2006*6*20
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 「高き山と流れる水、そして君思う調べ」第20話、「君や聞くらむ笛の調べを」でした。
 ここにきて千秋修平の登場。本当は千秋は、譲のように名前だけ出演の予定でしたが、なぜだか無性に彼が書きたくてたまらなくなって前半のシーンを追加してしまいました。
 やはり千秋を書くと癒されます……。どこに行っても何をやらせても、やっぱり千秋はいい人です。本当は綾子ねーさんも登場させたかったのだけれど。ちなみに設定では、ねーさんは劇場に出入りする楽団のヴァイオリニストで、千秋とは酒飲み友達だったりします。
 終わりへの身支度を、着々と進める高耶さん。
 家同士の決定に、逆らう意志を持てぬ直江。
 そして高耶さんの想いを気づくことができない舟子。
 婚礼の日に向けて、いよいよ物語はクライマックスを迎えます。
 あと残すところ2話、頑張って書きますのでどうぞお付き合いください。
 
 
 

 第二十話


 それからどうやって家に帰りついたのか、高耶には記憶が無い。
 後から早紀江に聞いた話では、通りがかりの者に助け起こされ、自力で家まで帰ってきたらしいのだが。出迎えた氏政は、全身ずぶ濡れの体で玄関に佇む高耶の姿に、心臓が止まるかと思うぐらい驚いたという。
 高耶の身体は肺炎を起こしかけていた。無理も無い。退院したての身体で真冬の川に飛び込んだのだから、心臓麻痺を起こさなかっただけ運が良いといえる。
 三日三晩寝込んだあと、ようやく起き上がれるようになった高耶は家の者から質問攻めにあった。
 泣き腫らした眼で力無く宙を見つめながら、草履も履かず、ずぶ濡れの体で帰って来たのだから、そのわけを問いただそうとするのも当然だった。
 しかし彼は決してわけを話そうとはしなかった。自失状態の彼は、堅く閉ざされた唇を開こうとはせず、虚ろな瞳で正面を見つめているだけで、他に注意を向けようともしない。
 氏政たちは次第に理由を聞き出すことも諦めてしまったが、ただ一人事情を知る石巻は、自失に陥った高耶の姿を見てようやく自分のしでかしたことの重大性に気づいたらしい。彼は眠る高耶の枕元に、お詫びの印のつもりなのか剥いた梨を置いては、謝罪の言葉もなく部屋から去っていったのだった。
 病床から脱した高耶は、脇目も振らず笛の稽古に勤しむようになっていた。まるで何もしていない時間が耐えられないとでもいうように、鬼神に取り憑かれたかのごとき荒々しさで、篠笛を吹き続ける。
 何かに追い立てられるかのように、鬼気迫る面持ちで笛を吹く高耶の姿に、周りの者は畏怖すら感じ、遠巻きに彼の奏でる旋律に聞き入っていた。
 笛の音は高耶の言葉にならぬ叫びだった。
 その旋律は霊感を伴い、耳にするものの心を魔物のように捕らえて離すことがない。
 神霊が乗り移り、この少年の体を借りて笛を吹いているのではないか。本気でそう感じさせるほどの迫力だった。
 これはもう、才能云々の話ではない。
 あの義母ですら、高耶が笛を吹く間は顔を蒼白にして、聞き終わって暫くは言葉すら発せられなくなってしまうほどだった。
 以前の彼からは考えられないような演奏だった。
 無論才能はあった。天性のものを感じさせた。しかしいったいこれはなんだ。魂を喰らいつくすかのごとき演奏。まるですべてが燃え尽きていくような……。
 
 あの日から、彼の中で何かが変わってしまったに違いない。






 中学校へ通えるようになってからは、高耶は学校帰りにとある所に立ち寄るようになっていた。
 そこは小さな劇場だった。瀟洒な造りの洋館風建築。街中に位置し、小規模ではあるがオーナーが選りすぐった質の良い劇団・楽団によって芝居や音楽会がたびたび催される、その筋に詳しい者によく知られた劇場であった。
 休館日のその日は普段の活気からは考えられないほど静まっていた。整然と並べられた客席。その小さなホールの中に、二人の若者の交わす会話が反響していた。

「なにぃ? ここで働かせてほしいだぁ?」

 劇場のオーナーの息子、千秋修平は友人からの突然すぎる申し出に、帳簿をつけていた手もとめて素っ頓狂な声で聞き返した。

「冗談はよせ。おまえガッコ出たあとも家で笛の修行続けるって、ずっと言ってたじゃねぇか」

 最前列の客席に座っていた彼は、身を乗り出すようにして舞台の端の方に立つもう一方の若者──高耶を見上げた。
 千秋は高耶の通う中学校の一学年上の先輩だった。今はもう卒業して、家の仕事を継ぐべくこの劇場であくせく働いているのだが、用は無くとも時折こうして訪ねあう程度に親しい間柄であり、高耶にとって最も仲の良いと言える友人の一人であった。

「冗談なんかじゃない。考えて決めた結果だ」

 学生服を着た高耶は、舞台袖の方からホールの客席を眺めながら、抑揚の乏しい口調で呟いた。がらんどうのホールは客の入ったいつもより心なしか広く感じる。

「卒業後は、あの家を出る。下働きでも何でもやるから、ここに住み込みで働かせてほしい」

 こちらを振り返って、冗談でもなく真面目な面持ちで語る高耶の姿に、千秋は何か引っかかるものを感じながらも、つめていた息を大きく吐いて、首を左右に振った。

「……ここは家出の一時避難所じゃねぇぞ」
「そんなつもりはないさ」

 高耶は踵を返し、舞台袖から舞台の中心へと足を進ませた。床が重みでギッ、ギッと音を上げる。
 彼はやがて舞台の中央で立ち止まると、まるで役者がこれから芝居を演じようとするかのように顔を仰むけて、客席の方を振り向いた。

「ただ、もうこれ以上はあの家にはいられなくなった。もちろんそれだけが理由じゃない。オレはもっと広い世界を見てみたい。音楽は何も邦楽だけなんかじゃない。笛にしたって、世界にはさまざまな種類の笛がある。この劇場は色々な楽団が出入りする場所だし、自ずとそういったものに触れられる機会も増えるだろう。オレは今まで閉じこもっていた殻の中から解き放たれたいんだ」

 眼を細めながら、今までの彼からは想像もつかないような驚くべきことを語る。声はホールの壁に反響して客席に遠く響いていたが、将来の夢を語る言葉にしては、彼の口調は妙に冷静で淡々としている。

「……どうも分かんねぇな」

 高耶を追いかけるように、脇の階段から千秋も舞台へと登った。カツカツと靴音を立てて、彼の傍らに立つと、腕を組みながら後輩の横顔を真っ直ぐに見つめた。

「あれだけ篠笛一辺倒だったおまえが、いったいどういう心境の変化だ?」

 普段軽い態度しか見せない彼が、怖いぐらい真剣な口調で問い詰める。

「おまえ、いったい何があった」

 高耶は無言で俯いた。こちらに視線を注ぐ千秋の眼差しを振り返ることはできず、舞台の木目を意味も無く視線でなぞる。

「……何もないさ」

 無表情に呟く彼を、千秋は気に入らないものでも見るように眉を寄せながら睨みつけたが、やがて興味が失せたように視線を外し、

「ふん……まぁいいけどな」

 不機嫌な調子で風邪気味の鼻を啜った。

「実際問題として、うちは万年人手不足で忙しい時は猫の手だって借りてぇぐらいだ。おまえには前に何度か手伝ってもらってるし、うちの親父とも知らぬ仲じゃねぇ。働きたいっつーなら喜んで雇ってくれるだろうよ」

 安月給でもかまわねーならの話だがな、と、投げやるように言葉を区切る。

「千秋、それじゃあ……」
「ただし、うちは良くともおまえの家の方はどうなんだ。親御さんは諸手を上げて賛成してくれてんのか」

 高耶の声に被せるように、再び問いを掛ける。苦虫を噛み潰したような顔になって、高耶は首を振った。

「……家にはまだ伝えていない」
「だろうな。おまえ、親御さんら説得できんのか。俺が首突っ込む話じゃねぇかもしんねぇが、……難しい立場なんだろう?」

 最後の言葉には、どこか相手を気づかうような響きがあった。
 北条の家の事情も、ある程度のことは把握している千秋だ。
 高耶はやるせなさそうに前髪をかきあげながら呟いた。

「……ようやく厄介払いできるって、せいせいされるかもな」

 くくっと、おかしげに笑う。その笑みが、随分荒んでいるように見えたので、千秋は相手の言葉から心を推し量ろうとする思考も止めて、思わず目を瞠る。

「仰木……」

 笑いを収めた高耶は、その次の瞬間顔を仰のかせると、これ以上ないぐらい真剣な表情で舞台の照明を睨みつけた。

「説得できようができまいが、間もなくオレはあの町で暮らすことが
できなくなる」

 思いもよらぬ言葉に、「なんだって?」と千秋は驚愕の声を上げた。
 高耶は思いつめたような様子で、眉間に深い皺を刻みながら言葉を続けた。

「オレはもう、一生あの家には帰れない。……それぐらいの覚悟は、既にできている」

 淡々と語りながらも、その言葉には悲愴な決意が込められていた。
 両拳はその決意の深さを物語るかのように、ぎりぎりと握り締められ、色白の肌が更に白く変わっていた。
 千秋はわけを問い返すこともできず、無言で高耶の横顔を見つめた。

(何考えてる……? 仰木……)




               *




 そうして月日が過ぎていった。あれ以降、直江の方からは何の音沙汰もない。
 しかし、その間にも直江家から結婚披露宴の招待状が届いたのには、正直安堵した。
 ああして啖呵は切ったものの、直江は高耶の出席を拒むのではないだろうか。そう危惧していたのだ。
 もっとも、招待状は高耶に宛てられたものではなく、あくまで「北条家」に宛てられたものであったのだが。これは直江なりの配慮なのだろう。どう考えたって、自分が他の相手と結婚するために捨てた人間をその婚礼に招待するなんて、本人がそれを望んでいようがいまいが、常識外れもいいところなのだから。
 普通ならば、祝言の出席を拒むのは高耶の方なのだ。けれど高耶には、どうしても直江と舟子のりこの婚姻を見届けなければならない義務があった。
 やるべきことが残されていた。
 彼の新たなる門出を祝して、二人の晴れの姿を見届けて。
 そうして自分は旅立たねばならない。
 残された思いを、断ち切ることで……。

 誰もいない世界へ飛び立つのだ。
 そのためにも……高耶は直江の婚礼に、出席しなければならなかった。




 幸いにして、北条の家の年末年始は余計なことに気を回す余裕の無いほどに忙しかった。延ばし延ばしになっていた名取披露の準備や年始の挨拶回りなどをこなしつつ、ようやく一息ついた頃には、既に一月も終わりとなっていた。
 そんなある日のこと、笛の稽古が終わって、日も没した宵の口の頃、北条の家に高耶を訪ねる者がいた。
 早紀江に呼ばれて、玄関に姿を現した高耶は、開け放たれた戸口の先の方、庭先に佇む人影に目を留めた。
 びくり、と体が慄いた。闇の中に映えるようにして立つその人影に、ひどく見覚えがあった。
 白地に美しい模様の描かれた紅型びんがたに、甚三紅じんざもみの羽織を身に纏う、小柄な少女。
 見間違えるはずもない。そこにいたのは、直江舟子であった。

「北条さん……」

 仰木ではなく、北条の姓で彼女は高耶を呼んだ。
 門前に車夫を待たせて、舟子は山茶花の垣を背にし、緊張した面持ちで庭先に立っている。
 高耶は心持ち目をすがめた。彼女の前で、冷静を押し通せる自信がない。
 今になって、どうして自分の前に現れたのだろう。
 突然の来訪を、快く迎え入れることなどできはしない。
 招かれざる客というのは、彼女のことを言うに違いなかった。

「……こんな暗い時分に、一人で出歩くなんて若い娘さんのすることじゃないな」

 草履をつっかけて外に出た高耶は、後ろ手に玄関の戸をガラガラと閉めると、険を帯びた口調で言った。
 冷えた目線に怯えるように、舟子はびくり身を縮こまらせたが、気を落ち着かせるように白い息を吐き出す。

「……ごめんなさい、北条さん。先触れも無しに訪ねてしまって……本家の方にあなたの家を伺ったの」

 細々とした、小さな声で彼女は呟いた。それでも十分こちらに届くほどに、しんと冷えた冬の庭は、虫も鳴かぬ沈黙に包まれていた。

「どうしても……聞きたいことがあって」

 高耶は殊更冷たい視線を彼女に向けていた。彼の両眼には、見るものを威圧する強烈な圧迫感がある。

「私、あなたを怒らせるようなこと……したかしら」

 おずおず≠ニいう表現が、最も似つかわしいような彼女の様子だった。生来気丈な性質であるはずの舟子も、高耶の凍りつくほど冷淡な視線に晒されては、快活に振舞うわけにもいかなかったのだ。

「ずっと分からなくて……。あなたがどうして、あの時あんなに怒っていたのか。私、気づかないうちにあなたの気分を害すようなことしたかしら。あなたを傷つけるようなこと、言ったかしら……」

 彼女の言葉を耳にしているうちに、高耶は自分でも、頭に血が上っていくのを感じていた。
 無知とは罪だった。彼女はその存在自体で高耶を傷つけ続けている。その残酷な事実を知りもしないのだ。けれどそれは多分、彼女のせいでもなんでもない。
 込み上げてくる衝動を堪えるように、彼は視線を舟子から逸らす。玄関口に置かれている鉢に視線を転じると、そこに植えられた小さな侘助わびすけに手を伸ばして、光沢ある葉をブチリと一枚引き抜いた。

「……別に、何でもないさ」
「嘘……何もないなんてはずないわ」

 それはそうだ。あれだけのありったけの憎悪を彼女にぶつけておいて、何もないだなんて言い逃れが通用するとは思えない。だからと言って、いま彼女に本当の理由を話す気にもなれなかった。

(話す必要なんてない……)

 話してどうする。自分は哀れみがほしいわけじゃない。事情を話して、彼女から直江を譲ってほしいだなんて思わない。重要なのは彼女が直江と結婚することではない。直江が、自分よりも舟子を選んだというその事実なのだ。

(いや、彼女≠カゃない。選んだのは、家≠ゥ……)

 そう考えれば、彼女もまた家のしがらみに縛られた哀れな犠牲者なのだった。
 つくづく自分は、この家≠ニいう得体の知れない魔物に人生を狂わされ続けている。
 妾の子として生まれた時から……おそらく一生。
 直江も……きっとそうに違いない。名家に生まれた彼には、他の者にはない財力と名声が与えられたが、同時にそれに見合う分だけの責務をも与えられた。
 そして庶子の自分がそうであったように、直江家の養子≠ナある彼に、通常以上の果たすべき重責がつきまとうのは必定だった。
 正統な嫡子ならば、身勝手を通すことも許されたかもしれない。
 ……そう、ちょうど舟子が親から決められた婚姻を嫌がり、他の男と駆け落ちをしたように。
 けれど直江は、家を継ぐことを前提にして縁組みされた養子なのだった。直江家の血を持たぬ彼が、当主の決定に従い傍系の血を引く舟子を妻に娶るのは、当然のことなのだ。
 個人の問題などではない。それを私的な理由で反故になどすれば、直江家一族郎党だけでなく、彼の生家である橘の方にも迷惑が掛かることになる。
 それを知っていて我が侭を通すほど、直江は無分別でも、子供でもなかった。
 あるいは直江が高耶と同じぐらいの若者であったならば、話は違ったのかもしれないが……。

(それでもオレは、おまえに伝えなければならない……)

 口を噤んだきり、黙り込んでしまった高耶の横顔を、舟子は不安げに見つめている。
 高耶には彼女の問いに答えるつもりはなかったし、その無言の拒絶を感じ取ったのだろう。舟子はあきらめたように俯いて、右手を胸のあたりでぎゅっと握りしめると、何気ない口調で、次のような言葉を呟いた。

「初めて会ったとき、約束したことを覚えてる……?」

 薄紅色の花をつける侘助を、何とも無しに見つめていた高耶は、そこでようやく舟子に視線を戻した。

「……約束?」
「今度もし会うことがあったら、真っ先に笛の演奏を聴かせていただけるって」

 顔を上げて、高耶を見た。彼女の瞳は眩しいぐらい真っ直ぐな瞳をしていた。

「あの約束、まだ果たしてもらってないわ」

 期待をこめて呟かれた舟子の言葉を、高耶はどこか不思議そうな表情で聞いていた。

「笛が……聴きたいのか……?」

 あの日のことを思い返す。
 確かに、別れ際にそんな約束を交わしたような気がする。
 あの時自分は、なぜだか分からないが、彼女といつかもう一度会える確信を持っていた。
 何の根拠もなく、そう確信していた。
 そして予感は的中したのだ。
 それがまさかこのような形での再会になるなどとは、夢にも思わなかったけれど……。

「えぇ、私、あの時あなたの笛にどんなに勇気をもらったかわからないわ。だからもう一度、あなたの笛を聴きたいと……ずっと思っていたの」

 語る舟子の瞳は、澄んでいて、涙に塗れたように光っていた。
 切なそうに眉を顰めながら、彼女は溢れる思いをその言葉に移すように、密やかな声で語った。


「あの人のこと思い出すたびに……ずっとそう思っていたの」


 舟子の言葉を、茫然と聞きながら、高耶はその場に立ち尽くしていた。
 ああ……と、心の中で呟いた。
 彼女は、直江のことを好いているわけではないのだ……。
 唐突に、その事実を思い知った。彼女にとって恋する相手は、未だに、いまでも、駆け落ちした相手ただ一人なのだ。
 高耶には不可解だった。
 それならば、なぜ、彼女は直江と結ばれようとしているのだろう。
 好きでもない男と、どうして結ばれなければならないのだろう。
 自分はこんなに直江を想っているのに。それを差し置いて、なぜあの男を好いてもいない女に、彼を渡さなければならない。
 この不条理は何だ。
 どうしてこんなつらい思いをしなければならない。
 
 
──好きな人ができるって……どんな気持ちかな。


(こんなにつらいものと知っていたなら、恋なんて、一生しなかったのに……)


 高耶は無念の思いを飲み下して、拳をぎりぎりと握り締めた。
 こみ上げてくる悲痛と絶望を、もう隠すことなどできやしなかった。

「……そんなに慰めてほしいなら、あの男に頼めばいいだろう」

 低い低い呟きが、闇夜に包まれた庭に小さく響いた。

「え……」

 一瞬意味を把握することができなかったのか、舟子はその大きな瞳を揺らしながら、俯く高耶の顔を見上げる。

「筋違いじゃないのか。あなたがオレに頼るのは。慰めが必要なんだったら、あの男にしてもらえ」

 険のある目つきで相手を睨みながら、吐き出すように呟かれた言葉。
 ようやく言葉の意味を理解した舟子は、みるみる顔を蒼白にしながら双眸を見開いた。

「私……そんなつもりじゃ……」

 首を振る舟子の様子が、高耶には憎らしくてたまらなかった。
 相手を傷つける言葉の刃が止まらない。激しい感情が胸の底から込みあがってくる。

「もっとも……婚前の御令嬢相手じゃ、直江も下手な手出しできないかもしれないけどな」

 「なっ……!」と、舟子が絶句して顔を紅潮させる。
 高耶は笑った。自然とおかしさが込み上げていた。
 自分がいま、どんなに醜悪な表情を浮かべているのか自覚があった。

「それとも、下働きの男と駆け落ちまでした行動派のお嬢様に、そんな気づかいは無用かな?」

 言葉を言い終えるや否や、左頬に衝撃が走った。
 パンッと小気味良い音を立てて、舟子が平手で張り飛ばしたのだ。

「ひどい……ッ!」

 舟子は怒りで肩を戦慄かせながら、こちらを睨みつけている。眼にはうっすら涙が滲み、頬は恥ずかしさと屈辱でこれ以上ないぐらい真っ赤に染め上がっていた。

「どうしてそんなひどいことばかり言うの!」

 高耶は痛みの走る頬を押さえることもせず、その体勢で俯きながら、くっくと昏い笑いを浮かべた。

「あなた、あんなに優しかったじゃない! なのにどうして……!」

 どうして? そんなこと自分が聞きたいぐらいだった。
 これほどの醜態を晒すのは生まれて初めてだ。
 恋する者とはかくも醜くあれるものか。
 高耶の姿を、人は誰もが笑うだろう。なんと愚かな者なのかと。
 けれどもう、自分でも止めることはできないのだ。
 堕ちていく、渕の深きに。闇に住む魔に魅入られたまま。

 高耶はゆっくりと瞼を閉ざした。
 既に笑いは収まっていた。無表情のまま、隠すように手で顔を覆って、首を無気力に左右に振ると、吐き捨てるように呟いた。

「わからないなら、それだけのことさ……」

 高耶は理解を求めてはいなかった。
 求めたくもなかった。自分から、あの男を奪っていく相手なんかに。

「わからないわ……わからないわよ!」

 舟子の感情的な叫びを聞きながら、高耶は瞼を引き絞り、これ以上は会話を続ける意味もないとばかりに、彼女に背を向けた。

「もう、行ってくれ……」

 かすれる声で、搾り出すように発した言葉。高耶は唇を噛んだ。「くっ」と短く呻くと、肩を揺らしながら、留められていた箍を外すように首を振って叫ぶ。

「話すことなんて、これ以上何もない!」

 涙がふつふつと滲み出す。声が情けなくも震えていた。
 じわりと湧き出る涙を押し隠すように舟子に背を向けたまま、高耶は悲痛な声で叫んだ。

「もう……行ってくれッ!」

 怒りに眉を顰めていた舟子は、そこでハッとしたように眼を瞠って、高耶の背を凝視した。
 肩が、小刻みにわなないていた。白くなるほど握り締められた拳はぶるぶると震え、圧しかかる哀しみに耐えるかのようだ。

「…………泣いているの?」

 次の瞬間高耶は勢い良く振り向いた。眼には大粒の涙が浮かんで、頬を流れ落ちていた。舟子が息を飲む。
 キッと、眉間に力を込めて舟子を睨みつけた。怒りと憎しみの炎が高耶の瞳の中に閃く。


「早く行けッ!」


 鋭い叫びが辺りに響いて、虚空の中に駆け抜けた。
 驚愕の思いも露に両目を見開いて、立ち尽くしていた舟子は、しばらく言葉を発することもできず、涙を流す高耶の顔を茫然と見つめていた。
 しかし高耶の憎悪の眼差しに追い立てられるように、やがて舟子は眼を細めて赤い唇をギュッと噛み締めると、そのまま無言で踵を返し、パタパタと足音を立てて表門への立ち去っていった。

 その後ろ姿が、星の明かりの下、門の影に消えていくまで、高耶はその場に微動だにせずにいた。
 やるせない思いに心の内を占領されながら……。
 熱くなる目頭を押さえつけるように、右手で顔を覆いながら、押し寄せる自己嫌悪の思いに耐えた。

(オレは……いったいどこまで……)

 絶望の涙が指の間から流れ落ちる。
 己に対する嫌悪感のあまり、心が張り裂けそうだった。
 妬ましくて、妬ましくてたまらないのだ。
 自分が、一番欲するものを、何の苦も無く手に入れられる彼女のことが。
 いったい自分の心のどこに、これほど醜い感情が隠されていたというのだろう。
 ……いまなら義母の気持ちがわかる。
 妾の子である自分を、執拗に虐げ続けた義母。
 彼女と自分は、同じなのだ。
 嫉妬と妄執の業火に、身を灼かれて生まれた醜悪な魔物。
 誰かにその恨みの思いをぶつけなければ、悲鳴を上げる心に圧し潰され、生きていくことさえできない……。
 愛することは、苦しみ以外のなにものでもなかった。
 そこに麗らかな春のようなやさしさは存在しない。誰かを憎み、人を傷つけることでしか、存在しえない哀しい恋……。


(それになのに、人はどうして、愛することをやめようとはしないのだろう……)


 苦しむことはわかっているのに。
 忘れてしまえば、それで済むことなのに……。


 高耶は心を落ち着けようとするかのように、懐に入れられた笛筒を手に取った。
 黒く艶やかに光る桜の筒から、十笨調子の笛を静かに取り出す。
 真冬の川に落ちた笛筒は、幸いにも中まで水は達しておらず、篠笛はもとのままの形でこうして高耶の手の中にあった。
 笛を口元に構えると、小さく息を吸って、静かに吹き込む。
 高くも玲瓏たる音が、冬枯れた淋しい庭に、生命の火を灯すかのように、あたりの空気を包むこむ。
 胸の中で唱えるのは、ただ愛しい者の名前ひとつだった。
 身の焦がれるような想いのすべてを注ぎ込むように、高耶は篠笛を鳴らす。
 音が大気の中に溶け込み、しんと冷える空気に切ない想いが広がった。
 遥か虚空へと届けるように、高く高く音を飛ばす。
 この音は、届くだろうか。彼方に暮らす、愛しい男のもとへと。

 唇を笛から離して、高耶は空を仰ぎ見た。
 闇の帳降ろす晴れた空には、銀の星が瞬きながら、淋しげな光を地上へ降ろしている。


「高き山と……」


 ひっそりと、呟いた声が、星の明かりに吸い込まれていく。


「流るる水と、我が思い……」


 高耶はゆっくりと瞳をとじた。溢れていた最後の涙が、音も無く頬を滑り落ちる。


「君や聞くらむ……笛の、調べを……」


 言葉は光を放ち、やがて冴えた闇の中に溶けた。
 そうして大気の震えを感じるように、高耶は瞼を閉ざしながら耳を澄ます。
 間もなく終わりを迎える恋を、懐かしもうとする者のように……。









──高き山を思って吹けば、まるで高く険しい山々が音の中に広がるようだと言い、流れる水を思い吹けば、穏やかな川の滔々とした流れを奏でたようだと語ったように。
 そしてあなたは、この笛の調べを聞いて、感じ取ってくれるだろうか……。


──あなたへ向ける、この思いを。

 
高山流水
篠笛盲愛物語