2006*8*31
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To Be Continued......
 以上、高山流水シリーズ第21話、「我が真実を感ぜよ」でした。
 物語中に出てきた詩は、ご存知の方もいるかも知れませんが、室生犀星の「桜と雲雀」です。とても美しい詩なので、副題にも使わせていただきました。
 次が最終話です。何があろうと最終話です。どんなに長くなろうとも次話で完結させようと思います。
 次回はいよいよ婚礼当日。このために色々な結婚式関係の資料を読み漁りました。でも私、実を言うと実際に結婚式を挙げたことはおろか出席したことさえないので、想像と資料のみで書くのはなかなかに難しい作業でした。
 けれど次回の主題はそんなところではありません。この物語のクライマックスは、私が一番書きたかったシーンでもあります。最後を飾るに相応しい、納得のいくラストに仕上がれば良いと思います。
 直江と高耶さんの想いの行方はどうなるのか。
 その答えは次回、最終話にて。
 
 

 第二十一話


 もっと、早くに気づいていれば良かったのかもしれない。
 私には、あなたのことを考える時間があまりにも無さすぎた。

 気づけなかったのは、きっと考えようとはしていなかったからだ。
 どんなに大事に思ったって、報われることなんて最初からありえない感情だったから。
 無意識のうちに、あなたへ向き合うことを思考が拒否してしまっていた。
 惹かれているのは、彼の奏でる笛の調べ≠ノだけだと。
 そう納得して、無理に逃げようとしていた。
 どうしてこれほど大切なのか。
 どうしてここまであなたのことが気になるのか。
 その本当の理由を、考えようともせず。

 心はとっくに、あの哀しい思いを奏でる旋律に、絡め取られていたというのに……。

 気づいたときには、もう、どうにもならなかった。

 もう少し、あと一ヶ月、あと一週間、あとほんの数日でも気づくのが早かったなら。
 あなたとのことを、考える時間が持てたなら。
 私はあなたを選べていたのだろうか。
 何もかもをかなぐり捨てても、あなた一人を選ぼうとするほどの情熱が。
 どんなに多くの人を傷つけても、あなたを選び取るほどの思いが。
 私のなかにあったのだろうか。


 いまとなっては、もはや考えても、仕方の無いことだけれど……。




               *




 たとえ望むことはなかろうとも、目まぐるしい早さで季節は移ろい、やがて薫風駆ける暖かな春となった。
 婚礼の日は、既に後二日にまで差し迫っていた。
 ここ数日は式進行の打ち合わせやら衣装合わせやらで息つく暇もないほどの忙しさだったが、直江の方はどうにか粗方の準備も済んで、あとは式当日を迎えるのみとなっていた。
 一家の家事を取り仕切る義母の方は、そういうわけにもいかず、今も宴の料理の仕込みや酒の手配、床の間の飾りつけの準備などに忙しく駆けずり回っていたが。
 そんな中で直江は、馬酔木の花咲く離れ座敷に一人、何をするでもなく佇んでいた。
 そして住み慣れた畳の香漂う部屋の中を、彼は無言で見回している。
 鏡台、箪笥などの花嫁の家具も、彼ら二人がこれから生活する予定の部屋へと、大方の物は既に運び込まれていた。
 直江には、実感が涌かなかった。こうして家具が設えられたいまも、この部屋で、あと二日後には自分と舟子が夫婦として暮らしていくということが。
 まるで他人事のようだった。
 二十歳の時、直江家の養子に入ると共に決められた婚約。当時舟子は十歳のあどけない少女だった。見合いの席に姿を現したあまりに幼い婚約者に、直江は当惑するより他すべがなかった。
 けれど強いて断るような理由もなかったし、またその必要性も見出せなかった。
 とにかく当時の直江は、大恩ある直江家の両親にせめて何か役に立てることがあればと思い、彼らが是非にと奨めてきた縁談を特に抵抗も無く承諾したのである。
 直江の生家である橘は、先代の時に事業に失敗し、家財産を無くした典型的な没落華族であった。
 誇れるものは名と家系図ぐらいのもので、財と呼べるものはとうの昔に底をついていた。そのため、明日の食事も侭ならないという程ではないにしても、末子である直江の大学の入学金を払えるまでの経済的余裕はなかったのである。
 もともと学業面において優秀だった彼は、経済的な理由によって進学がかなわぬことを周囲から大変に惜しまれ、そこで出資を申し出てくれたのが直江家の当主夫妻だった。
 もともと子のない彼らは、甥である直江のことを幼い頃から実の息子のように可愛がっていた。そのため彼らは直江が養子に入って家を継ぐことを条件に、大学の入学費用と授業料を工面してくれたのだ。
 そして卒業後、友人達と共に企業を起こす際に惜しみない投資をしてくれたのも、他でもない直江家の両親である。
 もちろん金銭面の問題だけではない。この十年の間直江家で過ごした生活の中で、彼らに注がれた愛情の分だけ、直江には彼らの期待に答えなければならない、一成人としての義務があるのだ。

(それを今さら……)

 知らず、拳を握り締めた。
 今さら、約束を反故にすることが許されるなどと、甘いことを考えているわけではない。
 二十八歳の自分は、大した理由もなく駄々をこねて我がままを押し通せるような、分別の無い子供とは違うのだ。
 ただ、このまま終わってしまっても良いのかと、その重苦しい問いかけが胸の中を占領するあまり、時おり呼吸ができなくなる。
 考えれば考えるほど、出口のない迷路を徘徊するような虚しい思いに囚われる。
 結局、答えなど出せるわけがないのだ。
 直江には、これまでの恩義や成すべき責務をうち捨てて、両親を悲しませるようなことだけはできない。
 かと言って、潔く彼への感情を断ち切るような覚悟もない。

(どっちつかずの、最低な男……)

 自嘲するように、苦い笑みを浮かべた。
 誰か、この男に教えてやってほしい。
 自分はどうするべきなのか。どうするのが最良なのか。……その答えに辿り着けるのか。
 目を閉じれば、写真を見るように鮮明に浮かび上がる、その淋しげな面影に。
 声もなく、問いかける。


 その時だった。
 鬱々とした空気を纏い、畳敷きの部屋を眺めていた直江は、ハッと顔を上げて障子の外に視線を移した。

(……笛の音?)

 いまかすかにだが、外の方から笛の奏でる音色が、漏れ聴こえたような気がした。
 幻聴? けれどこれは……。
 慌てて障子を開けて、その場に立ち尽くして耳を澄ます。
 風に乗って聴こえる、高く涼やかな笛の音。それに呼応するような鼓と太鼓の音。
 やはりそうだ。笛の音が聴こえる。しかも音はとても近い所から夕暮れの初春の庭に響き渡っていた。


(この音は……)


「まぁ、こんな所にいたんですか、信綱さん」

 思考に重なるようにして名前を呼ばれ、振り向いた直江の視界に飛び込んできたのは、離れの庭先に立つ、菫色の上品な小紋に身を包んだ柔和な面持ちの女性だった。

「お義母さん」
「暇なようでしたらちょっと来て手伝ってくださいな。まだまだ宴の準備に忙しいんですよ。男手はいくらあっても足りないぐらいなんですからね」
「それより、どなたかいらっしゃっているんですか」

 義母の声を遮るように、笛の音が聞こえる母屋の方を指して、直江は尋ねた。

「ああ、北条の家の方がお見えになっているんですよ」

 義母から返った答えに、直江は目を瞠る。

「北条の方が……どんな御用で?」
「まぁ、伺ってなかったんですか? 宴の席で、旦那様が一差し舞うことになっていたでしょう? その囃子方を北条さんが担当してくださるんですよ。今日はその合わせに」

 初耳であった。直江は唐突に告げられた事実に狼狽の表情を隠すことができず、意を決するように、緊張を孕んだ声で義母に尋ねた。

「高耶さんが、来ているんですか……?」

 息子の不自然に強張った表情を、怪訝に思いながらも彼女はこくりと頷いた。

「ええ、以前おまえがよく家にお呼びしていた若い方と、彼のお兄様が」

 最後まで聞かずに、直江は衝動的にその場から歩き出していた。
 無言で立ち去ろうとした彼に義母は驚き、慌てて呼び止める。

「え、ちょっと、信綱さん?」

 呼びかけに直江は一瞬立ち止まると、すぐに我に返って、義母の方を振り返った。

「いったい、どうかなさったんですか?」
「……いえ、なんでもありません」

 どこか苦しげに呟くと、直江は頭に上った血の温度を下げるように、左右に首を振り、大きく息を吐いた。

「なんでもないようには、見えませんけど?」
「いえ、ご心配はご無用です。……私は母屋の方に参りますので、あなたは準備の方に戻ってください。後からお手伝いに伺います」

 冷静な口調でそう告げた彼は、踵を返し、離れ座敷の玄関口の方へ足早に向かっていく。
 遠ざかっていく荒い足音を聞きながら、あとには不可解げに首を傾げる、義母だけがそこに残された。



               *



 失礼します。掛け声と共に障子を開けると、室内で談笑していた者たちはいっせいにこちらを振り向いた。

「おや、いったいどうした、信綱」

 始めに声を掛けたのは、上座に腰を下ろし、立派な口ひげを生やした貫禄ある壮年の男──この屋敷の主・直江景綱だった。
 直江は義父の問いには答えず、室内にいる面々を見回した。そうして部屋の下座の方に、姿勢良く正座する少年の姿を見つけた途端、直江は何も考えられなくなり、搾り出すような声でただその名を口にしたのだった。


「高耶さん……」


 高耶は、特に驚いた様子も無くこちらを見つめていた。
 黒い前髪の向こうから覗く、涼やかな視線。
 その落ち着き払った表情は、こちらが少し怪訝に思うほどやけに淡々としていて、直江はその不自然さに心持ち眉根を寄せた。
 言葉を繋ごうとした途端、彼の隣に座していた青年に遮られる。

「お久しぶりです、その節は弟がお世話になりました」

 そう言って、こちらに会釈したのは氏政である。直江は彼に一瞬視線を転じて、「……こちらこそ」と申しわけ程度に頭を下げると、再び傍らの少年へと視線を戻す。
 声を掛けようとした。けれど、いったい何と言ってよいのか分からなくなり、直江は一瞬つまって、唇を閉じた。
 衝動的にこちらに足を運んだは良いものの、呆れたことに、それから先のことを考えていなかったのである。
 押し黙ってしまった直江だが、そんな彼を見て、高耶は意外にも傍らの氏政にこんなことを告げた。

「兄さん、私は彼と話がありますので、少しの間席を外させてください」

 直江が顔を上げた。氏政は少し考える風な顔をしたが、すぐに景綱の方を振り向いて、許可を求めた。

「弟がこう申しておりますが、よろしいでしょうか」
「ああ、もちろん構わないよ」

 景綱が鷹揚な仕草で首を頷かせるのを認めて、流れるような優雅な所作で立ち上がる。

「それでは失礼させていただきます」
「……あまりご迷惑をおかけするなよ」

 氏政のどこか気遣わしげな言葉にコクリと頷いて、高耶は直江のもとまで来ると、袖を引っ張りながら「行こう」と小さく囁いた。
 促されるままに立ち上がり、障子を後ろ手に閉じながら高耶の後をついていく。
 どこに向かうのかと思えば、高耶が入っていったのは奥の応接間であった。
 明後日、直江はこの部屋で舟子との祝言を行う。
 高耶はその部屋に静かな動作で入ると、よく掃除の行き届いた室内を見回した。そしてふと、部屋には入らずに障子の手前に佇んだままの直江の方を振り向いて、わずかにだが微笑んだのだった。

「桜が……咲いてるな」

 高耶の言葉に、直江は背後を振り返った。
 縁側の向こうにある箱庭には、数奇屋塀をわずかに越えるほどの高さの、桜の木が植えられている。
 大きく広げられた枝には、薄紅色の花が無数に散らばり、春の暖かな光の中で儚く輝いていた。
 風にさやさやと揺れて、淡い香りが広がる。

「早咲きだし、小彼岸桜か?」

 部屋から出た彼は、縁側に立って桜を眺めながら尋ねる。

「さあ、私は植物の方はあまり詳しくないので……」

 視線は桜に向けたまま、直江は答えた。傍らに佇む高耶の気配を感じながら。
 そっと、風の揺れと共に、高耶は前髪をくしゃりとかき上げて、その場に腰を下ろした。
 彼の瞳は日の光を宿して、真っ直ぐと、薄紅の花に染まる空を見上げていた。


「約束、覚えているか」


 ぽつりと、小さく呟かれた言葉。

「え……」

 聞き逃してしまいそうなほど小さな呟きに、直江が反応する。
 高耶は真摯な瞳で天を見上げながら、今度はもう少しはっきりとした声音で、呟いた。

「ふたりで、母屋に咲いた桜を見ようって。ずっと前に約束した……」



──花が咲いたら、桜を眺めながらその部屋で一緒に演奏しましょうね。



 風に前髪を揺らしながら、八部咲きほどの細やかな桜の花を、彼はどこか淋しげに見つめている。

「……式の日には、きっと、満開だな」

 誰に聞かせるともなしに独りごちて、高耶はゆっくり瞼を伏せた。
 午後のあたたかな日差しの中で、まどろむように目を薄く瞑る横顔を、直江は無言で見下ろしていた。
 静かに隣に腰を下ろして、近くで彼の顔を見つめる。
 長い睫毛がふるえると、高耶は伏せていた瞼を開けて、思い出したように懐に手を入れた。
 中から出てきたのは、見覚えのある姿の、短い篠笛だった。

(鐘子期……)

 その笛を、高耶がこちらに差し出した。
 どきりとして顔を上げると、高耶はひどく穏やかな微笑を浮かべながら、真摯にこちらを見ている。

「吹けよ」

 思わず、手を差し出して受け取ってしまう。
 手に馴染む細い篠笛。
 高耶は草履に足を入れて立ち上がると、そのまま庭に降りて、桜の木の下で立ち止まった。
 こちらを振り返りしな、帯の間から扇を取り出し、バッとそれを広げる。
 風がふわっと流れ、紅の花弁が飛び散った。

「オレが舞うから、おまえは吹けよ」

 でも……と、直江は尻込みした。
 直江の笛の腕は、あの頃よりはよほど向上したものの、それでも人に聴かせるほどのものではなかった。
 それでもいいから、と。高耶はなおも直江を急かす。
 まるで春の木漏れ日のような、優しい笑顔を浮かべながら。

「さあ」

 観念したように、笛を口元に構える。
 高耶が見守るのを気配で感じながら、大きく息を吸い込んで、歌口に思いをこめて吐き出した。
 ピーーー、と、涼やかな音が流れ出る。
 次々と続く音。その音色はやはりつたないものだったが、高耶は構わず音の流れに沿うように、手に持つ扇を動かした。
 優美な仕草で、腕を左右に振る。扇の動きに呼応するように、ゆるやかな風が彼の体を伝った。
 薄紅の雨が散る。
 白い袖に雨を散らしながら、高耶は静かに舞い始める。



  桜よ、
  我が真実を感ぜよ。
  爛漫とそそぐ日光に広がれ。
  あたたかく楽しき春の、
  春の世界に広がれ。



 いつしか笛の音は止まっていた。
 風が梢を揺らす音と、扇が空気を切る音と。
 雲雀の歌うその鳴き声と。すべてが調和していく。
 美しく舞い遊ぶ、絹の袖。黒髪。白の花弁。
 花びらの帳の向こうに舞い踊る姿を、直江は見つめ続けた。


「……どうした」


 笛の音が止まっていることに、高耶が気付き、舞う腕を止めた。
 直江はそれを惜しく思いながら、

「いえ、……あんまり綺麗で、見とれていました。あなたは舞もできるんですね」

 どおりで、普段から所作が美しいと思っていましたと、高耶の姿を見上げながら直江は語る。
 彼は少し苦笑しながら、右手で扇をパチリと閉じると、桜の木の根元からこちらへと歩み寄った。

「小さい頃に、少し習ってた程度。そんなに大したもんじゃない」

 縁側に座る直江の、少し手前で立ち止まる。高耶は彼特有の、照れた口調で言った。

「いいえ。どんな名人でも、あなたほど美しく舞える者など、きっといやしません」

 心底そう思い、そのまま言葉を口にする。
 高耶はどこか切なそうに眼を細めた。

「褒めすぎだ。……でも」

 言葉を区切り、一つ瞬きをする。
 瞼を開けた時には、桜の花を背にした穏やかな笑顔がそこにあった。

「ありがとう……」

 高耶は、透明な光をその瞳に宿しながら、直江を見つめている。
 ふたりの視線が、空中で交わる。
 腰をかがめて、直江の顔に、己の顔を寄せた。
 息がかかるほど近くに、互いの双眸がある。
 吐息がじょじょに近づくのを感じていた。
 両眼をゆっくりと閉じて、引き寄せられるように、唇を重ねる。
 驚く直江に構わず、追いかけるように唇を寄せる。
 静かに触れるだけの口づけは、ひどく甘やかだった。
 春の風がふたりの頬を撫でていく。
 揺れ落ちる花びら。薄紅の花のもとで、ふたりは初めて口づけを交わした。
 時がとまってしまったように、ほかの音は何も聴こえない。

 あたたかな鼓動。あたたかな呼吸……──

 やがて余韻に浸るように、そっと顔を離したときには、どこか苦しげな表情の直江がこちらを見上げていた。
 口づけの間も、直江は決して瞳を閉じることはなかった。双眸を閉ざす高耶の顔を、間近で見つめていただけだった。


「高耶さん…………」


 搾り出すようなかすれた声に、高耶は淋しげに口元をゆがめた。
 そんな顔をするなと、伝えるように、直江の頬を指で撫でる。
 直江は高耶の指をとって、己の胸に寄せると、ひたむきな視線で高耶の瞳を覗き込んだ。

「高耶さん、私は……」

 鳶色の瞳が揺れる。何を言えば良いのかはわからない。けれど何かを伝えなければならないことはわかっていた。
 言葉が喉に貼り付いて、声になって出てこない。


(私は……)


 言葉の先を続けることができない直江を、高耶は失望したような、それでいてどこか安堵したような表情で、見下ろしていた。
 その時、母屋の奥の方から、高耶を呼ぶ声が響いた。
 氏政の声だった。
 高耶は直江の手を静かに払い、呼び声のする方を振り向いて声を上げた。

「ここにいます」

 返事を受けて、やがて氏政が廊下の向こうから姿を現した。

「高耶、私はそろそろ帰るが、おまえはもう少し残るか?」
「……いえ、私も一緒にお暇させていただきます」

 いままでの出来事など無かったかのように冷静な口ぶりでそう言うと、彼は直江の方を見ずに傍らにあった篠笛を拾いながら、草履を脱いで縁側へと昇る。

「高耶さん」

 すかさず直江が名を呼んだ。
 こちらに背を向ける高耶は、一瞬歩む足を止める。しかし振り返ることはせず、頭を少し俯かせながらこう言った。

「…………明後日に、またな」

 そうして、氏政のもとへと歩き出す。彼がいまどんな表情でいるのか、直江には知ることができない。
 二人のやりとりを見た氏政は、何か聞きたそうにこちらを伺っていたが、やがて高耶の背を押して、会釈しながら去っていった。
 その後ろ姿を、直江は無言で見送り続ける。

 二人の姿が廊下の角の向こうに消えると、直江は視線を転じ、庭先に佇む桜の木を見上げた。
 直江が生まれる前からこの家の庭にあった桜の木。
 白く美しい花をたわわに咲かすその姿に、高耶の影を重ねていた。
 春の匂いに誘われた鳥たちが、日の光の中を楽しげに飛びまわっている。
 足元にひらひらと一枚、花びらが舞い落ちた。





 そして物語は、いよいよ婚礼の日へと時を移す────
高山流水
篠笛叙情物語
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