やがて口を揃えてこう言うようになるだろう。

 北条の家を継ぐに相応しい人間は、仰木高耶をおいて他に無い=c…と。

 そうして何もかも彼女の予想通りになってしまった。
 家元も、そして自らが跡目を継ぐことを望んでいたはずの氏政さえもが、高耶が次期となることに承知したのだ。
 しかしただ一つ、彼女には誤算があった。
 他ならぬ高耶自身が、家を継ぐことを望んでなどいなかったということを……。
 そしていま、少年はこの自分に対し、次期宗家の座を自らの意志で辞退する旨を述べている。
 彼女は肩をわななかせた。
 暫くの張り詰めた沈黙を越えて、やがて唇をゆっくりと押し開くと、


「……おまえは、それでも構わないのですか」


 そう問いかけて、ひどく真摯な瞳を少年へと向けた。
 高耶は言葉無く、確かに一つ首を頷かせた。
 義母はその様をしかと目に焼き付ける。そして、

「…………分かりました。おまえの言葉は、家元と氏政にわたくしの方から話しておきましょう」

 と、どこか悔しそうに、そしてほっとしたようにそう呟いて、ゆっくりと瞳を閉じた。
 それを見て高耶もまた安堵の息をつく。

「そうしていただけると、とても助かります。私の口からだけでは、氏政さんには納得していただけそうにないので……」

 氏政には、少なくとも今回の事件で高耶と同じく、濡れ衣を着せた義母に対し負い目がある。義母が説得に当たればおそらく彼も折れざるを得ない。
 もちろん明日退院した後に、直接自分からも説得するつもりではある。
 それでも当然、氏政は反対するだろう。けれどたとえそうだとしても、高耶の意志は固く、揺らぐことは決して無い。

(オレはあなたから家≠奪うことはできない……)

 きっと自分が家元の座についても、誰一人としてそれを喜ぶ者などいないだろう。
 他ならぬ氏政こそが、誰より北条の家を、笛を、大切に思っていることを。……知っているのだから。

 自分も、義母も、そして家元も……。


「……それでは、用件も済みましたし、そろそろお暇致しましょう」

 感慨に浸るような素振りも見せず、義母はすっくと立ち上がると、流れるような所作で高耶に背を向けた。
 特に名残惜しいこともないので、高耶も「そうですか」と素っ気無く呟いて、

「……明日には、退院できると思います。そのことについても、よろしくお伝えください」

 と、背を向ける義母に見えないとは知りつつ深く頭を垂れた。

「心得ました」

 紺色のショールを羽織りながら短く呟くと、義母はさっさと歩き出してしまう。
 高耶はそれを無言で見送っていたが、彼女は病室の戸に手を掛けた瞬間、わずかにこちらに顔を振り向かせたのだった。

「高耶」

 呼びかけに、「はい」とすぐさま答える。
 義母はいつものとおり、冷たく硬い口調で高耶に宣告した。

「今回のこと、借りができたとは思いませんよ」

 ピシリと言った後、彼女は心持ち、口元を歪めたように見えた。
 背筋を伸ばした高耶に、もう一度次のように告げる。


「ただ……おまえを仰木高耶≠ニして扱うのは、いい加減やめにしなければならないのかもしれませんね」


 高耶が眼を瞠る。だがその様子を目にすることもなく、

「退院後は、すぐに稽古を始めなさい。北条家の人間として、やってもらわなくてはならないことがたくさんあるのですからね」

 淡々とした調子でそう言い終えると、扉を開けて退室して行った。
 残された高耶は、ただ無言で義母の去った扉のノブのあたりを何をするともなしに、しばらくの間見つめていた。
 チェストの上の花瓶に活けられた寒木瓜の花が、誰に触れられることもなくはらりと一片花弁を落とした。


(北条家の、人間として……)


 高耶は膝元のシーツの上に置かれていた千葉からの手紙を、もう一度両手で握り締めた。
 瞳をとじて、差し出し主の顔を思い浮かべる。
 ひどく悲しい思いが、その紙面から切々と滲み出ているような気がした。
高山流水
篠笛悲恋物語