2006*5*13
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 ついにここまで来てしまったか……。
 絶望のどん底を彷徨う「高山流水」シリーズ第18話、「頻闇しきやみの愛」をお送りいたしました。「頻闇(しきやみ)」とは、どこまでも絶え間なく続く闇のことを表しています。
 今回、前回の17話以上に驚愕の展開でしたでしょうか。最後の最後にこの物語のキーパーソン、「のりこ」嬢が再登場しました。ようやく、この物語最大の伏線解消です。
 覚えておられますでしょうか。7話に登場した、川の辺の少女です。高耶さんに匂い袋を渡した少女です。
 以前から、この物語の高耶さんは上品で生真面目で繊細で、原作の彼が持つような、野生の猛獣を彷彿とさせる苛烈で激しい要素が無いと言われていましたが、ここからようやく高耶さんがその本性を垣間見せてくれると思います。
 次回、涙なくして書き進めることができません。
 
 
 第十八話


 あたりは薄い夕闇に包まれていた。
 月も見えない冬の夜の闇に、世界が浸食されていく。
 最後の残骸のような赤い光を山の稜線に放って、太陽は音も無く姿を消していった。
 まるで何かに追い立てられていくかのように。

 高耶は息を切らして、古い屋敷の数奇屋門の前に立ち尽くしていた。
 白い外灯の光が、古い木造の門を漆黒の闇の中に浮かび上がらせる。
 表札には、達筆な墨文字で「直江」と書かれている。
 風に吹かれて、塀の上から覗く常緑樹の葉がざわざわと不気味に揺れていた。
 ここに来るのはいったいどれだけぶりなのだろう。
 数ヶ月前、八月の最後にこの屋敷を訪れた時、まさかこんな気持ちで次にこの場所に立つことになるなどとは、想像もできなかったというのに……。
 震える肩を、どうにか御す。
 真冬の夜の風が、容赦無く少年の全身に吹き付ける。
 草履はどうにかつっかけてきたものの、着の身着のままで飛び出してきた状態のため、底冷えする師走の寒さを防ぐことはできず、高耶の全身は無防備のままに凍えきっていた。
 木綿の着流しから出た長い手足が、冷気に晒されまるで凍てつく氷のようだ。
 吐く息が白い。耳たぶが千切れそうに痛い。なのに不思議と寒いとは感じていなかった。
 門の向こうから、民家の明かりが漏れている。
 耳を澄ますと、心なしか風の吹きすさぶ音に混じり、談笑の声が聞こえる気がした。
 確かにこの家で、直江が生活をしている。
 いまこうしている間にも。
 高耶は唇を噛み締めた。
 いまさら、迷う必要などないのだ。
 意を決するように、高耶は一歩、足を前に進めた。
 それと同時だった、屋敷の門が開いて、人が姿を現したのは。
 暗くてよくは分からなかったが、女性のようだった。その事実に、高耶は反射的に全身を強張らせたが、よくよく見てみると、女性は壮年と言える年頃で、身につけている着物から見ても、この屋敷の女中であることが察せられた。
 門の錠を掛けに来たのだろうか。女中らしき女性は、僅かに開いた門から周りを確認するように見回して、そして高耶の方に視線を移した。
 目が合って、女中は警戒心を芽生えさせたようだった。こんな薄暗がりの中に、微動だにせず立ち尽くしている男がいたのだから、彼女の反応は当然だろうが。
 しかしこちらから声を掛けようとした直前に、女中は「あ」と声を漏らし、驚いたように口元に手を当てたのだ。

「あなた、仰木さんじゃないかしら?」

 彼女は言うなり、手に持っていた明かりをこちらへと翳した。

「やっぱりそうだわ。仰木さんですね? 笛のお稽古に何度か見えていらした」

 僅かに開いていた門を、押し開いて、女中は高耶の方へと近寄ってきた。近づいて見ると、なるほど高耶にも彼女に見覚えがあった。この家に笛の稽古に訪れていた時に、いつも応接間まで冷たい茶や菓子を出しに来てくれていた女性である。

「そうです。仰木高耶です。夜分遅くに申しわけありません」
「いいえ。それよりどうかなすったんですか? こんな寒い中。しかもこんな薄着で」
「直江に……信綱さんに、用があって来たんです。彼は今ご在宅ですか」
「それは……いらっしゃるにはいらっしゃいますけれど」

 壮年の女中はそこで、申しわけなさそうに眉を下げた。

「いま大事なお客様のご来客中でして、応接間の方で旦那様や奥様方とお食事中なんですの。もしよろしければご用件の方、承りますけれど……」

 大事な客? その一言に、高耶は嫌な予感が背筋を駆け上っていく気がした。

「……火急の用なんです。すぐに済みますから、少しだけでもいい。彼を呼んでいただけませんか」

 鬼気迫る面持ちで、高耶は女中に詰め寄った。
 女中もその迫力に気おされたのか、たじろぐように半歩後ろに下がって。

「わ、わかりました……火急の用なんですね? すぐにお呼びいたしますから、どうぞお通り下さい」

 そう言って、高耶を門の中へと案内した。
 女中の後に従って、闇の中の砂利小路を歩いていく。
 日中ならば、美しく整えられた日本庭園に、目を瞠らせることもできたろう。白い雪が闇に映えるように樹木の陰に光っていたが、その美しさに感銘を受けるような余裕はいまの高耶には残されていなかった。
 母屋の玄関に辿り着いて、客間の方へ上がるように勧められたが、「すぐ済む用ですから」と彼は辞退し、草履も脱がずに玄関に佇み、やがて待ち人が姿を現すのを待った。
 玄関の飾り棚には、藪椿の花が品の良い青磁の花瓶に活けられている。
 その花弁を、高耶は耐え難い心地で睨みつけながら、ただ時が刻まれていくのを待った。
 永遠にも感じる時間だった。
 真紅の花弁が、触れることも無しにはらりと下に舞い落ちた。
 そして数分ほど経った頃だろうか。
 奥の方から背の高い、暗い色彩の背広に身を包んだ若い男が、少年の前に姿を現したのは。
 高耶は唾を飲み込んで、正面をじっと振り返り見た。

 運命とも言える瞬間が、いままさに訪れようとしていた。


               *


「高耶さん……」


 男は玄関に姿を現すなり、驚愕の響きも露に、框の下に佇む少年の名をひっそりと呟いた。
 この男と最後に会ったのは、昨日の昼過ぎのことだった。
 なのに随分と長い間会っていないかのように感じるのは、なぜなのだろう。
 これほど彼の顔を見るのを苦しく感じたことなど無かった。
 鳶色の、二つの瞳がこちらを見つめている。
 そんな彼の視線に応えるように、高耶は直江を、愛しい男を、正面からゆっくりと睨みつけた。

「いったい……どうしたんですか、こんな遅くに」

 無言の高耶に、直江は足音も荒く駆け寄った。心底驚いた表情をしていた。

「あなた、今日退院したばかりなんでしょう? なのにこんな寒い中出歩いて良いと思っているんですか、しかもこんな薄着でっ。正気の沙汰じゃない」

 叱り付けるようにそう言った彼は、高耶の青白い左手をその手に取って、怒ったように眉を顰めた。

「ほら、身体が冷え切っている。とにかく中に入って、すぐに身体を温めないと……」

 そう言って、直江が高耶の腕を引いた瞬間、高耶はパンッと勢いよくその手を振り払った。
 驚いて振り返った彼と、目線が合う。

「……高耶さん?」

 訝しげに問いかける直江を、これ以上ないほどに強い光をこめて睨み付ける。これほど苛烈な光を宿す彼の眼を、直江はいままでに一度として見たことなど無いだろう。
 思わず息を飲んだ直江に、頑なに口を閉ざし続けていた高耶が、そこでようやく青白い唇を開いて、告げた。


「おまえ、オレに何か隠していることがないか」


 その問いを耳にした瞬間、明らかに、直江が顔を強張らせた。
 眼を見開いて、こちらへ一筋に視線を注ぐ彼に、高耶は腹の底から力を込めて問いかける。

「オレに何か黙っていることがないのか……っ」

 男は言葉も無く、玄関の上段で立ち尽くしていた。
 その様を、一瞬たりとも逃すまいとするかのように、真っ向から凝視し続ける。
 高耶は勇気を振り絞るようにして、恐ろしい問いを、決して現実であってはならない問いを、その唇に乗せた。


「結婚、するって、本当なのか」


 静寂が、その空間を支配した。
 重苦しい、張り詰めるような沈黙。
 そのさなか、対峙する二人が挑むように見つめあう。
 緊張のあまり、握り締めた拳に汗が滲んでいた。
 直江はなおも無言だった。しかし高耶のその問い一つで、すべてを察したのだろう。彼はどこか、人の絶望の底を見届けた者のような顔になって、俯き、静かな口調で問い返した。

「……誰から聞いたんですか」

 恐ろしいぐらい、低い声音だった。
 普段の優しい彼からは、想像すらできないほどの。

「……北条の弟子の一人に。何年も前から、親同士が決めた許婚がいたと……」

 意を決して言った言葉に、直江は瞼を瞑った。
 懺悔する者のように、しばらくそうして俯いていたが……。


「本当、ですよ」


 呟いた言葉は、いっそ冷たく感じるほどに、感情のこもらないものだった。
 苦々しげに眉を寄せている。痛みから耐えるように、涌きあがる感情を抑えようとするかのように、彼は強く歯を噛み締め、無表情の仮面をその顔に被せ。
 そして淡々と告げた。


「春に、式を挙げます。つい先日、日取りが決定しました」


 高耶は茫然と立ち尽くしながら、その言葉を聞いた。
 愕然とした表情を、隠しもせずに。
 顔色は、悪い病気に罹ったように蒼白だった。
 唇がふるえる。
 ……悪い夢だと思いたかった。
 ともすれば、その場に崩れ落ちそうになる身を、必死で耐支えて。
 直江のその二重の瞼と睫毛に縁取られた瞳を、凝視し続けていた。
 全身が、知らずがたがたと震えだしていた。


「嘘、だったんだな……」


 どこまでも空虚な呟きだった。
 震えがとまらない。歯の音があわず、白い歯ががちがちと音を鳴らした。
 息が、思うようにできない。呼吸困難で、いまにも窒息するのではないかと思った。

「何が鐘子期だ……。そうやって、オレを喜ばせるようなことばかり言って……内心で笑っていたのか。オレのこと、馬鹿にしてたのか……」

 ぶるぶると震える拳を、懸命に握り締める。絶望で身がもがれそうだった。頭の中が真っ白になっていた。
 そんな高耶の様子を、直江は真摯な瞳で見つめている。

「……違います」

 直江の反論に、高耶は瞳の牙を剥いた。

「何が違う。ならどうしてもっと早くに言わなかった。なぜ黙ってた」
「……、それは……」
「オレのこと、そうやっていつも笑ってたのか。応える気もないくせに、馬鹿なガキだって……おまえの言うことに、一喜一憂してる姿、高いところから見下ろしてたんだろう……」

 涙が浮かんだ瞳で下から睨み上げた。
 言葉が怒涛のように流れ出して、とまらない。
 押さえることのできない思いが、爆発する。
 高耶は激情に駆られるまま、両手を振り乱すようにして叫んだ。

「おまえ、言ったじゃないか……ずっとそばにいるって。誰よりも近くでオレの笛を聴くって! ぜんぶ嘘じゃないか! みんなぜんぶ嘘だったんじゃないかッ!」

 涙が、溢れ出るのをとめることができない。
 もうわけがわからない。考えれば考えるほど、いままでの自分の行動すべてを顧みて、その愚かしさに、羞恥のあまり死ぬのではないかと思った。
 この男の眼に、自分の姿はどれだけ滑稽に映っていたのかと思うと、堪えがたい屈辱と慙死の思いが、全身から襲いかかる。たまらず高耶は涙を千切り飛ばすように頭を強く振り乱した。

「そうじゃありません、高耶さん」

「言い訳なんて聞きたくないッ!」

 悲鳴のように叫んだ。
 どこまでも醜態を晒す自分を、抑えることができない。
 けれど何だ。何なのだこの状態は。
 頭が痛い。破裂しそうだ。このままでは、錯乱する。屈辱と羞恥と絶望のあまり、狂ってしまう!
 それでも高耶は直江から視線を外さなかった。
 外してしまったら、それが最後。すべてが壊れてしまうのではないかと思った。
 全身全霊の力を込めて直江を凝視する。まるで獲物を狙う猛獣のような眼で。殺意に近いものすらこめて睨み付ける。
 その焼け焦げるような視線を、直江はひどく静かな表情で受け止めている。
 それは何かを諦めた者だけが見せる、悲しい表情だった。

「分かっています……私の言い分は、所詮言い訳にすぎないことは。けれどどうか聞いてほしい」
「嫌だ、聞きたくない……」

 首を振る高耶を、直江は淋しげに見つめ、構わず続けた。

「……もう、ずっと前から言わなければならないと思っていた。ただ一言伝えれば済むだけの話なのに、けれど、どうしてだか言えずにいた」

 耳を両手で押さえて聞くまいとする高耶に、直江は静かに語りかける。
 力尽きるような仕草で双眸を閉じて、苦笑いを浮かべた。

「あなたの前に立つと、どうしてか言うことができなくなった。それがずっと不思議だった。長い間、それがわからずにいた……。けれど、最近ようやくわかったんです。なぜあなたに伝えることができなかったのか」

 どうしてその一言が言えなかったのかを。

 噛み締めるように呟いて、直江は再び閉ざされていた瞼を開いた。
 その瞳に宿された影を、眼に映した瞬間、高耶は思わず、怒りも忘れて眼を見開いた。
 それはひどく悲しくも、美しい色だった。
 これほど悲痛な光を灯す瞳を、彼はほかに知らない。


「けれど……今さらわかっても、もうどうしようもないことだったんです……」


 自嘲のような響きを帯びた言葉だった。
 その呟きを、茫然と立ち尽くしながらその耳に高耶は聞いていた。
 男の横顔が、疲れたように影を落として、力なく俯く。
 それきり何かに絶望したように、高耶と視線を合わせようとはしない。

 両者はただ無言でそこに佇んでいた。
 時計の針が時を刻む音だけが、無機質に辺りに響き渡っている。
 高耶は直江を凝視するのをやめようとはしなかった。
 ただひたむきに、見つめ続ける。
 まるで何かを掴もうとするかのように。
 男の胸の底に潜んだ、彼の本当の思いを、探り取ろうとするように。


 しかし、その時沈黙を破って、あたりに響いた声があった。



「信綱さん?」



 高い声が、玄関の奥の方からこちらに届いた。
 え? と、思って高耶は視線をそちらに移した。
 どこかで、聞き覚えのある声だと思った。

 直江も背後を振り返る。
 視線の先には、小柄な女性が立っていた。
 女性……と言うよりは、少女と呼ぶのが似つかわしいだろうか。
 彼女は、白地に辻が花模様の、色鮮やかで美しい振袖に身を包み、帯は朱赤地に金糸の檜扇柄袋帯を福良雀に結んでいる。長く艶やかな黒髪は後ろで高く結い上げ、残りは肩の上に垂らしていた。
 薄化粧をした少女は、日本人形のように美しくも、まるで北条の家の庭に咲く白い山茶花の花のように、掛け値なしに可憐であった。

 高耶はその少女を、言葉も無く凝視していた。
 呼吸すら忘れて、見入り続けていた。

 しかし少女は高耶の視線に気づくことなく、直江のもとに歩み寄りつつ、鈴の鳴るような声で言ったのだ。

「信綱さん、随分遅いから、お父様たちが様子を見に行きなさいって。まだお時間かかりそうなの?」

 少女は可愛らしい仕草で首を傾げて見せた。
 直江が長く席を外しているので、早く用事を済ますよう催促にきたらしい。

「それが、まだ……」

 直江が、困ったようにそう呟いた、その時だった。
 彼女が視線を、戸口の高耶の佇む方へと転じたのだ。そして二つの大きな瞳で、こちらをまっすぐに見つめてきた。
 空中で、二人の視線が交錯する。
 少女は、みるみる眼を見開いていった。白い右手で口元を押さえて、彼女は驚愕の表情も露に、高耶に向けてこう言った。

「え、……あなた……ひょっとして」

 ドクリ、と心臓が鼓動を鳴らした。
 まさか……っ、乾いた唇を開き、心の中で口走る。
 けれど、目の前に厳然と横たわるその事実に、高耶は逃れるすべすら見つからず、かすれきった声で、こう呟いたのだ。



「のりこ、さん……」



 横目に、直江が眼を瞠る様子が見えた。
 嫌な予感が、脳内を占拠していた。
 それは、あってはならない可能性だった。
 悪い冗談としか思えなかった。
 全身から、冷や汗が噴き出している。
 自分の顔は、きっとこれ以上無いぐらい青ざめて、とても見られた状態ではないだろう。
 目の前の少女は、高耶の呟きを聞くやいなや、今度は高耶の方に駆け寄りながら、興奮気味に語りだした。

「やっぱりそうだわ。あの時の篠笛の方だわ。覚えてらっしゃる? 私のこと。どうしてここにいらっしゃるの?」

 頬を紅潮させて語りかける彼女は、思いもよらない再会に、嬉しそうに瞳を瞬かせている。
 勢いこんで語りかける彼女の問いにも答えようとはせずに、高耶はただ、紙のように白い顔色で無言のまま立ち尽くしていた。
 見かねて直江が、少女に尋ねた。

「お知り合い……なんですか?」
「ええ、そうなの。ずっと前に、一度だけお会いしたことがあるの。……長くなるから、詳しくは話せないのだけれど」

 直江を振り返り、彼女は心持ち柳眉を顰めた。
 あの日のことを、思い出しているのだろうか。
 そうだ、忘れるわけもない。あの日のことを。
 あの夜、川辺で水の流れに耳を傾けながら、少女のために笛を吹いたことを。
 涙を流し続けていた、彼女のために。
 高耶だとて、いままで決して忘れたことなどなかったのだ。彼女のことを……!



── いないの? 好きな方。

── そう……そうなの。ある意味で、幸せかもしれないわね。こんなに苦しい思いを、知らずに済むんですもの……。



(馬鹿な……そんな、馬鹿なことが……)

 暑くもないのに、異常なまでに冷たい汗が全身から噴き出していた。呼吸が乱れて、肩を大きく聳やかす。はち切れんばかりに瞳孔を見開きながら、少女の顔を注視し続ける。
 急速に、あの日の情景が脳裏に甦る。
 川の流れる音。風のそよぐ音。夜に遠く響く笛の音。涙で赤く濁った瞳。頬を落ちた雫。
 親から決められた相手と、結婚しなければならないのだと、膝を抱えながら淋しげに語っていた。そのために、好きな相手ともう二度と会えなくなってしまったのだと。
 そう言って、絶望に塞ぎ込んでいた少女が、いま再びこうして高耶の目の前に立っている。
 そうだ、こんなにも鮮明に覚えている。あの日のことを。
 彼女と交わした言葉を。
 自分はあのとき、彼女になんと語りかけた?
 なんと言って、自分は彼女のことを慰めた……!?

(なんて言って……!)

 わなわなと拳を揺らす。頭が割れるように痛い。こめかみを汗が伝い落ちる。
 心臓がガンガンと早鐘を鳴らして、高耶の精神を追い詰めていく。

「直江……聞いてもいいか」

 これ以上は堪えきれず、高耶は魂から振り絞ったような悲愴な声音で、直江に尋ねた。
 声は惨めにもふるえきっていた。

「……はい」
「彼女なのか、おまえの相手……」

 幽鬼のような形相だった。まるで、命乞いをする者のような哀れな声音だった。
 それは彼にとって、最後の頼みとも言える問いだった。
 否定以外の言葉があってはならなかった。
 ただその答えを待って、彼は縋るように直江を見た。
 
 直江はしばしの間押し黙っていたが、やがて覚悟を決めたのだろうか。
 断腸の思いを振り払うかのように、拳を強く握り締めた。
 そして彼は瞼を引き絞ると、命綱を鋭利な刃で斬り落とすかのように……無慈悲にも告げたのだ。



「はい。彼女は……ご存知かもしれませんが、直江舟子のりこさん。私にとって叔父にあたる方の一人娘で、来年の春に、……夫婦となる予定の女性です」








──相手の方と、会ったことは?

──小さい頃、何度か。それにお見合いのときに……。でも、話したことはほとんどないの。話しかけられても、無視したから……。




──そう……。せめて、いい人だといいな。
高山流水
篠笛悲恋物語